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手紙を読み終えた虎次郎は、低く唸った。
「はあ、……どう捉えたらいいんやろ」
「ちょっと、奏読むの早すぎるのよ。まだ一枚残ってるから待って」
前回、探偵事務所に手原祥子が来訪した際にも同じ感想を抱いたことを思い出した。彼女は客観的な事実よりも、先入観による主観が意見の大半を占めていると分析したことだった。しかしその中に、長戸照貴弥という犯人候補が入っていたことも事実である。
虎次郎はこれまで煙草を吸ったことが無かったのだが、なぜか無性に吸いたい感覚に襲われた。
「寿至って煙草持ってたりせえへんよな」既に読み終え、目を瞑って考える彼に声をかける。
「ああ」
「……集中してる時の爆弾発言は遠慮願いたいんだけど……。まあほとんど読み終えたからいんだけど。っていうか奏って煙草吸うっけ?」
「いや、生まれてこの方一度も……。なんか頭の中を色んなものが渦巻きすぎてて、なんか最終的に一つにまとまりそうなんやけど、なんか掴めへんくて。思い切って吸ってみたら何か良いアイデアが生まれるかなと期待しただけなんやけど」
「そうなんだ……」
「短期的にみれば、ニコチンは明らかに脳細胞の活性化を促す。現実に、クリエイターという職業で活躍する人で喫煙者は非常に多い」
「まあ、煙草に関しては色んな意見があるからなあ。答えが出るのはまだまだ先になるんやろか」
「だろうな。もっとも俺は日本という国に限っていえば、煙草推進派だ。理由は控えておく。しかし、俺は吸わない」
「ああ、多分理由俺も一緒かも。まあ東後に引かれそうやから言わへんけど」
ちらりと円香を様子見たが、いつものような快活な反応は見られなかった。その代わりに、
「で、色々話さなきゃいけないことが増えたわけよね。まずはこのお金だけど」
円香の急転回はあまり慣れたものではなかったが、すぐに脳を切り替える。ニコチン無しでも十分にハンドルは切られた。もしも体内に取り込まれていたらどこまで急なヘアピンカーブに対応できるのだろうと思った。ただ、麻薬常習者と似た思考になっていることに気付き、思わず苦笑いを浮かべる。
「ええ……どうしたの? ぶっちゃけ気持ち悪いよ」
「受け取る以外の選択肢はないと思うけど、現状から鑑みて」
先ほどの円香の方向転換に負けないという想いで虎次郎も言葉を返す。
「同意だ」
「気持ちは私もそうだけど、何か怖くない?」
「現段階における、この探偵事務所の財政を考えるとそうも言っていられない、というのがコジローの意であり、俺の真意でもある。怖いかどうかは、二の次だと思うが、一応その意図するところを教えてくれ」
「さすがに偽札がどうとか疑ってるわけじゃないんだけど……。なんか祥子さんって意志が強そうな感じがしたのね。だから逆に今度っていうか、手紙の通り実家に帰って落ち着いて考えてさ、改めてお金が必要だなって思われた時に、うちに取りに来るような気するんだよね。で、そこで結局私たちが使っちゃったってなったらどうしようって思うわけ。それともう一つあって」
円香は人差し指を立てて続ける。「祥子さんの旦那さんのこと。きっとこの五百万円って祥子さん一人で貯めたお金じゃないと思うの。離婚はまだ成立してないし……。旦那さんがどこの誰か知らない奴に貯金が奪われたってなったら、訴えられたら勝てないんじゃないかなあと思って」
「なるほど。後者の意見は指示すべきだ。ただ前者は……」
「うん、手紙がある分には大丈夫だというのは分かってるよ。ただ、お金で恨みを買うようなことはしたくないというのがあって……」
虎次郎も円香の話はよく分かった。分かったというのは、理解、納得ができたという意味である。ただ、同意はできない。
「東後の言ってることは、一つの意見としてありやと思う。まえにも言ったかもしれへんけど大事なことやからもう一回言うわ」
「大事なことなら、一度だけでなく複数回言うべきだ」寿至が呟く。虎次郎は無視して、
「この探偵の仕事は金の為に始めたんじゃないってこと。結果的に仕事がいっぱい来て、いっぱい稼げたら素晴らしいと思うけど。それは結果であって、やっぱり根本にあるのは事件の解決、それしかないと思ってるし、そのために始めたといっても過言じゃない」
「それだったらお金は頂かないって答えにならない?」
「最後まで聞いて。この探偵事務所の設立は俺一人でもよかった、というよりむしろそう考えてた。けど、二人が多分一応自分の意思でもってやりたいって言ってくれたし、寿至にいたっては場所も提供してくれたりで、俺としてもちょっと責任を感じてるわけ。で、二人共お金はいらん、最初から一年くらいはブラブラするつもりやったとか言ってくれてるけど、俺としては、さすがにここまでわがままについてきてもらってるから恩返しというか、何か報酬がないと、やりきれへんっていう気持ちが最近あって。だからこそ、このお金は今後の資金もあるけど、給料として使えたらいいなあって思ってるわけよ」
「気持ちはすんごいありがたいんだけど、私の不安へのフォローはないわけ?」
虎次郎は少し間を空けてから、
「今全部使ってしまう、っていう訳じゃないからな。とりあえず事件が解決するまでは一番金銭感覚まともな俺の通帳が管理させといて、一段落してから考えたらいいと思うし」
「それはそうだな。確かに俺も多少焦りすぎていた気もする。財政的には即金欠、借金ということにはならない。水道や電気が止まるということもない」
「いや、水道って、そんな使わないでしょ、……あ」
「どうして二人には時折ここに俺が住んでいる認識の欠如が現れるのか、非常に興味深い」
「まさか毎日湯船に浸かるなんて贅沢してないでしょうね? 三人のお金だと思って」
このマンションの一室の家賃については、当初寿至の兄がこれまで同様払ってくれる手筈になっていたのだが、さすがにそれは悪いと思い、結局三等分することになっていた。
「そんなわけあると思うか? というよりその思考にすら至らなかった。むしろ円香がここに暮らしていたら、その可能性があったということか。畏怖でしかないな」
最後にいつも通りの嫌味が飛び出し、沈黙が広がった。
昨日買ってきたアイス食べよう、という円香の提案をきっかけに、周りの空気が和らいだ気がした。
円香の買ってきたのは、棒状のアイスで、木製のスティックには当たっていれば当たりと書かれているものだった。この手のくじ運は非常に悪く、これまで一度も当たりが出たことないので、まったく期待せずに食べることにする。
口に入れた瞬間、冷気が胃にまで到達する錯覚をおぼえた。しかし顔にはまったく出さずに、しっかり味わう。
「で、これからどうするの?」円香がイチゴ味の固体を口の中でハフハフさせながら訊く。熱がこもっていても冷えていても彼女はハフハフする節がある。
「うん、全然方向性は見えへんなあ」
虎次郎は正直に答えた。あまりに多くの情報がインプットされ、考えがまとまらない。
先ほど責任、という言葉を口にした時から、どうにもやりにくい。本音を伝えることがこんなに恥ずかしかったかと頭の中で首を傾げた。
「一個ずつ整理するか」
そういって虎次郎は、食べかけのアイスを袋の上に載せ、パソコン作業をする隣の部屋に入っていった。
「何持ってきたの?」
戻ってきた虎次郎の言葉を待ちきれなかったのか、円香が質問した。
「紙切れ」
「見たらわかるよ」
「じゃあなんで聞いたんや」
「それはこの前俺が長戸氏と周辺を探っていた時に書いていたものか」
寿至の指摘通り、事件について疑問点を羅列した用紙だった。この中の手原めぐみ失踪事件の一部が解決できたはずだ。
それと何よりも今後の捜査方針を決定するにあたっては、この用紙を三人で共有しておく必要があると虎次郎は睨んでいた。
「この③って書いたところやねんけど」
虎次郎はその部分を指さす。反対の手でアイススティックを持ち直した。
③手原めぐみ失踪事件
・死体はどのように見つかったか、どのような状態だったか
・担任教師、長戸照貴弥について全般
・失踪当時の目撃情報はないか
・手原祥子の現在について
一口アイスを含んでから話し始める。
「死体の状態とかは、その手紙に書かれた通り以外の解釈はできひんと思う。ほんまに自殺やったかとか、別に犯人はいるんとちゃうか、とか疑問はあってもそれを確かめる術はないと思うから。警察が自殺って断定してたら、……まあ岬結良の件は直接俺がかんでたから話は別として……、普通もっと詳細を調べることは不可能やからな」
「これまで疑いこそが人生、という態度をとってきたコジローにしては珍しい」
「まあ別の傾向も見せとかんとな」
「えっと……、じゃあこの一つ目は解決したってこと?」
「解決……、うん、ひとまずは考えへんくて良くなったってことかな。でもう一つ、手原祥子の現在って、これも手紙通りという解釈しかできひんかなと」
「一応確認なのだが、手原祥子犯人説は取り上げる必要はないか?」
まったく考えていなかったので、一瞬言葉を失う。
「それって、ここに来て私たちと話した、あれが全部演技だったってことになるよね? それは考えにくいんじゃない? 私にはそんな風に見えなかったけど……」
「それは俺も見えなかった。けれどもだからといって、排除するわけにはいかないだろう。もっとも警察のように片っ端から可能性を潰すやり方ができないことは理解しているので、犯人である可能性がゼロではないからといって徹底的に調べようなどとは考えていない」
「なんか、かなり探偵業が板についてきた感じするなあ」
虎次郎はそういって、またアイスを一口かじる。当たりなら、そろそろ文字が見えてもいい頃なのだが、見えないということは外れたということだ。
「動機は確かにあるかな。夫と別れたかったけど娘が邪魔やったっていう」
「うへえ、実際にそういうのあるんだ」
「刑事やってた時に実際に担当したのは一回だけやったけどな。まあ手原祥子が犯人っていうのは考えにくいんとちゃうかな。彼女が犯人やったとして一番理にかなってない行動は、この探偵事務所に来たことやろう。犯人にメリットがない。黙っといたら、ただめぐみさんが自殺してるところを発見されて、泣いてればいいだけやから」
「……言い方!」
「歯に何か着せたらアイス食べれへんようになるやろ?」
「コジローに質問。現実的に首つり自殺と、他殺、すなわち他人に縄をかけられた状況を見分ける方法はあるのか?」
「おっと、いきなり核心つくやん」
頬を膨らませていた円香も、興味深げに虎次郎を見つめていることに気付き、一つ咳ばらいをした。棒にへばりついていたアイスの残りを横からはがしとるようにして食べ、話し始める。
「その質問から最終的にたどり着くところは、警察の断定は正しいかの答えが知りたいねんな」
「その通りだ」
「……いやいや、その通りだ、じゃないよ。全然追い付けない」
「ごめんごめん、先にこっちを答えた方が良いかと思って。寿至はせっかちさんやから」
「御託はいいから、早く質問に答えてほしいのだが」
「お、あえてのってくるのは久しぶり。えっと……」虎次郎は専門用語の扱いをどうすべきか考える。
「めぐみさんの死を自殺前提で進めるしかないって判断したのは、警察の判断が正しい可能性が非常に高いと思ったっていうのはある」
そう前置きして、虎次郎は他殺と自殺の見分け方について話し始めた。もっとも伝聞した情報が多く、自らが見聞きした生の声でないのは少し申し訳のない気がした。
見分ける方法はいくつかあるが、虎次郎は三つつ例にとって説明した。
一つ目はドラマや漫画、小説において出てくる有名な、吉川線。
縄や紐などで首を絞められた際にもがいて縄を外そうとすることによってできる頸部の傷のことを吉川線という。通常の首つりにおいては、吊った瞬間に意識が飛ぶので、縄をとろうなどという余裕がない。したがって、首つり死体に吉川線があれば、絞殺された後に吊られた可能性が高い。
二つ目は溢血点の有無である。通常窒息死の死体には、粘膜に点状の出血がみられる。当然首つり自殺の場合も溢血点が発生するが、首つりは頸部の動脈が完全に閉塞してしまうので、首から上には溢血点がほとんどみられることはない。したがって、完全に身体が宙に浮いている状態で見つかった死体において、目の結膜などに、溢血点がみられた場合は、死後、首つりに見せかけられた可能性もある。
そして三つ目。これが決定的であり、おそらく今回のケースでも決め手になったと思われる失禁だ。自殺者が女性であるため、公にはならなかったと推測されるが、首つりであったならばほぼ確実に死体の真下に失禁跡がある。失禁跡がなければ、別の場所から移動させられたと考えられる。すなわち先述の二つで自殺の可能性が高いとなった場合でも、違う場所にて首つりさせ、当該場所で吊るし直した、つまり第三者が関わっているのは確定的だ。
「……こんな感じかな。で、当然こういうのを全部踏まえて警察は判断するわけやから、首つりのケースで自殺って断定したんやったら、ほんまに自殺やった可能性は高い。ただし――」
虎次郎は息を吸い込んだ。これまで連続的に声を出し続けて疲れたというのはある。それよりも、二人の耳を引き付けようという意図があった。
「一人でそこにいたっていう証拠にはならへん」
二人の反応は予想通りのものだった。寿至は何の変化もみせず、黙って腕組みを継続していて、一方円香は、丸く目を開いて、首を縦に大きく上下させていた。大げさに頷くという形容ができるが、彼女にとってはデフォルトである。
「首つりの場合、根本的には死ぬ意思があったのかが重要になってくる」
「どういうこと?」
「えっと、他人が関与してようがしていまいが、縄……ってめぐみさんが実際にどうやって首つりしたかは分からへんけど、その縄に首をかける意思を自殺者本人が持っていないと、首つりは起こらへんってこと。で、めぐみさんのケースやと自殺ってことは断定されてるから、意思はあったことになる。けど、他人が関与していたかどうかは、わからへん」
「ああ、十分条件ね」
円香の言っていることの意味が分からなくて、しばらく返答に窮したが、
「必要条件やな」としたり顔で返した。
もちろん、『自殺する意思があった』イコール『自殺をした』ことが、『他人が自殺に関与している』ことの必要条件、という意味である。
「どちらでもないような気がするが……」と寿至が口を挟む。「しかし本質ではなさそうなので、この際議論は止めておこう。つまり俺の問に対するコジローの回答としては、首つりというケースにおいては、自分で縄をかけたか、他人に縄をかけられたかの違いは分からない、ということで良いな?」
「そういうことやな。ただ、めぐみさんに自殺の意志があった、っていのが確定的ってだけ」
「よく分かった。では次」
いつの間にか、寿至が先導役を担ったようだ。事務所設立当時は、最も探偵という仕事を遠ざけていたようにみえた彼が、先日の長岡京での聞き込み捜査で探偵業に積極的になったことはいうまでもないだろう。
「失踪当時の目撃情報はないか、ということだが、これはあったところで……といった気もするのだが」
「いや意外と重要かもしれへん。えっと手原祥子の手紙にあった、彼氏と思われる人……、ああ、外川靖也」虎次郎は手紙の文字を指でなぞりながらその名を見つけて読んだ。
その瞬間円香がぴくりと肩を動かした。どうしたのか訝しみ、顔を覗きこもうとしたが、別段変わりなかったのでそのまま気にせず続ける。
「普通に考えたら、高校生同士の恋愛やんなあ」
いつもよりゆったりとした口調で言った。
「……高校生なら学ラン姿、と言いたいのか」
寿至が最も言いたかった部分を先取る。三つの事件にたびたび登場する学ラン姿の男性に結びつけて考えてしまうのは当然といえた。
「うちの県ってどれぐらいが学ランなんやろ」
「私たちのところは学ランだったね」
「うん。偏見を持つ俺の親に言わせると、偏差値の高い高校は学ランらしいんやけどな。まあ狭い部分に限ればそういう見方もできるけど。ただ、手原めぐみの通ってた高校は、ブレザーやった……はず」
もう朧気となってしまった記憶を辿って思い出そうとする。
「うん、間違いないよ。私そこの制服憧れてたもん、女子のだけど。あ、制服だけだよ、憧れてたの」
「ってことは……、ってちょっと早計過ぎかな?」そういって虎次郎は頭を掻く。
外川靖也という男が、学ランを着ていたなどといった情報はこれ一つとしてない。名前も初めて聞いたのだ。連想は容易だが、それを前提として話を進めるのはいかがなものかと思った。
「いや、意外と早計じゃないかもしれないぞ」
寿至は体を十センチほど乗り出して、先ほどの虎次郎と似たような台詞を吐いた。
「コジロ―のメモにもあるように、この三つの事件を時系列に並べたら、関連している可能性は非常に高い。更に、それぞれの事件に謎の男子高校生が関わっている。<マイルドリンゴ>に現れた高校生探偵。岬結良の自宅周辺で目撃された学ラン姿の男性。そして、この手原祥子氏の手紙に書かれた、外川靖也。手紙からこの男の詳細を掴むことはできないが、以前円香が話していたことから、この男がミスしたとは考えられないか?」
虎次郎は目の前の机をぼんやり見ながら顎に手を当てて考える。視線は焦げ茶色に注がれているが、焦点は空中にあり、何も見えていない。
寿至の疑問は的を射ている。
手原めぐみの知り合いに円香があたった後で、二人に語った仮説である。犯人が一人っ子、あるいは独り身の女性を狙っているのではないか。めぐみは違ったが、両親がいないことを、担任の長戸にすら黙っていたことから、犯人は勘違いしたのではないか。
虎次郎は静かに息をのむ。ようやく寿至の思考に追い付いた。
つまり――
その犯人の勘違いは、この手紙に名前となって現れたのではないか、ということだ。
筋は通る。ということは、この外川靖也という男が犯人なのか。
ただ――
「長戸照貴弥は? あ、そうか!」
名前を口に出してみて一つの可能性にぶち当たる。
「偽名……?」
「そんなはずないだろう。長戸と外川靖也が同一人物である可能性は少ない。なぜなら年齢が違う。さすがに三十をこえた男が学ラン姿でうろついていたら、怪しすぎるし、印象にも残りすぎる。長戸はストーカー行為をもはたらいている。積極的に顔をみられるような行動には出ないだろうと思うのだが」
寿至にそういわれたものの、どこか釈然としない、納得できない思いが頭を支配していた。
「確かに怪しいけど……、じゃあ長戸は何者? ただただストーカーしてたにすぎひんってことか……」虎次郎は独り言のように呟く。
「……どうした?」
寿至のいつもより半オクターブ上がった声に、さっと顔を上げて反応する。どうやら円香に声をかけたらしいことが、彼の視線から推察された。そういえば先ほどからまったく話に入ってきていない。
「ついてこれないか?」といつもの軽口を寿至は叩いたが、まだ無反応である。
「東後さん、どうされましたー?」
少し大きめの声を出したところで彼女がガバリと上体を起こした。
「え? 私? 何、なんかあった?」
「ちょっと……ぼーっとしすぎちゃう? それとも何か、目ぼしい考えでも浮かんだか?」
一寸間をおいて彼女は答えた。
「ごめん……ちょっと別のこと考えてた……かも」
予想外の返答に二人は戸惑いつつも、
「えー? ぼーっとするタイミングやなかったで」
「おいおい、せっかくお前の仮説が日の目を浴びたというのに」
「ごめんごめん」円香は身体を丸めて、合わせた両手を頭の上に持ってくる。最大限の謝罪ポーズだ。
「まだ体調悪いん?」
「そんなことないよ」立ち上がり、冷蔵庫の方へと向かっていった。一瞬だけ、真っ赤に染まった横顔を拝むことができた。
椅子に戻ってきたときには、いつもの円香に戻っていた。
虎次郎は話を再開させる。
「でもさ、長戸の偽名が外川靖也やったら、結構辻褄合うと思うねんけど」
「たとえば?」
「偽名の理由は、教師と生徒が付き合ってるのがばれたらまずいから、長戸から手原めぐみに提案したんとちゃうか、とか。それに教師やったら学ランなんてすぐに手に入るし」
「それなら、長戸と外川靖也はまったく関係のない人間で、二人存在する、という方が道理に合っているのではないか?」
寿至の指摘を受けるまえから、虎次郎の腹の内は決まっていた。次に起こす行動は、一つしかない。
「長戸照貴弥に直接会おう!」
虎次郎の強い口調と、熱い目に二人は首肯するのがやっとのようだった。
刑事になったときからずっとそうだった。誰かが言わなければいけないことを、ずっと最初に言ってきた自負がある。
それで事件が解決するのか?
その答えは、行ってみなければ分からない、である。もちろん綿密な計画や準備は必要だろう。そうしなければ危険極まりないケースもままある。しかし、尻込みし続けて、結果的に欲しかった情報が得られないケースも多い。
長戸に会うことは、当然長戸の自宅周辺を見回っていた警察たちと鉢合わせになる、あるいは、職務質問と称して、虎次郎への嫌がらせをしてくることだって考えられる。それが若田部警視正のやり方だからだ。
かといって、長戸に会わなければ何の進展もないだろう。
三つの事件で姿を現す謎の学ラン男。また、今回の『外川靖也』。まったく長戸には関係のなさそうな二つのピース。しかし少なくとも長戸は、四十万胡桃のストーカーだったという証言がある。更には手原めぐみの担任教師という肩書。
二人には黙っていたが、虎次郎は昨日、レンタカーショップに行ったあと車を京都方面に向け、以前円香が会った華道サークルの三人組と会っていた。
円香の得た情報の真偽を確かめたかったわけではない。疑おうという理由がなかったからだ。しかし彼女は一つ質問を忘れていた。その質問をぶつけるべく赴いたのである。
それは、京都府警の若田部警視正との話にあった『ストーカーは二人いる』件だ。
一人目は長戸照貴弥であり、円香が興奮冷めやらぬといった感じで伝えてきた。しかしその衝撃によって、二人目のことを失念したのである。もっともそれは正常な反応であるといえた。
虎次郎が三人から得た情報、すなわち二人目のストーカーに関して、驚愕の事実が浮かび上がってきた。単に疑問を投げかけた際の反応には直接現れなかったものの、代表者である栄瀬眞紀子の口から伝えられた事実から、組み合わさってできた推理は核心をついていると彼は強く思った。もちろん願望などではなく、客観的にみても、導き出された解は妥当なものに思えた。
しかし当然分からないこともある。それが何かすら、実はまだつかめていなかった。手原祥子の手紙も、その説に反論できるものではなかった。
長戸の家には行かなければならない。その決意を強くしたのも、昨日の三人への聞き込みが前提にあることは間違いない。
そしてその情報は、確実にこちらの武器になる。
犯人だと断言することはできないが――
もう一人のストーカーは、あの人だろう――
円香は一連のやりとりを、上の空できいていた。
一抹の不安を拭い去ることが、ずっとできないでいた。その名を耳にした時から、胸の鼓動がトクトクと問うように波打っていた。自分自身に、何か思うことがあるのではないか、と。寿至の問いかけによって、少しは落ち着いたようには思えたものの、その後でその名前が出るたびに、瞬時に喉から水分が奪われるような気分にさせられた。
外川靖也とは、いったい何者なのだろう。
彼とは関係があるのだろうか。
似ているのは確かだ。しかし、似ているだけであるとしか思えない。そんなことをこの二人に打ち明けても、おそらく何にもならない。
長戸照貴弥の家に行くことになった。理由は分からないが、円香の奥底にいる自分が、行かない方が良い、と告げていた。なんとなく、行きたくない。
長戸と直接やりとりしなければ進展がなさそうだというのは理解できる。しかし、どうも彼が犯人であるとは思えない。もっとも長戸の家に行って、確かめればいいことだ。それはわかる。けれど……
何が不安にさせるのか分からない。
高校生――
まさか彼が。
いや、そんなはずはない。
ないまぜにさせられた感情が、答えを求めて内側から逃げ出しそうになるのを必死でこらえながら、円香は必死で事件のことを考えようとしていた。




