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「東後から連絡入ってる?」
「いや、何も聞いていない。お、俺としたことが厳密ではない表現をしてしまったな。そのような情報は得ていない」
言い直す寿至に浅い溜息をつく。
先週円香からもたらされた情報は、にわかに二人を色めき立たせた。意外にも寿至の食いつきが尋常ではなく、いつもより高い声で意見を述べていた(無論、常人よりははるかに低音な声だった)。しかし即時に虎次郎が冷静にそれを制した。
普通に考えて自分たちが知っている情報で、京都府警が知らない情報はないだろう。したがってナガトテキヤ――長戸照貴弥は警察にマークされている可能性が高い。だからこそ、慎重な行動が求められる、ということを口をすっぱくして熱弁した。
華道サークルの代表である栄瀬眞紀子がストーカー被害にあっていることは知らないまでも、以前京都駅前のカフェで若田部と対峙した時に彼は四十万胡桃のストーカーに関して捜査していると話していた。そこで彼は二人候補がいると言っており、二人共同じ大学に通う学生だとも話していた。
手原祥子が長戸の名を出した時、彼のことを個人的に嫌っているだけだろうと推測して、あまり重要視していなかった。娘がいなくなった原因を、無理やり押し付けた格好だと思ったからだ。それもあって長戸を調べようなどとはあまり考えなかった。もっとも、何の手がかりもない状態だったので、完全放置していた、というわけでもない。
実際に虎次郎は二人には何も言わずに長戸照貴弥の素性について、簡単にではあるが調査を進めていた。ただ、行動可能範囲は限られていた。探偵という職業柄、積極的に自らの顔をさらけ出すような真似はしたくなかったからである。
また、手原祥子は警察には長戸のことを話していないと言っていたが、一応事件関係者だ。したがって多少警察の手が回っていると考えられなくもない。
その中で、長戸の住居の最寄り駅まで追跡を実行した。京都府の長岡京駅がそれであった。
滋賀県下の高校教師で、京都に住んでいるという点は気になったが、転勤になれば引っ越しするのだろうなと思っていた。この時点で長戸が大学にも通っているなどとは、微塵も想像しなかった。
そして先週、円香が華道サークルの代表から聞き出した、長戸が四十万胡桃のストーカーであったという情報。長戸が四十万たちと同じ大学に通っているかは別途調査の必要があるとして、京都に住んでいる理由の一つがわかったように思えた。
長戸照貴弥という人物について、どのように捜査を進めていくのかは、真剣に考えられていなかった。若田部からストーカーの話を受けてこれだけ経つのに犯人逮捕に至っていないのは、もともと被疑者であったストーカーが犯人ではない、と結論づけられた可能性すらある。仮にその結論が正しければ、長戸照貴弥の捜査はどれだけやっても徒労に終わることとなる。
しかし行動を起こさなければいけないとも同時に思っていた。それは長戸の名が、別の事件の犯人候補として登場しているからだ。主観に頼った、それも一人の主婦の娘を思うがあまりの偏っていると想像されるものとはいえ、偶然と片付けて良いものか現状では判断がつかない。
おそらく京都府警は岬結良の事件や手原めぐみの事件と、自動車暴走事故との関連には気付いていないだろう。もちろんそれぞれが完全に独立した事件である可能性もある。
被害者が全員一人っ子である。
その共通点が示すものは一体何か。
長戸照貴弥について、方法はともかく、調べる時期に関しては考える必要があるなと決め込んでいる。
「彼女から連絡来たぞ」
寿至の声に反応し、スマホを操作する。虎次郎がラインを読む前に寿至がいった。
「体調を崩したから行けないそうだ」
「そうみたいやな」
「ようやく夜は過ごしやすくなってきてるからな。去年ほどじゃないにしても」
確かに昨年はお盆を過ぎた途端寒いといって差し支えないほど一気に秋がやってきていた。また暑さはぶり返すだろうと思っていたのだが、そのまま線形に涼しくなっていった。
「体調か。まあ俺もこの前ここでコーヒーブラックで飲んだせいで死にかけたんやけどな」
「……」
「コーヒーってミルク入れんと飲む飲み物じゃないやろ」
「……土日にやらかしたって書いてあるから、ブラックコーヒーを飲んだからではなさそうだな。確か彼女は一応ブラック飲める派だったと記憶しているが」
あの時円香はどのように飲んでいたか思い出そうとしたが何も下りてこなかった。記憶に残るほど重要ではなかったということだ。
「じゃあ俺らだけでやりますか!」
「……ミルクじゃなくてシロップじゃないか?」
寿至は返事代わりにしばし前の虎次郎の言動に注文をつけた。
「ええやん、どっちでも。ゾルに変わりないやろ」
「……お前の中でのゾルの定義はコーヒーに溶け込ませる液体なのか?」
「知っての通り化学はちんぷんかんぷん。適当に喋ってるから。そういえばゲルやっけ? どっちがどっちって全然区別の仕方わからへんねんけど」
「下駄か草履か、どっちが固い? っていうのが高校の先生から教わった区別の方法だな」
事もなげに寿至は答えた。彼の中にはこういった「簡単なものの覚え方リスト」が整列しているに違いないと確信する。
「具体的には牛乳やマヨネーズ、糊などがゾル。ゼリーや豆腐、こんにゃくなどがゲルだな。牛乳やマヨネーズは液体分散質に、糊は固体分散質に分類される。俺も詳しいわけじゃないが、シロップはおそらくコロイドではない」
「……分からへん。やっぱり勉強は家にいて静かにやるもんやな」
「それでよく国家Ⅰ種に受かったな」
「本番の強さやろな。面接も含めて」
「まさに姑息、という感じだな」
虎次郎は瞬時にその場しのぎ、という言葉に変換する。そうでもしないと姑息の正しい意味を忘れてしまうだろうからだ。
三十分後、二人は石山寺駅に降り立った。
「何だこの何もない感じは」
「へえ、寿至もそういう抽象的な表現するんやな」
「一回調べたことがあるのだが、実際の石山寺はここから一キロも歩かなければいけないらしいじゃないか。駅名を変えた方が良いんじゃないか?」
「そんなん山ほどあるやろ、比叡山とかその最たる例やろ」
「あっちは元々坂本駅という名だったのを比叡山坂本にした経緯があるだろう。理由は知らないが、観光者にとっては分かりやすくなったのではないか」
「また地元民の俺が知らん情報をスラスラと……。感服するわ」
「地名が駅名に含まれているのはまだわかるが、こっちはどうもな」
「いや石山ってのも明らかに地名やろ」
「ああ、本当だな」
寿至は深く考えてなかったのか、潔く引き下がった。これもまた珍しい。
石山寺駅も何度か駅名を変更している。戦前に石山駅から改称。戦後石山寺駅から石山蛍谷駅に改称され、三年後に再び石山寺駅になっている。
「で、ここからどうする?」
「徒歩で岬結良の家に向かう」あっけらかんと虎次郎は答える。
「……正気か? 何時間かかると思ってる? それに辿り着いたとしてもその頃には熱で蒸発している可能性すらあるぞ」
「どんどん温度上がるやろうしなあ。でも被害者と同じ空気を味わうってやっぱり重要やと思うねんな」
「それは理解できるが、この暑さを味わわなければいけない、という理由としては弱いな」
寿至は声を低く反論する。くぐもって聞き取りづらい。彼と初対面だったら解読できないだろう。
虎次郎はしたり顔をして、
「なんてな。絶対にそう言われると思ってチャリ準備してるで」
「……」
「何でチャリやねんって顔してるな。車じゃないんやと」
「ああ。お前の心を読む力の向上にも畏怖している」
「それはどうも。ま、岬結良が通勤する時に自転車で移動してたらしいっていうだけやねんけどな」
刑事時代から最も早く事件を解決できる方法だと信じてきたやり方だ。
犯人を知る方法は、被害者になること。もちろん文字通り自らが被害をこうむるわけではない。
被害者の立場に立って考える。その極致は被害者を自らにトレースし、被害者イコール自分が真相を語ることである。現実的でないことは理解している。所詮、他人の主観で見た被害者だ。本人にはなり得ない。
しかし何事もやってみなければ始まらないのと同じで、五感を通して訴えてくる何かによって捜査が進展する可能性は十分にある。
足を使った捜査がこれまでどれだけ多くの事件を解決してきたか。天文学的数字になってしまうだろう。
「……一つ予言しよう。お前は必ずこの選択を後悔するだろう」
「そこまで言うんやったら東後が使う予定やった自転車も使っていいで。二倍力やろ」
「おお、お前の望む答えが全然分からん。申し訳ないが、スルーさせてもらう」
その言葉自体が、スルーにはなっていないのだが、寿至にはいつも自分の行動を説明したがる癖がある。
虎次郎は寿至を引き連れる形で駐輪場へと歩いた。駅から南に五十メートル歩いたところに位置しており、南北に長く自転車を停めるスペースが確保されている。無料のようだが、屋根はなく、雨の日は野ざらしになっていそうだ。
そこに三台の自転車がくっついて並んでいた。いずれも放置自転車であったが、虎次郎が刑事だった頃、正式な手続きをして譲り受けたものだった。岬結良が死体となって発見された翌週に、今回と同様の捜査を考えたためである。
本件とは無関係だが、虎次郎の兄は昔、三台もの自転車を立て続けに盗難に遭っていた。どんな悪い星の下に生まれたんだろうとその時は思った。
「割と綺麗な自転車だな。それにしても人間とはつくづく苦労したがる生物だと実感するな。電動自動車だと、自転車を漕いでいる気になれないなどと言って、あえて普通の自転車に乗る人もいるからな。まあ……それは対コストという観念からだと思われるが」
確かにその通りだろうなと思いながらも、先に自転車に乗るように促す。
「夏はまだマシだが、どうして冬にこの乗り物を利用するのか理解できないな」
「夏休みやからあんまり埋まってへんけど、ほとんど学生の自転車でいっぱいになるはずやで、この駐輪場」
「なるほど、車の免許が取れない人たちが利用する乗り物だと言いたいわけだな。しかしだな、岬氏の家はどこにあるんだ?」
話が急転したのでグイッと脳の部屋を切り替える。
「本気で漕いだら二十分くらいで着くんとちゃうかな。その漕ぐ人は俺とちゃうけど」
「競輪選手とか言うんだろう? こんなおっさんが二人してチャリ漕いでるところを見られたらと思うとゾッとするな」
虎次郎は多少驚いた。寿至が人の目を気にするだなんてことなかったように思えたからだ。さすがに社会に出る、ということは元々生まれ持った特徴をも奪ってしまうのかもしれない。
さあ行こうか、言い出そうとするたび、予知してか言い訳めいた言葉を吐く寿至をついに制し、自転車に跨った。左手に琵琶湖から流れ出る瀬田川を、右手に石山寺へ続く山並みを見ながら国道四百二十二号線を南下していく。
「ほらこれ」
後ろから声をかけた寿至を振り返ると、看板を指さしていた。境内参道七百メートルと書かれている。ああ、と虎次郎は薄笑いした。
「駅の案内板に石山寺までどれくらいの距離と書かれていた?」
そんなところには目もくれていなかったので、首を横に振る。
「約一キロだとさ。ここまでたった三百メートル? 絶対にあり得ない。五百メートルはあっただろう。こういう思わせぶりな、というより嘘の表示はどうなのか、と思う」
一人納得するかのように大きく頷いていた。
「結局石山寺行きたい人ってちゃんと地図でどれくらいの距離か見るから、ここにくるまでに知ってると思うけどなあ」
「偏見も含まれるが、こういった寺を巡る人の大半はご老人であって、毎回どこか行くのにしっかりと地図を見ることはないんじゃないか? 時にコジローが言うのはアプリのことだろう? それなら尚更だな」
「それは……確かにそやな」
寿至の客観性を無視した独論は黙って聞いていると面白いのだが、今は仕事を優先したかったので、適当に切って再び発車する。
しばらく止まっていたので余計に汗が噴き出す。とにかく岬はこの辺りで誰かに呼び止められていないはずだ。できる限り彼女を追いたいという趣旨を寿至に説明すれば良かったと後悔した。
しかしそんな悔やむ気持ちは必要なかった。それ以来彼が声をかけてくることはなかった。妙な所で気がつく男である。もっとも虎次郎のことなど考えていないのかもしれないが。
相変わらず左手には瀬田川が涼し気に流れている。この流れに乗って、例えば犯人の証拠や、岬結良を包んでいた環境が大阪湾まで着いていないことを祈るのみだ。
ようやく見慣れた光景が前方に見えてきた。京滋バイパスの高架である。すなわち岬結良の死体が見つかった場所でもある。さすがに警察の車両は見当たらない。
虎次郎が刑事を辞めると宣言した空き地もある。そこからはあえて目を逸らしていた。なんとなく見たい気持ちにはならなかった。当然寿至はそのことを知らない。どういった状況だったかを説明していないためだ。
一応、と断りを入れて寿至に停止を促した。寿至も何かは察したらしく
「ここが見つかった場所か」と声を切らして言った。
京滋バイパスを見上げながら信号を右折する。
「あそこから落ちたのか」
側道にタイヤを滑らせて、高架上にある防風壁を観察している。
「そうやな」
「……コジローの言う通りだな。あそこから自らの意思で落下する、つまり自殺は不可能だと俺も思う」
虎次郎は心の中で溜息をつく。またあの感情がぶり返してきそうになる。不信感という一言では済ませられない、吐きたくないのにえずきそうになるあの感じ。
次に寿至は草むらに目を向けた。補足として、その状況を簡単に説明した。
「何もないやろ?」
「まあ……そうやな。天下の警察様がしっかりと調べたんだろうし」
辞めたとはいえ無責任なことは言えない虎次郎を慮ってか、皮肉を言ってのけた。
二人は再び元の進路に戻った。虎次郎が先導する形で川を下っていく。
「お、ここ知ってる」
五分ほどして寿至が話しかけてきた。
「びわ湖マラソン?」
「ご名答」
南郷洗堰。瀬田川洗堰とも呼ばれる。地元の人ほど前者で呼ぶ者が多い。実際にこのあたりから通っていた高校の友人はそう言っていた。いわゆる、琵琶湖をダムの役割としている所以の建造物である。京都市へ水を運ぶのは浜大津の近くにある琵琶湖疎水であるが、びわ湖毎日マラソンはいずれもの水脈を渡ることになる。
さすがに寿至は止まってゆっくりしよう、とは言いださなかった。それから二人は黙ったままひたすらに南下していった。地元の滋賀とはいえ、この辺りには車でも来た事がない。新鮮な景色が広がっていたが、楽しいサイクリングとは言い難い。暑さの影響か、運動不足がたたってか疲労が溜まってきていた。山に囲まれた土地を走る道路ではあったが、アスファルトからの照り返しは午前とはいえ厳しいものがあった。
石山寺を出てちょうど三十分経過した頃、川にかかる橋が見えてきた。目的地はもうすぐである。
「宇治て」後ろで思わず漏れたという風な声が聞こえたので、こちらも思わず吹き出していた。このまま橋を渡らずに真っすぐ進むと宇治市に着くようだ。京都の声がここまで近づいていたのかと驚いた。
黄色いアーチが架かった橋を渡り、三分ほど漕ぐと民家が見えてきた。
山間に位置しているので、崩れそうな木造住宅が出迎えてくれるのかと思っていたが、そういうわけでもなさそうだ。中には新居と思われる家もある。半々くらいだろうか。確かに静かに暮らしたい人にはもってこいの土地なのかもしれない。さすがに山の中というだけあって、纏う空気がひんやりしている。ここだけ夏から切り離されたようだ。
左手にプールが見えてきた。子供の笑い声も聞こえてくる。お盆を過ぎても今時の子供は気にせず泳ぐのだなと多少驚いた。
滋賀県警察は当然この辺りを捜査していた。虎次郎自身は準新人ということもあって、外回りの仕事は少なく、デスクワークが主だったが、先輩である水雲鶴がこの地を訪れたと言っていた。その中で引っかかる意見が一つあった。今回の来訪は、岬結良の心情を知るだけでなく、その意見の真偽を調べるためでもあった。そしてもう一つ。やはり自らの足を使って彼女を追いたいというのもあった。
二人のそのそと自転車を進めていくと、カフェのようなものが姿を大きくしていった。
さすがに喉が渇いていた。寿至をちらっと見ると目が合った。一つ頷いたので、入ろう、という合図だとみなした。
店の前に進んでいくと『午前十一時オープン』と黒板に白チョークで書かれた看板に出迎えられた。まだ一時間はある。
「客以外の目的を説明したら入れるんじゃないか?」
よほど水分を欲しているのか、寿至が提案してきた。虎次郎も同感だと思い、店の裏側に回ってみる。一台の大型バイクが目に留まった。このカフェの店員が乗ってきているのだろうか。
「すみません! 誰かいらっしゃいませんかー?」
その声に反応したのか、裏のドアからエプロンをした女性が顔を覗かせた。
「なんですか?」
四十代に見受けられるその女性は、愛想の良さそうな笑みをたたえながらも、一体どこのどいつが訪ねてきたんだ、といった警戒心を顔に浮かべていた。まだ刑事時代の観察眼は残っているらしい。人の表情の変化に敏感になっている。
「岬結良さんのことでお尋ねしたいことがありまして……」
一瞬、眉間にものすごい皺を寄せたかにみえ、断られるのかなと思った。しかし実際の返答は違った。
「ああ、はいはい。それね。良いですよ、今店の方開けますから」
虎次郎は自分の耳と時計を疑った。時間が間違っているのだろうか。いや、時計は遅れても早まった時間を指し示すとは思えない。あまりに不安になったため、スマホも確認する。腕時計の指す時間と一分とずれていなかった。
二人は再び表に回ると、ガラス戸が内側からガチャガチャと開錠され、中に招き入れられた。なかなかおしゃれだと思った。もっともあまりこういったカフェに馴染みがないのだが。広くはないが、個々が確保できる空間は広い。丸テーブルが四つ、四角テーブルが三つ。四角テーブルは全て四人掛け用となっていて、丸テーブルの二つは二人掛け用となっていた。外壁はベニヤ板が貼られており、三か所に一つの割合で原色が塗られていた。おそらくペンキだろう。虎次郎はまず素朴な疑問をぶつける。
「こういった土地に店を持たれたのって、何か理由があるんですか?」
水を運びながら店員は言った。
「ずっと代々何かしらの店をやって来ていたんですよ、うち。私の代ではカフェをしようって思っただけです」
次に思いついた質問は失礼だと思ったが、それを承知で訊いてみる。
「経営的にはうまくいってらっしゃいますか?」
「ああ、私実はこれだけやってるんとちゃうんですよ。FXの方にも手を染めていまして……」
何故か恥ずかしそうに言う。
「えふ……それって……」
「何と勘違いしてるのか知らんが」すぐさま後ろから寿至が小声でフォローを入れる。「お前が想像しているであろう、やらしいやつとは違うぞ。株みたいなやつだよ」
「かぶぅ? ああ、農家ってこと?」
「滅多にない天然をこんなところで出すんじゃないよ。スタックの方だ。説明のために株みたいとは言ったが、株ではないぞ。FXってのは Foreign Exchange から作られた省略造語で外国為替証拠金取引のことだ。というか本当に知らないのか?」
「言われたらわかった。研究室の先輩とかでやってる人いたし」
虎次郎は気を取り直して事件の質問をしようとしたが「注文をお先にどうぞ」と穏やかな顔で勧められたので拒否するわけにはいかない。が、一応訊いておく。
「オープンまでまだ時間ありますけど、大丈夫ですか? 私たちだけいただいて」
「ああ、そのことやったらいいんです。どうせそんな時間にお客様がいらっしゃるわけないので十一時からにしてるだけで、最初にいらっしゃったお客様が来たらオープン、そんな感覚でやってますので」
なんでも毎日九時には開店準備が整っているらしい。あとはゆっくり掃除をしたり、読書をしたり、それこそFXをしているようだ。
二人はアイスコーヒーを注文した。一分程度で彼女が準備してきた。虎次郎はミルクとシロップを二個ずつ入れた。二個目を入れる時に店員がおっ、と小さい声を出した。
店の冷房が効いていたのと同時くらいに、彼女は虎次郎と寿至が腰かけている二人掛けの丸テーブルに、四人席の椅子を持ってきて座った。
彼女は、蒲山、と名乗った。
おや、と思ったもののよくある苗字なので流そうかと考えた。しかし目元あたりが似すぎているので訊いてみた。やはり『マイルドリンゴ』の店長である蒲山蒼汰の母だということだった。
「蒼汰は一人息子なんですけど、高校卒業していきなり働き出しちゃってね。もう五年ぐらい経つんかなあ。一人暮らしして……。家を出て五年ってことになるんですけど。まだ毎日のように連絡くるんですよ。こんなお客さん来た、とかね。最近はもっぱら事故の話でしたね。初めて警察と喋った! とかね。そうそう、探偵が来たってのもほんまに最近ありました。今時ほんまにいるにゃねえなんて言ったりして。昔っから勉強はできひんかったけど、優しい子やったんです」
というのが母の語る蒲山蒼汰だった。
その探偵は僕達ですね、と教えると
「あ、刑事さんじゃないん? 自転車でここまで来る刑事なんておらんか」
とおばちゃん特有の笑い方で笑っていた。
出会ってそこらなのに、段々と言葉遣いが崩れてくるあたりも、おばちゃんたる所以だろう。当然だが口には出さない。
「何度も訊かれていると思いますが、岬さんについて教えてください。えっと蒲山さんはずっとこちらにお住まいで……?」
「そうですね。生まれも育ちもここです。それで結良さん、亡くなりましたけど……本当に苦労人で。実は結良さんよりもご両親の方をよく知ってるんですけど。あんな事故があっただけでも悲惨なのに、結良さんだけ生き残られて、しかもあんなことになってしまって」
彼女は淡々と事故について話してくれた。
いわゆる居眠り運転によるもの。相手側の百パーセント過失らしい。
名古屋の親戚の家から帰る途中の名神高速道路。結良の父の運転。三車線。
追い抜き車線を制限速度内で走っていると、中央線から大型トラックが猛スピードで迫ってきた。直線部から追い越し車線が大回りになるカーブに入ると、大型トラックが追い越し車線にはみ出してきた。つまり車体を寄せてきた。あまりに急な出来事だったので、岬家の自動車は身動きが取れず、その大型トラックに寄せられる形で側道の植え込みに激突した。大型トラックはそのまま走り続けたものに、同じように側道にぶつかり、そこから左に急ハンドルが切られ、道路を塞ぐ形で横転した。側道に激突した岬家の車は運転していた結良の父が意識を失ったか、車も同様コントロールを失い、側道にある電灯に助手席から激突した。
結良が助かったのは、運転席の後ろにいたからだと推測された。両親は凄惨な状態だった。それでも結良が精神的ダメージを受けなかったのは、彼女自身が病院に着くまで意識を失っていたためだ。
事故の原因は大型トラックの運転手の居眠りと推察された。運転手自身も亡くなっていたため、真相は謎に包まれているが、事故直前のトラックの動きの証言や、トラック運転会社の杜撰な労働管理といった観点からその説が有力らしい。
虎次郎は似たような話を知ってると思いながら聞いていた。
「それから彼女はずっと一人。その名古屋の親戚も手一杯っていう話やってね。ほんまか分からへんけど、単に子供を預かるのが嫌やったって聞いたわ。さすがに近所のよしみって言っても、ちょうどバブルが弾けた頃でみんな生きていくのに必死やったし、施設に預けられたのは、不謹慎やけど、実は一番良かったんかもしれへんなと思い始めました」
「私たちはその当時まだ子供ですからね。そういった時代背景は知っていても、直接影響を受けたわけではないので、そういった話を聞けるのはありがたいです」
「いえいえ、そんな」
顔の前で手を振って彼女は謙遜する。
「結良さんって、どんな方でした?」
「とにかくしっかりしてましたね。自殺するなんてちょっと考えられません。まあ自殺する人のほとんどがそう言われるんやろうなあって勝手に思ってますけど。ほんまにしっかりした子でした。学費も全部自分で稼いではったし。ニュースで観た仕事を辞めたってのは知らんかったし驚きましたけど」
蒲山母は本当に驚いたというようにお手上げポーズで手をヒラヒラ振っていた。
「やはりご存じなかったということですか?」
「ええ、きっと誰も知らなかったと思いますよ。朝早く出て、夜遅く帰ってくる生活やったらしいやないですか。それに休日もそんなに外出るような子じゃなかったし。彼女が死んでることに気付いた人少なかったんとちゃいます?」
その通りだった。少ないならまだ良かったのだが、誰一人気付いていなかったのだ。老人が夏場クーラーの無い部屋でぽっくり逝ってしまっているのはよくある話だが、若い人で同じことが起きるのは珍しい。
「でも休みの日にどこにも出かけないってのはないでしょう? 若い女子が……」
思わず偏見めいた言葉が飛び出していた。
蒲山母は特に意に介さず、
「さすがに休日何してはったかは知らへんけど、全部仕事終わりとかに済ませてたって噂は聞きました。ここに来はるお客様、まあ地元の人らやけど、よく喋ってるから」
「さすがに洗濯物干したりするでしょう? 布団とかも」
「ですねえ。ただ十年以上まえの話ですけど、下着泥棒が出ましてね。それ以来部屋干しに変える人増えたんですよね。今良い柔軟剤出ていて、部屋干しでもそこまで気にならないような工夫もあって。それでも太陽光で乾かすのが良いってのはありますけど……。女の一人暮らしなんで、やっぱり警戒したんとちゃいますかね?」
「そうなんですね……。でも布団は……?」
「レイコップですかね?」
「えっと……なんですか、それ?」
「働きすぎだコジロー。布団にかける掃除機のようなものと認識しておけばいいだろう。外に干すよりもダニをしっかり吸えるから良いと言われている。正しいかどうかは別の話で、そういうものがある、ということだな」更に続ける。「本当に仕事しすぎだぞ。新たな情報をどうやって手に入れているのか……。というより新聞やらニュースやら見ていたらレイコップというワードが出てくるだろう」
「新聞とかは……日常に生かせそうな情報を得るために見てないかな。それより俺は寿至のなんでも知ってる所にビビってるけどな」
「それは俺が知っていることしか言わないせいだ。知らないことは何も言わない」
どこかで聞いたことがある台詞だと思った。『聞いたことがある』しか思い出せなかったので、あまりあてにならない記憶かもしれない。
虎次郎は蒲山母に向き直ると、
「分かりました。私もそういう節があるんですが、今やずっと家にいても生活できる環境にあるんですね」
「そうみたいですねえ。絶対に自分には耐えられない生活です」
「すみません。話が逸れてしまいましたが、やっぱり結良さんは自殺されたとは思われないってことですよね?」
岬結良が休日―虎次郎が調べた情報では土日―に外出していないのであれば、亡くなったのは平日である可能性が高い。これまでの捜査でいつから彼女がいなくなったかを正確に把握する人物は一人たりともいなかった。きっと好転することはないだろう。
本当に自殺かどうか、虎次郎の中で解は明白だったが、思わず口走っていた。それは安心感が欲しかったからに他ならない。
「自殺するようには見えへんかったって、さっきも言ったけど……、うーん、よく分からないですね……」蒲山母は一つ大きく唸って話を続ける。
「これは刑事さんにも話したんですけど、正直知らんやんってのが本音かな」
「……知らない、とはどういう意味ですか?」
「ごめんなさいね。きっとこんなこと言うなんて人間失格かもしれないです。でも、やっぱり自分が可愛いじゃないですか」
突然泣きそうになる目の前の主婦を見て困惑しながらも、
「ああ、説明いただけるのはありがたいのですが、丁寧に、と言いますか最初から説明してもらっていいですか?」
「いや、確実に彼女は最初から説明しようとしているのだが」
「あれ?」
思わず虎次郎は頭に手をやった。
「すみません。ちょっと自分の情けなさというのか、そういったものを吐き出すのが気持ち悪くて」
彼女は自らを卑下するようにいった。
「えっと……。岬結良さんについてなんですけど、自殺やろうが他殺やろうが、いずれにしても私には関係ないやろうって思ってしまうんです。良くないことやとは思ってます。思ってるんやけど、どうも当事者になれへんというか。結良さんの人柄は知っていますし、良い子やとも分かってます。捜査に協力したい気持ちもめちゃくちゃあります。でもその反対に、自分には関係ないんやろうなあ、って無責任なことを思ってるのもまた事実です」
虎次郎はなるほど、と思う。これが被害者を取り巻く環境だったのだろう。
幼い頃からずっと一人。誰も頼らずに生きてきた。とても素晴らしいことだったが、助けを請わない分、守ってくれる人がいなかったのも事実だ。
どっちが良かった、などとは断言できない。少なくとも彼女の人生選択が間違っていたとは思わない。
自分を殺した犯人が捕まってほしいと、死後思うことはできても、生前にそんなこと考える人はいない。彼女の生活が、犯人を遠ざける生活を送っていたところで、誰も困らないし、誰も知ったことではない。
何より彼女はずっと一人で生きてきたのだから。それが最も彼女にとって生き易かったのだから。
蒲山の母が言うことは十分に理解できた。
改めて、誰のために自分はこの事件について捜査しているのだろう、と考える。
ひょっとすると、手原めぐみが殺害された事件や、京都自動車暴走事件とつながっているのではないか、その可能性を考えているだけだ。
人が一人、死んでいる。
悲しむ者がいなければ、その事件は解決される必要はないのか。たとえ犯人が連続殺人犯だとしても。虎次郎の中で、大小様々な渦がぶつかりあっては消えていた。これだ、という大渦は姿を見せなかった。
「話題を変えますね」自らの思考にキリをつけて、虎次郎は話を転換しようとする。これ以上、岬結良自身の話は聞き出せない、と判断した。
「今年の二月頃ですね、もう半年近くまえになりますが……。何か変わったこと、と言いますか、変わった人物を見かけませんでしたか?」
蒲山母はしばし考えて、
「う~ん、特にいなかったと思いますけどねえ」
「そうですか。ちょっと小耳に挟んだんですけど、学生がウロウロしていたって話がありまして。何かご存知ないかと」
虎次郎は以前水雲が塚崎警視に報告していた内容を思い出した。
「ああ、忘れてました! なんで忘れてたんやろ。学生っていうか、学ラン姿の少年ですね」
「学ランですか」
どこか引っかかりを覚えたが、虎次郎は続きを促す。
「そうです。ここらへんに住んでる学生なんて全員知り合いみたいやないですか。知らん人おったら絶対わかるというか。一人で歩いてはったんですね、確か」
蒲山母はこめかみを左手の人差し指でぐりぐりしながらいった。
「いやあ……めっちゃ忘れてましたね。申し訳ないです」
「私も最近よくあります。もうおっさんですから」
「何言ってるんですか。まだ学生でもいけるでしょ」
彼女はそういいながらも苦笑いを浮かべた。明らかにお世辞だとわかる。嘘を吐くのが苦手なのだろうなと想像する。
学生……学ラン……。同じ話を彼女の息子からも聞いた。
ただ蒲山蒼汰のいう(マイルドリンゴ)に現れた学ラン姿の男は、探偵と名乗ったという。学ランというだけで同一人物を疑うのは早計だろう。
もう少し詳しい聞き込みが必要だな、と虎次郎は思った。
「寿至、何かある?」
こういった状況で寿至はほとんど話さない。自分の言ったことがうまく伝わらないのが許せないらしい。だからこちらから促さないと、何も質問しない、というケースすらある。
「一点だけ。記憶の底から可能な限り覚えている、学生の特徴を教えてほしい。人相や身体的特徴、仕草や動作もろもろ含めて」
「俺に言うなよ。すみません、覚えてる範囲で答えてもらえますか?」
彼女はしばし考えていた。二十秒くらいして、
「人相……。あ、どこの高校の子やろうって思ったくらいやから、若い印象ですね。どっちかってと子供っぽいって思ったんかな? 蒼汰よりは幼い感じに見えました。学生服の着こなしも乱れてなくって。真面目らしいというか、今時そういう子もいるんやなあって思ったことを覚えてます。……すみません、これくらいですね」
寿至は箇条書きにしてノートに列挙していた。
そこから虎次郎と蒲山母で一、二分ほど世間話をしてから、丁寧に感謝の言葉を述べ店をお暇した。
そんなに長居した意識はなかったが、三十分は話し込んでいたようだ。
カフェを辞去してからも二人で自転車を漕ぎながら通行人や外に出ている住居人に話を聞いた。内容は主に学生について。
結果として学ラン姿を見たことがあるのは、三分の一程度だった。
平日は仕事に出ているという男性は誰一人として存在を知らなかった。蒲山母も同様だったが、最も不思議な点は、誰一人として、こちらから話を振らないと思い出せないことであった。更に、学ラン姿がうろついていた時間を誰も覚えていなかったのである。朝なのか昼なのか夜なのか。ただし、サラリーマンが認知していない点から、平日の昼間ではないことは確かだろう。
学ラン姿を目撃したと証言した者のほとんどは、少年だと認識していた。また、怪しいというよりかは、誰かが彼氏を作ったのだろうと考えている節の説明をした。
その話を聞いて、岬結良の彼氏の可能性を考えてから虎次郎は質問事項を追加した。
「岬さんが亡くなってから、その学ラン姿の男性を見かけましたか?」
目撃者によって証言に相違のある場合がほとんどだった学生に関して、完全に皆の回答が一致していた。
――確かに彼女が亡くなってからは見かけていないですね
その学生は誰だったのか?
事件に関わっているのか?
おそらく関係しているだろう。岬結良が亡くなってから姿を一度も現していない。
そして(マイルドリンゴ)に現れた高校生探偵。
偶然だろうか。彼らは一体何者だろう。
岬結良の彼氏だったとは仮定できないだろうか。
そう仮定した場合、最重要人物であることは間違いない。どうにかして彼の足取りを追うことはできないか。
いずれにしても今後の捜査方針は一度まとめないといけないと思った。
最後に岬結良の家を見て帰ることにした。
「思っていたよりも綺麗だな」
寿至の一言がすべてを表現していた。
一戸建てで、二十代の女性が所有しているとは到底見えない豪勢さを含んで立ちつくしていた。主を失っってはいるものの、全く廃れていない。
これならば半年誰も出入りしていなかったところで気づかないのも頷ける。興味がないのならば尚更である。
近所の主婦は、誰も引き取り手がいない、と言っていた。
当然所有物や荷物の整理もできていない。名古屋に親戚がいると、蒲山の母が言っていたが、固定資産税等を考慮して引き取るのは躊躇っているのか。法律はどうなっているのだろう。身寄りが誰一人としていないとなれば、売りに出されるのだろうか。しかし事故とはいえ一家全員が無念の死を遂げたのだ。そう簡単には見つからないだろう。
この家の行く末はどこになるだろう。
過疎が進みつつあるかと思われたが、新居者もまだまだいる。そんな土地で時の止まった一戸建て。今はまだ見られる姿をしているが、いずれは廃れ、忌むべき存在になるだろう。
幽霊屋敷などと揶揄されるかもしれない。
知らないだけでそういった家は日本各地、特に山間の村では都会のアパートの人移りの激しさのように増えていると思われる。
そんな侘しさと、目の前にある、まだ人が住んでいてもおかしくない家を対比しながら、二人は帰路についた。




