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黒と黒のコントラスト  作者: じっぴー
第八章
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39/45

3

 僕はいつも、これで終わりにする、と決めていた。

 けれどそれは必ず終わりではなかった。何かが終われば、何かが始まる。

 それは普遍的な、永続的なものだと、誰かに教えてもらった。

 うだるような暑さが影を潜め始めていた。季節が移り変わろうとしている。

 僕はこの定常を、夏で終わらせると決意した。

「あなたは失敗しすぎているわ」

 向かいの席で優雅に足を組み、手をちょこんと膝に乗せ、何もかもを見透かすような目で、蜷川留美子は僕に忠告した。

 僕はそれを一蹴する。

「失敗したのはあなたの方ではないですか?」

 何一つ表情を変えず、留美子は言う。

「その返答で全てを理解しました。私は間違っていない。金色の麦畑。虹がクロスする礼拝堂。あなたはそこにはいない。その場所すら知らないし、知るはずもない。今となっては知る必要もない。ああ、なんて寂しいの? 何故こんなにも憐憫なの? どんなに美しいと観察された花でさえ枯れてしまう世の中なの。どうしてか分かるかしら?」

 久しくもあるけれど、遠く離れていた彼女の頭脳。

 僕はうまく切り替わらない回路のスイッチにやきもきして、煙草を欲した。ここ数年一度たりとて求めなかったので不思議に思う。これまでは彼女に触れていてもこのようなことはなかった。

「ブレーメンの音楽隊ね」

 ライターに火を灯す僕の左手に視線を送りながら留美子は言う。僕は肺に煙を取り込み血液が全身に運ぶのを待つ。脳に煙草を形成する物質が届き、そして幾分視界が開けた気分を味わう。高揚感とは異なる、なんともいえない気持ち。何度沁みても飽きることはない。

「捨てられたところが?」

 彼女はにっこり笑って

「違うわ。フィクションという現実よ」

「僕は猫の上に鶏が乗っかるのが不思議でならなかったな。鶏の方が猫よりも大きいと思わないですか?」

「みてくれの問題でしょう。あるいは比重か」

「まあ僕も子供心にそんな予想はしましたけど」

 ニコチンの力を借りてどうにか会話を成り立たせる。

「そう、これまでのあなたならこんなことは無かった。それが一つの失敗。言葉にしなければ分からないようではおしまいね」

 僕は多少混乱する。ここで取り乱したり、理由を尋ねたり、感情を表面に少しでも浮かせると終わりだ。留美子の人格からして僕は消えるしかない運命となる。しかし、身体が煙草を求めてきたり、思考の内助を被るなどこれまでは考えられなかったことだ。そう、まだ着眼点は彼女と同じ。いや、そんなことを考えている時点で僕はおかしい。

 灰皿を探すために僕は立ち上がる。留美子は何も言わない。それでこそ彼女が彼女である証だ、と僕は確信する。二、三歩移動して立ち止まる。確かこの家に灰皿は存在しない。変わりとなるものを……と思ったものの、食器は腰が引けてしまう。小さな花瓶があれば良いのだがと考えるが、見当たらない。

「煙草を吸おうと思ったきっかけは? もちろん最初の話」

 突然彼女の冷たい声が飛んできた。

「忘れました。煙草はお嫌いですか?」

「いえ、私も吸いますから。平均して一月に一本かそれ以下でしょうけど」

「それなら僕はそれ以下です」

「煙草が脳細胞を殺すだなんて、そんな話信じられますか? それは煙草に含まれる成分のコントロールができていないだけでしょう。ニコチンの制御は簡単です。脳のプログラムを書き換えるだけで良いのですから。そのきっかけは誰でも持っています。ただ、見つめたくないだけ。あなたも経験ありませんか?」

「擬似的には確かにありますね。存在を認めたくはないだけというバグが」

 煙は脳を満たしているが、彼女の思考に珍しくついていけなかったので、適当に返事をした。おそらく留美子はこのやりとりを楽しんでいる。自分の異常性を伝えるだけの発言。返答を想像する楽しみ。僕も初対面の人には時々使う技法だ。

 彼女が何も返してこないので、僕は部屋を出て灰皿もどきを探す作業に入る。一番それらしいものがありそうなのは、二階のあの部屋かと推測する。

 次に使うあの部屋。留美子でさえ入れたくない部屋。

 足を踏み入れる。今は目のつく場所には何もない。板張りの十畳の部屋。今日が終われば準備を始める。終わるための準備を。すべてを終わらせるための準備を。

 南側の壁の西寄りに手前に開く押し入れがある。僕は煙草をくわえたまま収納ラックを上から順番に開けていく。灰はいつ落ちてもおかしくない。分子レベルでならとうに飛散しているだろう。飛散した灰と塊として落下した灰で何が異なるのだろうと僕は思う。観察点をどこに置くかだけか。人間に置けば異なるだけだ。

 些細な問題を考えつつも、実直に両手は灰皿代わりになりそうなものを探している。大半は乱雑に散りばめられた玩具だ。僕にとってはただのゴミでしかない。あくまでそれは主観である。留美子にとってみれば……いや、彼女にとってみてもゴミだろう。

 ドロップが入っていたと思われる缶を発見する。中にはビー玉がぎっしり詰まっていたので上下に振って、外に出した。充分灰皿の代替品として機能するだろう。

 元いた場所に戻る。留美子は何食わぬ表情で、僕が出ていった時と同じ姿勢、同じ視線を蓄えて待っていた。

 唐突に彼女が口を開く。

「チャンスをあげます。反省すべき点があるのなら声に出してください」

 僕は再び彼女と向き合う。形の良い眉毛。吸い込まれそうな目。筋の通った鼻。そして、機械的な唇。動かなければ、話さなければ人形としてでも通用するだろう。そうでなくとも錯覚してしまう。ただ一点、日に焼けた小麦色の肌だけが僕を現実に引き戻す。一度だけ質問した。一度といっても僕は同じ質問を二度としないのだが。

 どうして日焼けなどするのか。一般的に女性は紫外線を嫌うのではないか、年齢を重ねるにつれて顕著な傾向として現れるのではないか。

「そのようなプログラムミスを未だに私が処置していないとでも思っているの?」

 彼女の返答はシンプルだった。それを今思い出す。煙草の件も同じことだったのかもしれない。やはり僕は遅い。彼女と比較してかなり遅れている。だが、それでも失敗はしていない。何一つとしてミスはなかった。したがって反省の弁も見つからない。

 しかし見つからないといって何も言わないのは不合理である。彼女と同じ空気に触れることは、灰皿のように代替品が存在し得ない経験なのである。自らの手で積極的に離そうとはしない。彼女が離そうとしてもそれは不可能だ。

 なぜなら僕を作ったのは彼女だから。たとえ欠陥品でも、僕が存在する限り、彼女とのつながりは永遠に切れることはない。

「あの場にあなたがいることを予測できなかったのは、反省すべきかもしれませんね」

「あの事故のことね。事故として処理されるはずだった。けれど私がいたからそうはならなかった、とお考えだということかしら」

「いえ、あれはどうみても殺人です。無能な刑事でもそれくらいは気づきます」

「何故日本の警察は無能なのかしら?」

「あなたがトップにいないからでしょう」

「そうね、そうかもしれないわね。続けてください」

「はい」僕は可能な限り彼女の思考をトレースして会話を続ける。やはり積極的に手を離そうと思わないからだ。

「あなたがいたことを知っていれば、もっと楽しませる方法を選択した」

「いえ、充分意外でした。少なくとも私にあの発想はありませんから」

「……ずいぶん謙遜されますね」

「いえ、本音です。流行りの表現をすれば、文系人間ですから」

「……その割にはプログラムになぞって比喩をなさることが多いですね」

「比喩は文系の方が得意でしょう? 国語で習ったわ」

「確かに。僕が馬鹿でした」

「私はトナカイ派だわ」

「そうですか」僕はぷっと吹き出した。素直に面白いジョークだと思った。

「どうして一人の子を狙うの? 性癖?」彼女はクスッと笑った。久々の変化にトクンと心臓が一つ鳴った。

「以前ご説明した通りです」

「まだ女性の方が頭が良くないと思ってらっしゃる?」

「もちろん大差はありませんが、平均をとってみるとそうだと思います。根本的な思考回路が異なるので仕方ないですよね」

「変化なしですね。パターン化してみましたか?」

「いえ、僕は感覚的に物事を捉えて、すべてを抽象化させて考えるタイプなので……。そういった細かい作業は苦手なのです」

「私と異なる部分ね。苦手分野にこそ力を注ぐべきなのに。そうすればあなたの最も得意とする抽象化も洗練されたものになる。一度私の友人が作成したコンパイラを差し上げるからスクリプトを作成してみてはいかがかしら。そして人間が作れるか試してみるといいでしょう。二年程まえになります。ある実験に失敗した私はある決断をしたのです。それは私自身ずっと避け続けていた道でした。禁忌としていました。人間を作り出すのにコンピュータは必要ないとの考えからでした。もちろん今でもそのアプローチではたどり着けないと考えています。計算してどうにかなる課題ではないからです。しかし、一般的に人工知能という言葉で呼ばれている概念に対するアプローチは、決して人間を作る上で不要とはいえないものであるという認識の変化がありました。例えばお腹が空いたとします。食べたいものが浮かんできます。さて、その思考はどういった要素からもたらされるのでしょう。知識、経験、それらを併せて昇華された現象? 人間はそういった細かい要素をいくつも積み上げて思考、そして決定しているのです。分かるかしら。人間を理解するためにコンピュータの助けを借りる。もちろんCPUだけではありません。もっともその近辺の話をするのは尚早ですね。あなたほどの頭脳をもってすれば短い期間でたどり着けると思うわ」

「あなたは……、人間を作るまでに何年かかると思われますか?」

「以前にも言ったはずよ。あなたの中で答えの出ている質問はしないでって」

「すみません。でも僕は人間を作りたいとは思っていません。分からないままにしておいた方が楽しいかなって」

「でも、次で最後にしようとしている」

「……」

「……」

 留美子が唐突に言葉を切った。僕の返事を待っているようだ。でも何も言うことはない。今の感情を説明できないからだ。次で最後。その理由を言語化できないからだ。

「以前私が質問した、動機に関して、今でもお変わりありませんか?」

「もちろんです」

「明日の天気は?」

「分かりません」

「明日あなたは何をして過ごしますか?」

「分かりません」

「私だけが質問していますね。なんだか尋問しているみたい……」

「僕は充分楽しいですよ」

「私は楽しさを求めていません」

 抑揚をつけずに彼女は言う。

「僕とあなたの違いはどこにありますか?」

「さすがね……。でも……結論は変わらないわ。質問への回答は、分からない、でいいかしら?」

 僕は静かに頷く。留美子が僕の想像と同じ答えを出したことに安堵する。まだ離れてはいない。いや、離されることはないのだから、そんな懸念は無駄なのだが。どうしてか不安になる。自分が分裂しそうな……。

――分裂

 あの時の僕を、久しぶりに思い出す。

 水晶を見ていた。いやあれは留美子の目。感覚だけ。五感だけが思い出される。それ以外はすべて外部へ。放たれてしまった。

「……次で最後にします」

「そう」

「あなたにとってこれまでの僕はどういった存在でしたか?」

 今度は僕が質問をする番。さすがに彼女に支配されたままではプライドが保たない。

「失敗。それだけよ。失礼な言い方だなんて、野暮なことは言わないでね。無駄な言葉を挟む必要は我々にはないでしょう」

 僕は念のため再考する。怒りの感情は少しも湧き上がってこなかった。身体は正常なままだ。僕は失敗をしすぎている、と留美子は言った。そして、これまで彼女が間違ったことを言ったことは皆無だ。ならば僕が間違っている道理となる。

 それは違う。僕は最も僕を理解している。

 試しているのか……? 留美子への忠誠心を……?

 彼女から離れることはできないから、僕から離れていくことを望んでいる……? そう仕向けている……?

 それにしても僕の失敗とは何だろう。

 岬結良の殺害……。完璧だった。誰にも見つからなかった。

 いや違う。何かが抜け落ちている。僕の中からすっぽりと消えてしまっている。なぜだ。無い。何も無い。何も、見えない。後からダビングされたわけではない。その部分だけが削除されている。その部分……その部分とは……何だ……? そこに僕の失敗がある……?

 四十万胡桃の殺害……。近くに留美子がいた。僕はその事実を知らなかった。けれど、知らなかったことが失敗か……? 自分で言ったように反省はすべき事象だ。ただ反省時間は、銃声が鳴ってから届くまでの時間よりも短くていい。もちろん、西部劇を対象とした場合だ。ほんの些末な問題だ。そこまで時間はかけられない。

 手原めぐみの殺害……。岬結良よりも完璧だった。問題点なんて一つもない……。しいて挙げるなら彼女と初めて話した日……。あの尾行に落ち度があったのか……。いや、ない。それにあったとしても、彼女は一人。僕に関わる情報を伝える相手はいない……。

 首筋を撫でるように冷たい汗が流れる。

 この家では電気はおろか、水道すら使えない。だからエアコンはつけていない。それでも彼女は汗一つかいていなかった。代謝が良くないのかもしれない。ずっと部屋にこもっているのか。いや、それはない。日焼けした肌が答えだ。

「喉が渇きましたね。何か飲まれますか?」

「あなた自身の欲望を満たすために私への確認は不要です。いただきます」

 前半の憎まれ口さえなければシンプルな返答なのに、と思ったが当然口には出さず、テーブルの下に置かれたクーラーボックスから淡々とペットボトルを取り出す。

「お口に合うか判りかねますが……」

 僕はそう言って、美味しい水とラベルが貼られたペットボトルを留美子に差し出す。彼女はそれを受け取ると、優雅な動きで蓋に手をかけた。

「一つ懐かしい話を思い出しました」と言って僕の方を見る。僕は彼女から質問以外の話題提供を受けた記憶があまりなかったので、ちょっとしたサプライズだった。しかし彼女は先を続けない。僕は思わず「どうぞ」と掌を上にして促す。

「思い出した、という報告をしただけですわ」左手を口元に添え、クスクス笑う。

「そこまで気になるのなら概要だけ。私が高校生の時の話です。私が所属していた運動部はとあるクラスの配属率が高かったのですが、そのクラスに一人の太った男の子がいたのです。その子はかなりのいじられっ子で、本人もそれを楽しんでいた節があったのです。確か昼休みに私がそのクラスにいた仲の良い友達と喋りに行ったときに聞こえてきた会話が興味深くて何故か耳に残りました。その男の子に対して、いつも彼をいじっていた男子が『お前の前世はペットボトルの蓋か』って言ったのですね。私なんだかおかしくって。そのような発想ができる人間がいるとは思わなかった。あれは衝撃でした」

 僕は上の空で話を流していた。どうしても彼女が高校に通っていたという事実が受け入れられない。風体は現在もまだ高校生であると言われても納得できるのだが、その環境で同級生と並ぶ彼女は、確実に僕の脳内には存在しない。

「どうなさったの?」

 だから彼女の柔らかな問いかけにも、一瞬回答に窮してしまった。

「月並みですが、あなたの学生服姿を想像できなくて」

「……ベトナム人にでも見えるかしら?」

「いえ」

 僕は肌の色からは、という台詞を飲み込む。改めて見てもよく日に当たっているのだろう、小麦色の健康的な肌だ。しかし全く肌荒れは見られない。これまで何百回として彼女に問いかけようとした疑問がまた湧いてくる。蜷川留美子は何歳なのだろう。年齢など彼女にとって無意味だとは思う。年齢を重ねることは切れ味を失うこと。しかし彼女は全く失っていない。最大値をキープしたままであり続けている。その秘訣はどこにあるのだろう。

「そうか、私が失敗したのね」彼女は口だけを動かす。声帯を動かしたのか定かでないくらい空気が振動しない。

「……どうしたんですか、急に」

「ようやく繋がりました。仕掛けの多い知恵の輪みたいだったわ」

「…………」僕は言葉を挟めない。

「あの時私が成功という言葉を口にしたことを覚えていらっしゃるかしら?」

 僕はあの時はいつのことだろうかと考える。

 ……まただ……。また、消えている。消去された。穿たれた空間。

「そう、これが失敗の証」

 留美子はどこかさっぱりした、力の抜けた表情をしていた。とても残念そうな目。僕はどこかでその目を見たことがある。留美子はなおも口だけを動かし続ける。

「人間は、知れば知る程深みにはまっていく生き物ね。分かったと思ったら分からなくなる。手が届いたと思ったら、全然届いていない。そこが面白いのね」

 僕は呼吸を荒くする。何故だ。どうして消えていく……?

 何が消えたのだ、僕の中から。

 眼前のテーブルに置かれたペットボトルの蓋を必要以上の力でひねり、喉に液体を流し込む。微小ではあるが、生命活動が安定する。

「……次に僕は、彼女を殺す」

「やめた方がいいわ」

 留美子は即座に忠告する。僕がその言葉を発するのを待っていたかのように。

「あなたは失敗しすぎている」

 またその言葉か。僕の中に怒りの感情が沸き起こるのが自覚できた。こんなことは初めてだった。

「僕はまた一人の子を選びました。失敗するはずなんてない!」

 思わず語尾が強くなってしまう。自分をコントロールすることができない。

「……ヘロインはまだお好き?」

「ヒロイン? 何の話ですか?」

 思考ができない。思案もできない。

「制御できないのに、クスリを嗜んじゃいけないわ。ヘロインが麻薬? 違法? 私は違うと思うわ。そんなものは幻想であり怠慢。人はコントロールができないと判断を下したものには塞ぐ傾向があるわよね。対峙しない。直接向き合おうとしない。どうしてヘロインを吸引してはいけないの? そうね、あなたのような人がいるからなのね」

「こうして昇ることの何がいけないのですか?」

 視界がぼやける。留美子が留美子でなくなる

「……私には救うことができなかったのね。また一から」

 ぼやけた彼女の声だけが僕の中で反響する。繰り返し繰り返し、渦を巻いて駆け上がっていく。そうして螺旋はいつの間にか手の届かないところへ……。

 留美子は質問する。

「あなたは誰?」

「僕は――」

「違うわ、外川靖也よ」

 いきなり知らない名前を告げられて、僕はどうしたらいいのか分からなかった。

「いや、僕の名前は――」

 中空に手を伸ばす。何も触れるものはない。鳥が飛んでいるように思えたのに。鳥を掴んで彼女にあげたら、正しい名前だと認めてもらえると思ったのに。

「何度も失敗という意味が分かったでしょう。……いや、もう何も届かない。届けることに意味がないのね」

 低い吐息を彼女は吐いた。口から冷気の塊が僕に猛然と向かってくる。このままでは凍り付いてしまう。僕は椅子から立ち上がり、床に倒れ込んだ。冷気が向かった先にはシンクがある。一瞬だった。全て冬に変わってしまった。ここは外なのか。

 目を剥いて精一杯僕は叫ぶ。

「僕の! 名前は! ――」

「名前は……そうよ。そう、名前なんて……ただのまやかし。シナプスが繋がる補助でしかない。本質はそこにはありません。……ああ、またやってしまいました。何か言葉にする意味は、既に失われているのでした」

 崩壊――

 僕の内部が、壊れていく。外側から削り取られるように。

 外側が剥がれていく。卵の殻のように、無造作にひび割れて、乾ききった干ばつ地域のように水気がない肌が、ボロボロと崩れ落ちていく。

 それでも内臓は保たれている。人間としての姿は、失われることなく。

 そして――

 宇宙の果て。

 僕は、そこにいく。

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