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「何故か最初に会った記憶は消えてた。不思議としか言いようがない。彼は何か催眠術を持っているのかもしれへん」
唐突に円香が話し始める。
虎次郎の頭はまた混乱する。今度は混ぜられていたはずの絵の具がすべてバケツにぶちまけられ、原型が何かすらつかめないような錯覚だった。
思わず若田部を見やる。表情に変化はない。
その変化のなさにも虎次郎は驚いた。
若田部は確かに言った。円香は目を覚ませば自殺に向かう、と。
そして、既に岬結良や手原めぐみで実験済だと。だから自殺を止めることはできない、と。
しかし彼女は自分の意思で言葉を選択し、声に出している。
さっぱり分からない。
彼女だけが冴えている。いや、若田部も冴えているのか。いつも冷静な寿至ですら口を歪ませて眉間に皺を寄せている。浦谷も呆然という格好だ。水雲はどうもにやけているようにしか見えない目元だが、彼の平常はこうだったかもしれない。虎次郎の中でぱっと彼の普段の姿を思い出すことができなかった。周りの刑事の反応はまちまちだった。フリーズする者、水雲の指示を仰ごうと彼から目を離さない者、口に手を当てて何が起きているのかを目を閉じて考える者。三番目の反応は刑事としてどうなのか、と思ったが、理解できない状況に陥った瞬間の人間の行動などいまだ解明されていないのだから仕方がない。自分でコントロールできないことを他人に強要するのも何か違うような気がする。
円香はポツポツと押し出すように言葉を並べる。水中から顔を上げた魚が酸素を欲しているかのような口の動きだった。
「そんで次に会ったとき、私は初めて会ったと錯覚してたんやけど、彼は外村靖也って名乗った。外川靖也じゃなくて、外村靖也」
虎次郎にとっては初耳の情報だったが、多少想像していたのですんなりと頭に染みこんだ。
そして、持っていた疑念から一つの大きな確信が生まれようとしていた。
若田部恭介は多重人格者なのではないか。
多重人格者の大半は、ギャップによって見分けがつくものだ。つまり、一人の人間の中に複数の人格があるわけだが、それらには大きな隔たりがある。若田部の場合、その隔たりが限りなく薄いために我々は気付くことができなかったのではないか。
ただ、その程度のギャップでは人格といえないようにも思える。
誰しもが様々な矛盾を抱えて生きている。一両日中、酷いときには当日中でも意見や考えが変わることはある。それは過ちではなく、人間の不安定さに起因するものだ。したがって自明であるともいえる。
いちいち意見が変わったからという理由だけで、別人格が現れたと言っていては限りがない。
しかし若田部は、どうも一個体が一知能によって動かされているとは信じがたい。どこかで別人格が第三者の目として我々を監視しているかのような。
「外村靖也ってのは間違いなく彼の偽名。今時というか昔もそうやったか知らんけど、名前を名乗られてほんまかな? なんて疑うわけないし。私は外村君やと信じてた。……でも今目を覚まして彼を見たら……全然違う人やって……」
「違う人?」虎次郎含め、複数人が同タイミングで同じ言葉を口にした。
「うん、何て言ったらいいんやろ。人相がちゃうというのかな……」
円香は口元に手をやり考え込む姿勢を取った。
「とにかくその瞬間に分かった。ああ、私が会ってたのは、外村靖也君やったって。外川靖也君とはちょっと違うかなあ」
「あー、その、申し訳ないのだが、整理してから話してくれないか」
皆が思っていたことを寿至が代弁した。
だがこの状況でそれも酷だろうと思った。誰もが彼女を見上げている。しかも彼女の目の前にはがっちり結ばれたロープがあるのだ。すぐに自殺しなさいと言われているような感覚。そんな雑念が彼女を支配しませんようにとこちらからは願うしかない。
しかし、そんなものお構いなしという風に彼女は高いところから演説を続ける。
「正確に彼と初めて会ったのは、三条で起きた事故の時。彼は若田部恭介と名乗った。そしてその時の顔は、今とおんなじ顔」そう言いながら円香は若田部の顔を指差す。彼は何か言い返そうとしたのか口を薄く開いたが、それだけだった。
「次に会ったときは外村靖也って名乗ったねんけど、今の顔とは全然違う。もっと幼くって眉間にも皺無くて、高校生に見えた。実際に目を覚ますまでずっと彼はその顔やと思ってた。ここに連れてこられた時、……っていうか一緒に来たんやけど、彼と喋ってるうちに、何かが歪んできた。多分私、洗脳されてたんやと思う。若田部恭介という人間を忘れるようにかなんかで」
にわかに信じがたい言葉が円香からビュンビュン飛んでくる。一体どれくらいの人が今の言葉をそのまま飲み込んで、消化できるだろうか。
「だから彼の中には別人格なんてない。彼自身が、若田部恭介であり、外川靖也であり、外村靖也やねん。ただ、殺されていった子。岬さんにとっての彼は、外川靖也やったし、めぐみさんにとっても外川靖也やった。胡桃さんにとってはどうかわからへんけど……、あのマキちゃん、長戸先生を殺した人にとっては多分外川靖也やったんとちゃうかな」
ここからは想像だけど、と前置きして円香は続ける。
「私にとっての彼が、もしも外川靖也やったら今ここに生きて立ってへんと思う。この輪っかに首を通して自殺って形に持っていかれてたはず。でもそうなってへんのは、彼の洗脳が解けたからやと思う。彼自身、何かに洗脳されてたんと違うかな」
フルスロットルで脳みそを回転させた成果だろうか、彼女にようやく追いついた。
要するに若田部自身は多重人格者ではなく、彼の認識する側がどのように捉えたかの違いに起因する犯罪が立て続けに起こったため、また、彼自身が持つ何かしらの(彼女は洗脳という言葉を使ったが)力が衰えたことにより、この犯罪が明るみに出たということだ。
なんとか自分を納得させる回答が揃った瞬間、彼は身震いしていた。
まだ事件は全て終わっていないのではないか――
そんな疑念がパッキンの壊れた蛇口からポツポツ落ちる水滴のように、虎次郎の頭に溜まっていった。しかし、必死で首を振って払い落とす。
今は優先順位としては低い。
「じゃあその……この家の周りをうろついてた高校生とか、高校生探偵とかも全部若田部さんやったってことっすか?」浦谷がいつものように軽い口調で質問する。
「あ、はじめましてですね。たぶんそうやと思います。外川……の方かな」
浦谷は苦笑した。まったく初対面ではなかったからだ。しかし前回長戸家で会った際には円香の頭は大量の渦がハイスピードで回転していたはずだから。と考えて彼女の矛盾点に気付く。
「一ついい?」
「うん」
「さっき若田部の正体に気がついたのは、目が覚めてからって言ったやんな? じゃあこの前の長戸殺害現場で会ったときは認識してなかったってこと?」
短く口をつぐむ彼女。
「……いや、あのときはなんで外村君がいるんやろうって思ってた。奏がなんで若田部さんって呼んでるんやろうって不思議やった」
「あ、そういうこと」
虎次郎は頷いてみせ、先を促す。
「だから今、外面的に若田部さんの姿をしてる彼が、外村靖也でもあり、そして、外村靖也でもあったってこと」
円香は一言で状況を説明してみせた。これには寿至も満足したことだろう。高いところからものを言うのに相応しい説得力もおまけでついてきていたのだから。
ふと若田部の表情を窺う。いつも知る若田部だった。
百戦錬磨の目、若々しい肌、深々と入った眉間の皺。
誰の姿をも借りていない。彼が別の姿になるなどとはそう易々と受け入れられてはいないが、唯一解のような気はしていた。
若田部が直立したまま腕を組んだ。
これまでに無かった挙動に一気に虎次郎の脳は臨戦態勢を取れという命令を下した。それは長きにわたって県を支えてきている刑事に伝播した。いや、もしかすると刑事達の方が先だったかもしれない。
若田部がどのような動きをするのか、まったく予想はできなかった。だが、どのような動きがあったところで、正確に対応しなければ犠牲者が出るかもしれないという予感はあった。
水雲が大きく息を吐く音がこだました。
その音を待っていたかのように若田部が組んでいた腕を解いた。右手に拳銃が握られている。円香が息をのむ音が聞こえた。しかし、こちら側が示した反応らしき反応はその程度だった。さすがは警察、心の動きを隠す術を心得ている。
「どこから出したのか質問してほしかったけどなあ」
「変な冗談やめてくださいよ、今から何しようっていうんですか」
さすがに頬を引きつらせながら浦谷が訊く。
「もちろん私は誰も殺そうなんて思ってませんよ」
浦谷に向けてではなく、ここにいる皆に向けて発せられた言葉だった。
「じゃあ今から何をされるおつもりですか?」
虎次郎は二人のやりとりを黙って聞きながら、若田部の輪郭にすべてを集中させていた。どことなくぼんやりと、全体像を掴むように焦点を合わせる。刑事として働いた短い期間ではこのような場面は訪れなかった。しかし、自分もあの刑事のようになりたい気持ち一心で取り組んだ研修では、何度も経験していた。
同期の中には自分たちが現場に出ることはほとんどないのだからとろくに練習しない者もいた。虎次郎はその同期に苛立ったとか、真面目にやれよという感情は一切抱かなかった。彼等の意見も間違ってはいないと思っていたからだ。
まさか本当にこんな場面が来るとは……と彼の一部は緊張していた。それでも練習通りに視点を合わせられたことからくる安心感も持っていた。
若田部は浦谷の質問に答えていなかった。長い沈黙が続いている。
確かに彼の意図はまったく掴めない。
よくいる犯罪者であれば、パニックを起こして自分に銃口を向けたり、来るな来るなと言葉を震わせながら後ずさりしたりして、捕まる時期を早める傾向にある。割と先を予想しやすい。
だが若田部は違う。おそらく国家一種試験史上最高得点で警察庁に入庁した男である。そう、警察庁なのだ。普通その頭脳はもっと別の、例えば公安に引き抜かれるだとか、裏社会への対応をすべき頭脳を持っているのだ。
人格のトレースが犯人逮捕に最も近い方法だと考えている虎次郎ではあるが、どうしても若田部に対してはそれができなかった。
「人間を取り戻したいだけやな」
「……誰のことですか?」
「さあ、それを調べるのが仕事やろ」
「では質問を変えましょう。このままおとなしく捕まるとはお考えにならないのですか?」
その瞬間だった。若田部の左手が動いた。
虎次郎の目にはスローモーションのように、いや、VHSビデオのコマ送りのように一つ一つの動きに残像を重ねながら円香の立つ脚立の足元へと伸びていくのが分かった。
だが、そこまでだった。認識はできても身体が動かない。観察力にステータスを全て振ってしまったような気分だった。もどかしい気持ちと裏腹に足に脳から指令が動けと与えられたとき、既に若田部の左手は脚立に到着していた。
無機質な鉄が無慈悲に引き倒される。
円香が自らを殺さんばかりにかけられたロープに両手をかけてぶら下がる。
若田部が円香を見上げる。
円香はそのままブランコの要領で自ら反動をつけて、前に飛ぶ。
一瞬、夕陽が強く部屋に差し込んみ、虎次郎の位置からはシルエットしか見えなくなった。光に照らされた影がこちらに向かい大きくなってくる。
ああ、そういえば彼女は逆上がりが上手だったな、などと無関係の情報をかき消す。
再び夕陽が緩くなり、彼女が近づいているのがはっきりと分かった。時の流れはコマ送りのままだ。
円香のブラウスに妙な捻りが加えられたのは、虎次郎の感覚で五コマ動いたときだった。畳まで足先が二十センチというところで、彼女の首が反転をはじめる。
継続して向かってきていた彼女の身体が停止した。ブラウスが何かに引っかかっている。
若田部の左手が原因であることは、円香の首がそれを捉えようとしていることから気付いた。ふわりと彼女が後ろに倒される。これまで接近を伝えていた、風や匂いが瞬時に遠のいていった。
「どうもうまくいかんなあ……、そうかこれが、失敗か」
「痛い!」
若田部の凶器ともいえる両手が彼女の手を背中で組み伏せた。銀行強盗が人質をとった時のような二人の体勢。ただ右手に握られた拳銃は一切放されることはなかった。これは銀行強盗にはできない芸当だ。安全スイッチが外される音がした。円香の首元に突きつけられる。
どこか若田部にはだらけた感じが見受けられた。筋肉が弛緩しているようにみえる。ただそれは、瞬発力を発揮するには絶好の状態のようにも思えた。
ここでようやく虎次郎の中で続いていたコマ送りが、通常再生に戻った。全身に血液が巡る、奇妙な感覚があった。
「私はね、人の命なんかには興味ないねん」
さらりと若田部は言ってのける。
「ただ」喉の何かつっかえていたのか、一つ咳き込んで続ける。
「ただ、誰からも愛されへんかったような人間が最後に希望を抱いて死ぬのが観たいだけや。まあ、このシーンはだいぶ違うけどな」
狂っている。その言葉をすんでのところで飲み込んだ。
言葉に出すことに意味は無い。それに若田部を理解するのは不可能だと分かっている。問題は、思考トレースの最も難しい相手がこれから起こす行動をどのようにして止めるのかということだ。
行ったら戻ってこれない、一度しか踏めない足場を連続で超えていく恐怖。
いたずらに時間を消費してしまえば、足場自体も消失する。
前進しか許されない。それでいて、決断を下す時間は限りなく短い。
「若田部さん……で良いんですよね?」
「そうやね、若田部恭介。それが私の名前です」
一つ安心した。それならば、賭けに出ても良いのかもしれない。ただそれは決まったわけではない。今の若田部の回答はいくらでも逃げ道がある。いや、どうとでも解釈できると言うべきだろうか。
だが待ってはいられなかった。現状を少しでも良くできそうなら何でもしたかった。
「奏さん、落ち着きましょうか」
言葉通り、浦谷はかなり冷静な思考を取り戻したようだった。否、元々そんなに慌ててもいなかったか。
しかし、今の言葉が虎次郎の一気に賭けに出るという足に釘を刺したことは言うまでもない。踏みとどまったといえるか、まだ評価はできない。
「奏君。正解やで」
水雲も全て見抜いていた。
「動くきっかけを見失ったらあかん。これまで何人の刑事がそれで命を落としてきてるか。奏君はもう刑事じゃないなんてのもいらんからな」
「大丈夫です、水雲さん。切羽詰まった状況での最後の一言、さすがです」
「ダテに奏君にご飯おごらされてへんからな」
「恐縮です」
場に相応しくないやりとりを続けながらも、焦点はしっかりと若田部を捉えていた。
瞬時に円香を捕まえた時のような、急激な動作についていく自身は虎次郎にはなかった。だから先手を打たなければ、最悪な結末が待っていることは容易に想像がついた。賭けに出ることは決まった。おそらく、浦谷、水雲、更に応援の刑事達にも虎次郎の意図は伝わっているはずだ。
円香は小刻みに震えている。
しかし抵抗しようとはしていない。それが冷静さを物語っている。
一方で隣にいる寿至は、何も発言せず、行動も起こそうとしていないことが見てとれた。専門的な分野は専門家に任せようという彼らしい態度ともいえた。そもそもこの場まで共に来てくれたことに驚いたのだった。
時間は前触れなく動き出した。
若田部が円香のこめかみに当てていた銃口をこちらに向けた。
「大勢の人前で殺すのはかわいそうやから、ちょっと出ていくわ。誰も追ってこんといてな」
それは待っていた瞬間だった。
円香の安全性が最も高まる、逆にいえば彼女の命の危険度が最も薄れるこの瞬間。
戦陣を切るのは必然的に浦谷だった。それは瞬発力が最も優れていたからに他ならない。彼はスーツの内側ポケットから拳銃を取り出した。
若田部の顔色が変わった。
次の瞬間には銃声が鳴り響いた。そしてほぼ同時に浦谷の「ミスった!」という声。
「早撃ちはアメリカで特訓したはずやったのに……」などと、左翼団体に聞かれたらとんでもないことになりそうな言葉を平気で口にした。
若田部の目つきが変わる――
それは刑事としての目ではなかった。ずっと悪夢にうなされていたような漆黒。墨汁が眼窩に流し込まれたような黒。強膜部分ですらも黒く染められてしまったような。
必然的に動きが止まった。
止められたというのが正しい。
彼の発砲はないと誰もが踏んでいた。若田部恭介が多重人格者でないのであれば、表立った性質は、善であると考えていたからだ。
透き通ることのない、どこまで進んでも変わることのない黒は、一体何を意味しているのだろう。
銃声。
虎次郎は自覚した。銃口がこちらを向いている。つまり自分に発砲されたのだ。
銃口のそばで、円香の丸い目が、銃口以上の真円となって語りかけてくる。いや、叫んでいるのか。彼女の口から音波が届いてこない。
あまりにも銃声が大音量だったことに起因するのか。それによって耳が遠くなってしまったのか。
しばらくして自認する。周囲の目が自分に注がれていることに。
どうして……?
何故みんな俺を見ている?
若田部でさえも、虎次郎を見て静止していた。白目部分がはっきりしている。人間を取り戻したようだ。
それでもまだ、音は復活していなかった。
正気を取り戻した若田部よりもどうして自分の方が正常に戻るのが遅いのだろう。
…………。
……。
そうだ。俺は撃たれたのだ。
ようやく理解が追いつく。しかし、どこにも痛みはなかった。
これまでの人生で一度も銃で撃たれたことはない。だから実際に撃たれるとこういう感覚なのかと思った。痛みがあれば別の感情を抱いたであろうことは間違いないが、この時点でそう考えるのは不可能だった。
突然後ろから強烈な力で引かれた。大して長くない髪をぐいっと強引に持っていかれたようだった。足を後ろに送れと脳が指令を出した。できないかと思ったが普通に送ることができた。端から見ると後ろによろめいたかたちだろう。
その時、みぞおちあたりに違和感を覚えた。同時に鈍痛も襲ってきた。
ああ、ようやくか、と何故か安心感に満たされた。
いつしかテレビドラマのパロディとして観たあのシーンを再現しようかと考えて、胸を見下ろしてみる。しかし、血は流れていない。代わりにジーンズの上っ面で何かがつっかえている感覚があった。
「あ」
自分が言ったのか、円香が言ったのか分からなかった。おそらく両者共に、同じタイミングで発声したのだろう。
「いや、これは、その……」
円香への言い訳の言葉が無意識に口からついて出た。
Tシャツをまくり上げて出てきたのは、熊のストラップだった。休暇明けに円香がお土産と評してくれたものだった。携帯のストラップ以外にどのような用途があるのだろう、と色々調べた結果、首からぶら下げるネックストラップというのを見つけた。そこで円香から貰ったストラップを少し改良して首に掛けられるように改良したのだ。かなり頑丈な金具を用いたせいで、仰々しくなってしまっていた。更にいえば、寿至に魔除け目的だと教えられたこともある。由来は忘れてしまったが、とにかく魔除けという言葉を信じて、お守り代わりにつけていたのだ。
そして今、それが彼の命を守ってくれた。結果的にであるが、頑丈な金具を買った効果があった。もっとも金具部分は変形し、貰ったまんまのストラップと分離したわけだが。
ストラップを掌にのせておどおどしている虎次郎を見て、浦谷はぷっと吹き出した。水雲もほぼ同様の反応を見せた。ただ、すぐさま若田部に目を向けたのは、水雲だった。
「ん……?」
畳の上をゴンゴンと強めに何かが転がる音にハッとして、音のする方向に視線を飛ばす。ただ、黒の塊が畳に鎮座していた。予想外の光景に次々と低く唸る声がした。
「熊……」
和室なのに若田部の声がやけに反響した。力なく両手が弛緩し、それによって拳銃を落としたようだった。同時に円香に絡まっていたのが解かれていた。
願ってもない状況になったにも関わらず円香は動けないようだった。実際に何が起きているかわかっていないのかもしれない。拳銃を突きつけられてしまえば、常々自分はいつ死んでもいいなどと言っている人間でさえ、何もできなくなるものだ。
ここしかないという思いが、虎次郎を突き動かした。ただ彼の頭には一つ大きな懸念があった。しかし、その考えを無視してでもこのチャンスを逃しては、もう二度と来ないという不安が勝った。
一気に若田部との間合いをつめる。蹴り出した右足の畳が破れた感触があった。ずっと若田部の目を見つめていた。その瞳に生気が戻るまでが勝負である。正常な思考を取り戻した彼に敵う道理がない。特に先を読む力に関しては。
だがその理想はすぐに打ち砕かれた。
「そうか、熊のぬいぐるみにはそういう意味があったんか……」
若田部の呟きの意味を読み解こうとする余裕はなかった。即座に彼の右拳が眼前に迫ってきたからだ。ある程度予測できていたので右に身体を開いて躱せた。しかし次に左足がくる。
虎次郎は背中側から襲ってくる蹴りを、右手ですくい上げるようにして跳ね上げようとした。すると偶然、掌に収まる感触があった。
若田部は右足でケンケンしているような格好である。
フッという蔑んだ笑いを含んだ息を吐き、軽く舌打ちをしたように聞こえた。単に話し出そうとして、舌が口蓋から離れなかっただけかもしれないが。
「東後は返してもらいましたよ、若田部さん」
水雲と浦谷に支えられ、円香がにっこりと笑っていた。ただ、足はおぼつかないらしく、二人の肩に両手を回している。
極めて冷静に若田部に事実を告げた虎次郎であるが、その声は震えていた。円香を奪還できただけで、目的は達成したといえたのだから。これ以上、何を望むことができるだろうか。
油断とまではいかなくても、その思考は的確に若田部に読まれていた。
受け止められた左足を起点に、右足を跳ね上げる。
次の瞬間には、若田部の両手は虎次郎の右手を掴んでいた。そして、体重を後ろにかけて倒れ込む。
突然引かれたため、右の上腕部からミシリという音が聞こえた。
前転。
そして、激痛。
右の肘が自然とは異なる方向に力を受けている。だが、骨を折る気はないようだった。
「……はあ、さすがにそうなりますかね」
「…………」
痛みで狭くなった視界の中で、黒々と輝く穴がこちらに向いているのが確認できた。
「奏君は撃たへんように注意な」
真剣な表情で水雲が言う。揃って「はい!」と優秀な捜査官は返事をした。
「皆さん、これだけは言っておきますけど私を殺して何になりますか? 何か生まれるんですか? もしかすると、何の罪もない人を殺す可能性かてあるんですよ? それでも発砲される気ですか?」
今更何を言い出すのかと虎次郎は訝しんだ。だが、水雲には通用しない。ラブモードに突入した水雲を止めることが出来る人間を虎次郎は知らない。
刑事になるきっかけとなった事件では、本当に多くの人が亡くなった。けれど、実際に話は伝え聞いただけで当事者に会うことはなかった。
人生で初めて、人を殺めたと自覚していたのが、水雲鶴という人間だった。
仕事柄仕方ない、というスタンスでは決して無かった。彼は、犯罪者ならば死んで当然だという立場にいる。いつも笑顔を崩さない、弟の寿至とはまったく似ても似つかない男であるが、こと犯罪に関していえば寿至同様の頑固さは確かにある。
ただ、それは犯罪者のみに適用していると聞いていた。
人質――このように自分のことを評するのは気がひけるが――を取られたケースでどのように動くかは予想がつかなかった。百パーセント殺せる場合ではない状況での彼の行動は読めなかった。
さすがの若田部でも予想できないだろう。
「じゃあ、発砲準備」
抑揚なく水雲は言う。
虎次郎は覚悟を決めた。そして、自分が助かる道はこれしかないと見出した。肘を完全に極められている状態で自分ができること。それは――
「水雲さんは本気ですよ。このままやと、若田部さんが命を落とすことになる」
真実を伝えることだった。ただ、若田部に関することに内容はとどめておく。自分が命乞いしていると見なされないように。
「……」
「あの人は人を撃つことにためらいはありません」
もうほとんど右手の感覚はなくなっていた。痛いという感情すら消えようとしている。歯を食いしばりながらも必死の形相で語りかける。
虎次郎はふと疑問を抱いた。
彼の知る若田部と、どこか異なるような気がしたのだ。そんなはずはない――
冷徹で冷静で知的で知覚があり、自信、自尊にあふれた男。今右肘越しに見る彼からは畏怖からか、怯えた表情が垣間見える。それは、これまで若田部が虎次郎に見せたことのない表情だった。
そして――わかった。
洗脳。このときほどこの言葉を強く意識したことはない。誰かが彼の中に潜んでいた。もしかすると、彼自身が彼を操っていたのかもしれない。強大になりすぎたあまり、自制がきかなくなったのか。誰も押さえられなかったのか。
もう既に若田部の中に、岬結良や四十万胡桃、手原めぐみを殺した人格は存在しない。
理由は……おそらく熊のストラップ。何故円香がお土産と言いつつこのストラップをくれたのかは分からない。しかし、彼女の中で何かしら引っかかる部分があったのだろう。
心なしか若田部の力が緩んだように思えた。
極められた肘に僅かであるが活力が蘇った。
だが、無情にも銃声が鳴り響いた。
「まだゴーサイン出してへんやろ!」
水雲が怒鳴りながら振り返る。その先には、鳥谷寿至が無表情で直立していた。両手にしっかりと拳銃が構えられていた。
「兄貴のやり口は間違っている」
銃弾の行方は誰も分からなかった。誰の身体にも当たらなかったことは確かだ。拳銃は浦谷から手に入れたようだ。隣で浦谷が薄ら笑いを浮かべている。最も自分から遠いと思っていた寿至が自分と似た行動を取ったことに笑いが堪えられなくなったのだろう。
銃声以外に寿至が撃ったという証拠をパッと見で理解するのは難しかった。反動をあまり受けていないようだったからだ。拳銃の扱いが素人ではないことに虎次郎は多少の驚きがあったものの、寿至のことなので「撃ちたい」と思った時に何かしらの手段で練習していたのだろう。
若田部の手の力が完全に緩んだことを虎次郎は感じた。彼の表情を見ることができるくらいに余裕が生まれていた。若田部は放心状態に近かった。それでも、力を完全に抜いていないのは、彼の中でいくつもの精神が戦い合っているからだと思われた。
そして、更なる弛緩。
虎次郎はここしかない、と判断を下した。
感覚がほとんどない右手に力を入れることはできないので、上半身を時計回りに捻り、左手で右手首を掴んだ。そして玉砕覚悟で左手を思い切り引き抜く。
すると想像以上に軽く右手が抜けた。その反動で逆方向にクルクルと回転する。
若田部はほとんど力を入れていなかったということだ。いや、入らなかったのか。
「まったく……これやから」
若田部に向き直った水雲の目には、転々とする虎次郎が目に入った。経緯を見ていない彼はすぐに銃を構え、安全装置を外した。
「撃ったらあかん、水雲さん……!」
部屋の壁にぶつかって身体が止まった虎次郎が言い終えるかどうかというタイミングで三たび銃声が響く。
「……っく」
若田部の右足に命中した。先ほどまで虎次郎の体重を支えていた足で、当然虎次郎がいれば撃たれていた場所だ。
くぐもった声を漏らしたものの、掠めただけか大きなダメージはないようで、四つん這いのままで虎次郎の壁に向かってくる。
「構え!」
水雲の毅然たる声が、乾いた空気を揺らす。続けざまに彼は吠える。
「撃て」
若田部の血走った目が瞬時に虎次郎から刑事達の方へと移った。「撃て」という上位命令が出た直後だったが、彼と目が合った者は誰一人引き金を引けなかった。おそらく外したら虎次郎に当たってしまう――その懸念が一瞬遅れた理由だろう。
集中力を若田部の一挙手一投足に注目させたからだろう。動きのほとんどを把握することができた。
若田部は前転の要領で両手を畳につけて、撃たれていない左足で最も近くにいた刑事の構えている手を蹴った。さすがの蹴りに握力も弱まり、銃が宙を舞った。次の瞬間には左足一本で身体を支えるようにし、更にもう一度前転する、という時に水雲の銃口が光った。ただ、それを完全に目が捉えたということは、若田部の身体に当たらないことを意味する。
猛烈な勢いで虎次郎のこめかみを掠め、土壁にめり込んだ。
虎次郎は息をのんだが、そんなことはお構いなし、という風に水雲は構え直す。おそらく虎次郎に流れ弾が当たりかけたことを、彼は認識していないだろう。
二人目の拳銃が吹き飛んだ後、ぐらりと若田部の身体が傾いた。体操選手が空中にある見えない鉄棒にぶつかったような動きだった。遅れて銃声が鼓膜を震わせる。
「くそっ」という寿至の低いうなり声が大きく残響した。
そしてもう一発の銃声。
今度も若田部の身体に吸収されたのか、虎次郎のいる土壁近辺には傷跡を与えることはなかった。
確信ができたのは、二秒後だった。
千鳥足と変わらぬ足取りで若田部は畳の上に倒れ込んだ。一家の主を失った畳が、主とは異なる男の血を吸い始めていた。
「ああ、ま~たやってもうたみたいやな」
やけに他人事のように言う水雲に、自分がもうちょっとで死ぬところだったと、伝えることはできなかった。あの時引き金を引かなければ、若田部に銃を奪われ、逆にこちら側の人間に死人が出た可能性すらあったのだ。
急に右手に痛みが戻った。立ち上がろうにも全身に力が入らないことに気付く。
倒れた若田部に目をやる。おびただしい血液が流れ出していた。それは、四十万胡桃が撥ねられた現場で見た鮮血とまったく変わらない色だった。
浦谷は哀れむような、それでいて何かを決意した顔をしていた。
拳銃を若田部に跳ね上げられた刑事がトランシーバーで誰かと連絡を取っている。おそらく県警の上層部だろう。救急車の手配も同時に行ったと思われる。
寿至と虎次郎の目が合った。
彼は何を言うでもなく、ただ安らいだ目をしていた。緊張から解放された人間の顔だ、と虎次郎は思った。寿至の方から目を逸らす気配がなかったので、右手を血液が波打つように襲ってくる痛みに耐えかねたふりをして右手に視線を送る。そのあともしばらく寿至の視線を感じていた。
数秒後かなりの眠気も襲ってきた。
日が暮れるに伴い、外気温が低くなってきたおかげだろうか、開放された窓から入ってくる風も非常に心地よく感じた。そこでようやく、今岬結良の家にいることと、家が山間に位置していることを思い出した。
このまま欲求に委ねて目をつむってしまいたかった。
ただ、若田部の容体も気になる。
頭の中で一人の虎次郎が言う。後のことは皆に任せて寝たらええねん。
そうか――
確かに今日、自分と共に探偵業に挑戦すると言ってくれた二人の執念というのか、想像以上の力のおかげで、こちら側の人間に死者が出なかったともいえる。
それは信頼以上の何かがあるように思えてならなかった。
虎次郎は目で円香の姿を探した。
彼女はじっと一点を見つめていた。アメーバのように広がっていく赤を。
そこから二メートル距離を取った位置でぽつりと呟く――
「外村君……」
虎次郎は胸が締め付けられる思いを抱えつつも、若田部のだらりとした右手の近くに落ちた熊のストラップを見つけ、そして薄れゆく視界を渋々受け入れることにした。




