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長戸照貴弥を殺害した人間はすぐに見つかった。
それは三人がよく知る人物だった。厳密にいえば寿至は顔を合わせていないのだが、名前は十分脳に染み渡っていた。
虎次郎はその一報を、翌日の昼に聞いた。京都府警の捜査第一課の刑事である浦谷英一郎から電話がかかってきたのだ。
事務所には固定電話は置いていない。虎次郎の個人携帯に直接かけてきたのだ。彼はそういった誰からともなくかけられた電話は、電話に気づくことができればとるように心がけていた。仕事柄というのもあるが、誰が自分に興味があるのかを知っておく必要があると思っていたからである。たとえセールスや、何かの勧誘、調査などであっても、一応はしっかりと話を聴く。その上で判断をするようにしていた。
この時も、警察署から電話がかかってくるなんて想像すらしておらず、モニタに表示された番号を見て、この市外局番は京都市あたりだったかな、珍しいなというくらいの疑念を抱いた程度であった。
「突然すみません」と切り出して、浦谷は話し始めた。ただ、どのように虎次郎の携帯番号を調べたのかには冒頭触れなかったし、結局説明されることはなかった。
浦谷の口ぶりは興奮していた。
経緯を猛然と、それでいて理路整然と説明し続け、話の終盤で
「犯人は」と言ったところで大いにむせ込んだことからも、それはうかがい知れた。
「ああ、犯人というのはまだ早いのか、いや、本人も認めたからもう良いでしょう……」
電話越しに、ふうっというこもった息が音割れして耳に届いた。
「栄瀬眞紀子という女性です」
その名を耳にしても、虎次郎にさほどの驚きはなかった。予想できていたからだ。覚悟していたともいえた。いや、そんなに強いものではない。ああ、そうですか、とどこか冷めた気持ち。そして、止められなかったか、という自責。事件一週間まえに、彼女たち三人と会っていたからこその感情であると彼自身評価した。
浦谷の説明は、虎次郎の推理と大枠は外れていなかった。ただ一点を除いては。
「また若田部さんの予感が当たったようです。僕なんてつい第一発見者から疑いますからね。その点は改めないと……。えー、すみません。……栄瀬眞紀子と、被害者である長戸照貴弥は同じ大学に通っていました。そこで二人は知り合ったそうです。二人の関係は、麻薬常習者。バイヤーと使用者という感じでしょうか。もっともバイヤーであった長戸の方は使用もしていたんですがね」現場に落ちていた注射器には奏さんも気づかれたでしょう、と彼は続けた。
「動機は単純で、……ああ、いや失礼。動機に単純も複雑もないだろう、と若田部さんからよく注意されるのに……。改めまして、動機は麻薬……覚醒剤ですが、長戸が法外気味に値段をつり上げようとしたからだそうです。本当に怖いですよね、麻薬っていうのは。人生を狂わせると言いますか。警察官になったから言うわけじゃないですけど、絶対にやるべきじゃないですよ」
大きく話が逸れていきそうな気がして、虎次郎は言葉を挟んだ。
「ちょっと待ってください。なぜその、栄瀬眞紀子という女性に行き着いたのでしょうか? 昨日の今日でいきなりって、まあずば抜けた捜査力があってのことなんでしょうが」
ああ、という風に浦谷の笑い声が割れて聞こえてきた。
「彼のスマホに全てが残されていたんですよ。さすがに犯人はあんな派手な殺し方をしてしまったから動転してスマホを持ち去ることだとか、データを消去する時間がなかったんでしょうね。しっかりと彼女とのやりとりが残っていました」
浦谷はそのやりとりをかいつまんで説明した。
長戸の方から栄瀬眞紀子に、次から値段を倍にすると相談を持ちかけた。当然大学生である彼女は、そんな提案のめるはずもなく反対する。それに対して長戸は、出頭しようと考えている旨の連絡を寄こしていた。
「まあ、彼自身、芦田渋が殺されたことを驚異に考えていたのだと思いますよ。なんせ親玉ですからね。そのやりとりの中には、それに近いことが書かれていました。本当に出頭したのか、覚醒剤を辞めることができたかとうかは、別問題ですけどね」
皮肉を付け加えて、彼はため息をついた。
「現在、容疑者は取調中です。薬学部に入ったのも、元々はそちらの方面に興味があったから、と話しているようですね。その中で、長戸照貴弥という同一の目的をもった男と知り合った。若い女性が薬物に手を出してしまう心理は……専門家じゃないので分かりかねますが、表面上の彼女は――取り調べ時の彼女の自己分析という意味ですが――一度やってみたかったから、と言っています」
虎次郎はこれは訊いても答えてもらえたかなとちょっと考えて、
「被疑者の家に直接逮捕状を持って押しかけたのですか?」
「えーっと……これ答えてよかったかな」と彼は呟いて、「そうですね。凶器は見つかっておりませんでしたが、長戸と栄瀬のメールからもう決まりだという感じでしたし、若田部さんに確認をとって、一気に色々手続きして逮捕状を持って行きました。任意同行でもよかったんですけどね、まあ彼女自身一人暮らしでしたので」
ピクリと虎次郎は眉を上げた。
そうか、彼女も一人暮らしか――
両親には連絡されたのだろうか。本人の様子はどうか。他には何も言っていないのか。
多くの疑問が生まれてきたものの、そのどれも口に出さず、
「わざわざ連絡いただき、ありがとうございました」
と丁重にお礼を言って、スマホを耳から離した。しばらく通話中になっていたので、浦谷がこちらが切るのを待っていると思い、切断ボタンを押した。
虎次郎はPCの前から腰を浮かせて、隣のリビング兼応接間に入った。本気で稼働する扇風機の威力が馬鹿らしく感じるほどの冷風が全身を包んだ。
そこでは寿至が何やら経済学の本を開いて難しい顔をしていた。
「長戸殺した奴見つかったって」
「そうか、言ってた華道サークルの代表だったのか?」
「そう」
「円香に連絡入れとかないと」
「ああ、一応解決やしな。俺が打っとくわ」
虎次郎は焦げ茶色のテーブルにスマホを投げ出して、文章を打ち始めた。
「で、浦谷か、若田部か?」
「浦谷さんやったよー」棒読みで彼は答える。
「そうか。……ということは、決定なのだな?」
「多分ね」
虎次郎はあえてぼかした。何かが引っかかっている。強烈な違和感。
「この一連の事件の犯人は、浦谷英一郎でいいのだな?」
「残念やけど……そうなるかな」
虎次郎が華道サークルの三人と会い、ストーカーの名前として登場した人物が警察官だったことは耳を疑った。それも、事件が起きた京都府警の刑事だったから尚更である。そのことが三人に伝わったかは定かではない。しかし、その場で栄瀬眞紀子の話す様子に怯えが含まれていることを見て取った。
その怯えは最初、ストーカーである長戸の情報を漏らしてしまったことに起因するものだと思った。しかし、何度も長戸の名前を出すものの、名前を呼ぶ時にはまったくのためらいも、恐れや焦りがみられなかった。長戸の名は何度も呼んだことがある、という感じだった。円香に対して、初めて相談した割には慣れすぎていた。まず虎次郎はそこが気になった。
そして昨日、長戸が殺されている現場を見てピンときた。この二人は実はストーカーと被害者という関係などではなく、知り合いだったのだ。それも麻薬という強力なキーワードでつながっていた。
なぜ眞紀子が円香に問い詰められた時に、長戸の名を出したのかは分からない。ずっと黙っておけば、少なくとも探偵三人にこのつながりを見いだすことは困難だっただろうに。
あえて下世話な想像するならば、栄瀬と長戸は不倫関係にあったのではないかというくらいか。奥さんと別れてくれ、などと栄瀬が言い出したのを長戸は拒否し、そのずっとため込んでいた怒りが、ストーカーという形での嘘を呼びだしたのではないか。あるいは、早く自分のことを捕まえてほしかったか。もっともこれらは推測にすぎない。
四十万胡桃のストーカー二人目。それが浦谷英一郎であった。
それを聞いて虎次郎は、京都タワー下の喫茶店で若田部が絶対に名前を出せない、と言った意味が少し理解できた。ひょっとすると内部に犯人が隠れていた可能性があったからだ。となると、同じ大学の学生と言っていたのは嘘だということだ。ただ、その嘘をつく価値は十分ある。その話をした当時、若田部は虎次郎を同じ刑事だと思って話していた。自らの部下がそのような可能性があることを、万に一つも嗅ぎつけられてはいけない。ましてや他の県の警察に、と考えたのだろう。
なぜ三人がストーカーを浦谷と断定したのか。三人とも、本人がそう言ったから、と話したが、なんてことはない、浦谷と三人は既に知り合っていたと考えると辻褄が合う。それも、麻薬関係で、だ。華道サークル。そこから植物関係を簡単に連想できるではないか。女子大生がそんなことをするはずがない、という先入観が、真相を隠してしまっていた。
浦谷犯人説に対して、事件の順番に沿って、彼は考えてみた。
まず岬結良が殺されていた事件。この事件は目撃者もおらず、つながりは、彼女が共にドライブで出かけた相手のみ。その相手を浦谷と仮定してみる。
結良の自宅周辺で度々見かけられた高校生。浦谷のあの童顔で学ランを着ていたら、誰も高校生であることを疑わないだろう。何故そのような格好をしていたか。それは麻薬取引を連想させないため。まさか高校生が、という点を利用したのだ。
もちろん、岬結良とドライブに行ったのも彼だろう。
ただし彼女も麻薬関係だったかどうかまでは分からない。司法解剖がちゃんと行われたかは不明だが、薬物中毒だったという報告は聞いていない。
次に四十万胡桃が暴走車で撥ねられて死亡した事件であるが、まだ犯人が車からどのように脱出したのかは考えられていない。ただ、浦谷は現場にはいなかった。その直前の芦田渋が刃物で殺害されていた事件。こちらも事実関係上は浦谷による殺害は可能である。
『マイルドリンゴ』に現れた高校生探偵も浦谷だろう。車からの脱出の目撃者について尋ねたかったのか、事件の様子が単純に気になったからか、警察内で自分が疑われてはいないのか、それらを確認するために探偵を名乗ったというなら納得がいく。
ただ一点、手原めぐみの件。これだけは誰が殺したか結論は出ない。ただ、外川靖也という名前。これが浦谷英一郎の偽名であったとすれば、すべて辻褄が合う。同じ高校生だからだ。
芦田渋を除けば、十代後半から二十代前半の一人暮らしを名乗った女性が殺されている。たまたま手原めぐみが周囲に自己紹介した情報と事実が異なっていたおかげで浮き彫りになった。それが無ければ、共通点を見いだすことは難しかっただろう。
何故浦谷がこれらの女性を狙ったのか。虎次郎にはそれが分からなかった。
しかし、薬物というつながりが見えて、急に霧が晴れたかのように視界がぱあっと明るくなった。
自らは絶対に捕まらない位置にいながら、麻薬で溺れていく人を観察し、さらに殺害する。そして犯行が明るみに出たとしても、麻薬の脅威と人々ははやし立て、それを取り締まる側の警察に殺人事件の捜査が及ぶことはほとんどない。最高の隠れ蓑の中に彼は存在する。
ただ、若田部恭介は気づいていたようにも思えるが……。
「おっけ。送信っと」
栄瀬眞紀子が捕まったことを三人のグループLINEで連絡した。すぐに既読がついた。見ると寿至がスマホを操作していた。
「……まあ、浦谷のことは書かないのだな」
「確定した情報じゃないからな。多分間違いないやろうけど」
円香の昨日の様子は尋常ではなかった。帰りの道中でも、電車の中でも何も話さず。珍しくかけていた眼鏡がずり落ちそうになってもずっと考え事をしているようだった。
そんな時に多くの情報を与えても混乱するだろう、との配慮から、送る文章は最小限にしたのだ。ただ――
「昨日の東後のアレは一体何やったんやろう? そんなに浦谷犯人説がショックやったんやろか」
「いや、その前からあんな状態だっただろう。いつからかは定かではないが……」
寿至は下唇を大いに突き出して考えているようだった。
昨日三人は、解放されてから電車を乗り継ぎ、この事務所に戻ってきた。そこで虎次郎は自分の考え、すなわち、浦谷英一郎が犯人である可能性について話したのだった。彼女はところどころで相づちを打っていたが、いつもより確実に回数は少なく、時折突拍子もなく、はーっという音が明確なほど大きなため息をつくのが気になった。
帰り際に円香は思い出したかのように「明日用事あるの思い出した!」と左手のパーに右手のグーを打ち付けて休暇を申し入れてきた。
その様はいつも通りの円香だったので、虎次郎は安心して承諾したのだった。もっとも許可を取らなければいけない、などといった制度は現状設けられていないのだが。
「寿至はさあ、手原めぐみ殺したのは、どっちやと思う?」
「……なかなか軽く質問してくるな。それは直感などではなく、論理的な説明を欲しているという認識で問題ないか?」
虎次郎は大きく頷いて、椅子に座り直す。
「俺はそもそも殺人ではなくて、本当に自殺だったのではないかと考えている」
二人しかいないのだが、彼はいつもよりトーンを落とし、しかし滑舌良くスラスラと言葉を並べる。
「理由は二つ。一つ目は専門家であるコジロー、お前の解説だ。首つりの場合で警察が自殺と断定すれば、それはほぼ間違いなく自殺だという話だったな。だが例えばそれを指示した人がいたかまでは分からないとも。俺はそれはもう自殺だと思っている。首を吊らなければ別の方法で殺す、という脅しは、自殺であることを見せたい時に有効だが、そのメリットが一つも浮かんでこないんだよな。今回のケースは独り身の人間が狙われていたんだったよな。そうなれば誰にも見つからない所で殺して、誰にも見つからない所に廃棄すれば何が起こっても犯人にたどり着けないだろう」
寿至は言葉を切り、虎次郎の理解を待つかのように立ち上がり、冷蔵庫から缶コーヒーを二本取り出してきた。そしてストンと腰を落ち着かせる。
「いいよ、二つ目は?」寿至が一口目をすするのを見届けてから先を促す。
「……申し訳ないが、俺はあの母親を信頼できない」
「手原祥子さんのことやんな?」
「そう。こういっちゃあなんだが、俺はめぐみ氏や、夫に哀れみさえ覚えた。円香がいたからなかなか言い出せなかったが、考え方が自己中心的すぎる。世界は自分を中心にして回っていないのを他者のせいにしているように、俺は見えた。彼女の失踪は、間違いなく担任の長戸の影響ではない。母親のせいだ。五百万円の件もそうだ。彼女の気持ちに沿って行動したゆえの結果だろう。まあこの事務所にとっては恵みの雨……みたいなもんだったが」
そう言った後、寿至はわざとじゃないぞ、と付け加えた。
「いずれにしても、論理などどこにもない、ただ感情で動いた彼女の意見に信憑性はまるでないと、俺は思う。最後に、コジローの質問への回答だが……。どちらかが殺した、という前提があればだが、浦谷の方だと思う」
虎次郎はまたしても大きく頷く。
「理由は?」
「少なくとも長戸ではない。感情で動く手原祥子氏ではあるが、手紙の中で、しっかりとした事実も述べていた。それが『外川靖也』という名前が書かれた紙が、本のしおり代わりとして残っていたという部分だ。外川靖也が長戸か、浦谷かの二択となれば、浦谷の方が可能性は高いだろう。三つの事件が確実につながっているのは確かだろう。となると、まえにも言ったが年齢だな。三十を大きく超えた長戸を、他の事件に登場する高校生と結びつけるのは無理があるように思う。浦谷という捉え方をするのが自然だ」
よどみなく言い終えて、彼はふうっと息を吐く。そして缶コーヒーに口をつけた。
虎次郎は寿至の考えについて吟味した。
手原祥子のくだりは、彼の感じ取った印象とほぼ同じである。祥子が勝手なイメージを長戸に抱き、めぐみが出て行った原因は自分にはないと、強く信じ込んでいるその様は、なんとなく哀れみを抱いたものだ。虎次郎も円香の手前、口をつぐんでいた。
意見ではなく、大半が願望で書かれた祥子の手紙、そして願望に支配された彼女の思考。それが大きく何かを狂わせている。その何かをつかむためにも長戸に話が聞きたかったのだが、彼は殺されてしまった。
「ああ、そういえば大事なこと聞くの忘れてたな」
「お! 大事なことなのに言うの忘れてた」
二人はほぼ同時に似た言葉を口にした。
大事なことと二人が形容したのは、間違いなく昨日の深夜のことである。
浦谷英一郎に疑いを向けていたものの、証拠はなかった。その証拠をつかむ行動を取ることに三人は決めたのだ。決めたといってもほぼ虎次郎の意見が押し通されることになったのだが、一応同意は得た、という意味である。
四十万胡桃のストーカーであると栄瀬眞紀子が証言した浦谷。彼がストーカーだったという根拠はそれしかない。ただ逆に、それを実証する何かがあれば、浦谷のクロが決定的となる。
そこで、虎次郎が提案したのは眞紀子の兄が行ったとされる、SNSの足跡機能からの追跡である。このご時世、インターネット検索をかければ、いくらでも方法は分かる。嘘の情報も多いが、その中には、事実も紛れ込んでいる。広大な砂漠で砂金を探すような作業ではあるが、辿りついた際の喜び、肌の震えは何事に変えることもできない快感である。
とはいえ、本当に追跡などできるのか疑わしかった。つまり、砂金など一つとしてない可能性だってあったのだ。虎次郎もその恐怖は持ち合わせていたし、これから行うことが徒労に終わることを考えると二人には申し訳なかった。だが蓋を開けてみれば、砂金は驚くほど簡単に見つかった。あっちを向けば、光沢があり、こっちを向いても光沢がある。大金持ちになった気分を擬似的に味わった。
ネット上には、様々な方法が、様々なプログラミング言語で書かれていた。仮にも大学時代にプログラムをかじった身である。虎次郎はともかく、寿至はその講義を得意にしていた。
一時間程で寿至はスクリプトを作成しきった。円香は明日の準備があるから、とその間に帰ってしまっていた。
二人になってしまったが真実を知りたい、真相に辿りつきたいと願う虎次郎は、徹夜続きだった警察の頃を必死で思い出しながら長戸が住んでいたところのアクセスポイントを割り出した。これもネットから拾った方法である。つくづく驚異的な世の中になったものだと彼のほんの一部分だけが憂いていた。
寿至の作成したプログラムは、動きはしたものの「ポインタの概念ほとんど忘れたから」という理由で散文のように組み立てられていた。そのせいかネットに書かれていたスキャン時間の十倍はかかっていた。だが彼に文句を言う権利はなかった。公務員試験の勉強をしたことでか、単に当時十分な理解ができていなかったからか、自分でプログラムを組むことなどできそうになかったからだ。だから本当に組み上げた寿至に感謝の意を伝え、深夜のテンションも手伝い控えめなハイタッチをした。
いざ動かそうとなったのだが、寿至が作業をした事務所唯一のPCを使用するかというのは問題だった。はっきり言って違法である。グレーゾーンでもなんでもない。明らかなプライバシー侵害だ。
訴えられれば正式に稼働しているか微妙なこの探偵事務所は間違いなく潰れることになるだろう。三人は路頭に迷うことになる。
まあ……既に迷っているようなものか、と虎次郎は一人苦笑し、また訴える相手はおそらく刑務所に入れられるであろうという予想から、事務所のPCの使用を決定した。
ハード的に翌日の午前中いっぱいは解析に時間がかかると思われた。
そして、その確認の最中に浦谷から電話がかかってきたのだ。
「これに関しては栄瀬のプラグラマ兄貴と同じ結果を表示してたわ」
エクセルシートに結果が出力されるようにしていたのだが、しっかりと、長戸家から栄瀬眞紀子のSNSにアクセスがあった。それも数回などといった値ではなかった。
この数値には驚いた。二人がストーカーと被害者という関係ではない。
なぜこんなにアクセスが繰り返されているのか。
「もう一つ、俺の素晴らしきフリーソフトが、素晴らしい解を導いてくれてた」
「ボキャブラリを豊富にしてくれ」
「二年で大概の言葉忘れたねんな。環境のせいにします。……えっと、長戸の家からアクセスがあったのは事実やけど、これも、乗っ取られてたようなのよね、実際」
「乗っ取られていた?」
「ああ、乗っ取られてたとちゃうか。名前を盗まれてた……? ん? 適切な表現が見つからへんぞ……。まあそんなとこ」虎次郎は唇を湿らせて続ける。
「栄瀬兄はアクセスポイントまで割り出したっていう話やったけど、長戸はフェイスブックだけは実名で登録してたからそれでなんとなく分かってたんやろな。場所は念のため調べたっていうだけで。でそのネット回線の登録者名が長戸やったということやったけど……。このアクセスポイント、全然長戸のマンションとは違う場所やねんな」
そう言った瞬間、寿至は目を大きく開いた。彼がこういったリアクションをするのは珍しい。虎次郎は少し嬉しくなった。
「アクセスポイントは……岬結良の家やった」
クーラーの稼働音がやけに大きく聞こえた。沈黙を破ってやろうという気概が感じられた。
「岬氏……俺達が自転車漕いで行った、あの場所か?」
「他にどこがある?」
寿至のお株を奪った感じだ。
この事実が分かった時、虎次郎はずっと見つからなかった最後のピースがはまったような感覚を味わった。同時に一気に口の中から水分が消し飛んだ。蒸発した。
「俺は実際に死体を見ていないからなんとも言えないが……、彼女は確かに亡くなったのだな?」
「いや……それもまだ考え中。確かに彼女の身元が判明したのはマイナンバーカードだけやったし。ああでも違うな。あれは岬結良やわ。免許証の写真見たけど、遺体の写真の女性であることは間違いない」
「姉妹は……いないのだな……。完全独り身だったわけで……。コジローに免許証を拾われる想定などしていないだろうし……」
寿至は断続的にぶつぶつと漏らしていた。声の低さも手伝って、長年耳に焼き付けてきた虎次郎でなかったら聞き取れなかったように想像される。
「じゃあそこには誰が住んでる……?」
最後の質問も独りごちてはいたものの、明瞭に聞こえた。自分に訊かれていないと分かった上で虎次郎は答える。
「今回の事件の犯人やろう」
黙ったまま寿至は小刻みにうんうんと頷いた。
そりゃ誰もいない家が綺麗だったはずだ。廃墟にはほど遠い、力強さもまだ兼ね備えていた岬の家を思い出す。
……押しかけてみるか?
いや、まだ早い。
早いといっても証拠は揃っている。ならば、日を先延ばしにした方が、犯人がいなくなる可能性は増える。既にいないかもしれない。
ただ……相手はおそらく警察。こちらの動きは筒抜けである。また今回の違法アクセスポイントの割り出しが、岬家のネットワークセキュリティ対策によっては、足がつくようになっているかもしれない。それはつまり、この事務所から発信されたものであると、相手に知らせたことに他ならない。
いや……と虎次郎は思い直す。
寝不足もあって、冷静な思考ができているか定かではない。せめて円香の意見も聞いてみたい。そう考えて、LINEを開いてみるもまだ既読はついていない。
彼は無性にいらいらした。
円香はいったい何をしているんだ、こんな重要な時に。
「一つ思ったのだが」
「何?」苛立ちが口調に顕著に表れた。一つ咳払いをして言い直す。「どうかした?」
「栄瀬氏は長戸殺害容疑で逮捕されたのだよな? だとしたら浦谷のこと言うのではないか。彼女は我々にストーカーという表現をしたが、実際は麻薬常習犯というのがコジローの見解だろう?」
「まあ……若田部さんも、口を割るのを待ってるんやろな」
「そう、だから浦谷氏はどうするのかと、気になってな」
「ああ、でも俺らが考える問題じゃないからなあ。あ、そうか」
「ん?」
「いや、岬の家に行ってみようかなあって思ってたけど、もう意味ないかもしれへんと思って」
「ん。まあ後は若田部氏がなんとかするだろうしな」
「確かに浦谷……どうするんやろ。口封じ? いやまさかな」
まさかとは言ったがその可能性は十分に高いと虎次郎は考えていた。まだ逮捕されて間もない。検察官への身柄引き渡しまで時間は十分にある。その期間中、犯人は最も栄瀬眞紀子を殺しやすい位置にいるのだから。
だからといって、単純に殺すはずはないだろう。そんなことをすれば、明らかに警察内部の人間が疑われ、自分も容疑者に浮上する。ただでさえあらゆるつながり――岬結良の家やアクセスポイント詐称など――を完全に消し込めていないのだ。容易に彼に辿りつくだろう。なんといっても若田部警視正がいる。
ならばどうするか。自殺させればいい。
犯人の最も得意な手法だろう。岬結良も、手原めぐみも、自殺死体として発見されたし、そのように処理された。特に手原めぐみに関しては疑う余地もない自殺だった。本人が死にたがっていたか、それは分からない。だが、栄瀬眞紀子は麻薬常習者である。きっと何かしらの精神的な追い詰め方をすれば、警察内であっても場所は問わず、自殺してしまうだろう。そのトリガーを、おそらく浦谷は知っているのだ。
だから陽気な感じで虎次郎にも電話をかけてきた。
余裕のある、何かが差し迫っているわけでもない、自然な昼休みのひととき。その時に、ただの興味本位で探偵に知らせてやろうかなどと考えたのだ。
でも――
でも、何故電話をかけてきたのだろう。いずれ新聞やテレビ、ネットニュースで明らかになるだろうに。
それだけが引っかかる。少なく見積もっても彼にメリットはない。
本当に興味本位だけだろうか。
理由など、ないのかもしれない。それは本人に訊かなければ分からないことだ。
この些末な引っかかりが後々尾を引き、引っかかった箇所から大きな破れにつながらないことを祈りながら、長かったこれまでを思い出す。
そういえばまだ謎は残っている。四十万胡桃を轢いた際、車の中はもぬけの殻だった。一体どのようにして逃げたのだろうか。今となっては栄瀬眞紀子も、この事件に絡んでいたかもしれないな、と彼は思った。
腕を組み、目をつむる。そして小さく声にならないため息を吐いた。
今後、どうしていこうか。
思っていた形とは異なるが、事件は解決した。三人の協力を経て、真相には辿りついた。
あとは、逮捕されるのを待つだけだ。
探偵という名目で自由に色々な場所に足を向けることで、警察ではなくても解決できる事件があることを知った。警察相手だとうまく話せないという人も、探偵と名乗れば好意的に接してもらえることも多くあった。
その度虎次郎は、誰もが話したがっているのだなと解釈した。話し相手を探している。情報があふれている昨今では当然の成り行きなのかもしれないと考えつつ。
ガタンという音を立て、寿至が立ち上がった。
「……どうした?」
「お前は俺の母親か。ただお菓子が食べたくなっただけだ」
寿至には本当に感謝している。「ほお」という返事をしながらも少々にやけた顔になっていたかもしれない。寿至はすぐにキッチンの方に向かったので、虎次郎の顔を見られることはなかったのだろう。もしも彼の視界に一パーセントでも侵入していたのなら、必ず何か言ってきたはずだ。
誰にも判別できなさそうな低温で鼻歌を歌う寿至は、机に菓子箱をスライドさせた。軽く放り投げられたのが滑った格好だ。
「出たな、八つ橋!」
「まえサービスエリアで購入したのが残っていた。お前たちはあまり食べないからな」
「違う!!」
あまりの大声に、二人は呆気にとられた。虎次郎も自分の口から出た音量に驚いた。
「おいおい、いきなりどうしたというのだ?」
虎次郎は深く、沈みそうになっていた。大きく息を吐く。その回数を重ねるにつれ、息は大きくなる。もっと酸素がほしい。酸素がなければ、考えられない。
……八つ橋……
八つ橋……八つ橋――
酸素が欲しいのに、無意識のうちに呼吸を止めていた。先ほどよりも大きく息を吐く。
すべて一から。否、ゼロから。
そうか――これが、違和感の――
正体――なのか
ということは、と、いうことは。
あの時の彼女の反応――……
もしや、
まさか、辿りついていた――?
そんなことが、あり得るのだろうか。
必死に脳細胞を活動させる。そんな意識を持つ必要がないほど、自然と答えをくれる。
あの時の第一声。あれが答えか。
震える右手を御せぬまま、机に置いたスマホを掴もうとするが、やはりおぼつかない。グループLINEでは遅い。直接電話を。三度挑戦したところでようやくスマホが手に収まる。
電話帳、電話帳。最近は開くことが全く無かったので、どこにアプリがあるのか分からない。そこで、電話アイコンから電話帳を呼び出せることを思い出す。
思い出すより早く、右手が動く。動作は思考より先に現れるものだ。
呼び出し音が聞こえる。プルルルル、プルルルル。
繰り返される電子音。
何も変化がない。
「コジロー、説明を――」
「ごめん、待って!」自分が声を発した瞬間に反応があれば、チャンスを逃してしまうかもしれない。受話口に耳を強く当てる。いや、受話口がどこにあるか分からない。それに気づいた時は衝撃だった。
……今はそんなこと考えている場合ではない。
脳がフル回転を続けているせいか、まったく関係のない情報が処理される。
「……あかん、つながらへん」
一分以上待ったが、相手が通話に対応してくることはなかった。
「誰にかけた?」寿至が高めの声で訊いてくる。
虎次郎はちょっと間をおいて、そして声が震えないよう、しっかりと発音することを心がけていった。
「東後」
寿至は大きく頷き、
「お前がそんなに焦っているということは、緊急度が高いという認識で良いか?」
「ま……東後は、だって……」虎次郎は言いよどむ。
口に出してしまえば、それが真実であることを認めてしまうのではないか。認めてしまってもいいものか。
「ある程度は察して質問させてもらうことにするが、彼女はご両親共にご存命だろう。仮に今、犯人と共にいたからといって、何か危害を加えられることはないのではないか?」
「いや、東後は、正確には違うねん」
鼓動が徐々に高まる。その音に負けないように声を出す。
「東後の話に登場してくる両親は、ほんまの両親じゃない」
「……」
「端的に言うと、金銭的な援助をしてくれた人たちのことを両親っていう風に東後が勝手に呼んでるだけや」
「……すまん。最初から説明を――」
「いやごめん。そんな時間はない。東後も、岬結良とか、四十万胡桃と同じ家族構成やってこと。本当の両親は、俺らが二歳か三歳の時に、亡くなってるから」
だから、と言いかけて虎次郎は口をつぐんだ。
真実は、この目で確かめなければわからない。決めつけることはしてはいけない。改めて思い直すと、彼が犯人であるという仮説はかなり突飛していた。半ば決定事項のように考えていた。思い込みは、真相を隠す。当たり前のこと。そんな当たり前のことを忘れていた。余裕がなかったのだ。
いや、あるいはそれを真実と思いたかったのかもしれない。
そして虎次郎は別の言葉を口にする。
「二人は似てるように見えたけど、全然違うかったってことやな」
ブンブン稼働するエアコンに吸い込まれるような声量だったが、ずっとずっと、その場に滞留していた。




