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黒と黒のコントラスト  作者: じっぴー
第七章
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35/45

5

 八月二十九日。月曜日。

 どんよりとした雲が立ち込め、蒸し暑さは最高潮に達していた。朝晩はほのかな涼しさが立ち込めてはいるものの、まだ夏が続いていくことを感じさせるには十分の気温だった。

 先週木曜日から三人は長戸照貴弥関連の下調べをとことん行った。

 決行は、当然早ければ早いほど良い。しかし、行き当たりばったりの突入は、膨大なリスクが発生する。リスクを回避するための期間を設けることは、絶対に必要だった。

 例えば、長戸照貴弥の妻である長戸弥栄の存在である。

 彼女は二十三日時点で「来週から海外旅行」という話を寿至もといジャーナリストにしていた。しかしそれが事実かどうかは分からない。

 弥栄がいる時間帯に長戸照貴弥を訪ねたところでさして問題はないかもしれない。偽名を使うくらいの男であれば、直接刑事や探偵に指摘されたところで、下手に動揺しないと考えられるからだ。それは妻がいても同じだろう。だがそれらは憶測にすぎない。万に一つ、妻であろうとも人質にとり立てこもるといったことがないとは言い切れない。

 そこで、長戸弥栄の動向を寿至がチェックした。

「今後また連絡させていただくかもしれない」との理由で、長戸弥栄の連絡先は知らせておいたとのことである。

 二十八日の朝、彼女に「このまえ聞き忘れたことがある」と電話をかけた。その際に彼女は空港にいて、これからシンガポールに発つという話をしてきたそうだ。虎次郎はその場に居合わせたが、寿至の口調や音域はいつもと大して変化が見られず、逆によく長戸弥栄は寿至に心を許しているなと思ったものだ。

 こうして一つのリスク、不安は解消された。だが、これで一つである。予測できないリスクも点在している。すべてのリスクを取り除くことができない。それでも三人は協力してできうる限りの対策は行った。

 八月二十六日。長戸照貴弥は勤務先の学校に出勤した。警察関係者に顔を知られていない円香が長岡京にて監視をしていたのだ。その帰りには同じく円香が尾行により長戸の家を突き止めていた。寿至が妻にインタビューしたスーパーから徒歩十分ほどの住宅街にあった。四階建てのマンションの二階、二〇三号室だった。小綺麗な外観をしており、この探偵事務所に引けをとらないとのことだった。虎次郎自身、後でマップで調べてみたが、同様の感想を抱いた。パチプロの力にひれ伏した感じだ。余談であるが、寿至が何度きいてもパチンコで儲けるコツを教えてくれなかったそうなので、パチンコ必勝法などといううたい文句は嘘なのだろうな、と思った。本当に儲けられる話など、そうやすやすと他人には話さないのが鉄則だ。

「さてと」

 大して準備には時間がかからなかったし、疲れてもいなかったのだが、虎次郎は一つ息を吐いた。自室にある、円形をした時計で時刻を確認する。家を出ようと考えていた時間の一分まえだったが、早まる気持ちを抑えられず、腰を浮かせた。

 玄関にはまた一つ、母の折り紙作品が増えていた。名前はわからないが、花のようだった。写メでも撮って今度あの華道サークルの三人に訊こうかとも考えたが、今日の結果によっては、その必要もなくなるかもしれないので、やめておいた。

 内側から鍵を開け、外に出る。予想通りの蒸し暑さが全身を包んだ。

 長戸は今日、休日であることは、事前に調査済みだった。

 まだ学校は夏休み。始業式まで三日ということを考えれば出勤している教員も多いのだが、長戸は休みをとっていた。彼が出勤した二十六日に、彼の同僚に虎次郎が接触した。取材と称してインタビューさせていただけますか、と数人に声をかけたのだ。もちろん長戸の後に学校から出てきた人ばかりである。

 夏休み期間でも、出勤されているんですね、という学校という教育現場に関して完全素人を装って話しかけた。寿至の使った手は使わなかった。

 生徒の自殺があった後なので警戒されるかと思ったが、実年齢より若く見られる童顔さも手伝ってか、あるいは、しばらく手原めぐみの自殺ばかりが注目されたからかはわからないが、ペラペラ話してくれた。

 手原めぐみの自殺はほとんどと言っていいほどメディアに取り上げられなかった。オリンピックが開催中だったことは、この学校にとって恵まれていたともいえる。彼女がいじめに関わるような人間でなかったことや、成績もそれほど悪くなかったことが、そもそもあるかもしれないが。

 長戸の評判についても、めぐみ同様、悪いものではなかった。勤務態度はごく普通。生徒のことを真剣に考え、一人一人に対して適切な指導ができるという点では一目置かれている。教員同士の飲み会や、学園祭などの打ち上げにも常に参加し、盛り上げ役とはいかないが、一緒に飲んでて楽しい人、という意見が大半だった。

 ただ酔いが回ってくると、自らが厄介だと思う生徒の悪口や、苦言を熱く語っている姿も見られるとのことだった。この情報をもたらした匿名希望の教師は、九割以上の先生がそうですけどね、と苦笑していた。

 それらの評判は、今回の事件とはあまり関係ないだろうと虎次郎は踏んだ。いくら真面目に働いていようが、罪を犯す人間は多くいる。あくまで経験則であるが、割合としてはこちらの方が多い。

 また、長戸だけでなく、三年生を担当する教員は二十六日が休日だという話も聞けた。

 九月に学園祭が行われる学校では八月の休日は限りなくゼロに近いという学校もあるのだが、この学校では文化祭が冬にあるので、ある程度の休日は保証されている。しかし三年生の担任ともなれば、特に就職希望の生徒が多いこともあり、そのフォローが必須の仕事となっている。(もっとも文化祭が冬に実施される理由の一つでもある)

 そんな折、学校側から休暇を与えてやらないと、月間休日がゼロになるケースも出てくる。それが当たり前だという親の発言が物議を醸したが、本校ではそうならないように、特別な理由がなければ、必ず休まなければならない日が設けられた。それが二十六日なのである。

 長戸も漏れなく休暇を取ったという次第である。


 集合場所である駅の改札前には既に二人の姿があった。二人ともスーツ姿だった。寿至のスーツは何度も見慣れているが、円香は初めてだった。眼鏡をかけていて、いかにもやり手秘書という印象をうけた。無論、眼鏡は度が入っていないものだろう。

「クールビズとは無縁やね」

 全身を黒に包まれた二人に声をかける。

「逆に怪しいと思えるのは俺だけか?」

「いや、絶対に違うよ」

「言い出しっぺの俺も思ってるけど、それやったら昨日言ってくれへんと」

 昨日、二十八日は長戸弥栄の動向確認後ずっとシミュレーションに精を出した。思いのほか皆飲み込みが早く、事前に押さえておくべきことは全てやった。最終確認で、どのような格好で行くか、という話になったときに、スーツが無難だろう、という虎次郎の意見に対して二人とも、それがいいという感じで返事をしていた。決して空返事ではなかった。クーラーを効かせた部屋にいたことが、判断を鈍らせたのかもしれない。

 三人は長岡京までの切符を購入し、電車に乗った。三十分かからないうちに到着する。

 虎次郎は気が気ではなかった。どうして二人がこんなに自然に、いつも通り振る舞えるのかが疑問でならなかった。

 元刑事というプライドか、それとも単に久々に容疑者と直接対峙するからだろうか。

 無言のまま、長戸照貴弥の住むマンションを目指す。京都府警に知られていない寿至と円香が二人で訪問するのがベストだが、そうはいかない。自らが乗船させた船なのに、自分は遠方から見ているなどできなかった。

 本当に長戸が三つの事件の犯人なのか。外川靖也とは、彼の偽名なのか。

 もちろんそんな直接的な質問はしない。しっかりと外堀を固めてから、徐々に切り込む作戦だ。必ずうまくいく。

 そうは信じているが、必ずイレギュラーな事象は発生する。そううまくいかないことも知っている。それらは経験で補うしかない。こういった話し合いのケースは二人よりも格段に多いのだから、自分が引っ張っていかなければならない。

 虎次郎には始まってしまえばなんともないのだが、その前は緊張してしまうという弱みがあった。しかしそれもここ一年以上は影を潜めていた。しっかり分析していないが、二人が一緒にいることが要因の一つにあることは間違いない。

 気付けばマンションが眼前に迫っていた。季節と逆行するスーツ姿なので、警察関係者がいれば声をかけられるかと思ったがそれはなかった。というより、近辺に一台もそれらしい車両はない。ひょっとするとここ数日で、長戸はシロという判断が下されたのかもしれない。

 いや、と虎次郎は首を振る。そんな楽観的な考えを持っては駄目だ。ストーカー行為をしていたのは事実だ。自動車暴走事件があったあの日、どこで何をしていたのか。たとえ京都府警がシロといっても、クロに覆る可能性はある。もう一人のストーカーが、長戸と関係しているかもしれないからだ。

「じゃ、俺が行くわ」

 少し声がうわずった。二人も緊張が伝わってしまっただろうか。

 外側にはみ出す形で作られた階段を虎次郎、寿至、円香の順で上っていく。途中、ゴミを持った四十代とみられる主婦とすれ違ったが、こちらには挨拶も交わすことなく、駆け下りていった。

 二階。奥から三番目が長戸照貴弥の借りている部屋である。栄瀬眞紀子のSNSに頻繁にアクセスしていたルーターがある部屋だ。

 部屋の前に辿りつき、二人に目配せをする。二人はぎこちなく頷いた。どこかブリキのおもちゃを連想した。

 インターホンをゆっくりと押す。部屋の中からピンポーンという湿った音が聞こえてきた。

 虎次郎の鼓動はやんでいた。さあ、やってやるぞ、という強い気持ちが支配する。

「もう一度」

 寿至の低い声に少々驚いたが、再度指をボタンに押しつけようとする。磁石のように吸い寄せられる感覚だった。

 同じだけの時間を待つ。

 しかし、物音一つ聞こえてこない。今度は虎次郎がいった。

「休みやから出かけたパターンかな?」

「寝ている可能性もあるな」

「見張り役必要やったかなあ」反省を口にし、ぼんやりとドアノブを見ていた。

 それは、単なる直感だった。なんとなく、という言葉が最もふさわしい。数年経って同じ質問されても、そう答えただろう。

 ドアノブに手をかける。金属の冷たさが直接手に伝わった。既に汗はひいている。逆に身体が暑さを忘れてしまったかのようだ。

 そろりと反時計回りに手首をひねる。ノブを回しているという感覚ではなかった。ただ、自分の手を動かした。

 後ろで円香が息をのんだのが分かった。寿至の唾を飲み込む音も聞こえた。神経が研ぎ澄まされている。二人にも虎次郎の直感が伝播したのかもしれない。

 ノブを引く。

 きいっと音を立て、ドアが開かれた。中は薄暗い。しかし、嗅いだことのある臭いを鼻が、目が、肌が、全身がキャッチした。

「二人は入ってきたらあかん」

 自分が思っていたよりも幾分冷静に声が出た。今日言葉を発した中では確実に最もスムーズだった。内ポケットに念のため入れていたゴム手袋を着用する。まさか今日役に立つとは、と今の場面にふさわしくない笑みを浮かべてしまった。

 土足のまま、玄関を上がる。数日前円香に注意したことを思い出した。

 臭いの根源へと近づくにつれ、胃からこみ上げるものがあった。こんな感覚久しぶりだ。

 分かっている。

 何が起きているか、何があるか分かっている。しかし、〝どっち〟だ? それは明確にしなければならない。

 足音を立てずに、突き当たりにあるドアに近づく。そのドアは半開きになっていた。ゴム手袋をした手で、ドアを押す。向こう側に音を立てずに動いた。

「やっぱり……」思わず独りごちる。

「寿至! 警察!」

「了解」

 やけに機械的な返事が耳に届いた。だが、今はそれが心地よかった。さすがの円香も「どうしたのー?」とは訊いてこない。何が起きているか察しているのだろう。

 ただ、ここまでを想像しているだろうか。

 黒い部屋。床一面が黒い何かで浸食されている。

 そう形容するしかないほど、真っ黒だった。ただ、カーテンが閉まっているから目は黒を写している。

 赤い部屋。

 きっとこの表現が正しいはずだ。現場検証があるので、むやみに部屋の中を触れることはできない。本来ならすぐに出て行く必要がるのだが、思わず観察していた。本当に人間にはこのような色が蓄えられているのかと思った。

 部屋の中心に、玄関先で嗅いだ臭いの元凶は佇んでいた。いや、佇むという言葉が、人間にしか使えないのならば、その表現は適切ではない。

 仰向け。これは生命で無くても使っていいのだろうか、そんなことばかりが頭を駆け巡る。

 腹部から天井に向かう何か。その何かが彼の命を奪ったであろうことは間違いない。

 そして、床に転がる、

「注射器……」

 彼は数秒停止する。

 思い違い。そう、とんでもない思い違いをしていたのかもしれない。

 虎次郎は血の臭いが充満する部屋の入り口で、長戸照貴弥の死体をじっと見ていた。

 厳密にいえば、見ていたのは、手前の空間。

 何もない空虚だった。

 そこに答えがあるのではないかと、信じるかのようにして。


 救急車が到着するより早く、警察のパトカーが到着した。サイレンは鳴らしていなかった。寿至が電話でそんなに急ぐことはない、と伝えたのかもしれない。 

 すぐさま現場が押さえられ、近隣は一気に慌ただしくなった。まだ朝も早いうちだったが、平日というこもあってか、年配の野次馬が多かった。幸いなのか、両隣の部屋に住む人は既に家を出ていたようで、この騒ぎの迷惑を被ることはなかった。しかし捜査側からみれば、重要な証人が減ってしまったということになる。

 現場に到着したのは所轄の警察ばかりだったが、すぐさま府警にも連絡がとられたようで、鑑識はそこの人間が担当した。当然所轄でも殺人事件を担当することはあるが、この現場はまさに異様であったため、そのような筋になったのだろう。

 以前の自動車事故の際にも見たことのある顔が続々とあった。しかし、波須川や舟木といった名を知る者はいなかった。

 当然のことながら、虎次郎たちは事情を聞かれることになった。棚橋という男だった。

 さすがにその応答には虎次郎一人で対応した。想像以上に二人が疲れている、というのか消沈した様子だったからだ。作り出す表情にはそれほど大事を感じなかったが、あからさまに肩が五センチは落ちていた。

 棚橋は柔和な顔立ちをしており、髪にはパーセント単位の白髪が混ざっていた。しかしそこまで年齢を重ねているようにはみえない。おそらく三十代だろう。柔らかい顔に不釣り合いなキリッとした目が印象的だった。優秀な刑事に多い目だと虎次郎は感じ取った。無論、ただの直感である。

 どのように質問されるだろうと、色々巡らせていたが、最初に私事で申し訳ないのですが、と前置きして、棚橋本人の話をされた。寿至と円香の状態からも、まずは気をほぐすのが先決だと判断したのかもしれない。娘の運動会の練習に付き合わされて筋肉痛がひどいのだ、という導入だった。

 しかし、その話がオチまで話されることはなかった。マンションの駐車場に入ってきた一台のパトカーから、若田部恭介警視正と、もう一人の男が降車してきたからである。

 若田部は背広姿だった。この気温なのにビシッとネクタイまで締めている。これまで見た印象からは大きくずれていた。平たくいえば、このような正装姿の彼を見るのは初めてだった。

 後ろからついてくるのは新顔だった。こちらもスーツに身を包んでいる。したがって、この季節に場違いな服装をしている人間が、男女合わせると五人もいることになる。棚橋をはじめとする捜査員は皆、上下青の作業着に帽子を被っていた。もっとも現場である二〇三号室に足を踏み入れている人は、特別なマスクやクリーンルームに入る時に着るような白い着衣を身にまとっていたのだが。

 おそらく若田部が以前話していた男だろうと察した。

「おはようございます。若田部と申します」

 想像より明るい声で彼は名乗った。おそらく虎次郎に対してではなく、少し離れたところにいる二人に対してであろう。二人は会釈程度に頭を傾け、こちらに歩いてきた。

「こちらは、捜査一課の浦谷。この事件を担当します。ですので、以後お見知りおきを」

「京都府警捜査一課の浦谷と申します。皆様からは色々とお話を聞かせていただくことになると思います。よろしくお願いします」

 まさに新人、といった初々しさの残る挨拶に思わず微笑みが顔に出そうになる。虎次郎が口を開きかけると、若田部がそれを制して

「ああ、私は彼のパートナーですから付いてきたというだけです。あまりお気になさらずに」

 そんなこと言われても……と虎次郎は苦笑いを浮かべるしかない。若田部と直近で会ったのは八月頭の京都タワーにある喫茶店だった。つまりもう一月ほどもまえのことになる。そのとき友好的な別れ方をしていなかったことは覚えている。しかし、今日の対応は、あくまでも付き添い刑事と、事件の第一発見者という関係だ。

 浦谷を見た瞬間、若いなと思った。そしてかつて若田部が彼を評していたことをも思い出した。たしか自由だと言っていた。虎次郎はそれはあなたも同じでは、という感情を咄嗟に隠したのだった。

 全身から若さがあふれている。割と幼くみえると形容される虎次郎ではあるが、このオーラを出すことはもうできないだろう。若さの強み、それは失敗できることだ。それは失敗を知らないことでもある。おそらく五つ程度しか年齢の変わらない彼にそのような印象を抱いてしまうのはなぜだろうと虎次郎は思った。

「お三方は、被害者とどのような関係ですか?」

 虎次郎が答えようとすると、おいおい、と若田部が制した。

「先に現場に入らなくていいんか? 証拠の宝庫だぞ」

「ちょ……それはやばいでしょう。僕まで嫌われちゃうじゃないですか」

 ズケズケと指摘をする浦谷に思わずぷっと吹き出した。若田部はさもありなんという感じで、

「まあ刑事の本質ははき違えないように」といった。

 虎次郎には理解できなかったが、浦谷はいつも言われているのか不承不承という風に頷いた。

「ああ、場所は移動した方がいいんじゃないか」

「そうですね」

 三人は若田部たちが乗ってきたパトカーの後部座席に詰め込まれる形となった。運転席側から円香、虎次郎、寿至の順である。扉の外には用心のためか、二人の捜査員が待機している。浦谷が運転席、若田部が助手席につくと、改めて同様の質問をされた。

 スーツ姿の人間がすし詰めになっているが、クーラーが効いているので快適だ。誰一人として上着を脱がないのは、何のプライドが関係しているのだろうと無関係なことを考える。

 そんなことはおくびにも出さず、虎次郎は滑らかに口を動かす。

「そちらの若田部刑事はご存じでしょうが、我々探偵業を営んでおりまして、もちろん依頼主は明かせませんが、とある事件を調査していました。その関係者の一人として被害者である長戸さんに話を聞くために来訪した次第です」

 事実だ。嘘はついていない。若田部に嘘は通じないことは以前の会話で把握していた。彼が立ち会っている以上、それは無駄なことだ。ショックを受けてまともに記憶として刻まれたか分からないが、寿至と円香にも彼らが来るまでの間に伝えておいた。

「ということは、面識はなかったということですか?」

「その通りです」

「それは他のお二人も同様ですか?」

「はい」と寿至は返事をした。が、円香は黙っている。

「……藤後」虎次郎が右肘でつつく。

「あ! ……はい!」よほど動揺しているのだろうか、反応が遅い。

 では、と浦谷は別の質問をぶつけてくる。

「第一発見者は、奏虎次郎さんだという風に認識しております。発見に至る過程を教えていただけますか?」マニュアル通りの質問である。浦谷はしっかりと体を虎次郎に向けて話している。上着の右側内ポケットに手帳が収まっているのが見えた。

 虎次郎は事細かに話した。手袋をしていたので、玄関のドアノブ意外には指紋はついていないだろう、と付け加えた。

「よく分かりました。それにしても……手慣れた感じがすごいですね。探偵ってのはそんな論理的に話ができるものですか?」

「浦谷君。彼は元々刑事だったんだよ」刑事の部分が強調されていたのを聞き逃さなかった。若田部のことだから意図的にしたのだろう。しかしそれがどのような効果を生むのかは、アクセントに気づいた虎次郎ですら分からなかった。

「どうりで……、それにしても手袋持ってるなんて信じられない」

 若田部は大きくため息をつき、何か呟いてから

「基本だぞ、以後注意するように」笑いのこもった声で言う。

「ああ、すみません。それでも以前の保険金殺人の時に洋服箪笥だったかに若田部さんの指紋があったとかでかなり揉めましたね」決して責める口調でもなければ、けなしているようでもなかった。ただ、事実を述べたというようにケロっとしている。若田部も特に気にしていないようだ。改めて自由人という称号が的を射ているという思いが強まる。

「えっと……あと質問することは……これだけですね。まずは遺体を調べた結果が分からないとなんとも」

 そう言って浦谷はマンションの方向を流し目でうかがった。逆に虎次郎から質問してみる。

「長戸さんの関係者には連絡つきましたか?」

 浦谷ではなく若田部が口を開く。

「申し訳ないが、そのような情報は開示できません」強く断定的な口調だった。反論の余地はこれっぽっちも残されていない。

 現状では虎次郎たちも容疑者であるから、何か情報を与えることによって逃げ道ができてしまうかもしれない、刑事としては当然の判断だろう。しかしどうしてもそれだけとは思えない。

 勝負、そうこれは若田部との勝負だと、勝手に認識している部分が虎次郎にはあった。その勝負は当然まだついていない。

 仮に長戸が犯人であったという証拠が見つかれば話は別だが、きっとそうではない。

 そうだ、あの注射器……。

 何かがつかめそうだ。なんだろう、分からない。

 ずっとずっとずっと探し求めていたものは、近くにある。しかし……

「奏……、ちょっと奏って!」

「え……」

 緊迫感のある震えた声に、何事かと顔を上げキョロキョロと周りを見回した。

「どうされました?」若田部が本当に心配だという風に、虎次郎の顔を覗き込んでいる。

「えーっと若田部さん? の質問に答えないと」まだ彼女の声は震えていた。彼女の中でまだ地震が継続中のようだ。いつの間にか浦谷がいなくなっていることに気づく。

「あれ、浦谷さんは?」

「私の質問には答えていただけないのですね」若田部が苦笑する。「席を外させました。というのは冗談で、現場行ってきますって飛び出したんですよ。彼なりに何か思うことがあったんでしょう。若いからね、ま、ちょっと飛びすぎてて私には理解できない所も多くあるのですが」

 虎次郎が思考を膨らませていたことを見抜いてか、筋道立てて説明された。

「まあでも、奏さんにとっては彼は邪魔だったようですし」

「それはどういう……」寿至の低い声を若田部は制する。

「奏さんが理解できればいいだけのことです」

 彼は寿至の目すら見ようとしない。寿至も黙りこくる。一瞬で理解したのだろう、この若田部という男の異常さに。以前若田部に対して抱いた印象が舞い戻ってきた。プログラム。神の傀儡。中身は本当に人間かと思うほどのレスポンス。こちらの全てをも巻き込み、そして飲み込むかのような漆黒の目。それが今、虎次郎に向けられている。

「一応、振り出しに戻りました」

 虎次郎は先手を打つ。一月近く会っていなくとも、彼ならこの一言で察することができただろう。

「一応、とはどういう意味ですか?」

 やっぱり。虎次郎は心を躍らせる。

「そのままの意味ですよ」にこやかに答える。

「奏さんの中で、本件の犯人は明白、という意味でしょうか?」

「黒板くらいでしょうか」

「グリーンですね」

「その通りです」

 もちろん、全く目星がついていないわけではない。

 それに手原めぐみの担任、そして四十万胡桃のストーカーであった長戸が殺された、という事実には驚いた。しかし現場で新たな情報を得ることができた。そのことをまだ彼の内側は考えたがっていた。

 振り出しに戻ったようで、戻っていない。

 これは明らかな進展といえた。紛れもなく、三人で勝ち取った成果だ。一人で戦っている、戦ってきたわけではない。その思いが若田部に対する恐怖を和らげていることもまた事実だった。

「さすがですね」と若田部はぽつりと漏らした。いやに人間的な口調が気になった。

「私たちも、あなたたち同様、目星はついています」

 驚いた。いやそうだ、と思い直す。

 これが若田部という男だった。

 ……あれ? 虎次郎の中で何かが引っかかった。

 奥底で、何かが。空き缶のプルトップかもしれない。何の役にも立たないガラクタかもしれない。しかしそれは一気に消散した。砕け散ったという方が正しいかもしれない。

「せっかくなので、情報提供します。おそらく、真相に近づいておられるようなので」

 左右の二人は眉にしわを寄せて同じような表情をしていることだろう。虎次郎には見なくてもそれがわかった。

「四十万胡桃が死亡した現場の近くで見つかった、というよりも、四十万胡桃が発見した死体を覚えていますか?」

「芦田渋という名の麻薬常習犯です」

「そう、彼は幹部でしたね」

 若田部はここで言葉を切った。ここまで言えば分かるでしょう、という表情をしている。

「長戸も同類だったということですね」疑問形ではなく、ある程度確信を持って語尾を下げて虎次郎は言った。

 二人は、その先の会話をしている。表向きは既に分かっていることのみを述べている。

「そうです。したがってこちらの事件の解決は簡単だと思います」

「手続きだけ、ということですか?」

「まあ、大元に手を伸ばすかどうか、ですね」

 言葉を発する虎次郎とは別の彼は、フル回転で考えていた。

 長戸と芦田を殺した犯人は同一だという示唆を若田部はしている。そして、麻薬組織の完全摘発を、京都府警はもくろんでいる。だから、まだ捕まえていない、捕まえられない、という言葉が含まれている。

 その件は、確実に警察に任せた方がよいだろう。しかし、四十万胡桃、岬結良、手原めぐみの三人が殺された事件とは関係がない。

 長戸はどのように関わっていた?

 ストーカー、担任教師。

 岬結良の件とは関わりがない、というのが現状の成果だ。

 ここに麻薬常習者という条件が加わる。

 そして昨日――

 華道サークルの三人――

 そうか、長戸はただのストーカーではない可能性が高い。

 ならば、もう一人のストーカーも……。その考えは早計だろうか。

「もう一人は、近くにいますよね?」

 さて、若田部はどう答えるだろうか。

「おっしゃってる意味が分かりません」

 分かっているはずだ。それでいて、この回答。イエスと言ってるようなものではないか。

 何故長戸は死んだ?

 何故長戸は殺されなければならなかった?

 そこに事件の鍵が隠されている。指を伸ばせば届きそうなのに、何かが阻んでいる。邪魔しているものは何だ? 誰かが邪魔をしているのか?

「それではお礼と言っては何ですが、こちらの情報も一つ差し上げます」

「情報は、差し上げるようなものではないという認識ですが、頂戴しましょう」

 若田部は口元を上げ、屈託のない笑みを浮かべていた。

「岬結良という女性をご存じでしょうか」

 常に一定だった、彼の反応に、一瞬の間が生じた。

「いえ、存じません」

「滋賀県大津市南部の石山というところで〝殺害〟されていました」

 虎次郎は発見された時の状況などを詳細に説明した。これまで何度も頭で反芻した内容だったので、スラスラと的確に言葉が出た。

「ああ、それは自殺ではないでしょうね」と若田部は頷いた後、

「辞職の原因はそれですね」

 そこまで見抜かれるとは想定外だ。

「そうです。で、調べてもらえば私の言わんとすることが分かると思います」

「分かりました。参考にします」

 若田部は手帳にしっかりとメモをしていた。

 そのときパトカーの前を横切って浦谷が戻ってきたのが目に入った。強めに運転席のドアを引き、力強く体を押し込んだ。

「暑すぎて敵わんわ、こりゃ」大きな独り言を漏らし、身体をよじって三人、否、虎次郎一人と対峙している上司の姿を見て顔をほころばせる。

「あれ? どうしたんですか? 第一発見者とやり合うなんて、若田部さんも焼きが回りましたね!」

 楽しそうにからかう浦谷に、どうにも調子が狂うなあと関西弁を前面に押し出してから、

「なんか収穫あったか?」

「いやいや、第一発見者の前ですよ……あ!」

 あまりの大声に円香はわっと声を上げた。

「すみません、大事なこと聞いてませんでした、お三方」

 彼はいよっと胸を三人の方に向けた。仕事柄言えないなら、答えていただかなくて結構ですが、と前置きして

「被害者の自宅に事前に来られたことはありましたか?」

 円香がおそるおそるといった風に虎次郎を覗き込んでいた。虎次郎は苦笑しつつも頷いて彼女に言って大丈夫という指示を表明する。

「あの、わ、私が彼を尾行して」

「へえ、ちなみにその時、彼の行動に不審な所は見られませんでしたか?」

「どういう意味です?」虎次郎が口を挟む。

 浦谷、若田部共に、ふっと口元を緩めた。「そこまで警戒せんといてくださいよ。ただの質問です」若田部が丁寧に答える。

 すみません、と非礼を詫び、円香に先を促す。

「それは奏にも何度も聞かれました。絶対に何もなかったとは言い切れないですけど、私の観察の限りではおかしいなとか、変だなって思うことはありませんでした」

 淀みなく彼女は答えた。円香が長戸の家を突き止め帰宅した際に、虎次郎と会話した内容と一致していた。

「いつですか?」

 円香はパトカーの低い天井のシミを見つけるがごとく天を仰ぎ、

「先週の金曜日ですね」といった。

「長戸氏は誰とも会うことなく、まっすぐに家に戻りましたか?」

「……はい」

「わかりました。お二人は全く無いのですか? こちらに来たこと」

「そうですね」

 虎次郎はまっすぐ浦谷に視線を送ったまま逡巡する。わざわざ周辺の聞き込みに来たことなどどうでもいいだろう。ただ、その時寿至が、長戸弥栄に会っている。もっといえば、昨日電話をもかけている。このつながりが後々ばれると面倒くさそうだ。そう判断し、彼は簡単に周辺捜査を行ったという話をした。

「わかりました」

 熱心にメモを取りながら相づちを打つ浦谷に、一つ湧いて出た疑問をぶつけることにする。

「一つだけ質問させてください」

 浦谷は若田部の表情を窺ったが、彼は何の反応も起こさない。

「その、先日は長戸の周辺を覆面パトカーが多くいたのですが、今日は全く無かったですよね? 何か理由はあるのでしょうか?」

 若田部が低く唸った。

「それはですね……」まあいいか、と蚊の鳴くような声を出して彼は続ける。

「ご察知の通り、長戸照貴弥が四十万胡桃の事件に関与していないことが分かったからです」

「なぜですか?」

「突っ込んできますね」若田部は苦笑する。まあいいと言ったからには、この情報を虎次郎、すなわち一探偵に与えてもなんら問題はないと判断したのだろう。それに、若田部自身の興味がどこか別のところに向いている、という印象なのだ。もちろん虎次郎の直感ではあるが、以前京都タワー下の喫茶店で出会ったときの彼とは明らかに何かが違う。

「長戸と、ある人物が麻薬をいつも交換している場所が特定できたからです」

「なるほど、その場所に人員を割くことになった、と」

「ええ、もう一つは、もう一人のストーカーこそが、あっちの事件においては怪しい人物だということで、人を増やしたこともあります」

 今日完全に長戸宅周辺に警察関係車がいなかったことは分かった。しかしその理由だけで長戸周辺の見張りをゼロにするだろうか。自宅にも一応人はつけるのが普通だと思うのだが。京都府警も人員不足に悩まされているのだろう、と見切ることにした。それはどこでも変わらない課題だ。

 それにしても、と虎次郎は思う。どうしてここまで若田部の態度は変わってしまったのだろう。前回の別れ際、もう何も教えない、というようなことを言っていたように記憶しているのだが。もしかすると、あっちの事件は難航しているのかもしれない。その焦りが彼の言動や思考を多少動かしたのかもしれない。

「そうそう、彼とここに来た帰り、面白いものを拾ったんですよ」

 虎次郎は聞かれてもいないのに、岬結良の免許証を拾ったという話をした。若田部に感化されたというのは言うまでもない。

「拾ったというよりかは、見つけたってことなんですけど。完全独り身の彼女が唯一といっていいつながりを見せてくれたんですね」

 岬結良が免許証を落としたであろう日にレンタカーを返却した話や、男性と一緒だったという説明は省いた。きっとこれだけの情報があれば、若田部ならたどり着けるに違いない。

「場所くらいは教えてもらえませんか?」

「ああ、これは失念してました。説明の中に入れるつもりだったんですが」虎次郎は頭を掻く。

「名神の桂川パーキングエリアです」

「ああ、生八つ橋が売っているところですか。そこなら行ったことがあります、だいぶ昔の話ですけど」若田部は何か思い出すように、舌をちょろりと出して上唇を湿らせた。

「そうなんですよ、僕らも買いました」

「買ったのは俺だが」

 久しぶりに寿至の声を聞いたので、ピクリと体が反応した。その反応を見て、浦谷はぷっと吹き出した。

「すみません、最低音だと思ったものですから」

 黙って若田部が彼の頭をはたく。

「いたっ。もう、謝ってるじゃないですか」

「謝って済むなら警察いらんって、子どもの頃教育受けへんかったか?」

 そのやりとりを見て、虎次郎と寿至は控えめな声を出して笑った。円香はどこかむっつりしている。虎次郎はその様子にいわれようもない不信感を抱いたものの、

「そろそろ解放していただけませんか? 予定もありますので。これって一応任意ですよね?」

「まあ……そうですけど。怪しみますよ、それじゃあ」

 本当に自由だ。ずけずけと本音を飛ばしてくる。

「ええ、それなりの覚悟はできています」と虎次郎は口元だけで笑ってみせた。

「いいでしょう」若田部は力強く言い切った。「奏さんは犯人ではありませんので」

 一瞬すべての音がシャットアウトされた。否、停止した。

「……おおー、出ましたね、刑事の勘。これは当たってますよ」と、浦谷がどこか暢気な声を出す。

 事実その通りだ。虎次郎は、長戸照貴弥を殺していない。何よりも本人がそれを知っている。

「まあこれはお前のヤマだから、奏さんが怪しいと考えるのなら、尾行なりなんなりしたらいい。もちろんこれは彼も承知の上だろうからだ。そういった思考のもとでの発言だろう」

 正解だ。虎次郎は心の中で苦笑すると共に、若田部には一体どのような回路が組み込まれているのだろうと、真剣に思った。

 にやつきながら「パトカーで送りましょうか」という浦谷の提言を丁重に断ると、外に出た。いつの間にか太陽が頂点に近づいていた。蒸し暑さ一転、乾いた暑さが全身を包んだ。クーラーに飼い慣らされていたからか、すぐに汗は出ない。

 車を降りてきた二人に頭を下げ、三人は駅方面へと歩いていった。


「どうした、東後?」

 長戸のマンションが見えなくなり、尾行がないことを確認して虎次郎は言った。

「なんでもないよ」

「ならいいけど」

 虎次郎は、そんなわけないやろう、と思っているだろうな、と円香は確信する。

 しかし、これは本当に一体どういうことなのだろう。

 理解が追いつかない。

 追いつこうとしても、相手がどんどん先に進んでしまう。

 いつの間にか、消えてしまう。

 けれど円香も懸命に追いつこうともがく。しかしまた離される。

 結果的に自分が不機嫌に見えているだろうと思う。

 長戸が殺されていた。それはまだいい。分かる。その後、その先だ……。

 何と言っていた?

 彼は、何と言っていた?

 問いただす必要がある。絶対に。これは、本当にどういうことなのか。

 混乱しすぎて、何をしていいか分からない。いやしかし……。

「つめたっ!」

 急に首筋に冷えたものを検知し、思わず声が出た。ただそれが自分の声だと気づくのに数秒を有した。

「何考えてるんかしらんけど、これ飲みや。寿至がおごってくれるって」

 うん、とだけ彼女は答えた。

 次の瞬間には自分の世界に入っていた。

 でも二人は何も言ってこなかった。でもどう思われようが関係なかった。これはどう考えても自分の問題だからだ。

 事件と関係しているかもしれないが、明らかに個人的な感情である。

 この感情を先に片付けないと、事件には取りかかれないし、解決できない。

 彼女は、そう考えていた。

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