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「実は俺、高速道路を運転するのは教習以来なんだ」
衝撃のカミングアウトは、名神高速道路に入る直前だった。
虎次郎が何もいえずにいると、寿至はなおも続ける。
「心配するな。こう見えても安定してるな、って教官からは言われていたのだから」
「それっていつの話?」
「八年くらいまえかな。しかしもう一つ、心配には及ばない理由があるぞ」
「何?」
「これから通る道は、助手席から見たことがある」
「……何回?」
「一度だが?」
「そうすか」
虎次郎の憂慮を察したのか、彼はより冷静な口調になって、
「一度でも通った道は忘れないし、当然自分が運転している、という感覚で助手席に座っていた。だから大丈夫」
「……まあ運転スキルを信じてへんわけとちゃうけどさあ。誰だってそういう時はあるし」
寿至にも聞こえるようにはっきりと溜息を吐く。
岬結良の家からの帰り道、石山寺近くの蕎麦屋で昼食を撮りながら午後からの捜査について話し合っていた。
動けるうちに動いておいた方が良い。
一旦岬結良の自宅周辺をうろついていた学生は棚上げしておき、長戸照貴弥について調べるというはこびとなった。長戸の捜査時期はある程度考えないといけない、と考えていたものの、寿至のもっともな意見に押されてしまった。
「確かにコジローが直接長戸の家周辺を歩き回るのは危険だろう。警察関係者から目をつけられている可能性が高い。それはあの紳士服店に行った時の店員の反応からみても間違いないと考える。ならば俺が対応してみてはどうか。あまり気が進まないが……。見学くらいなら誰にも怪しまれることなくできると思うし」
更に寿至は事件に関する所見を述べた。
「俺もコジローに同感で、京都府警でも確実に長戸は犯人候補の一人となっていると思う。ストーカーは二人いる、二人共四十万胡桃と同じ大学に通っていると若田部は言ったのだろう? ならば、長戸が本当に通っているのかを調べてから判断しても良いのではないか? それに彼の周辺を調べてみて警察関係者がいるかどうかも確認すべきだろう。一度調べるだけで白か黒か、判断ができるのならば、行動は早い方が良い」
一度事務所に戻ったあと、寿至を残し、虎次郎は自宅に向かった。そこで車に乗り再び事務所へと再度戻る。
寿至を乗せ、長戸を追跡した際につけた長岡京へと向かおうとすると、彼から待てが入った。自分が運転する、と言う。
一瞬躊躇ったものの、すぐに了承の返事をした。運転自体が嫌いではなかったが、運転しなくて済むならそれに越したことはないと考えたからだ。それほど急ぎではないが、大してお金もかからないので、高速道路を使うことにした。
午前中に自転車で通った道を今度は自動車を走らせる。スピードの違いを寿至は説いていた。瀬田の唐橋を渡り、瀬田西インターチェンジから名神に乗る、そんな道程である。
寿至は特にスピードを出すでもなく、殊更にスピードを落とすでもなく、単調な速度で車を走らせていた。高速にのってもそれは変わらなかった。
「……めっちゃ普通やん」
ただ不安を煽られただけの虎次郎であるが、内心ほっとしていた。
「そうだな。想像よりも問題なかったことに、俺自身驚いている。が、予防線を張った時は大概こうなるよな。本当に不安なのは危険を予測すらしていない時だから」
「まあ……確かに。でも予防線張るってのは別に口に出す必要はなかったんちゃう? 寿至が自分の中で危険予知さえしといたらいい話やろ」
「事故を起こしてから言ったのでは怒りの度合いが違うだろう」
「不安になって心拍数上がったら寿命短くなるやん」
「コジローは長生きしたいんだったか。それは忘れていた」
話がちゃんと噛みあっているかは判別できないが、特別問題は起こらないまま目的地との距離を着実に縮めていく。
平日の昼間ということもあり、交通量はかなり少ないといえた。スムーズに進むことができた理由の一つだろう。
ナビに従い、大山崎ジャンクションで高速を下り、一般道に入る。十分ほど走らせると、長岡京駅と書かれた案内標識が目につくようになった。
「さて……俺の案が採用されてここまで来たのはよいものの、どういった手順、方法で調べていく?」
「……そこがやっぱ問題よなあ」
「是非ともここは元国家の安全を守護してきた者の知恵を拝借したいところだ」
逆の立場、すなわち虎次郎が立案して皆の賛同を得て、それでいて肝心の部分が抜け落ちていたとしたら確実に嫌味を言ってくるくせに、と思ったがこれが彼の平常運転だと諦めて思考を切り替える。
大々的な捜査はできない。そもそも二人で可能な大々的な方法があれば教えてほしいところだが。とにかく人員をかけることはできないし、ある程度方針は絞らなければならない。それが組織で働く人間との違うところだ。
岬結良の件とは異なり、家の場所すら分からない。長戸照貴弥が帰宅時、長岡京駅で降車したというだけのことだ。もっといえば、百パーセント長岡京から通っているという保証はない。だからといって、全て裏を取ってから行動するのでは、人海戦術が使える組織、つまり警察よりも先に犯人を捕まえるなど、到底不可能である。どこかで割り切らなければいけない。
理想としてはじっくりと考えて方針を決めるべきだろうが、もう駅が近づいてきておりうだうだ言っていられる状況ではない。したがって長戸は長岡京から高校に出勤している前提で調査するしかない。
窓の外を見る。住宅やアパートが立ち並んでいる。小学校低学年だろうか。子供がランドセルを振り回しながら走っている。
どうやって長戸の家を見つけるか。
虎次郎の心を読んだかのように寿至がタイミングよく質問してきた。
「長戸氏の家について、見当はついていないのか?」
「まったく知らん。あ、けど東口から出て、でかい会社を左に曲がっていったってことだけ分かる」
「まさか尾行を考えて直線ルートで帰らないなどは考えにくいよな?」
「長戸がほんまに大学に通ってるってなったら余計にそういえるやろうな。だって仕事しながら大学通うって、絶対に時間足りひんやろ」
ただでさえ教師は部活の顧問も含めて学校に、生徒にかける時間が長く、ニュースでも取り上げられることも多い。そんな制約ある中で大学に通って勉強するとなると、一秒でも時間が惜しいはずだ。その状況で回り道をするなど、到底考えられない。ただそれは、大学で授業がある期間の話である。高校が夏休みかどうかは今の教師にとってはあまり関係ない。一昔前なら、生徒と同じ期間の休みが与えられたものだったが、とうに夢物語だ。
虎次郎はその内容を寿至に補足として説明する。
「なるほどな。しかし俺は先にコジローが言った、時間が足りない、という点にかなり同意しているんだ。結論を言うと、俺は家に帰るのにわざわざ遠回りをすることが理解できない。たとえ誰かに追われている、となっても。時間が何事にも変えられないのは自明だし。時は金なり。まあ日本に起源のある言葉ではないが、誰しもが思っていることだろう。そもそも、というか合理的な解釈を与えるとすると、今回のケース、長戸が尾行を警戒するという前提があるわけだ。ここで尾行を警戒して直線で家に帰らないメリットを考えてみる。何があるかねコジロー君」
彼はハンドルを持っていた左手を虎次郎に差し出し、どうぞという形を作った。
「言いたいこと分かったから答えたくないねんけど」
「お前そんな風に学校で答えたら、廊下でバケツ五つ、おまけで二つコースだぞ」
「何それ」
「ものの例えだ」
「そうっすか」唸るように溜息を吐きながら答えを捻出することにした。「まあ最大のメリットとしては単純に自分の家が他人に見つからないって最初は思ったけど、これは違うよね。執念深い奴、まあ一般的には警察になるのかな、そいつらが絶対に見つけてやるって強い気持ちで戦闘態勢をとってきたらまず太刀打ちできひんやろうね」
寿至の言った前提を崩す意見だったので、ちらりと彼を見やったが特に何も反応はなかった。それを確認して続ける。
「……ってこれが言いたかったんやろ?」
「まあそうだ。俺が言い出してしまった過ちを認めたくなかっただけだ」
過ちを認めるのは嫌なのに、それを口に出すのは問題ないのか、と少しおかしかった。
「つまり、長戸氏は真っすぐ家に向かったとみなして問題ないだろう」
「うん、じゃあこんなんどう? とりあえず長戸が通ったと予想されるルートを走ってみて、警察っぽい車探すってのは? 俺やったら一目でわかるやろうし。見つからへんかったら、長戸は怪しまれてへん、で終わり。沢山見つかったら、そっから長戸の家を割り出す」
「おおむね賛成だな。ただ、長戸氏の家を割り出すなんて芸当可能なのか?」
「多かったらできるな。一台しかなかったら絶対無理やけど」
長岡京駅を通過し、長戸照貴弥の通ったであろう道を走らせる。またランドセルを振り回す小学生を発見した。おや、と虎次郎は思った。九月一日にから新学期という中学や高校は増えたときいたが、小学校もそうなのだろうか。虎次郎が小学生の時は、八月いっぱいは夏休みと相場が決まっていたものだったが。
無言のまま車は交差点を右に曲がったり、左に曲がったりしていた。長岡京駅に設定されたままのカーナビは、何度もルートから外れています、と告げてきた。しかしそんなこと気にならないほど集中していた。警察の車、覆面を見つけたところで、この車のスピードを落とすことを何度も繰り返せば、怪しまれるのは必至だ。職務質問に遭うことも考えられる。
「警察の車があったとしても、それは長戸氏を追っているとは限らないのではないか」
突然、寿至がまっとうな指摘をした。
「そうなんよね。それも一台やったら無理って話で、ぶっちゃけるとさっきから三台は見てるから多分ここにいると思うで」
「本当か? いやはや……元刑事の観察眼はやはり馬鹿にならないな」
「一旦駅に戻ろう。ナビさんも怒ってるみたいやし」
駅前のスーパーマーケットに車を停める。平日ではあるが駐車場は半分近く埋まっていた。
ガソリンがもったいないからと、一度エアコンを止めてみたが、すぐに額に汗が溜まりだしたのでつけ直した。
「とりあえず長戸の家はこのへんやな」
虎次郎はナビのある一点を指さした。先ほど通っていない道に面した住宅街である。張り込んでいる覆面の位置から間違いなかった。
「三台も見つけたっていうのは、なかなか多い、というか信頼できるのではないか?」
「そう、でも、俺らがうろついてた道だけで三台もってのはもう確定というか、逆に怪しすぎるって印象を受けてしまうほどやな」
「そうだろう。その点どう捉えればよいのか、と思ってな」
「別の大事件の可能性もあるってこと? まあ、それはこれから調べたらいいやろ」
虎次郎は続けて寿至に指示を出した。
まず、寿至一人で徒歩での調査をすること。ここから先、同様に車を使っては確実に警察に目をつけられる。それに虎次郎の顔は京都府警の一部の人間に割れている。さすがに現場に四十万胡桃の事故の際に現場まで来た刑事は若田部一人だったが、他の刑事にも虎次郎の人相は伝えられているだろう。
次に周辺住民への聞き込みである。ジャーナリストを装って質問すること。こういった時のために、名刺を作成しておいた。といっても実作業者は円香であるが。とある事件を追っているので話を聞かせてほしい、と持ちかける。取材費を渡してもよい。そのシーンだけはあまり警察には見られないようにする。仮に見つかって警察に何か聞かれるかもしれないが、その時は正直に答える。ジャーナリストと言っても、個人でやっており、会社等はまだ設立していない、いわばアマチュアであることを。とにかく趣味であることを強調すること。
内容は主に二つ。警察の動向、そして長戸照貴弥という人物を知っているか。相手の態度によって前者の質問だけ、もあり得る。
警察の動向については、何よりもこの覆面パトカーの多さに起因した質問だ。住人の多くは職務質問、あるいは聞き込みを受けているだろう。何の捜査か、それが分かればよい。
後者である長戸の質問については、かなり踏み込んだ個人情報なため、ごり押しで質問することはできれば避けたい。お喋り好きな主婦に当たれば勝手に答えてくれる。可能な限り、それを待つ。
寿至の心臓を考えて、緊張から会話ができないなどという心配は無用だ。ただ、やりすぎを危惧するのみ。そう思い、虎次郎は一つアドバイスをした。
「ジャーナリストを演じるだけやから。ただ、正体がバレへんかったら良いだけ」
とは言ったものの、彼が学生時代にステージに立つ等、演劇していたなど耳にしたことはなく、逆に不安を煽ってしまったか、と思った。が彼は反して
「慣れたもんだ。いつも通りで良いってことだろう」
「……ちょっと待って、いっつも演技してるってこと?」
「ノーコメント」
どことなくいつも通りのやり取りにも、ぎこちなさを感じたが、気のせいと思い込み彼を送り出した。午後六時に車集合と声をかけて。
三十秒後、寿至がとんぼ返りしてきた。
「コジロー、一つ教えてくれ」そう言うと、一つ唾をのみ込み早口でまくし立てた。
「お前はこの事件をどうしたのだ? この事件とは、一連の事件と捉えてもらっていい。解決できたら何が生まれるのだ? 誰から報酬を受けとることができるでもなく、被害者はほぼ全員が独り身で、感謝されないかもしれない。もしかすると京都府警や滋賀県警からは感謝状をもらえるかもしれないが、無論本意ではないだろう。報酬に関して俺は別にどうだっていいんだ。なぜなら元々一年くらいはぶらぶらしようと考えていたから。しかしコジローは違う。探偵業を立ち上げたいと言い出した。すなわち、この事件によって対価が得られないことは成立していないわけだろう。それを許容することは、下手するとノーギャラで今後の依頼を受けてしまいかねない。それは仕事ではない。ボランティアだ。奉仕は人としては良いだろうが、自分という一人の大人としてどうなのか。結果として誰かに迷惑をかけるのならば、事務所を立ち上げた者、すなわち社長としての責任問題に発展するぞ。やはりこの疑問の解なしに行動には移せないと判断した」
以前にも回答したような気がしたが、やはり午前の自転車によるダメージが蓄積されたことで改めて沸々と湧き上がってきたのかもしれない。
後半の指摘は厳しくももっともと思える、社員からの声だった。それはかつての上司、塚崎と似通っており、そう考えて思わず苦笑いした。また、午前中に自分が考えていたことを見透かされていたのでは、と胃が二センチほど上昇した。
「長々としたご意見はありがたく頂戴します。ただ、返答は一言、三人で協力したら無理と思われる事件でも解決できると思ったから。以上」
本心だった。京都府警の警視でもある若田部よりも早く事件を解決したい、元上司の塚崎をぎゃふんと言わせたいといった目的に対する手段に他ならなかったが、その理由が全てだった。寿至の疑問の解にはなっていないかもしれないが、他に答えは持ち合わせていいなかった。
そんな懸念を奥底で吟味するかのように寿至は大きく頷いて、何も言わずに踵を返した。
虎次郎はカバンを持って五百メートル北西にある阪急京都線の長岡天神駅に歩いた。駅周辺にはカフェが多数あることは調査済みだった。
その中の一つに入り、アイスコーヒーを注文する。例によって一口目をブラックで飲み、しかめ面を作ってからミルクとシロップを投入した。
ストローを使って含み、糖分が十分脳内に行き届いたのを確認してから、彼はカバンからノートを取り出した。A4サイズの無地の新品ノートである。事務所と全く異なる環境で完全に思考をゼロにして考え直そうと思い立ったのである。人差し指と中指で挟んでいたシャーペンを、親指と人差し指にかかるように一回ししてから取り掛かる。
まず時系列順に並べて書く。
二月某日 岬結良の死亡推定時期
七月二十三日 岬結良の死体が発見される
七月二十四日 四十万胡桃と芦田渋が事故に遭う(殺害される)
八月六日 手原めぐみ失踪する
八月十二日 手原めぐみの死体が発見される
一連の事件の共通点は被害者が全員兄弟のいない一人っ子だということ。滋賀県、または京都府の南部で起きたことである。
共通点の可能性としてあるのは、全員一人暮らしであること。手原めぐみは実際には両親と生活していたが、周囲に偽りの情報を漏らしており、それを犯人は誤認した、という円香の推理があった。犯人のミスか、無関係かは現時点で不明であるが一考の価値はある。
こうして並べると、どうも岬結良の死体が発見されたことが皮切りとなっている感は否めない。
続いて、それぞれの事件の詳細を書かずに、疑問点のみを羅列してみる。ひょっとするとこれまで見えてこなかった共通点が見つかるかもしれない。
①岬結良が腐乱死体で発見された事件
・被害者がマイナンバーカードを持っていたのはなぜか、犯人が持たせたとは考えられな いか
・マイナンバーにより早く身元を判明させたかったのであれば、なぜ死体が見つかりにく い場所に放置されていたのか
・死亡推定時期前に岬結良の家近辺で姿を見せていた学生は何者か
・仕事を辞めたのは本当に天職が見つかったからか
②京都自動車暴走事故
・芦田渋は誰に殺されていたのか
・犯人はどこに逃げたのか
・犯人はどのような手段で車から消えたのか
・<マイルドリンゴ>に現れた高校生探偵は何者か
・四十万胡桃のストーカーについて長戸照貴弥でない方は誰か
・事故前にすれ違った人は何者か(女性か、男性か)
・その人をどうしても思い出せないのはなぜか
③手原めぐみ失踪事件
・死体はどのように見つかったか、どのような状態だったか
・担任教師、長戸照貴弥について全般
・失踪当時の目撃情報はないか
・手原祥子の現在について
書き忘れていることはないかと虎次郎は唸りながら考える。まだありそうだったが、ひとまずこの辺りでペンを置くことにする。
謎が多すぎるな、と彼は苦笑いした。しかし改めて三つの事件がつながっている可能性は高いと踏んだ。例えば長戸照貴弥の名は②と③に出てくるし、謎の学生は①と②に登場する。
また、手原めぐみについての情報が明らかに不足しているとも感じていた。事件発生から間もないこともあるが、もっと広く深く知る必要がある。
とにかく方針がぶれにぶれている今、方針は決めないといけない。
やはり、長戸照貴弥に関する捜査を一通り終えたら、手原めぐみ近辺をあたるべきだろう。殺人という報道はないものの事実確認はしなければならない。
考えがまとまらないのは、単に情報不足だったというのがはっきりしたところで、目を瞑ってあらゆる可能性をしらみつぶしに探ってみた。ただもちろん論理的な解にはたどり着けない。枝分かれが激しすぎる。まだまだ序盤。しかし……と考える。ピースはほとんど出尽くしているようにも思えていた。これは勘にほかならない。たった一つ、その一つがかみ合えば連鎖的にパズルが出来上がっていく、そんな気がした。
午後六時ちょうど。まだまだ暑い太陽が照り付けている。寿至が運転席に身体を滑り込ませた。
「お前はどこの機械やねん。てか測ってた?」
「いや、測定などしていない」
「じゃあ機械やわ」
いつもより顔が火照っている。普段まったく運動しないと言っていたからだろうと思ったが、それは間違いだった。
「長戸氏の妻と話をしたぞ」
突然報告が始まったから、という理由ではなく、虎次郎は寿至の話す内容が理解できなかった。約五秒の空白があり、再開された。
「危なすぎるやろ! ってかちょっと待って……。色々待って……」
両手で頭を抱えて前に倒す。首を通るリンパを刺激するためだ。
「ジャーナリストってのは本当に便利だな」
「いやもう、天才ぶりに呆れるわ」
「おう、聞き込みの才能あるかも」彼は臆面もなく言う。
「ほんまにそうやわ」
寿至の話によると、警官らしき人物、つまり住人ではなさそうな人物を複数人見かけたらしい。平穏を知らないので何ともいえないが、住宅地の雰囲気がただ事ではない、という印象を持ったらしい。
警察は何を隠すでもなくストレートに事件の捜査をしているようだ。つまり京都自動車暴走事故の捜査をしていると明かしている。それを確認すると寿至はこのスーパーマーケットに戻ってきた。さすがに住宅街をうろつくことのリスクは取れないとのことだった。この点に関して、虎次郎はファインプレーだと思った。昼間のスーパーマーケットは万引きの温床であるが、殺人事件の捜査ではあまり足を踏み入れない。というより、そこまで人員を割けないだけなのだが。
住民のほとんどは、誰を見張っているのか詳しい話を知らなかった。怪しい人を見なかったか、事件当日どこにいたか、のアリバイを確認された程度だったという。
そういった聞き込みの中、偶然にも出くわしたというわけだ。
「こちらが名乗ると、相手も名乗ってくれた」
長戸弥栄。三十三歳。
「よく変に反応しいひんかったな」
「そりゃあ……慣れたものですからね」
虎次郎は首肯で同意する。
「ただ……長戸は単身赴任でこちらに来ているようで、妻である弥栄との家は滋賀県は米原市にあるそうだ。コジローの予想通り、大学に通うためにこちらに家を借りているとのことだ。もちろん、四十万胡桃と同じ大学に」
米原市は滋賀県の北部に位置する。滋賀県唯一の新幹線駅がある。やはりか、という思いが虎次郎を包む
「したがって、長戸のそれぞれの事件のアリバイはとれないと言って良い。まあ妻の証言はアリバイとして認められないことになっていると認識しているが」
週に一度、曜日は問わず、どちらかがどちらかの家に行くことになっていて、今日はたまたま自分が来る日だった、とのことだった。そのため警察の存在は知らず、当然夫が疑われているなどとは露知らずだった。寿至からも当然口外していない。
「それと妻は来週海外旅行に行く、と言っていた」
「もう色々すごいな。一つ大きな疑問は、なんで一介の事件ジャーナリストがそんなことまで聞き出せたかってことやな」
「誰がそんな物騒なジャーナリストで通すもんか。主婦層を対象とした雑誌のライターだ俺は」
「俺が言った忠告無視してるやん。雑誌て……」
「いくらでも融通が利く。現に大学で作成していると伝えておいた」
「大学で主婦層ね~。まあ……俺にはできひんかったな」
「褒められていると認識しておく。で続きだが」いつもなら嫌味の二つや三つ確実に入る所でなにも来ない。よほど機嫌が良いらしい。
「長戸弥栄はなんとパチプロ」
「はあ?」
「いやいや、ほんとなんだなコレが」
「その金で海外ってか?」
「主婦友達にあと二人ほどパチプロがいるらしい。三人で行くのだと」
「……もう常識が崩れてくるな。まあ常識なんてその程度か」
「さすが受け入れるの早いな」
「そうでもせえへんと時代に取り残されていくからな」
虎次郎のびしっと決まった台詞は無視して
「収入は月に手取りで二十五万ほど」
「ああ、そう。普通に収入やな。そりゃあ大学にも通わせてもらえるわ。普通旦那が大学行くつって、素直に認める嫁いいひんで。ああ、逆か、それがあったから大学に通った」
あとは、夕食に肉じゃがを作るだとか、夫に対して直してほしいところは歯ぎしりだとか、事件には関係のなさそうな聞き込み報告だった。本当のライターなら必須の調査ではある。
「すまんが、彼女をつけることはさすがにできなかった。したがって家の位置は分からない」
「いや、ここまでできたら十分やろう」
次は円香に長戸を尾行してでももらえば家は見つかるだろう。
ただ――そこからどうする?
犯人はお前だと、家に乗り込む?
いや、焦ることはない。証拠は何一つとして掴めていない。それに京都府警の前でそんな真似できない。
証拠……。円香が調査した栄瀬眞紀子のハッキング。あれは十分な証拠になり得るか……と再考する。そう、自分が警察ならば可能だろう。たかが探偵。どこまで行動してよいのか。自由を求めて探偵になったは良いが、自由すぎるのも考えものだと思った。
お互いが座った席のまま会話が繰り広げられたので、その流れでまたしても寿至が運転することになった。二人と沈黙を乗せた車は、カーナビの音声をナビゲーターに国道一号線を北に進んでいた。二人共疲労のせいで閉口しているのではない。考えることが多すぎるのだ。寿至も同様であると思われた。その結果、
「あれ?」
異変に気付いたのは虎次郎だった。
「どうした?」いつものテンポより一呼吸遅れて寿至が答える。やはり、考え事をしていたに違いない。
「今、茨木って……」
「あ」
虎次郎の思考は完全に現実に切り替わっていた。
「ミスったやろ?」
「左側通行だから左に寄ってたのが敗因」
京都南インターチェンジを再び長岡京方面に乗ってしまっていた。虎次郎自身が運転していたところで同様のミスをしていた可能性は否めなかったので、それ以上の追求はしなかった。もっとも立場が逆であれば、寿至のマヨネーズのような、軽油のような粘性攻撃を受けることになっていただろう。
とりあえず落ち着くためにも、次のパーキングエリアで休憩をとることになった。
さすがの寿至も少し冷静さは失っているように映った。精神的な疲労はこれまで感じたことのないものだっただろう。聞き込みと一口に言っても、なかなかに骨の折れる作業だ。かの水雲でさえても、一日中聞き込みをした暁にはまつ毛にダンベルでも乗せたかのような腫れぼったい顔になっていた。
「一つ理由を挙げるとすれば」
虎次郎の懸念と裏腹に快活な声で彼は言う。
「この下りにしか生八つ橋売っていないからな」
「そんな理由とちゃうやろ」
思わず笑いながら答える。
「お前は俺の生八つ橋へのこだわりは知らない」
「論点のすり替え。俺の得意技やったはずやん」
「だが俺もできる。コジローの専売特許ではない。というか誰でもできる。まさかお前一人しかできない、などとは露ほども思っていないだろうな?」
「思ってるかあ!」
少々声を荒げながらも笑いを含ませて、怒りなどまったくないという思惑が正確に伝わるよう心がける。
寿至の進路ミスのおかげで、先ほどまで何を考えていたかを完全に忘れてしまった。寿至の潜在が、休憩を求めた結果なのかもしれないので、ありがたく乗っかることにする。
桂川パーキングエリア。名神高速道路において京都府にある唯一のサービスエリアである。したがって本高速道路にのりつつ、京都のお土産を買うとなると、桂川に停まるしかない。もっとも京都観光せずにお土産だけ買って帰ることに意味があるのかは謎であるが。
一先ず虎次郎はトイレに立つ。車外に出ると夏とはいえ山間に位置しているからか、涼しさを感じられた。
トイレから出て、売店の方へと足を向ける。寿至は生八つ橋の箱を持っては置き、異なる箱を持つ、という作業を繰り返していた。
虎次郎はおそるおそる、
「……何してるん?」
「質量を調べている」
「この浪費されてる時間を考えたら最初に手に取ったやつをレジに持っていくのが一番経済的に優位じゃない?」
「ただの菓子や、他人のために選ぶのであればそのようなこだわりは見せない。しかし、生八つ橋だぞ。俺が何のためにこっちの大学に通ったと考えている?」
「いや、まえに聞いた理由そんなんじゃなかったけど……」
「方便だな」
「んな馬鹿な」
思わずこれまで使ったことのないような、驚きの代名詞ともいえる反応をしてしまった。
それから五分以上も動作が繰り返され、さすがに店員の目が痛々しいものを見るかのように感じられてきた頃、寿至の足がレジへと向いた。結果的にすべての折箱に手をつけていた。
寿至は満足、といった風に意気揚々と引き上げてくる。捜査を終えて車に戻ってきた時よりも明らかに晴れやかな表情だった。良い仕事をした、と小さく呟いて。
「あれやな、あんまりやらん方が良いな。後半の店員、あれはホームレスを見る時と同じ目をしてたで」
「だが俺はホームレスではない。仮にホームレスだとしてもそういったものは気にしない。生きにくくなるだけだろう」
確かに、この男にとっては愚問だったと反省する。
寿至は緊張がほぐれたからトイレに行きたくなった、といって先に虎次郎が入った白い外壁のトイレに入っていった。きっと彼と初対面の人ならあっけにとられて口を開いてしまうだろうな、と考えていた。寿至ならそんな相手でも平気でやってのけるだろう。
おまたせ、も当然ないままに放っておくとそのままズイズイ進んでしまうように虎次郎の目の前を彼は通り過ぎた。遅れないように彼についていく。自分の車とはいえ、彼一人でも帰れてしまう。無論かような心配はしていないが、万が一ということもある。寿至の実態は誰も掴めるどころか、ほころびさえ見つけられていないのだから。
大股で追いすがっていたので、寿至が急に足を止めた時にどんっと背中に衝撃を与えてしまった。しかし彼はそれには何も反応せずしゃがみ込んだ。
足元をじっと見つめている。
「トイレ出て早々お腹でも痛くなった?」
「……」
反応は無い。右から回って彼が何を観察しているのか、あるいは彼の表情を確認しようとした。
排水溝を覗き込んでいるようだ。格子のかかった鼠色の網の向こう側を。
八月の終わり、陽の沈むのも早くなってきている。虎次郎の角度からは何も見えなかった。
「何があるん?」
彼が納得するまで何も言わないのは明らかだったが、気になるがあまり疑問をぶつける。答える代わりに寿至は、スマホを取り出し、ライトをつけた。
「免許証」
「え?」
「免許証だ」
「寿至が落としたってこと?」
「違う」
すくっと立ち上がり、寿至は歩き出そうとする。
「不親切やなあ」虎次郎は良心から提言する。「届けてあげよう」
寿至はこくんと頷くと、鉄格子に手をかけた。
「グレーチング」
「ん?」
「これの名称」寿至はあごで鉄格子を示す。
「ああ……あれか、あのおっさんが言ってたやつやろ」虎次郎は大学時代を思い出した。
寿至がそのグレーチングを持ち上げて、溝との間に隙間を作った。その隙間から手を入れて虎次郎は免許証に触れた。明かりがないので、手探りである。それに加え、汚れを気にしてハンカチを手に巻き付けているので、握るのが難しい。
「ちょ……グレーチングもうちょい上げて」
「早速使いこなしているな」力を込めたのだろう。語気が強められた。
肘から先までがっぽり腕を突っ込んで免許証があるであろう部分をまさぐった。当たってくれるのだが、どうにも手につかない。ハンカチの摩擦係数の低さを呪う。最も呪わなければいけないのは軍手なり手袋なりを持っていなかった自分自身、であるが。
それでも手の入れる向きを変えたり、肘を左に捻ってみたり態勢に変化を加えることで、どうにか人差し指と中指の間にカードが差し込まれた感触を覚えるまでになった。三回ほど動作を繰り返し、キャッチできた。急いで引き抜くと慣性で落下するとみて慎重に腕を抜き出す。
「しゃあ! 取れた!」
「おめでとう」
寿至の賞賛は耳に届いていなかった。今排水溝から取り出したものの正体を観察した結果に他ならない。
息がつまりそうになる。いや、実際つまっていたと思われる。ゲホゲホという擬音が知らぬ間に虎次郎の口から洩れていた。頭の中ではクエスチョンマークが蠢いている。周囲を拒絶することを求めていた。それほど力を注がないと自らを制御できない。ブレーキが利かなくなった自転車で坂道を下っているような。坂道が終わるところは行き止まりになっている。したがって右か左、どちらかに急ハンドルを切らなければならない。全身全霊をかけて思考に集中しなければならない。それほどまでに逼迫した局面。
「どうした?」
いつものトーンで寿至はいう。それに虎次郎はハッとした。何度呼びかけられたか分からない。彼は何度同じことを言っても声色は変わらない。
「岬結良」
脳では整理しきれていないまま、租借できないまま、口だけが独立した動きをしたようだった。しかしその一言で寿至は察したらしく黙ってしまった。
グレーチングの向こう側にあったその免許証には、岬結良という名前、そして、見慣れた顔写真が載っていた。確かに彼女の遺留品に免許証は存在していなかった。その理由については全く考えなかった。生きていくのに必死だった彼女。免許の取得には当然お金がかかり、そんな余裕はないだろうから、また車を購入するにしても同様のことがいえる。したがって免許は持っていないと推測した。それに加え、周囲の誰一人として彼女が車を運転するという話をしていなかった。それは何故だろうか。
少し自分を取り戻したところで、市販品の指紋取りキットを財布から取り出す。警察になると志した頃から常に携帯しており、いつでもどこでも採集できるようにしていた。半ば無意識的にやってしまうこともあり、先輩刑事の水雲からはマジシャンがコインを消すみたいと形容されたこともある。手際という点においては、鑑識に引けを取らないとも評された。
「免許証が無いからマイナンバーかと俺は考えていたが」
寿至はいう。
「まあ……普通そう考えるよな」
「誰かの手によってこの免許証が捨てられた可能性は考えられないか?」
突飛する彼の質問に、変な緊張感が走った。
「この段階では何とも。ただ、普通に考えたらここに来て落とした、ってことやろうな。指紋が拭き取られてる感じもないし」
「なるほど」彼は大きく頷く。
改めて免許証を観察する。オートマチック車専用。女性ならその方が多いだろう。近年では男性も増えてきているという話をよく耳にするようになった。免許の取得は去年の九月二十七日。死亡推定時期の四か月程度以前である。
この時期の彼女の行動の情報はあっただろうか。再度聞き込みして、その情報は出てくるだろうか。そんな風に今後の捜査方針を頭に流した後、やはりどうしてこの場にあるのだろうという疑問が巡る。
「警察に届けるか?」
「いや……、今更届けたところで捜査方針は変わらへん。というか、もうこの捜査してへんと思うし」
「再捜査、ということにはならないか?」
虎次郎は少し考えて「ならへんな。だって自殺って結論になった理由の一つが、税金の無駄遣いやから。後は……まあ色々あるけど」
思い出すとまた顔が熱くなり、腹の底からこみ上げるものがあると思い、真剣に考察することをやめた。深くいったところで導き出される結論は変わらないだろう。
「ごめん、ちょっと飲み物」
虎次郎は両手を合わせて寿至の前を横切ろうとする。
「了解。先に車に戻っておく。……もちろん待つ」
余程不安げな顔をしていたのだろうか、彼は一言追加した。
自動販売機への道すがら虎次郎は思わぬ収穫について考えをまとめようとした。
休日はほとんど外に出ない、という岬結良。また、生活保護とまではいかなくとも、奨学金を借りて大学を卒業した彼女。職場である大阪への通勤は自転車と電車。自動車免許の取得は、彼女の地元の位置から考えれば必要であるが必須ではない。だから現に一年近くまえ、二十五歳になるまで、免許がとれる年齢になってから七年間は、無縁に生活していられたのだ。それがどうして車の免許取得に至ったのか。ひょっとするとこの辺りに事件の鍵は隠されているのではないか。
直感がそう告げていた。




