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私はずっと彼だと決めていた。
物心がついた時からだろうか。それとも、本当は死んでなんかいなくて、自分が生きている、まだ血が通っているという認識ができた瞬間だろうか。
いつ、なんて思い出せない。
でも私は、ちんけな言葉でいうならば運命と呼ばれるものに抗おうなどと思わなかった。
理由なんてない。それは、決めていることだから。
優しくされたとか、助けてくれたとか、一緒にいて楽しいとか、落ち着くだとか、笑顔が素敵だとか、愛されていると感じるだとか、そういったことは一切ない。この気持ちを言葉で表現できるほど、豊かな語彙を持ち合わせていない。
ただ、その決意が揺らぐ出来事がここ数日で起こっていた。まるで私じゃないように、表面にいる私が内なる私を隠すように躍動した。
彼が私のために動いてくれていることは、ちゃんと届いていたのに。
けど、救ってくれなかった。私は流れていった。
記憶に残っているのは耳をつんざく轟音と、ちぎれた腕。それと、私を見つめる水晶のような目。
病院で目覚めた時、怖い夢を見たなと思ったことを今も覚えている。
でも病院での記憶はそれだけで、後は伝聞のみの情報しかない。
両親が電車に飛び込み自殺を図ったのは、私が三歳になったばかりの頃だった。遺書や置き書きは無かった為、理由は明確にならなかった。事故ではなく自殺として処理されたのは、父親と私を抱く母親が、通過する特急列車に向かって走っていったと、プラットホームにいた人たちや、運転士が証言したからである。
バブルが崩壊という言葉は当時使われていなかったが、経済成長がマイナス方向に転じて数年経過した頃だったので、不動産関連のトラブルか何かが生じたのかなと、私は勘ぐっていた。でもそれを調べることは許されなかった。
親戚含めて裕福な家庭と呼ばれる家がまったくといっていい程無かったが、唯一母方の父親のいとこ家族だけが、私を引き取ると手を挙げてくれた。
当然幼い私に決定権などあるはずなく、否応なしにその決定は可決された。否応なしといってしまえば、ネガティブに捉えれかねないが、結果的にみればこの決定は私にとって良いものだったと断言できる。
母の父のいとこという、何か特別な敬称があるのか分からない遠さであったからこそ、気を遣うこともなく、すんなりと日常を再開できたのも大きかった。
何より、そのいとこ夫妻は共に定年を迎え、後は余生をどう過ごすかという境遇にあり、それに加え孫はおろか子供もいなかったという状況が、私に愛情を注ぐという点で、足かせにならなかったと考えられる。
しかし、私というイレギュラーを想定してお金を貯めていたわけはないことは確かだった。父母にかけられた保険や、わずかながらの遺産は私に引き継がれていたので、あまり問題にはならなかったが、それだけで私をせめて義務教育を終える十五歳まで保証できるだけの蓄えにはならないこともまた、事実だった。
だがそれよりも二人が危惧したのは、私の精神的ダメージを慮っていた。もちろんそれは二人だけではなく、関係者が皆憂慮したことだった。
私は自殺から一ヶ月ばかり入院していたらしい。一家心中を目論んでいただろうと聞いてはいるが、私はそうでなかったように考えている。母が私を守ろうとしたのだろう、と。それは無意識だったかもしれない。当初は三人で死のうと考えていたのかもしれない。けれど、本当に私をも死なすつもりなら、電車に飛び込むのではなく、どこか橋の上から飛び降りるだとか、縛り付けた状態で車内で練炭を焚くだとか様々な方法があるだろう。それに、電車に飛び込んで三人が死に至ると踏んでいたとしても、私を車体の前に放り出さなければ命を落とすとは限らない。
これまで事故の当事者に会うことはできていないが、もし運転士に会えたなら是非聞いてみたい。母は私を抱きかかえて守るようにしていなかったか、と。
どうあっても両親が生き返ることはないし、苦しさが募るだけの結果となるだろう。それでも私は真相が知りたいのだ。私は「生き残った存在」なのか「生かされた存在」なのかを見極めたいのだ。
その気持ちは年々減少している。中学の時がピークだった。
精神的なダメージという意味では、その時期に強く働いたということになる。かなり遅効性があったのだ。今となっては自分の中で笑い話になっているが、当時はそのような気持ちを全く持てなかった。
私は事故による後遺症もほとんどないまま、一年、二年と新たな両親と過ごした。年齢的にはありえないのだが、養子縁組という形で私を受け入れてくれた。もっとも年齢はあまり関係ないらしい。
だが、私が小学校に上がる寸前、養父が入院した。末期の胃癌だった。
養母が車で五分くらいにある市民病院で養父の看病をしている間、私は近所に住む彼とよく遊んだ。幼稚園で出会った彼は今とは見違えるほどのおしゃべりな人だった。よく彼の家でままごとをして遊んだものだ。彼の母も介入してきて、ままごとなのに、本物のママが出てきちゃ駄目よねなどと笑っていた。ごく稀に彼の家で夕飯を食べたことがあった。ほとんどが冷凍食品だったが、中には手作りの唐揚げや、ゆで卵といった簡易的な料理もあった。もっとも後から彼に聞いた話によれば、そういった簡素なおかずにもかなり時間をかけているらしかったが。味はあまり覚えていない。そもそも私は食に関するこだわりが今に至るまでまったくないのだから仕方がない。
養父の容態は日に日に悪くなっているようだった。それは養母の表情からも明らかだった。ふっくらとトマトが詰まっているのかと思えた頬も痩せこけた灰色になり、目は落ちくぼんでさえいた。私との会話もどんどん少なくなった。
そんな状態だから、勉強机やランドセルといった入学にあたって必要な備品は全て、彼の母と買いに行った。入学式にも不参加だった。養母は私に「ごめんね」と謝ってきたが、やつれていく彼女を見て居たたまれない気持ちになったことを覚えている。
夏を待たずに養父は亡くなった。
お通夜もお葬式も梅雨空で、かなり蒸し暑かった。
そしてその葬式の夜、養母も病気に侵されていることを知った。
痩せているのは、心労だけではなく、もっと言えば、病院に通っていたのは養父だけのためではなかったということである。
私はその夜、枕をぐしゃぐしゃにして泣いた。いつも隣に布団を敷いて眠っている養母までもいなくなったら、どう生きていけばいいのだろう、と本気で泣いた。そしてこの時、本当の両親がいなくなった時のことを初めて本気で思い出そうとした。
しかしそれも、現両親がいなくなった時を想像するパワーよりも遙かに劣った。嫌な記憶だからだろう、大部分が抹消されていた。止めどなく涙は溢れた。養母がずっと背中をさすってくれていたけれど、その日は結局一睡もできなかった。
翌日、私は初めて学校を休んだ。勉強とはいっても、まだまだ幼稚園の延長であるという意識が強く、授業から遅れてしまうという意識はなかった。
養母は朝から当時好きだった、かぼちゃの煮物をつくってくれた。周りが「好きな食べ物は?」という質問に「ブドウ」「ハンバーグ」「唐揚げ」「卵焼き」という子供らしい答えを寄こしている中、私だけ婆くさい答えをしてしまったと、顔を赤めた想い出がある。
そして養母は一緒につくりましょう、と私を誘い、初めて本格的に料理をした。
「変な味~」と私は苦笑したが「初めてにしては上出来やん」と褒めてくれた。
後から聞いた話だが、養母はこのとき、余命半年と宣告されていたらしい。それでも養父が亡くなってから一切弱音を吐くことなく、一人で病院に行き、一人で診察を受け、一人で帰ってきていた。
「健康は脚から」と、これまで車移動だったのを徒歩に変えるという変化はあったものの、ただ養父がいなくなった事実以外はほぼ変わらず日常が繰り返された。
週に一度の通院を除いては、養母はいつも家にいて裏庭の小さな畑で農作業をしたり、花壇で花の世話をしたりしていた。だから養父が残り少ない人生を病院で過ごしていた頃よりも彼と会う機会は格段に減っていた。一年生の時はクラスも違ったからなおさらだった。
正直私はこの時の気持ちを正確に推し量れていない。
彼ともっと遊びたかったのか、養母ともっと一緒にいたかったのか。答えは出なかった。
余命といわれていた半年、そして一年、二年と経ち、当然ながら私も二年生、三年生へと進級していった。
何も知らされていない私は、ひょっとすると養母の病気なんて冗談なのかな、そうだったら嬉しいけど……という淡い期待を抱いていたのも事実だった。このあたりになると、現両親と私との年齢差というものをどうしても忌むようになっていた。養母は体調面から授業参観はほとんど見合わせていたが、一度だけ来てくれたことがあった。その際にクラスのお調子者だった子が、養母を指差し、誰のおばあちゃんだ? とゲラゲラ笑ったことがあった。養母はそんなこと一切気にしない人間だったので、ニコニコ笑って元気の良い子ね、と話をいなしていたが、私は恥ずかしくて仕方なかった。
養母が生きながらえたのは、そんな神経質ではない楽観的な姿勢があったからではないかと今になっては思う。
それでも緩慢とではあるが、着々と病魔は養母の体を蝕んでいっていた。
六年生になり、自分という存在を客観的に見られるようになりつつあった。思春期が近づいて反抗期という言葉だけを知らされていたものの、そういった兆候はまるでないのが自分でも不思議だった。
いわゆる“はじめて”の時も養母は優しく教えてくれたし、自分の時はどうだった、とか最近はかなり清潔になったとか、昔話をしてくれた。そんな古臭い話を嫌う同年代の子供は多かったが、そういった感情は全くなくて、知識として吸収していった。
しかし、やはり二次成長は止まってくれなかった。養母に対して冷たくしてしまったことがある。忘れもしない、九月の初旬、まだまだ酷く暑い日だった。
秋の運動会で、母親か父親と力を合わせて襷をつないでいく競技があった。親子で協力して大玉を運んだり、子供を乗せた紐付きの台車を親が引っ張ったり、二人三脚だったりをリレー形式でゴールを目指す、という概要である。
担任の先生から「当日突然親を駆り出すのは怒られるので、事前にお父さんかお母さんに知らせてあげてください」という指示がとんだ。絶対うちお父さんとやん、嫌やわ~という残念そうな声や、俺の方がおとんより速いし一人でやりてーわという自信家の声もあり、反応は様々だった。
家に帰って台所でキャベツを千切りにしている養母に、おずおずと伝言した。週に一度の検診以外で養母の病気を意識することはなかったが、やはりためらう自分がいた。養母は
「最近すこぶる体調ええから出ようか」と言った。
私は何故かこの一言で、一気に喉が乾燥してしまうのを感じた。次に話す自分の言葉を、自分がブレーキをかけているように思えた。しかし、喉元を通り過ぎた空気は、しっかりと音を刻んで文字になった。
「いや、ごめん冗談やん。またおばあちゃんって馬鹿にされるで。ほんまに嫌やねんってそういうの」
今振り返ってみると、どうしてそのような言葉をぶつけてしまったのかは説明できない。養母が亡くなっているから、ではない。私が私ではなかったように思う。
養母の顔からサーっと血の気が引いたのが分かった。涙こそ落ちなかったが、気持ちは相当落ちていた。十二年という短い人生では無比なほど哀しい表情だった。
「ああ、そうなの。ごめんなさいね、調子乗っちゃって。ま、運動会なんて小学校で最後なんだからお弁当は手塩にかけて頑張るから」
気丈に話す養母を見て、私は何も言えなかった。でも、風邪を引いていたせいで三日ぶりの風呂に入った時のようにさっぱりしている自分がいることも確かだった。
この時の養母の言葉は、今でも頭にこびりついている。「手塩にかける」の表現をわざと間違えて私に訂正させようという魂胆があったことに、養母が亡くなってから気づいた。どうにか冗談めかしたものにその場をできないかと苦慮して絞り出した言葉だったろう。
ただ、その意に気がつかなかった私はその日、結局一言も会話することなく夕食を終え、一人宿題をし、二人分の布団を敷き、床についた。
同級生の大半が夜は一人で寝ていたが、私はまだ養母と二人で寝ていた。一度自分の部屋で一人で寝ようと試みたが、そんな日に限ってあの事故の夢を見てしまったのだ。事故の夢を見たのは、初めてのことだった。
確かその日は夜明けを待たずに養母の寝ている部屋に自分の布団を持ち込んで、寄り添って二度寝を試みたはずだ。それほど鮮明に、そして今も引き続き記憶として残留しているほどに強い刺激だった。
以来、養母と寝ている時に事故の夢を見ることはなかった。なのに、この日は違った。
空中。強く抱き寄せられる私の身体。
ああ、やっぱり母は私を守ったんだ。第三者の立場からあの飛び込みを見ている――
でも次の瞬間には私は私の中にいた。
そして前と同じ光景。
ちぎれた腕。透き通った目。
場面はそこで静止し、ずっと同じ光景だった。私の目がそれを映していた。
そんな中で、意識は覚醒していく。夢から覚めたのだ。瞼の裏には、ずっとあの光景が張り付いたままだ。まだ鼓動は高まったままだ。
秋口ではあるがまだまだ暑い夜。私は大汗をかいていた。服を着替えようか迷いはしたが、隣で鼻息を立てて寝ている養母を見てやめた。起こしてしまうかもしれないと考えたからだ。養母に何をしているのかと聞かれるのが怖かった。というより、話しかけられるのが面倒だった。
そして私はどうしてあんな夢を見たのか考えた。
目はずっと奥底に潜りたがっていたが、どうしても考えなければいけない問題のように思えたからなんとか意識を保てた。
私にはこれが天罰のようにしか思えなかった。
養母に対して冷酷な態度をとってしまったことへの罰――
こちらの世界に連れて行くぞと、あの目が言っていたとさえ錯覚する。生まれて初めて、死というものを意識した。どうしてだろう。これまで遙かに他人より身近にあったはずなのに、一度も向き合っていなかったのは。
それと同時に、やはり養母への罪悪感が強く芽生えた。
穏やかな寝息が耳に届く。表情を窺い知ることはもし養母が目を覚ましたらという不安が胸を包んでいたので叶わなかったが、私とのやりとりを分厚い殻で覆ってしまっているのだろう。漏れないように、少なくとも私には気がつかれないように。
私は二度とあんなことは言わないと誓った。絶対に、何があっても。
ただ、そういう決意を新たにしたところだからこそ悪いことが起きるのが世の常だ。
翌日(正確には当日だが)の二時間目と三時間目の間にある、中間休みと呼ばれていた休憩時間に、私は校内放送で職員室に呼び出された。
今や名前を忘れてしまった当時の担任と校長先生が、神妙な顔をして直立していた。男の校長だったが、背は大きくなく私の目線の先に顎がくる程度の身長だった。この時は直立しているのに、身長が更に小さくみえた。
「落ち着いて聞いてな。市民病院から電話があって、その、えっと、おばちゃん、倒れたらしいんです」
おばちゃんとちゃう、お養母さんや、という憤りを覚えたり、一番落ち着いてへんのは先生やろ、と思ったりはしたが状況が状況なだけに口には出せなかった。
「えっと……これから先生達と一緒に病院行きませんか?」
私は「はい」とはっきりした声でいった。
病院へ向かう車中、昨日元気だって言ってたのにと、私は心で母を責めた。反面、私があんなことを言ったばっかりに気が病んで彼女の病魔をけしかけてしまったのではないかという風にも思った。考えすぎだろうか。その答えを知る者はもういない、いなくなってしまう。養母がいなくなれば私は一人だ。これからずっと、本当に一人で生活していかなくちゃならない。まだ小学生なのに。
この時当然まだ養母は死んでいないし、今後の生活がずっと一人だと確約されたわけでもなかった。でも近い将来、確実にそれはやってくる。そう考えると悲しかった、そう考えるだけで胸が重苦しくて、息がし辛くなった。けれど涙はこれっぽちも出てこなかった。目は乾ききっていた。私は薄情な人間なのだろうか、とそんな思いを抱いていたことを覚えている。
病室の養母はただただ静かに眠っていた。鼻から手から管が何本も出ていることを除いては、普段家と変わらない寝姿だった。昨夜確認していれば、今と同じ顔があっただろう。
私はその病室での数時間をどのような気持ちで過ごしていたのか、思い出すことはできない。
次に私が覚えているのは、養母の心臓が鼓動をやめた時の、それまでと何ら変わらない養母の表情。それを知り、泣き出す担任と校長。放心したように見つめる私。生まれて初めて耳にする「ご臨終です」の声。本当に言うんだという場違いな感想を抱いた私。感情が消え失せたかのように冷静に周囲の理解に努める私。
「あなたが娘さんですね。診察の時はいつもあなたの話をしてくれてね。とても楽しそうに話すもんだから、一度お目にかかりたかったんです」
そんな担当医の言葉に私はどう返事したか覚えていない。おそらく何もしなかったように思う。その言葉に対して私は何の感想も抱かなかった。虚無だった。
ぼんやりと心に浮かぶのは、疑いそのものだった。それも自分自身の存在意義、存在価値への猜疑心だった。
どうして私は生まれてきたのだろう。何故生きているのだろう。
一度たりとも疑ってこなかったのに、私の持つ全ての概念を一から見直さなければならないという強い思い。どうして世界は回っているの? どうして人は死ぬの? どうして私だけがこんな不幸な目に遭うの?
考えようとしても思考回路はつながらない。
代わりに新たな感情が支配していた。それは贖罪。養父と養母、二人に対する謝りたい気持ち、何かを返さなければいけないという使命感。
私を養子に引き取ったばかりに二人の寿命が縮まったのではないか。本来二人が生きるはずだった時間を、私が奪ってしまったのではないか。とすれば私が今生きている、こんなことを考えている時間は、二人の生きた時間だったはずだ。
だから私は、どんなことがあっても強く生きようと、どんなことがあっても笑っていようと決めたのだ。そうして生きることが、二人が楽しく過ごせたはずの余生を取り戻せる唯一の方法だと思ったから。
しかし、一年を待たずしてその決意が揺らぐ出来事があった。
私は二人がいなくなってから、完全に独り身になった。小学生の一人暮らしなどドラマでも観たことなかったし、不安がなかったといえば嘘になる。しかし、親族は誰も歩み寄ってはくれなかった。だから当然の成り行きだった。
お金は両親の遺産、養父母の遺産があったから少なくとも高校卒業までは生活に苦しむことはなさそうだった。また、そこまで頭が良くないだろうと思われていたからか、養母の大切にしていた栗色の洋服ダンスに「塾代」と書かれたへそくりが入っていた。もちろんそのお金は中学・高校時の「塾代」としてありがたく使わせてもらった。
中学一年の夏休みが終わってから、私はクラスで孤立し始めていた。家事と学業の両立にようやく慣れてきた頃だった。
きっかけは明らかだった。私の通っていた中学は昼は弁当を持参して食べるという規則だった。購買もあれば、学校の近くにコンビニもあったので、必ずしも弁当でなければならないということではなかったが、私はいつも早起きして自分の弁当を作っていった。節約という意味もあるが、今後のためになると判断したからでもある。
毎日栄養を考えてメニューを決めた。多少ではあるが栄養学も本を買って勉強した。
いつも一緒にお弁当を食べていた中に、周囲からの信頼が厚く、クラスでやるイベント事には主導権を握っていた女子がいた。
彼女が「今日は自分で作ってきたの」と皆にお弁当を見せびらかしていたのだ。皆は口々に「すごい」「キレイ」「ほんとにこんなの作れるの?」といった感嘆を漏らしていたのだが、私はまったく評価しなかった。タンパク質と脂質をとりすぎていると思った。ただそれを口に出すと嫌味にしか聞こえないので、当然黙り込んでいた。すると彼女は私に感想を求めてきた。
私は「色とりどりで、めっちゃ美味しそう」と嘘をついた。そんな私に彼女はジトッとした目を向けると、
「絶対嘘や。あんたの弁当それいっつも自分で作ってるんやろ。しかもあたしのと比べて全然美味しそうやん。なんなん、親がいいひんから勝手に身についた能力やのに自分の手柄みたいにして、見せびらかすみたいに。知ってるねんで、あたし。なんで親がいいひんのか。別の小学校やからって知らんわけないやん」
私は返答に窮した。そんなこと言われる筋合いなんてない、と言い返したかった。でもここで何か返せば、今後の体育祭や文化祭でどんな扱いを受けるか、分かったもんじゃない。実際に一学期、彼女に逆らって孤立したクラスメイトがいたことを知っている。そしてそれは、共に弁当を食べている他のメンバーも同じだった。だから、何かを言えば、次に不当な扱いを受けるのは私になる。
「いやでもほんまに美味しそうやったから」私は頑張って笑顔を作り、嘘を重ねる。
その場の嫌な空気は、彼女の取り巻きの一人でもあったミカというムードメーカーの手でなぎ払われ、いつもの昼食時間が展開された。ただそれは、私以外の空間でだけだった。
私はそれまで中学に上がってからは誰にも両親がいないと言わなかったし、むしろいるように振る舞っていた。何となく周囲に合わせた方が良いと思ったからだ。中学に上がった瞬間に、苗字が変わる子もいたのだが、私を含めて明らかに周囲は気を遣っていた。そうされるのが嫌だったから、というのもある。
だから、私の家庭環境が明るみに出たところで、同情が集まるものだと思っていた。しかしその認識は違った。
どのように伝わったのか分からないが、私の周囲でどんどん人が死んでいくという情報だけが一人歩きしたようだった。あの子に近づくと呪われるよ、と言うあの彼女のささやき声を聞いたこともある。
でも、私は逃げなかった。寂しかったけど、一人でいた。家に帰ればどうせ一人だ。その延長線にあると思えばいい。孤独が嫌いではないことは生まれ持ったものだと認識しているが、このときほどそれを喜んだことはない。
人によっては一人でいることを「逃げ」と表現するように思う。立ち向かうことを「逃げていない」というのだろう。しかし、それは違う。本当の「逃げ」は、死を選ぶことだ。あるいは、転校したり登校拒否をしたり。その場から「姿を消す」ことが「逃げ」だと考えている。
そういった意味で両親は「逃げ」たのだ。何から逃げたのかは分からないが、私はそうはならないと、誓ったのだ。
ただ、養母が亡くなった際の誓いは消えかけていた。今思うと、笑顔はかなり薄まっていただろう。養母の味付けとは生反対である。
そんな折、わけもなく電車に乗って出かけた。よく養母に連れられた店だ。普段は自転車で近所のスーパーで食材を購入するのだが、無性に懐かしの店に行きたくなったのだと思う。ほとんど無意識で電車に乗っている自分がいた。
駅から店に向かう道中は高架のようになっており、ここまで乗ってきた電車を見下ろせるポイントがあった。私は思い出していた。養母の買い物が長引くと、ここでこうして電車を眺めながら待っていたなあ、と。
そのとき目の端が、停止している人を捉えていた。間違いなく、それは彼だった。
彼が呆然と感情が抜け落ちたように立ちすくんでいたのを見て、初めて私は泣いていることを自覚した。そのような彼の姿を見るのは初めてだったから、何か私に異変があるのは確実だったし、彼の瞳が私の頬を凝視していることからも明らかだった。
私は気恥ずかしい気持ちと、彼に何か言われるのが嫌だったから、シーッと指を立てて沈黙を促してから話し始めた。
誰にも話すつもりはなかったけど、彼に現状の話をすると、胸からつっかえが取れたように身体が軽くなった。喉元に引っかかっていた魚の骨が、気づかないうちに取れて胃に流れ込んでいた感覚に似ていた。それに久しぶりに彼と話したが、ここまで自分をさらけ出せるとは思ってもみなかった。
彼はただただ話を聞いてくれていた。それがどれだけ私を救ってくれたか。ただそれは、何もしないことで私を救ってくれたに過ぎない。もちろん感謝している、けれど彼が自主的に起こす行動ではなかった。
結局彼以外にこの軽いいじめの動勢を話すことはなかったものの、先生達は気づいていたのだろう。中学二年に進級する際に、彼女とはクラスを離れた。そして新しい社会が私の周囲で築かれていった。
高校に進学した時は、中学の教訓から両親がいないことを自己紹介の際に言った。養父母のことは完全に隠した。また呪われているなどと言われたくなかったからだ。
それもあってかいじめなどというものに遭遇することはなかった。というよりも、噂ですらその類いの話を耳にすることはなかった。高校生にもなると、いじめる側が格好悪いという当たり前の考えが意識の上面に浮上していくのだろうと私は思う。だから最初の自己紹介で事実をそのまま言えばよかったかなとちょっとだけ反省した。
高校三年生になり、私は将来のことで大いに悩んだ。将来などと漠然とした先の話よりも、来年からどうするかという直近に迫る巨大な壁に押しつぶされそうになった。
私はずっと大学に行きたいと思っていた。特に何が勉強したいとかはなかった。ただ最も得意なのが日本史だったので、社会学部に入りたいとは思った。社会学部で学校で習う社会の延長を扱わないことを知ったのは、願書を取り寄せる数日前だったのだが。
もちろんバイトをしながら生活することも考えた。どうせ私一人の人生だ。苦しむのも、悩むのも、嫌なことを受け止めるのは全部私。だからどうなろうが私の主観だけで生きていけばいい。高校受験の際にたどり着いた人生哲学的終着点と同じ場所に、この時も到着した。
どうせなら安定している方が良いからやっぱり大学に行こう、と思った。その方が結婚相手も見つけやすいだろう、という甘い考えもあった。
専門学校や短大も考えた。ただ、二年間という短い時間で詰め込んで勉強することが、本当に将来につながるのか疑問だったので、それらは外に追いやられた。
四年制大学と決めたものの、最もネックになるのが金銭だった。四年制大学ともなれば、文系学部では私立で年間七、八十万円ほどの学費がかかる。当然受験料や、入学金は別である。これまで細々と使ってきた両親たちの保険金や貯金も、大学一年分しかない。残りの三年は学費プラス生活費をどこかから捻出したければならない。
誰かに助けを請うことも考えた。ただ同情されるのは嫌だった。どうしてかどんどん一人で生きていくという思いが強くなっていた。
そんな時、彼から奨学金の話を聞いた。調べると両親を事故や自殺で亡くした子供が支援を受けることのできる制度があった。これまでそんな団体があることなど一度も聞かされなかった。私の一人で生きる覚悟が強すぎて、情報を遮断していた節があるのは間違いない。また、遺産が多くあったことも理由の一つといえる。
自分の力で一人で生きていくという強がりが、私をその奨学金制度から遠ざけた。結局私は、貸与で利子付きの制度なら受けられるだろうと計算した。
また父の従兄にあたる人が少し家計に余裕ができてきたのか、私にお金を貸すと申し入れてきた。さすがに贈与はできないが、といわれたものの、これまでお年玉もあげられなかったからと申し訳なさそうに言った。私は失礼な台詞をいくつか思いついたものの口には出さず、ありがたく頂戴することにした。
金銭が最もネックとはいったものの、やはり学力という問題も常にまとわりついた。私は高校受験同様、推薦入試を使わず、センター試験利用の一般入試を受けることに決めていた。身丈よりも大きな高校に入学できたので、授業についていくだけで精一杯だったというのもあり、成績はどちらかといえば悪い方だった。担任の先生との面談でも、推薦といった話は一切出なかった。塾もしかりである。
今振り返ってみると、どうして就職という選択肢を自分の中で設けなかったのかが不思議でならない。進路を相談してきた人は皆、就職を勧めてこなかった。就職すれば学力なんてほとんど関係なかった。だがそれは、会社に勤めたからこそ分かったことなのであって、高校生に理解しろというのは見当違いだ。
私は高校三年生ラスト半年を、文字通り死ぬ気で駆け抜けた。東奔西走というよりかは、ただ真っ直ぐ、レールの上をがむしゃらに。おそらくあれだけ勉強することはないだろう。そして、もう戻りたくはない。
そんな苦労をしたのに、結局一校しか受からなかったので、その大学に通うことは決定的だった。また、そんな苦労をしたのに、大学ではほとんど勉強というものをした記憶がない。。ただキャンパスライフという聞こえの良い青春を、ほとんどバイトに費やしつつ往来したというに過ぎなかった。
そう思うと、本当に大学に行くべきだったのか、就職してからも何度か考えたものの、周囲でも同様の感想を持つ人がほとんどだったので、それなら良いかと、思考を止めた。過ぎたことだから仕方ない、来世があれば別だが、といった風に。
ただ、一時は掛け持ちすらしたバイトの経験は、確実に社会人としての私に活かされていた。どれも長続きしたとはいえなかったが、その分多くの人間を知れたことが、人生という流動的な概念にとって心を大きくさせてくれた。簡単な言葉で表現すると、大したことでイライラしなくなった。元々そういったことは少なかったのだが、仕事をしている際に、ああ、以前の私だったら我慢できなかっただろうなと思うことも多々あったから大いに貢献したといえる。
五年間働いて、私は社会人一歩目として働くことに決めた会社を辞めた。上司や同僚にはさほど驚かれなかった。遅かれ早かれこうなることを見透かされていたのかもしれない。そりゃそうだ。学生の頃のバイトはどれも一年経たずして辞めている。実際自己分析をした際にも、かなり飽きっぽい性格、という風に出ていた。
しかし仕事を辞めたことには明確な理由がある。
休日が少ない、残業が多い、自分の時間が取れない。そういったことは要素、すなわち欠片でしかない。それぞれが形を成して集合し、一枚の絵として現れる時、大きなパワーとなって私を後押ししていたのだ。
私は仕事が辛くて自殺した、というニュースを読むたびに押される方向が異なればそちらに転んでいた可能性はあるな、という感情に支配された。ひょっとすると自殺した人は周囲は既に全て崖になっていて、逃げ場がなかったのかもしれない。ただ、足場を形成するのも結局は自分なのだ。
私の背中を強く押した力。それは、将来への不安だった。漠然としたものではなく、具体的な形になっていた。
大学時代の友人達が、次々に結婚していったのがそれだ。いや、それだけではない。結婚式にも呼ばれたし、メールやLINEでのやりとりは継続していた。しかし、結婚式には行けなかったのだ。会社が許さなかった。
普通の人なら立腹し、その場で辞めることを決意するかもしれないけれど、私は違った。「ちゃんと残業した分だけお金貰ってるでしょう」という上司の言葉に納得してしまった。これはある意味、怒りという感情が消えた弊害だったと認識している。
広く、そしてそこそこ深めに人付き合いをしていたから、年に七、八回は式を断らなければならなかった。着々と一つ一つ、欠片は揃いはじめていた。
そして、久しぶりに彼らと会う機会が訪れた。一年の大半を東京で過ごしてきた私にとって、関西の空気は懐かしかった。けれど、彼らは大きく変わっていた。一番変わっていないのは私だった。
仕事だとか、環境に起因する部分もあるだろうが、そんなもののせいにしたくなかった。ただ、強く、私はこのままでいいのだろうか、という感情が強まった。黒くてドロドロしていた。その色に浸食されていく自分を自覚した。
次の瞬間には私はもう、私ではなかった。
気づけば、彼の前に立っていた。
皆が皆、別の理由とはいえ仕事を辞めたというのはかなりおかしかった。奇跡だとは思うが、皆が皆を引き寄せたように思う。きっかけは、紛れもなくあの事件だろう。
私と似た境遇の人達が殺されている事実がある。私が気づかなくても、彼なら必ずたどり付けただろう。もちろん彼は、私の歴史を知っている。
君に出会ったのはそんな時だった。
探偵として生きていくのか、本当にやっていけるのか、夜眠れなくなるほど不安だった。いつの間にか君が私の目の前にいた。文字通り、目の前にいた。
警戒心がはたらいてもおかしくない状況だったと思う。でも私は疑うことはなかった。これまで多くの人と関わってきたからこそ作用する勘が告げていたからだ。
彼とずっと生きていくと決めたはずの私が揺らぐ。
初めてみる存在。初めて触れる思考。
彼は一連の事件に躍起になっていた。犯人をこの手で捕まえたいという気持ちが空回りしているように私には映った。けれどもちろん何も言えなかった。私のためだということがひしひしと伝わってきたから。
君には、話せない。君はおそらく妬みの感情を持ち合わせていないように見受けられる。でも万が一ということもある。それに君は望まないだろうし。
私にとって、初めての旅行。皆に内緒で。
こんなに解放されたのは初めてだった。ただただずっと、君と話していた。もしかすると私だけが声を出していたのかもしれない。いや、そんなはずはない。君の声もちゃんと記憶に残っている。間違いなく対話をしていた。
でも――
でも、私は君を疑っている。
そして、真実を知りたがっている。
いつかの記憶が抜け落ちている。そこに答えがある。忘れるなんて可愛らしいものではない。意図的にぽっかりと、明確な意思を持って穿たれた穴。せっせと埋められた小さな穴。
君との想い出は確かに残ってる。熊のキーホルダーを選んでくれたのは君だったから。
だから。
だから本当のことを教えて、
外村君。




