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黒と黒のコントラスト  作者: じっぴー
第九章
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42/45

2

 浦谷英一郎の家は、小綺麗な二階建ての洋風建築だった。

 庭は車二台が停められるほどの広さがあり、子供同士でボール遊びができるだろう。

「大学に通ってる頃から住んでる家なんですよ」と彼は言う。

 もちろん借家ですよ、と付け加えた。

 浦谷の両親は息子が私立大学に行くものと想定して貯蓄をしていたらしいが、彼曰く「猛烈な勢いで」成績が上がったので国立大学に合格したため、孝行息子だと褒められ借家を与えられたらしい。さすがに一人で使用するには広すぎるとのことで、同じ学科に通う同窓生二人を招き入れて住んでいたそうだ。下宿という割には大学から距離は離れていたものの、通学時間で色々考えられるのは大事と両親に言いくるめられ、そこに住むことになった。

 一発で国家試験に合格した後卒業し、三人はバラバラの道を進むことになった。二人とは今も連絡を取り、飲みに行く仲らしいが、具体的な仕事の内容は「プライベートなんで」と開示を拒否された。公私混同に関しては非常にシビアな態度をとる男だと評価した。

「この道で合ってますよね?」

「カーナビ信じたら大丈夫でしょう」

 現在三人は、浦谷の車である場所に向かっていた。

 寿至の運転により乗ってきた車は、浦谷の家の前に置いてきた。浦谷が

「急ぐなら僕の車で行った方が良いっすよ」と提案してきたからだ。

 見るからに改造車で、車に疎い虎次郎は車種まで分からなかったが、寿至が「レクサス」と呟いていた。それなら聞いたことがあると虎次郎は思う。車体の低さだったり、エンジン音の低さだったり違法なことをしているのかは当然判断つかなかった。

 驚いたのは車に乗り込んで行き先を決めようとした時だ。エアコンが稼働し、みるみる車内温度が下がっていく仲で寿至が、

「で、ここどこ?」と軽く訊いてきたのだ。

「ここまで誰が運転してきてん」

 と虎次郎は一応突っ込んでおいた。

「俺はナビゲーションを信じただけだ。レールに乗って走る楽さを堪能したに過ぎない。ラクと楽しいが同じ漢字とはなかなか興味深い事実ではないか? 楽なのがどうしてこんなに楽しいかと考えたことはあるか?」

 と話が逸れそうだったので

「そんなことはどうでもええねん」と引き戻した。

「で、どこに行きますか?」

 運転席でハンドルに肘を掛けながら浦谷が訊いた。

 虎次郎は一瞬その質問の意図を図りかねた。彼なら分かっているだろうと思ったからだ。それでも口に出したのは、先刻虎次郎が浦谷に質問をしたのと同じ理由からだろう。同意を求めたのだ。ただ自分と同じ意見を引き出したいのだ。信じたくないことが事実なゆえの葛藤だろう。

「あの話、浦谷さんも聞かれていましたっけ?」

 長戸が殺害された日、パトカーの中で若田部に岬結良の死の件を話した覚えがあったのだが、その場に浦谷がいたか思い出せなかった。

「いえ、奏さんからは聞いていません。僕独自が調べた結果ですから」

 聞いてもないことを彼はスラスラ答える。やはり彼自身、答えは既に出ているようだ。京都府警にいながら滋賀県警管轄の事件を、それも自殺と片付けられた事件にどうして興味を抱いたのかは不明だが、自由人と形容されるにふさわしい暗躍っぷりだ。

「コジローそのままだな」寿至が後部座席の中央から背をもたれてぼそりと呟いた。おそらく虎次郎だけにしか聞き取れなかっただろう。

「岬結良の住んでた家までお願いします」

「かしこまりました、お客様」

 道化師のような声色で浦谷は最敬礼したが、どことなく震えが混じっていることを虎次郎は聞き逃さなかった。

 そりゃそうだ。俺だってその立場ならそうなるわ。

 失礼、とカーナビを操作しながらも、浦谷に対する同情のようなものを虎次郎は抱いた。

「……僕はそこ以外ないだろうな、と考えた理由はもちろんありますが、確信は持てませんでした。何故そこにいると?」

 誰もが思うであろう疑問をぶつけてきた。

 虎次郎は長戸照貴弥のSNS乗っ取りと、そのアクセスポイントが岬結良の家にあったことを端的に伝えた。違法であることは浦谷も知っているだろうが、何も口を挟まなかった。代わりに顔を真っ赤にして「そうですか」とだけ答えた。もしや、と思い訊いてみる。

「……同様のこと、されました?」

 浦谷は質問に答える代わりに車を発進させた。これまで乗ったことのあるどの車よりも低いエンジン音が唸り、小周期の刻まれた振動がお尻から全身へと伝わった。

「まー……そういうことにしておいて下さい。実際はもっとアレかも」

 彼は左手でこめかいみを掻いた。

 そう言われてしまっては何も言い返すことができなかった。


 ※


 彼女は目を覚ました。

 自らの意思とは無関係に身体が動いている。

 そのことに何の違和感も抱くことはなかった。当然の成り行きだった。

 彼はまだ、藤製の椅子に腰掛けている。

 良かった、あれは夢だったのだ、と納得しかけて気づく。

 彼の頬を、何やら液体が流れていた。

 涙。

 あれは涙だ。

 目から出る液体を、涙と定義するならば。

 虫が鳴いているような声が聞こえる。おそらく彼から発せられた音だろう。涙と共にこぼれ落ちるのは悲壮か、あるいは自省か。

 彼女の右手が持ち上がる。

 持ち上げたのはもちろん彼女の意思ではない。

 頬にへばりついた髪を耳の後ろに移動させる。

 顔の表面に汗が流れていたことを自覚する。

 本当に汗だろうか。彼のように涙という可能性も否定できない。

 浮遊感。

 自らの身体が宙に数センチ浮いているような。

 生きているのか、死んだのかさえ認識できない。

 右足と左足を交互に動かし、彼の座っている前にたどり着いた。

 彼の口元が動いた。何かを呟いたようだった。

 何も聞き取れない。

 そのとき、閉塞感が生まれた。

 脱力し弛緩した両腕、重しをのせられた瞼。遠のく自分。近づく淵。

 それでもその場から移動する自分を感じる。

 深くに沈んでいたせいこともあり、自分の意思とは無関係な移動に感じられた。だから彼が彼女を運んでいると思った。

 だがその予想は外れていた。

 意識が水面下から浮上して呼吸がかろうじてできる状態になった時、誰の支えも受けずに歩いていることに気づかされた。

 多少の恐怖を抱いたのは事実である。

 彼は笑っていた。

 高らかに笑っていた。

 音は全く耳に届く気配はない。

 しかし、明らかに笑っていた。声を出していたように見えた。

 彼との距離が近づく。

 彼女の二つ浮いた目が、彼の目を捉える。

 そこには何も生まれない。

 彼女は笑っていたのかもしれない。呼応するように彼が笑ったからだ。

 彼の右手に何か棒状のものが握られていた。

 彼女は踵を返した。

 後ろを彼が着いてくるのが分かる。

 足音や息づかいなどを感じることはできないが、断言してもいい。

 堂々と歩を進める。

 引き戸を開けて隣の部屋に入る。

 恐ろしいほどむっとした空気。

 彼女は明かりを点けようと左手にあるスイッチに手を伸ばす。しかし点灯しない。

 意識を正しく持つ彼女ですら忘れていたようだ、この家のしきたりを。

 今までいた部屋は西日の差し込む部屋だったので視覚的に不便なことはなかった。しかしこの部屋では勝手が違う。

 手探りに前に進んでいく。

 ふいに彼女が振り向く。

 彼の顔がすぐそこにあった。

 もしかすると彼に呼び止められたのかもしれない。

 彼が指差す。

 その方向を彼女は追う。

 輪。

 藁で編み込まれた、縄だった。

 彼女はそれで全てを察することができた。

 いやだ!

 否定する自分がここにいた。

 しかし、意識を持つ彼女は自分のことを認めていない。ちゃんと認識していない。

 その証拠に自分の思いが身体に伝わらない。

 縄の真下に高さ一メートルほどになる脚立が待ち構えるように鎮座していた。

 どうして動かないの?

 いやだと言ってるのに!

 彼女は彼の差し伸べる手をとりながら、一段ずつ上がっていく。

 手を足より二段上の足場に添えつつも、

 丁寧にゆっくりと登っていく。

 断頭台に向かう犯罪者と同じ気分を味わいながらも、自分じゃない自分が彼女を死に向かわせている事実に苛立った。

 自分であることは間違いない。

 だが、彼女は自分で自分を殺すことなど、これまで考えたこともなかった。だから彼女の深層が選んだ道のようにも思えなかった。

 あれは私じゃない!

 声が出るならそう叫んでいた。

 彼と彼女は時折互いに顔を見合わせながら、微笑みあっていた。

 吐き気が催される。

 失うことが何よりも怖かった。

 何が失われるか分からなかったけれど。

 彼女はてっぺんに到達した。

 脚立は彼がしっかりと支えていた。

 縄の結び目が目の前にある。

 一つ一つの藁が雑巾を思い切り絞ったときのように捻られている。

 乾ききったロープ。

 首を通すには少し低い。

 どうしてだろう、と彼女は思う。

 ちょうど良い高さの脚立がなかったのだろうか。

 彼女は彼を見て何かを言っていた。

 助けて!

 思いと裏腹に、彼女はそんな言葉を口にしていないことは分かる。

 誰か! 助けて!

 願いはどこかへ消散する。朽ちていく。

 彼の目が深く、そして黒く沈む。

 同時に彼女も沈んでいく。

 誰にも思いは届かぬまま。

 皆、こうだったのか。

 自らが自らを死に向かうことに、抵抗できることなくこの世から去ったのだろうか。

 そして、本人達が今の彼女と同じように自分の中から、その光景を見ていたのか。

 彼女たちの意思に反して、彼に殺されたのか。

 それは違う。

 どうもこの情景はそう指し示していない。

 少なくとも、彼は彼女が死ぬことを悲しんでいるようにみえる。悲しんでいる、は言い過ぎだろうか。心から彼女の死を願っていないように見える。

 つまり彼も被害者。

 彼女が誘導している。彼女が自ら死に向かったものだと、彼は認識している。そう信じ切っている。

 目の前が暗くなる。強制的に瞼がシャットダウンした。

 何も見えない。何も聞こえない。

 意識が遠のくのに障害はなかった。

 いつもこれくらい早く寝られたらいいのにと思う。

 こうして彼女は、

 再び闇へと。


 ※


 黒い車体を揺らしながら、進路を東に向けた。次第に住宅が少なくなり、山が近くに迫ってきていた。車の絶対数もかなり少ない。密度で換算すると、浦谷宅周辺の五分の一くらいだろうか。

 右側に広い公園が目に入った。冷房を効かせるために窓は閉じきっている。小学校高学年くらいの男の子達が走り回っているが、その声は聞こえない。

「元気っすよね」

 浦谷が久しく沈黙を破る。

「まったくです。何であんなに走っても疲れないんやろうと思いますね。ちょっと憧れます」

「暑さは得意なんすけどね、外の暑さはどうにも……。高校野球とかどうなってんの、って感じしますもん。ま、ちょっとだけ野球部だった人間の言うことじゃありませんけど。何の理由も無しに走ろうなんてこれっぽっちも思わないっすね」

 虎次郎は確かに、と相づちを打つ。

 自動車暴走事件の時に、現場まで走ってきたと言った若田部の発言を思い出す。

 あの時若田部は汗一つかいていなかった。声にも爽やかな響きがあった。見た目同様の印象を受けたのだった。

 走ってきたのは事実だろうが、本当に不警察署の本部から走ってきたのか。だがあの発言を多くの人間が聴いている。嘘はついていない。

 いや、と虎次郎は思い直す。あれは、波須川と虎次郎と若田部の三人での会話であり、他の人には届いていないはずだ。大勢のそれも管轄外の警察官が多くいる中で、そのような質問を彼はしない。なんとなく気になったから訊いたのだ。深い意味などなかった。

 浦谷の連絡先を教えてくれと頼んだ時の波須川の態度にようやく納得がいった。彼も薄々は感づいていたのだろう。さすがは年の功。仙人のような見た目をしていらっしゃる。

「警察でも脇見運転するのだな」

 と後部座席から寿至がバスボイスを飛ばしてきた。

「……それは俺にも言ってたりする?」

「誰に対して、というよりは独り言と認識してもらうがベターだ」

「まー言葉の定義が曖昧すぎますからねー」

 浦谷は前を見据えたまま語尾をだらりと伸ばした。

「脇見運転って、運転するときに前以外を見るときに揶揄される言葉ですけど、普通前以外も見ないと運転できないっすからね。ミラー確認するのでさえも、運転シミュレーションでよくある公園からボールを追いかけた子供が飛び出してくるのを見越してちらっと公園の方に目をやるのも、脇見になりますからね。ボールの方に気をとられて逆方向から飛び出してきた人を認識できずに轢いてしまったら確実アウトですけど。運転以外のことに気をとられていることを脇見運転とするならば、運転って何? って話になるし。深みにはまっていく感じっすよね。要は脇見運転しない人はいないってことですよね。だから脇見運転しないっつー人の方が信じられないというか、嘘つきなんすよね。あまり信じられないというか。ま、言葉をちゃんと定義してないのが悪いんすよ」

「おお」と虎次郎は反応する。

 これは寿至に一本取ったのではないか。そう思い振り返ると、予想通り寿至は唇を噛みしめていた。しかし反面、目は笑っていた。自分と同じ思考回路を持つ人間にはとことん興味を持つのが寿至という人間だ。

「あ、山入ると電波繋がりにくくなるんで電話させて下さい」

 切れ目無く軽食をとるかのように話し続けていた浦谷が、突然キリッとした口調でいった。後部座席の中心にいる寿至、助手席の虎次郎、二人と目を合わせるという脇見運転を欠かさずに。

 寿至は同意なら何も言わないので、代わりに虎次郎が二人分答える。

「いいですよ」

 この切羽詰まった状況で、いち早く岬の家に着きたいという状況でどこかに電話をかける、それも警察官という立ち場を悪く利用して運転しながらかけるなどしない点から、よほど重要な電話だろうと判断したためだ。寿至も同意見だろう。

 ただどうしても気になり、一つだけ質問をする。

「私たちに聞かれるとマズい内容ですか?」つまり、スピーカーでの会話はできませんか、という提案が込められている。

「ええ、立場上はそうです」

 浦谷はしっかりと虎次郎を見据えて堅苦しく口を結んだ。

「分かりました」

 すぐに車速が緩められ、車は停止した。ハザードランプが焚かれている。

 もうまもなく本格的な山道に転じようかとなる寸前だった。片側一車線の道路ではあったが、路肩には広めのスペースがあった。錆びたポールが一本立っている。かつてはバス停だったかもしれない。

 浦谷は車の後ろに回って携帯を触り始めた。auのガラケーだ。若田部は自分のだと言っていたが、彼のものはどうなのだろう。虎次郎は直接振り向いて動向を確認することは避け、ずっとサイドミラーを凝視していた。車との距離を五メートルとった辺りで口元に手を当て話している浦谷が目に入った。

 時間は測っていなかったので正確でないが三分程車外で通話をした後、浦谷は満足げな表情を浮かべて戻ってきた。無論、彼がどんな顔をしていようが内容に関する質問はしない。

「すみません、お待たせしました」

 シートベルトのバックルに手を掛けながら浦谷は言う。

「いえいえ」と愛想良く虎次郎が言う頃にはもうサイドブレーキは下ろされていた。

 低いエンジン音を響かせて、再び車は走り出す。

 次第に辺りはスギを中心とした針葉樹に覆われていった。さすがにこの季節は花粉をまき散らしていないだろうが、無性に鼻がムズムズした。

 数日前に寿至と自転車で漕いだ際には余り周囲の風景を気にすることはなかったが、どうしてか今はその点ばかりが目に付いてしまう。一刻も早く、岬の家に着かなければ取り返しのつかないことになるかもしれないという心の焦りと相反する感情が、彼の中に芽生えていた。

 それが逃避であると、彼は信じて疑わなかった。自分を客観視するとそれ以外の要素はないようにすら思えた。だが実際は、彼がいかに冷静でいるかを示す指標になっていた。寿至が先ほどからあまり言葉を発しないのも、虎次郎の落ち着きに安心を抱いていたためだ。虎次郎は無意識下で、自動車暴走事故の際に円香や寿至にたしなめられた状況を思い出していたのだ。急げる状況にない時に焦ったり自分の力以上を出そうとしても無駄だということ。広い視野で「現状」を適切に観察すること。

 意識せずとも包み込むように虎次郎を纏っていた思考であるが、岬結良の家との距離が迫るにつれて陰を潜めていった。どうしても分からない難問を解こうと思考を巡らせた。

 車からどのようにして彼は脱出したのだろう。

 明らかに殺意を抱いて横を走り去っていた車の運転席に見えた人物の顔を想像する。確かに、人が運転していた。スピードが急に速まった。

 けれど、四十万胡桃が亡くなった現場に停まった車には誰も乗っていなかった。

 境界条件が少なすぎるのか……。どれも可能性はあるが、証拠が無い。彼のこれまでの言動、行動を洗い直してみても、納得のいく答えは得られなかった。

 こればかりは本人に直接問いただすしかないか、と虎次郎は思った。これから会う、本人に。

 十分くらい車を走らせて、見覚えのある橋が目に付いた。黄色いアーチがかかった、かつて寿至と自転車で渡った橋。行きと帰りで二度渡った橋だ。

 当然ながら自転車の時とは格段の違いをみせて車は進む。低いエンジン音がのどかな田舎道には似合わなかった。

 しばらくあの事件のおける車からの脱出方法を考えていた虎次郎であったが、さすがに心臓がバクバクしてきた。小学生の頃、チクタクバンバンという、電車が脱線しないように線路を組み替えるおもちゃで遊んだことを思い出す。

 確か兄がクリスマスプレゼントでサンタクロースにもらったものだ。当時は北欧からトナカイに乗ってやってくる老人に手紙を書くくらい信じ込んでいた。

 いつも電車を脱線させて大きなベルを鳴らしてしまうのは虎次郎だった。小学生にとっての二年は、器用さ、想像力、何をとっても大きな隔たりとしてあった。

 明らかに脱線すると分かってから脱線するまでの間、心臓が胸のあたりから飛び出してくるのではないかというほど細動しているのが分かった。頭の中に低く響いてきた。兄の表情は思い出せないが二人で耳を押さえながらあたふたしていたのを覚えている。

 逃れられない運命にある時計電車。脱線を避けることは不可能な時限爆弾。

 嫌な想像を断ち切ろうとするが、どうもうまくいかない。

 頭の整理ができない間に、いよいよ岬結良がかつて住んでいた和風の家が視界に入るようになった。

「この車やと目立ちすぎるんでこの辺りから走っていきましょう」

 それでも寿至が浦谷の借家まで運転してきた車で岬結良の家まで走らせるよりもはるかに短い時間で到着できるだろう。

 あの車なら二、三倍はかかったに違いない。当然サイレンを鳴らしていないので警察に止められて違反を切られる可能性は十分あった。だが幸い、山道ということもあってかそれらしき車両は見かけなかった。

「いやあ、静かですねえ」

 走りながらも浦谷は口を達者に動かす。虎次郎は滅多にしなくなったダッシュに、思わず閉口していたが、

「状況が状況じゃなかったらですね」と言い返した。

「確かに」息も乱さず浦谷も応じる。

 やはりこの男は見た目通り若いな、と半分尊敬、半分嫌味に評価した。意外にも寿至はこのペースについてきている。そういえば寿至の運動能力をこれまで把握できる機会はなかった。いつだったか「人間は生きる為に運動を必須としない生物に進化するはずだ」と主張してはいた。しかしその主張が自らは走ったり筋トレしたりしないという反対意思には結びつかない。

 もしかすると探偵は体力が必要だとかで、毎日走っているのかもしれない。寿至なら存分に考えられる話だ。

 田舎道とはいえ、辺りは田んぼや畑が多く、外に出ている人も少なくはない。浦谷の見てくれは若いため、そこまで不審がられることもないだろうが、さすがにスポーツをする格好を三人はしていない。

 野菜の収穫に勤しんだり、田んぼの草刈りをするご老人が振り向いてこちらを見ていた。中には「何やってるん?」と訊く優に八十歳は超えているご婦人に声をかけられたが、さすがに三人とも見向きすらしなかった。

 大きな家の前に着く。

 本当にこの中に人がいるのか、と疑いを持つほど静かだった。ツクツクボウシの鳴く声以外は、草刈り機のブンブン音か、あるいは子供たちの活発な音が遠くに聞こえる程度である。家の中からは物音一つとして聞こえてこない。

 嫌な考えが頭をよぎる。

 しかし瞬間的にかき消された。

 それは感覚的なものだった。この家に長戸のSNSを乗っ取った元凶があるだとか、岬結良という亡くなった女性の怨念が詰まっているかもしれないだとか、負のイメージに浸食されたからではなかった。

 小綺麗に、しかし厳かに佇む瓦屋根を支えている地面が沸き立たせている熱風が、全身に不快さを届けた。

 浦谷は虎次郎の息が整うのを待って、玄関へと向かった。

 重量感のある引き戸だった。表札には楷書体で「岬」と書かれている。後に続く名前は書かれていない。

 浦谷が取っ手に手を掛ける。そろりと中を窺うようにして引く。

「誰かいるな」

 と浦谷が呟いたのを虎次郎は聞き逃さなかった。確かにそんなニオイはする。家を構成する木以外の、動物特有のニオイ。

 何の合図もなく、浦谷は土足のまま家の奥へと走り出した。さすがの虎次郎も一瞬呆気にとられたが、後を追う。刑事の勘か、はたまた自由人の暴走か。

 明かりは点いてないが、外から見た通り、カーテンがかけられていないので、光は差し込んでいる。したがって何も見えないという状態ではなかった。

 板張りの廊下を奥まで進むとそこは台所だった。一人暮らしとは思えないほどの大きなテーブルが目についた。浦谷について左に折れる。足音から察するに寿至もついてきているようだ。

 そこは六畳の和室だった。四方に窓はなく、かなり暗い。部屋の中央に藤製の小さな椅子がぽつんと置かれている。奇妙な感覚にとらわれた。

 スローモーション。

 全体が、浦谷の一挙手一投足が、寿至の呼吸が、手に取るように把握できた。

 浦谷が歩を進める。

 閉じた襖。

 描かれたカモメ。

 丸い引手。

 かけられる指。

 そして――


「ま……東後!」

 一気にスローモーションが解けた。

 あれほど積極的だった浦谷が足を止めた。原因は目の前にある。

 現状を理解するのにさほど時間はかからなかった。観察された事象が全てを表していたからだ。

 脚立の上。裸足で立つ彼女。いつものブラウス。そしてジーンズ。握られたロープ。彼女の目の前にあるロープ。

 円香は自殺しようとしている。

 そして、これまでどのように事件が起きてきたのかが少し分かった気がした。

 それは彼女の目が、虚ろ虚ろに意思を持っていないように見受けられたからだった。現に虎次郎の声に対する反応は何も無かった。

 窓から容赦ない熱が取り入れられていて、このわずかな時間で汗が噴き出した。走ってきたからかもしれなかったが、この緊張感が助長させていることに誰も異論を挟まないだろう。

 意識が無いのか――

 胸に安堵が染み込む。まだ大丈夫だった――

 このとき虎次郎の頭の中には〝敵〟の存在は欠片もなかった。早くあの脚立から円香を下ろすことだけを考えていた。浦谷の横に並び、表情を窺う。彼の顔からも血の気が消えていた。そして、これまでに彼を見た中で最も悲痛な顔をしていた。

 その顔を見た時、言われようのない不安と浦谷への感謝が混在したなんとも表現しがたい感情に支配された。

 彼を超えて部屋に入る。

「動くな!」

 左の方から声が飛んできた。聞き覚えのある、そしてよく知った声――

 威厳たっぷりで、それでいて幼さを残した声。

 若田部恭介が、そこに立っていた。

「三人揃ってここに来る確率は低いと踏んでいたのですが……、ますます私に分が悪い状況ですねえ」

「悪い状況……ですか」

 最初に浦谷が反応した。

「君の若さを見くびっていたのが遠因かな」

「やっぱり……すべてあなたが操っていたのですね」

 しばらく若田部は答えなかった。やがてゆっくりと口を開く。

「うん、まだ浦谷君も真相には達してないようやね」

「真相? 〝ラジコン〟の件ですか?」

 若田部の表情が歪むのを見たのは初めてだったかもしれない。それほどに見慣れない、本当に見ても大丈夫なのか、呪われたりしないだろうかと思える顔だった。

「ああ、若田部さんもそんな反応するんですね、人だったんだ」浦谷は心底ホッとしたように顔を崩した。

「さすがにこの家では電気や水道は使えないんでしょうけど……、いざという時のために自転車発電とかしておいた方がよかったですね。エアコンがついてないから気づけました」

「そうか、若さじゃなくて、暑さに警戒せないかんかったんか……」

 若田部は笑みを蓄えながらやさしく言った。

「けどこの状況に変化は起こらない」

 若田部の言う通りだ。浦谷が真相を知ったらしいが、だからといって円香が助かったわけではない。

「この子もなかなか偉かったですよ、奏さん。あなた方と一緒におられた方ですよね? もっとも私一人で選んだわけではないんですよ。運が悪かったというだけです」

 虎次郎の中でこみ上げるものがあった。感情的になれ、と喚く自分がいた。しかし大きな理性がそうはさせない。これまで円香に対する気持ちを抑えてくれていた理性だ。

「どうすれば状況を変えられますか?」

「奏さん、この子とどういうご関係ですか?」

 唐突な質問返しに少々驚くも、

「幼なじみ、ですかね」

「僕は一応恋人関係ですよ」

 虎次郎の心臓がトクンと一つ跳ねた。

「幼なじみ程度の付き合いで、彼女を救おうというのは軽すぎる気がしませんか。今から彼女は救われるんです。やっと救われるんです」

 何も言い返すことができなかった。そしてようやく寿至が口を開いた。

「若田部さん。僕たちが全力で若田部さんに立ち向かったら何が起こりますか?」

「ああ、いい質問ですね。まず現状を正確に把握されているのかという疑問があるので、説明させてもらいますね。円香さん……と呼びましょうか。彼女はもちろん自らの意思でこの状況を作り出しています。自殺したいという願望、いや、決意が固まったということでしょう。今は覚醒状態にないんです。覚醒というのは……そうですね、自らを意識できることと定義しましょうか。何故か自殺に向かう人間にはこの傾向が見られます。そして覚醒した瞬間、自ら死に向かいます。いつ覚醒するか、正確には分かりません。しかしどれだけ長くても一時間はない、それは断言できます。そのようにプログラムされているからです。何故そのような設計図を組み込んだのかは神様に聞かなければ分かりませんが。私は自殺を否定も肯定もしませんが、神はどちらかといえば否定派なのでしょうね。自殺することは決まっているのにあえてその時間を先延ばしにするという。自省を促しているのでしょう。実は私も一年前までは知りませんでした。ただ、色々経験する中で得られた知見です」

 一度言葉を切り、若田部は咳払いをする。浦谷がちらりと腕時計を見た。

「次にあなた方にとってはこれが最も重要かと思いますが、私に全力で立ち向かえばどうなるか。もちろん、私が倒されて、はいハッピーエンド……とはいきません。彼女が死にます。それはプログラムから逃れられないのです。それに私を倒して何の意味があるのですか? 私は誰も手にかけていないし、第一証拠がない。三人とも私が例えば岬結良という女性を殺したと考えられている。しかし私が岬結良と一緒にいた証拠はまったくない。何故この家にいるのか、それは円香さんの意思だったと言えばそれまで。したがって、先ほどの質問に対する回答としては、質問自体の意味がありません、という所です」

「……喋りすぎっすよ、若田部さん」浦谷がぼそりと言う。

「確かにそうかもな。いやあご苦労、浦谷くん。でも一足遅かったね。この状態になれば確実に死んでしまうんや。さすがの私にも止めるのは不可能。今後はこうなるまでに先手先手で動く必要があるな。この件は勉強やなあ。さ、署に戻ろうか」

「…………」

 浦谷は少年のような目をかっと見開いて口をパクパクさせていた。

 ……何を言ってるんだこの男は……。

 しかし動悸は治まらない。

 このままでは円香が自殺してしまう。若田部曰く、それを防ぐことはできない。プログラムの件はまったく理解できなかったが、嘘をついているようには見えない。

 少なくとも若田部はそうなることを信じている。

「ん?」

「あれ……?」

 遠くの方でサイレンの音が鳴っている。徐々にではあるが、その音が近づいてきていることに、若田部が気づいたのだ。

 救急車や消防車ではないことに虎次郎も気がついた。かつて上司であった水雲に聞き分けができるようになったと伝えたら、大概の刑事は勝手にできるようになってると言われ、改めて警察官になったのだなと身を引き締めたものだ。もっとも家族には無意味な能力が身についたなとからかわれたものだったが。

 やがて突然、申し合わせたかのようにサイレンの音は消えた。

 そう遠くない場所だ。

 ひょっとして……という思いが胸を掠めたのも事実だが、反面、どうして? という気持ちも芽生えた。

 若田部の表情からは何を考えているかを窺い知ることはできそうもなかった。それほどの無表情。意図的にその表情が作れるのなら便利だろうなと虎次郎は思う。無表情界で有名な寿至をもはるかに凌いでいる。

 かなり長い時間、その場の空気が停止していた。いつ動き出すのか分からないほどだった。そんな中でも冷静に、どうすれば円香が助かるのかを考えていた。若田部の洗脳のようなものが解ければ、助かるだろうとは思ったが行動を起こすことはできない。若田部がこちらの動きをどこまで予想できているか。先刻、浦谷に指摘された顔を作り出すことができればチャンスがありそうなものだが……。

 沈黙は突然破られた。

 熱を取り入れていた窓が粉砕したのだ。あまりに大きな音だったので、この世の終わりがきたのかと一瞬たじろいだ。

 若田部を見る。どのような行動をとるのか全く予想できないので当然だ。

 しかしまったく表情を変えていない。ただ、目の奥に燃える何かが光っていた。

 視線を窓に戻す。ここは一階。どこかの野球少年がホームランを打ったのだろうか、そのボールが飛んできたのかと、再びこの状況が作り出された原因を推察する。しかしすぐに考え直した。方角からみて、窓の方向は西、すなわち山側だ。ということは土石流でも流れ込んでくるのか。そうならば逃げたい、ただそうすれば円香が……と思考を走らせていると、窓から人が飛び込んできた。

「呼ばれてへんけど、お邪魔します!」

 それはよく知った声だった。

「ああ、いや呼ばれたか、どこぞの若手刑事さんに」

 それは、二年間、一度たりともつかみどころを感じさなかった男。西日を浴びて逆光となっているために表情は知れないが、間違いなく、あの男だ。

「事件も起こってないのに、税金の無駄遣いとちゃいますか? 滋賀県警さんはそんなこと許されるんですねえ」

 虎次郎たちがまだ状況の十分の一も飲み込めていない間に、若田部は全て分かった風な質問を彼にぶつける。

「私の上司と同じ事を言いますねえ」

 そういう男の後ろから一人、また一人と窓のサッシを乗り越えて部屋に踏み入れてくる。畳が台無しになりそうだと、あまり関係のないことを虎次郎は考えた。

 そして背中側からも廊下を走る音が聞こえてくる。少しずつ事態を飲み込めてきたものの、やはりまだ、何故ここに? という思いが頭を支配する。

 しかし横で口元を上げている浦谷を見て理解した。ここに来る時に道中で電話をかけていたのは、彼だったのだ。決まったわけではないが、高確率でそうだろう。偶然目星をつけていた可能性もあるが、滋賀県警は岬結良の事件は自殺で片付けたし、手原めぐみの自殺の件については歯牙にもかけなかっただろう。となれば、浦谷からの電話で駆けつけたと考えるのが妥当ではないか。それに若手刑事に呼ばれたという発言。その刑事とは浦谷のことであると簡単に予想できる。

 だがどうして彼とのつながりを持ったのだろう。と考えて無駄だと気づく。彼は自由人。何をしでかしても若さ故という理由で片付けられるかもしれないからだ。

 こうして後ろからも三人、拳銃を構えた男達が部屋に飛び込んできた。それでも若田部は顔色一つ変えやしない。諦めているのか、それとも……

「奏君、つかぴょんには黙っといてな」

 男はそう言うと、指を口元に持っていきシーッというポーズを取った。

 西日が勢いを失う。少しずつ浮かびあがる男の顔。やはり、見慣れたかつての上司の顔。

「兄貴!」

「おー、元気か?」

「……は?」

 表情を変えないランキングで常に上位にいるはずの男が、これでもかというくらい目を見開いて口をあんぐり開けていた。見間違えているのか、いや、それより……今……。

「ちょ……寿至、待て待て。まずちょっと色んなこと起こりすぎやろ」

「そうですよ、僕が電話した時はこんな登場の仕方するなんて言ってなかったじゃないですか~。ボチボチ行くって……」

「いやあの、そうじゃなくて!」虎次郎は声を張り上げる。

「だって今、兄貴って……」

「ああ、俺の兄貴だ。言っただろうあのマンションを……」

「確かに言った! もち覚えてる。けど……苗字も違うし、全然似てへんし」

 たびたび寿至との会話の中に兄は登場していた。しかしどうしてもその兄とかつての上司が結びつけられない。寿至はもういつもの顔に戻っていたが、まだ口元だけは引きつっているようにみえた。

「似ていないというのは、論理的にみて兄弟ではない理由にはならないだろう。あと苗字が違うのは、ただ兄貴が結婚したからっていうだけだ。それも大したことじゃないはずだが」

 彼の指摘の通りである。動転しているのか、当たり前の質問をしてしまったようだ。

「いやでもなあ……」

 虎次郎は卓球の試合を見つめる少年のように交互に二人を見た。

「声は全然違うやん……」



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