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「あー……久しぶりやねえ、元気しとったか? おお、浦谷? ああ、英一郎君かな。そうういや昼休みに鞄持ってる英一郎君とすれ違たなあ。あ、帰るって言ってたわ。何か分かったとか言って」
虎次郎の心臓が一つ大きく鳴る。
ありがとうございます、とお礼を述べて疑問を口にする。
「帰るというのは、家に戻られたということですか? 早退された、と?」
「訊いてへんけど、そうやと思うわ。そっちもそうやと思うけど、午後休暇という扱いやろと思うとるけど」
電話の向こうにいる老人には辞職を告げていなかったことに今更気づき、どぎまぎしてしまう自分がいた。
「ということは、署にはおられないわけですね」
「そうやなあ」
「浦谷さんの連絡先とかって教えていただけませんかね?」
虎次郎はできうる最大限のへりくだった声で言う。
「うーん、最近は個人情報とかうるさいやろ? だから厳しいわ。……と言いたいところやけど、なんか奏君の声がすれ違た英一郎君の声にそっくりなんや。鬼気迫るというか……。まあ英一郎君は見た目通りの自由人やから引き留めへんたけど。何かあるんやろ?」
一息つかれ、電話口から音割れしたため息が伝達される。
「とりあえず携帯番号調べるさかい、ちょっと待ってくれんか」
奏虎次郎は、ホッと息をついた。以前の反省を全く活かせていない自分をなじりたい気持ちと、波須川が電話口に出た時の安心感がなんともいえない心の状態を作り出していた。
発信履歴にあった『京都府警察署』が地域部であったことには、波須川の声を聞いて思い出した。それほどに虎次郎は考えをまとめずにスマホを手に取ったのである。
事務所にある机にぼっかり腰を下ろして難問に取り組む際の顔をしていた鳥谷寿至は、虎次郎が京都府警に電話すると言った際に口出しするようなことはなかった。彼自身、何か思うことがあったのかもしれない。
波須川の対応は、想像を遙かに超えたものだった。
しかし改めて良対応の理由が分からなくなる。波須川は老年とはいえ、自動車暴走事件の実権を握っている若田部警視正と接触するポジションには就いているはずだ。年齢からみて間違いない。一月前に二人がやりとりしているシーンを目撃しており、仲が悪いようには見えなかった点も、その解釈に拍車をかける。それなのに、虎次郎からの願いをすんなりと受け入れてくれた。
若田部恭介は奏虎次郎が警察を辞めたことを快く思っておらず、事件関係者全員に箝口令を敷いたような対応をとっていた。虎次郎はそれを、事故現場の前にある紳士服専門店〈マイルドリンゴ〉の蒲山店長から話を聞いて知った。
もっとも長戸照貴弥が殺されていた、長岡京のアパートで若田部の態度は急転していたのだが、彼の真意はつかめていない。そこまで大きな変化ではなかったが、虎次郎に事件情報を提供してくれた。あの態度変化は自動車暴走事件の進展に起因するものだと考えたのだが、それと今回の波須川の対応に因果関係はないように思える。
最初から聞かされていないような波須川の反応。刑事時代の虎次郎への接し方には、高IQの人に間違い探しの難問として出題しても良い程違いはみられなかった。ネゴシエーターの研修をも受講したので多少の変化には気づけるはずだ。意図的に波須川が電話応答しているとなれば、さすがの経験値と言わざるを得ない。
波須川が手こずっていることが電話越しに伝わってきていた。「ちょっとこれどうすりゃええんや?」という声。「ドンさん、しっかりして下さいよ」という若い声。
一秒も無駄にしたくない虎次郎だったが、何故か冷静でいられた。電話をかけようと決心した自分ではない気がした。
「おまちどおさま」というしゃがれた声の後に、浦谷であろう人物の090から始まる番号が告げられた。虎次郎は小さな手帳に復唱しながら書き込んだ。
「あと、若田部さんはそちらいらっしゃいませんか?」
「ああ……恭介君?」
コンマ数秒がとても長い時間に感じられた。自分が若田部だったらという想像を幾度となく巡らすことができた。
「今日は朝から見てないですわ。現場行ってはるんとちゃうかなあ。ああ、でも英一郎君の方は犯人すぐ分かったしなあ……。恭介君も自由人やからなんとも……ってお役に立てんで申し訳ない。恭介君の電話番号はええんか?」
「いえ、ありがとうございます。大丈夫です」
喉の奥に何かがつっかえているのをはっきり意識しながら断った。
「何かあの事件で分かったことあったらどんどん大きい声出しや。私で良ければどでかいパイプを通じてどんどん上に運び上げるで」
虎次郎は姿の見えない相手に向かって何度もお辞儀を繰り返して礼を述べ、電話を切った。
どうしてそこまで他県の人間に事件に関わってもらえることを望むのか。望むとまではいかなくても、どうしてそうみえるような言動をとるのか。虎次郎たちにとってみればありがたい対応ではあるが、多少の困惑はあった。もっとも波須川、あるいは京都府警地域部に限っては最初からそうだったので、深く考える必要はないのかもしれない。
そして次の瞬間には再び時間がない! という焦りがこみ上げ、波須川のことなど頭の片隅に猛然と追いやられてしまった。
果たして、警察官の家に行くことで後々問題とならないだろうか――
かつての虎次郎ならそんなこと考えすらしないままに、押しかけていただろう。でも今は違う。ただその違いなど、人間の男と女の違い、すなわち染色体というわずかな差があるだけだ。誤差の範囲と言ってもいい。
ただ――
ただ急いで駆けつけて、どんな状況だろうか。
最悪のケースも考えられる。もちろん、あってはならないし、こちら側の人間にとっては誰も見たくない、というのが満場一致の思いだ。
とにかく――
とにかく先に、彼の方を処理せねばならない。
「寿至」
「了解」
鳥谷寿至は、突然呼びかけられたにも関わらず、一つとして驚きの感情を表に出さなかった。ただ、虎次郎を見て多少にやりとしただけだった。
「……どうした?」思わず問いただしてしまうほどに、薄気味悪さを感じた。
「俺のことを気色悪いと思ってる顔だが……。俺もお前のことを気持ち悪いと思ってる。今お前が電話を切ってから俺に声をかけるまでの時間。およそ二十秒程だったが、以前……そうだな、少なくとも半年前までのお前なら一秒もなかっただろう。それだけ大人になったということだな。お互いに、だが」
「成長やな」
「……退化かもしれないぞ」
寿至はそう言うと、虎次郎に向けて右手の掌を指し出した。
「……え?」
「……お、どうやら以前との変化はほんの一部分だけらしい……。キーを貸せと言っている」
どうやら寿至が車を運転するようだ。長岡京からの帰りの経路ミスを思い出す。もっともあのミスのおかげで、真相にたどり着いたようなものなのだが。いや、まだ確定ではない。本人への確認は、これからだ。
「そっか。俺はまず電話せなあかんしな」
玄関の方向へと足を向ける。「鍵やけど、車に置き忘れてるっぽいわ」
「了解した」
※
コーヒーメーカーがけたたましい音を立てて豆を挽いていた。裏庭で工事でもしているのかと疑う破壊っぷりだった。デビュー戦の時は本気でクレームを考えたほどだ。ネットで検索すると同じ症状が散見されたのでその思いは急速にしぼんだのだが、やはり今でもどうにかならなかったのかとは考える。
どうにかならなかったか、といえば差し迫っている危機に対しても同様のことがいえた。
あの人に言われた言葉が蘇る。
じっとコーヒーメーカーを見つめる。いつもと変わらない。しかし彼の気持ちは挽かれていく豆と同様、壊れる前のひととき、静けさを求めていた。
浦谷英一郎はこれから自分が取るべき行動について逡巡していた。
否、答えは既に出ているよな気がしていた。署から出た瞬間、彼の運命は決まったようなものだった。それでも落ち着こうとコーヒーを飲もうとして準備している自分がいる――
秋が遠くに見え始めたとはいえ、まだまだ暑い。しかし浦谷はクーラーをつけていなかった。汗をかきながらでないと、思考力が弱まるという自覚があったからだ。
インド出身の数学者ラマヌジャンに憧れた。
それはタクシー数と呼ばれる有名な逸話があるからではなく、円周率を初めて習った際に、数学好きだった小学校の先生が名前くらい覚えておいた方が良いと教えてくれたからではない。インドに生まれ、インドで生涯を閉じたからだ。
一度渡英して国を離れているものの、宗教上の理由から食事が合わなかったためにラマヌジャンは衰弱し、故郷に帰らざるを得なかったというのが俗説だ。
ただ浦谷は違うと考えていた。イギリスの寒さに身体がついてこなかったのではないか、逆にいえばインドの暑さが彼の才能を作り出していたのではないか、と。
昨今ではインド式計算を日本のメディアが取り上げる機会が増えてきている。浦谷自身は数学の成績は五段階評価で三以下しか取ったことのない浅学非才を名乗っていたが、インド式とやらを学んでいたら今頃警察官にはなっていなかったかもしれないとすら夢想する。
ラマヌジャンへの憧れは、数学の能力に還元されることはなかったものの、暑い中で勉強をするという彼にとって最も集中できる環境を与えてくれたように思う。
彼自身割と裕福な家庭環境で育った。だから小学生の頃から洋室八畳の自室は与えられていたし、冷暖房システムはエアコンという形で整備されたいた。夏でも地球温暖化なんて知ったことかと二十四度の設定していた。それは両親からの勧めでもあった。
だがその環境が彼にとっては仇となった。思い返せば週に二、三回は腹痛に襲われていた。「冷たい物食べ過ぎじゃない」という母親の心配をそのまま受け止めていた。実際に浦谷はアイスが好きだった。食後には必ずと言っていいほどミニカップのアイスを頬張っていた。
ラマヌジャンという人間を知ったのは高一の数学の授業だった。円周率が初めてインプットされた時以来に聞く名前だった。
六月の某日。真夏日だった。
昼に近い時間の体育終わりで教室は蒸し返していた。浦谷の通っていたのは私立高校だったので、エアコンは完備されていたのだが、この日は何故だか使用禁止だったのだ。いや違う。メーカーから発火の虞があるので回収する、という依頼があった最中だったからだ。
そんな中では授業もままならないのに、先生はスーツを着て汗をかきながら授業をしていた。
皆が口々にだるいだの、暑すぎるだのぼやく中で浦谷は思いのほか集中して授業を受けている自分がいることに気づいた。不思議な感覚だった。自分の中に存在していた常識が揺らいでいた。いや、その揺らぎをこの時は感知できていない。
「みんなラマヌジャンって知っとる?」
突然始まった仙人のような風格をしながら三十代半ばというエキセントリックな数学教師がこの言葉を皮切りに“適正環境”に関する話をし始めた。
ものの数分で、浦谷の中で彼自身を包み込んでいた霧がサッと晴れていくのを感じた。そしてこれまでの自分が間違った環境で勉強していたのだという情報が押し込まれた。
疑いもしなかったことを恥ずかしいと思う感情は一切なかった。感動が強すぎて、負のエネルギーは遠くに、奥深いところに追いやられたようだった。
それから自分に適する勉強環境を探し続けた。それが目的になってしまっていたかもしれない。しかし、浦谷は全く後悔していない。自分が蒸し暑くて汗をかいた環境でこそ最も力を発揮することを認知できたのだから。
なんとか合格できて、なんとか授業についていけているという状況が一転して、成績は向上の一途をたどった。
それまで通っていた塾を辞めると両親に切り出した所が山場、ターニングポイントだったなと浦谷は認識する。人生で始めて土下座をしたのもこの場面だ。人間必死になれば頭を床に押しつける動作なんてたやすいことだと知った。
もちろん、感情をぶつけるだけではなかった。きちんと自分の置かれた状況を整理して説明した。エアコンを消して勉強した結果、夏休み明けの試験で高得点をたたき出したことが最強の武器だった。偶然にしてはこれまでの浦谷では取れないような点数だった。
猛反発の姿勢を崩すまいと拳に力を入れていた両親も、なんとか折れてくれた。折れるまでの時間は、自分たちが息子によかれと考えて与えた環境が正しくなかったことを認めるまでにかかった時間だろうと思う。
仙人教師、そしてラマヌジャンがいたからこそ浦谷は一流と呼ばれる大学にも進学できたし、司法試験にも合格することができた。真冬は逆にガンガンに暖房を効かせて、汗をかくくらいの温度の中で勉強した。息子の成績向上に常に相好を崩していた両親は「冷房代が安くなって喜んでたのに、結局プラスマイナスゼロやなあ」と言って笑い話にしていた。
そのようにして手に入れた、適正環境で今回の一連の事件について考えてみる。
汗は頬を伝い、背中を伝うものの、まったく気にはならない。汗腺一つ一つの動きはランダムだ。その無作為に流れる汗が、集中力を生み出すとさえ考えていた。「いつも同じ」汗をかくという行為の中にある「予定外」が自分が深みにはまりすぎるのをセーブしている。
「はあ」
浦谷は大きく声に出してため息を吐く。
コーヒーをカップに注ぎ込むと、熱々のまま一口すすった。元々は猫舌だったが、燃えるようなコーヒーを口に入れ続けた結果、あまり気にならなくなった。
「今日しかないなあ」
そうでなければ、今何のために署にいないのか説明がつかない。自分のことなのに説明できないのが、浦谷にとっては苦痛なのだ。
「あの人を救わんと……」
浦谷は決めた。誰が何と言おうと俺は俺のままに動く。
二階に向かう。そして新しい背広を取り出す。さすがに汗だくの服装では行動できない。髭剃りシェーバーを持ちかけて離す。夕方が近いこともあり、無意識に顎の下に違和感があったからだったが、そこまで時間的な余裕があるかは不明だ。
ネクタイを選ぶ。思い切ってピンクにしようか。好きな色ではなかったが、あの人が好きそうな色だ。確かあの人は派手好きだ。
首の前で二回転させたところで家の中に電子音がこだました。
それが玄関のチャイムだと認識するのに、数秒を要してしまった。
誰が来るのか、分かっていたはずなのに。
※
「あなたが殺したんでしょう」
東後円香は目の前で足を組んで藤製の椅子に腰掛ける男に向かって言葉を投げかけた。彼女が思う程声は出ていなかった。武者震いくらいの振動が混ざっていた。
「あなたが殺したんでしょう」
もう一度同じ言葉を繰り返す。
六畳の和室。和室だが、一メートル程度の高さの正方形テーブルを四つの藤製椅子が囲んでいた。円香は椅子には見向きもせず同じ体勢で男の目を見る。
「ちゃんとした、君の生まれ育ったところの言葉で話してごらん」
彼は優しい声で撫でるように言った。いつもならその声に癒やしすら覚えるが、今は嫌悪感しか抱けない。
円香は心を落ち着かせるために、一つ深呼吸した。彼の提案は無視することに決める。
「岬結良という女性を知ってる?」
「君がちゃんとした言葉で話さないと僕は答えないよ」口しか動かさずに彼は言う。
「……どうして?」
「どうしてって、当たり前のことだろう? 最も長く話した言語、方言こそが、真実を告げられると思わないか? 誠意などとお高くまとまってしまってはいけない。お互いが正しい形でぶつかり合わないと、言葉は幻のようになってしまう」
「いつもはそんなこと言わないじゃない」
「いつも幻だからだよ」
彼の調子は平常と何ら変わらない。変わっているのは円香だけ。いつもの軽口が妙に癪に障る。円香は覚悟を決める。
「岬結良って知ってんのか、って訊いてるん」
自分の染まりやすさは自分が一番知っている。こっちの言葉が影を潜めたのは、周囲の環境変化に起因するものだと信じていた。しかし本当は違っていた。円香が自らの意思を持って捨てたのだった。
彼は表情一つ変えず、
「ニュースで名前は聞いた。けれどもそれだけだよ」
円香は核心に迫る質問をぶつけようか迷った。けれど覚悟を決めてまだわずかなのに揺らいでいた。
「……あんたが殺したんやろ……?」
息を吐き出すように囁く。そこまで広くない部屋だし田舎特有の静けさなので、確実に彼には届いたはずだ。けれど彼は答えない。
「ここはほんまにあんたの家……?」
「いや、長戸照貴弥は殺してないよ」
一つ前にした質問に彼が答えるのと同時だった。
「え? ごめん、今何て?」
想像以上に簡単にこちらの方言が口から出るものだと自分に感心していた。埋め込まれたプログラムはそう容易に変えられるものではないと知った。
「長戸照貴弥を殺したのは、栄瀬眞紀子という女性だ。君も知っているだろう」
「ネットニュースで読んだわ。記事をそのまま受け止めたら彼女が犯人ってことは揺るがへんみたいやね。思い返してみるとやけど、結構ズケズケ言う娘やったからありえへんとは思わんかったけど」
彼は満足そうに笑みを浮かべた。そして呟く。
「やっぱり成功じゃないか」
疑問形とも取れない発言だったので、円香は一瞬反応に困って停止していた。しかし、本題から逸らされているという疑念から、別の質問が口をついた。
「……私たちが初めて会ったのってどこやっけ?」
彼は円香が予想しない反応をみせた。これまでゆったりと椅子に腰掛けていたのに、すっと背筋を伸ばしたかと思うとすぐに深々と腰を沈め、何かに怯えているかのように目線を上下左右に動かした。
円香の脳裏に何かがきらめいた。それは一瞬だったが深く食い込んでいた。釘のようだった。「え?」
「……僕たちが……初めて……」
彼の口調は酩酊したかのようにしどろもどろになった。頭を押さえたかと思うと、そのまま目をぎゅっと閉じ、抱え込んだ。いつもなら首筋を伸ばしているのかな、と思うくらいだが、今は何かに取り憑かれているとしか、円香には見えなかった。
彼女は唾を飲み込んだ。喉元につっかえていたものが一緒になって胃に流れ込んでいった。スルスルと螺旋を描いて落ちていく感覚があった。
「あんたは誰?」
口の中から水気が消えていく。立っていることに疲れてきた。彼を見ていると自分も体調が悪くなっていく錯覚に襲われた。
「あんたの本名はなんなの?」
水分が消失した割にはすんなりと発音できる。頭は異様なほどにクリアだった。耳も鼻も正常だった。目は幻覚を映していると思いたかったが。ただどこかで、こうなるものだと諦めていた自分がいたことも確かだ。疑念を持った瞬間から、彼がどこかへ行ってしまうのではないかと。彼が円香から離れてしまって、もう戻ってこないのではないか、と。
「外村靖也はあんたの本名?」
「…………」
「外川靖也って一体誰のこと?」
「…………」
「あんたの名前は外村靖也よね?」
「…………」
彼は答えない。円香の声が和を基調とした部屋にふんわりこだまする。
「それって本名?」
「…………」
話は一つとして進展しない。しかし彼の姿勢には変化が見られた。右手でおでこを押さえ、左手をくの字に曲げ、脇腹を押さえだした。顔は苦痛に満ちている。
何も答えない彼に苛立ちを覚えていたのは事実だが、顔を歪ませる彼を見て水をかけられたように冷めたのもまた事実だ。
「……大丈夫?」
こんなに熱していたのに彼を心配する自分の声に軽い軽蔑を感じながらも、やはりどこかで彼を想う自分がいることに安堵していた。
しかし次に円香の脳裏を掠めて根付きこびりついた感覚は、消そうと思っても消せるものではなかった。消せるものなら消したい記憶だったが、一瞬で無理だと悟った。それほどに強烈で、急速に深層へとたどり着いた。
「私――私、思い出した」
どれほど情けない表情をしているかは彼女自身も、うつむいている彼も分からなかっただろうが、まさしく鳩が豆鉄砲を食ったような顔だっただろう。
悄然とする彼を見やる。動きは見られない。
「あの時――、会ってた。なんで忘れてたんやろ」
以前にも同じ感覚に襲われたことがあったことを思い出す。
同じ日。誰かとすれ違ったという感覚。それが男だったか女だったかは思い出せない。
忘れるとは何か。忘れるよりももっと酷い。消え落ちていたような。
ずっと欠番であったかのような。
その時の光景が貼り付いたように離れない。
見知った顔がそこにはあった。精悍で、どこか幼く見えて。
数秒前までは彼と初めて会ったと思い込んでいた場所の記憶はなくなりつつあった。誰かにコントロールされているとしか思えなかった。
彼は立ち上がる。苦悶に満ちた表情を浮かべながら。
彼女の眼前に彼の掌が向かってくる。突然の行動に避けることができない。何をするのだろう? という素朴が疑問が浮かんだだけだった。
口に何かを押しつけられる。掌しか認識できていなかったが、何か白い布を持っていたらしい。
「忘れていた理由? そんなのもう必要ない」
目に映るものが色を失っていく。狭くなっていく。消えていく。
音が遠ざかる。聞こえなくなる。
声を出す間もなかった。もがく間もなかった。
「なぜなら君は自殺するのだから」
その場では彼しか理解できる者がいない言葉を吐き捨てるように言った。
和室には場違いな色彩。彼の身体にぶら下がったアロハシャツが、不規則に揺れていた。
※
「ああ、よくあの説明で分かりましたね。さすがっす」
もわっとした空気が向かってきたのとは反対に、浦谷の声は爽やかで、少し上擦っていた。
ビッシリと黒のスーツを身に纏い、中途半端に結ばれた桜色のネクタイが首からかけられていた。
「お着替えの途中だったようですね。すみません」
虎次郎はまず詫びの言葉を口にする。
「いやいや、状況が状況ですから。それよりお二方とも、大学生みたいですよ」
浦谷が指摘したのは二人の服装についてだ。虎次郎はいつも通り、Tシャツにジーンズ。寿至は上下ジャージだった。たまたま昨日、コインランドリーに全ての私服を放り込んだのと、夏は乾燥機を使用しない方針から「仕方なし」の身なりだった。長戸家で死体を発見した時のようにスーツを提案したのだが、縁起悪いからと断られた。もっとも、その通りだと思った。
「スーツ着てなかったら浦谷さんも大学生ですけどね」
「謙遜なさらないのですね。僕は年齢的にいけますけど、さすがにお二人、厳しいっすよ」
相変わらずズケズケと土足どころか泥のついた長靴で部屋に上がりこんでくるものだと、逆の意味で感心した。また、電話で話した時の深刻さが彼の中から消えていて、どういった心境変化があったのだろうと訝しむ。
「この場所に迷わず来られたのは優秀なナビゲータ、ああ、カーナビですが、そいつの力ですよ」顔を合わせてすぐの会話を成り立たせ忘れていたことに気づき、遅ればせながらも返事をする。また失礼なことを言ってくるかと身構えたが、ただ相づちを打たれただけだった。
「でも意外ですね」
「何がですか?」
「もっと緊張感のある表情をされていると思いましたよ」
言ってからハッとした。自分の口から出たのかと疑うほど失礼な物言いだったからだ。しかし浦谷は気にもせず、
「まあ吹っ切れましたからね」
どうやら他人に失礼なことを言ってしまうのは、同じ事を彼が言われたところで気に留めないからだなと虎次郎は余計な予想をした。
「吹っ切れた、とは?」
「お二方と同じっすよ」
彼はより砕けた言葉で言う。
「確かに、浦谷さんじゃなかったらと思うだけで背筋が冷たくなります。他の人だとそうはいかないでしょう」
「はい、しかし、というより類似の話を聞いたことないですからね。案外緩かったりするのかも」
塚崎に聞かせたら卒倒するのではないかと思う言葉だと想像しながらも、本筋に入ることを密かに決意する。
「一連の事件の謎が浦谷さんにも解けましたか?」
「おいおい、こんなところで話し込む気か」
寿至の冷静な指摘が入る。久しぶりに寿至の声を聞いたのに、すんなりと聞き取れた。だが浦谷にとっては低すぎたのか「はい?」と聞き返していた。
この瞬間に虎次郎はある判断を下していた。根拠は勘だったが、外れているはずなどなかった。浦谷がこうして自宅にいた時点でそれは答えだった。
ただ一つの質問を浦谷にぶつければ、その反応で自ずとすべてが百パーセントになる。ある命題の真偽は明らかになる。最後のピースを埋めるために、寿至には悪いと思いながら、彼の指摘に反して質問をつなげる。
「若田部さんは今、どこにいらっしゃいますか?」




