4
私は線路の上を歩いている。
文字通り、電車が走る線路であり、昔どこまでも続くと歌った、あの線路である。
プラスチックで作られたレールの上を、同じくプラスチックで成形された電池でモータを回転させて走る電車を駆け巡らせる遊びをしたと、思い出す。
いつも息巻いて買ってもらったレール全てを使ってコースを作ろうと思うのだが、うまくいかずに途中で断念してしまうのだ。
あれはまだ、二歳か三歳の頃。
私はよくレールを放ったらかしにして寝てしまっていた。でも翌朝目を覚ました時には、それらは整然と、それも一つ残らずして、まさに私が思い描いた理想のコースが完成しているのだ。父が一人で作り上げたらしかった。
電車は数種類持っていたと記憶している。最も速度が出た電車は名を何といっただろう。二十年以上記憶を呼び起こしていないからなかなか出てこない。
その内に別の思考が入ってきて、強制的に思い出は追い出される形となった。
たった一度、本当にこの世から色が消えた。
それは本当に消えたのか謎だった。
同じように、人も消えていた。
誰の意思で? 神?
いいや、この世に神はいない。
誰かが言った。神様はサイコロを振らないと。
私にとって誰が言ったかはどうでも良いこと。その内容すらもどうでも良いこと。
重要なのは、サイコロの目である。一が出ていたのならば、一進む必要があるし、六が出ていたのならば、六進む必要がある。サイコロが振られていようがいまいが、その場にサイコロは存在する。そこに何者かが介在するか否か、それだけの違い。
しかしそのようにただ出た目を進んでいくというのは、レールの上を歩いている、今の私と同じことである。前から列車が来たら避けることは不可能だ。ただそれは主眼を列車とした場合であって、私には当てはまらない。いつでもレールの外に出ることは可能である。
つまり、幾ら人生をレールに投影しても、正しい結論を導くことはできない。
人間は人間であって、あのプラスチックの筐体では決してない。
また別の思考が、表に上がってきた。
私は私。蜷川留美子は蜷川留美子である。
そしてもちろん、外川靖也も外川靖也だ。
私が変わったのは、三年前の実験が失敗に終わった時だった。
人は何故、人として生まれたのか。人として死んでいくのか。結論が欲しかった。結論だけを求めていた。道中はどうでもよかった。デコボコ道だろうが、熱帯雨林だろうが、どこでも良かった。人しか歩めない、人だけが歩める道なんてこの世にはないと私は考えていた。人は自由だと、自由に進めるのだと、考えていた。
三年前。
私は人体実験に失敗した。容易に記憶から消せるわけなく、窓のは虫類のようにへばりついている。
記憶の理論は少しずつ鮮明になりつつあるが、解明にはほど遠い。それは、解釈という補正能力が個人によって異なるからだ。そして私にはせっかちなきらいがあった。
三年前の春。私は全ての準備が整ったと錯覚していた。全てうまくいく。エラーなどありはしない。完璧なプログラム。それまでプログラムを書いたことのなかった私は、どの地点にミスが起こりうるか、起こりやすいか、想定はしていたものの、特別な対策をせずに実験に挑んだ。無論結果だけを見れば成功したという人が大半だろう。
確かに目的は達成された。
しかし一つでもエラーが発見されたということは、人間理解という最終地点にたどり着いたことにはならない。すなわち、実験が失敗したことを意味する。ただ、終了してから思案してみると、実験の成功は全てが理想通りに動くことだったが、それらが「必然」だったのか「偶然」だったのかは分からないものであった。つまり、それらを考慮する視点が欠けていたといえる。
無論私は失敗を喜んだ。
なぜなら全て成功していれば「偶然」か「必然」か分からないまま先に進んでいた可能性が高いからだ。そうなれば当然後戻りは大きくなり、たどり着くことはできなかったかもしれない。あくまで蓋然性の話である。
そこでようやく気づかされたのだ。人間を理解する前に、私自身を理解する必要があると。私自身のメカニズムを解明し、理解することが先決だと思い知らされたのだ。仮に完全掌握できた場合、寿命や老化とは無縁になる。「人間」という宇宙と形容するに相応しいエレメントを一般化するために、私を知覚することで宇宙を知る準備が整うものと考えた。
今回、外川靖也として彼を生みだしたことは、私にとって三年間の一部をアウトプットしたことと同義であった。成功すれば儲けものという想いも一部あった。しかし私の大部分を期待が満たしていたことは間違いない。
鍵となるのは、熊のぬいぐるみ。
彼を司るすべてを、そのぬいぐるみに込めた。
私と同様の構造であるならば、それだけで完全に私の考えるままに動く。構造という観点から彼を探し当てたのであるが、実際には異なっていた。当たり前だ。誰一人としてこの世に自分と同じ人間を持っていない。しかも、これまでも、そしてこれからもでもある。千億は超えるヒトという個体の中で唯一無二。変えることができない、事実である。その結果を今、目の当たりにしている。
彼が外川靖也として謳歌している内は成功だった。しかし厳密にいえば、外川靖也という人物はこの世に、ましてやどの世にも存在などしていなかった。だから成功と呼べるかは疑問ではある。だが、外川靖也自身が失敗かどうかは、まだ分からない。失敗作という予測はできても、十中八九そうであるという認識はしても、百パーセント断言という極致に達することはできない。
彼は優秀な人間だった。
おそらく、彼にとって苦手分野などなかっただろう。私がその特徴を消した。意図的でなかったとはいえ、隠し味程度の申し訳なさは芽生えている。
彼は黒。
私も黒。
彼の黒は、染まった黒。無理やり黒を流し込み、上書きした色。
私の黒は、変化できる黒。ここからピンクにだって、青にだってなれる色。
彼の黒は、造られた黒。絵の具を全て混ぜ合わせたらどのような色になるのか試した結果の色。
私の黒は、澄み切った黒。スマートで淀みがなく、艶やかな色。
彼の黒は、意思に反した黒。
私の黒は、意思によって決定した黒。
彼の黒は、汚れた黒。
私の黒は、純粋な黒。
彼の黒は、逃げてたどり着いた黒。
私の黒は、到達したくて求めた黒。
彼の黒は、一度混ざり合うと、取り除くのに時間がかかる黒。
私の黒は、混ざり合うことのない黒。
彼の黒は、遙か昔からある黒。
私の黒は、生みだされて間もない黒。
私の黒は、明るく、
彼の黒は、暗い。
これが、黒と黒のコントラスト――
彼と、私は違う。
交わることなく、私から私をみても、彼から彼をみても、私から彼をみても、彼から私をみても異なる色。
それは誰一人、厳密な色を知らない、ということ。
色を論ずるのに、他人は関係がない、ということ。
それも一つの、コントラスト。
外川靖也は失敗する。
だからこそ私は、外川靖也を殺すのだ。今この瞬間にでも彼を殺すことは可能だ。
私だけが知っている、彼の壊し方。
たった一つ。私と同じメカニズム。私と同じ理論。
「黒」という、ただそれだけの性質。
元に戻すことができない色。全ての色にとっての最終地点。彼にとっては、避けることのできないゴール。
私にできることは、空にすることだけ。
所詮すべては空虚。虚構にすぎない。
色即是空、
空即是色、
からっぽだった。
中には何も、入っていない。
ひっくり返したところで、水滴一つ、落ちてこない。あるいは、透明。色をつけてもいない。最初の色。そして、最後の色。
その色が反射する。反射して、どこに行くのだろう。




