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「コジロー、少し整理させてくれ」
いかにも冷静な口調で寿至はいった。
「この七、八月に起きた三つの事件がつながっている可能性が高いという結論だな」
「そう、まあ実際に事件があったのは、もっとずれてるかもしれんけど。だから正確には七月に発覚したってことかな」
「うん」
「にわかには信じ難いがな。さすがに三つとなると……、なんか人為的な要素が含まれている気がする。が、それが犯人の意思というわけか。うーん、分からん」
「だから調べる価値はあると思うんよね」
「でしょ?」
円香はモニターから目を離していった。「てかよくこんな上手にまとめられるね。また見直した」
「東後が苦手なだけちゃう? それは置いといて、今後の捜査方針決めたいんやけど」
虎次郎は提案する。
「それは同感だ。そしてもう虎次郎の中で方針は固まっているんだろう。まずはそれを聞かせてほしいと思っている」
円香も目で同意した。
三人は応接室兼リビングに移動する。喉が渇いていたが、二人が何も言わずに席についたので、虎次郎もそれに倣う。
「えっと、とりあえず事件をずらずら説明するから、何か補足とか、これどうなってんの? っていう疑問があったら言ってほしい」
そう告げると虎次郎は目を瞑った。物事を筋道立てて話す必要がある時恒例の動作だ。二人もそれを知ってか、沈黙を守っている。
「この一ヶ月で俺の身の回りで主に取り上げられた事件は三つ。時系列順に説明すると、一つ目が滋賀県石山の京滋バイパス高架下で変死体が発見された事件。被害者の名は岬結良。死亡当時の年齢が二十五歳。死因は脳挫傷。滋賀県警に第一報が届いたことから、県警の担当になった。でまあ、詳細は省くとして、高架からの飛び降り自殺として処理された。二つ目は、三人で三条に服買いに行った時に出くわした、いわゆる『京都自動車暴走事件』。実際に車が突っ込む前に殺されていた、麻薬取引犯として全国に指名手配されていた、芦田渋。そしてあのピンクの車に轢かれて死亡した、四十万胡桃。以前も京都で暴走自動車が人を撥ねた事故があったってのもあって、京都府警の、優秀どころである捜査一課が担当してる。ほんで三つ目が手原めぐみが死亡した事件。一報を伝える新聞記事には、単に死亡が確認された、って載ってたけど、ネットとかで調べると、県の北部の山中で首つり自殺をしてたっていう情報がいっぱい出てくる。ほんまか分からへんけど、他殺後に吊り下げられたっていうコメントもあった。まあ嘘かなとは思うけど、ちょっとあれやな。過剰に反応してるだけやろうけどな俺が。まあそれは一旦無視しよう。自分で言っといてなんやけど」
虎次郎は一度言葉を切った。喉の潤いを求めたせいではない。熱され続けた自分の脳を冷やすと共に、自分の言ったことを吟味する時間でもあった。話の展開を変える前には意図的にしている。
「じゃあ次に今後の捜査方針についてやけど」
「その前に、一つ質問」
「ん」
「手原めぐみの母親、手原祥子はどうなった?」
「どうなった、とは?」
「あれ以降連絡はあるのかどうか」
「少なくとも俺個人には連絡来てへんな。携帯俺のしか教えてへんし来てへんのとちゃう」
電話線は引かれているものの、固定電話はまだ契約できていない。
「そりゃあお葬式とか色々と大変なんじゃない? 奏が言ったみたいに自殺か他殺かも正式に決まってるか微妙だし。うちに来た事なんてどうにも忘れてるっていうか、印象に残ってるか分かんないし」
「そうだな」寿至は抑揚なく返事をしたかと思うと黙り込んでしまった。虎次郎は続きを促していると判断した。
「で、今後について」
「あー! ごめん」円香が大げさに頭の横で手を振って話を遮る。
シリアスな空気が一点、突然花畑に連れていかれたような雰囲気に包みこまれた。
「ちょっと引っかかるところがあって……。奏は捜査って言うけど、これって自己満足だよね? 報酬がどこから出るわけでもないのに、どうしてやらなくちゃいけないの?」
その言葉に虎次郎は羨んだ。円香はちゃんと分かっている。ただ、自分でも理由が分からないくなっているのだろう。
彼女は昨日、自ら捜査に積極的な姿勢を示した。被害者の友人に誰に言われるでもなく会いに行くことは少なからず何かの理由があるはずだ。
おそらく彼女はその理由を図りかねているのだなと虎次郎は思う。自分の行動が理解できず、その不安が、探偵事務所の存続、虎次郎が設立した目的、それらを明確に知らされぬまま、捜査しようといっても、二人がついてきてくれる保証はない。
そもそもすぐに仕事をしようって二人共思っていなかったではないか、などと野暮な指摘は当然しない。それを踏まえて彼女は質問している。
前だけを向いて走り出そうとしている人に、後ろを振り返りなさいと言うのは、明らかにモチベーション低下ややる気の低下につながることは想像に難くない。
これまで虎次郎は、一つの必ず解決したい事件、あるいは案件を目の前にすると、それ以外が見えなくなるという経験を多く繰り返してきた。円香自身、その傾向が見られたことへの不安を感じたというのもあるかもしれない。
虎次郎自身、その答えは見つかっていなかった。ぎこちなく微笑んでみせる。
「あくまで俺の意見やけど、自己満足の何があかんのかな、っていうのはあるかな。だってプロ野球選手になりたいって野球頑張ってる社会人って当然いるけど、その人らにお金にならへんのになんで練習してるのか、ってそりゃあプロになっていっぱい稼げるようになれる可能性があるからっていう人もいるけど、やっぱりほとんどは野球が好きやからやと思うで。なんで人間は好きなことをやりたくなるのかっていう哲学的な部分は置いといて、それが人の本能というか、生きがいっていうところに繋がるんとちゃうかな」
「本能……か」円香は呟く。
寿至はずっと腕を組みながら瞑想している。何を考えているかは全く読めない。
設定温度に達したためにしばらく停止していたエアコンが、唸る音が静けさを破った。
虎次郎は今言った言葉が本当に自分の意図するところに収まっているか反芻して確認した。年齢を重ねるに連れてこの癖が現れる回数は減少傾向にあったが、沈黙が包む中では表に出がちだった。
一分ほどエアコンの稼働音をバックミュージックにしたあとで、おもむろに虎次郎は口を開いた。
円香と寿至はスラスラと繰り出される提案にしっかりと耳を傾けていた。
一時間後、三人は京阪三条駅の改札を出た。
「さすがにあの日よりは少し涼しいなあ」
「確かに。めちゃくちゃ暑かったもんね」
地上に出て余計に涼しさを感じた。しかしあの日とは三人共立場も、周囲の環境も大幅に変わっている。平日だというのに、道を行く人は多かった。さすがにこの前の日曜日ほどではないが、若い人が非常に多い。そこでようやく学生はまだ夏休みだということに気が付いた。社会に出てからは夏休みの概念が大きく変わった。
三人はあの日と同じ道を無言で歩いた。隊列は全く同じ、円香、虎次郎、寿至の順である。
二週間まえに虎次郎一人で来た時と比較すると、かなり活気で溢れているように感じた。この状況をみて彼は嬉しい溜息をついた。
閑散とした冷えきった空気がまとっていたなら、一つ諦めなければならなかったからだ。
ひょっとすると若田部恭介がまだ知り得ない情報を持っているかもしれないという自信、それが過信とならないよう注意を払いながら捜査を行う必要がある。したがって大々的な行動は控えるべきだ。
そこで考えたのが、既に見知った警察以外の事件関係者と顔を合わせることだ。中でも虎次郎に親近感を与えてくれた『マイルドリンゴ』の店長、蒲山蒼汰がベターだと判断した。
事件の日とは異なり、一度も立ち止まることなく店の前に辿りついた。
「ここかあ……。全然記憶にないわ」
「そう? まあ俺はちょっとまえに来てるからなあ」
「記憶にないというのは不問だがな。思い出せないというのが正しい表現だろうし、そう言いたいのだと納得しておく」
寿至の自己解決を二人は無視して、虎次郎を先頭に店に入った。
「いらっしゃいませ」奥から快活な声が飛んでくる。
中には数人の若い男性が店員と談笑している姿が目についた。虎次郎が来た際にはいなかった女性の店員だった。
前回は服の購入という目的があったが、今回は完全に捜査モードである。
聞き出したい内容は事前に虎次郎から説明していた。前回『マイルドリンゴ』で蒲山と話した際には知らなかった、自動車に撥ねられて亡くなった四十万胡桃の二人のストーカーについてである。
若田部曰く、四十万胡桃と同大学に通う学生。
言葉だけ見れば、十代後半から二十代前半というのが第一印象だが、大学生である。下はともかく、上は限りがない。したがって年齢に縛りは設けられない。
当然若田部には教えてもらうことのできなかった二人の被疑者。ただ、その話を聞いてから二週間経つ。警察は割と体裁を重んじる。早く逮捕に踏み切りたいのが実情だ。しかし、現状誰も捕まっていない。このことから、二人が犯人である可能性は低い。もしもどちらかが犯人だとすれば、かなり厄介だということになる。
いずれにしても、この事件を捜査する上で二人の名前は知っておきたいところだ。
「うー……やっぱり私が見つけた店だけあっていいの揃ってるじゃん。あ、これこのまえ奏着てたよね。ってことはやっぱり買ったんだ。へー……。男の人の服ってこれくらいの値段なんだ。そんなに変わらないんだね、私が買ってるやつと」
長い独り言を漏らした円香に適当に相槌をしていると、奥から蒲山が現れた。透明度は前回訪問時よりもかなり増した声で、三人の来客を感謝する言葉を述べてこちらに向かってきた。
「あ、この人が店長の蒲山さんやわ」
虎次郎は二人を向いて紹介する。円香は大きくお辞儀をしたが、寿至は無反応だった。
「また買いに来てくれたんすか? いやあ、あれからもピンチはありましたが、ちょくちょく客足が戻ってきたんですよ」
若さゆえの生意気さを気にするのが馬鹿に思えるほどの笑みをたたえて蒲山は言う。訊いてもないことを話してくれているのは、やはり事件以来、一切の客足が途絶えた反動からだろう。
しかしその目が虎次郎を捉えた瞬間、左右に瞳がゆらいだ。当然虎次郎は見逃さなかった。そのゆらぎが何を意味するかも、事前のシミュレートから導き出すことができていた。
「……何も言うことはないよ」
口調は前回と全く同じだったが、その言葉にはかなり強めの拒絶が含まれていた。
三人と蒲山の周囲の空気だけが店の中で明らかに浮いていた。
若田部恭介があらゆる事件関係者に徹底して奏虎次郎には情報を与えるな、と通達していることは想像できていたし、彼の反応を見るにそれは間違いではないと思われた。
「いや、まあそんなことおっしゃらずに」
分かった上で機嫌を取る。
捜査する際には、必ず相手を怒らせたり、嫌な気分にさせてはならない。まずは人間として信頼できるかどうかを見せるのがコツだ。もっとも一睨み利かせただけで相手が震えあがってしまうような強面の場合は話が変わってくるのだが。
「でもね」
蒲山は話を切る。何か迷っている様子だ。
「じゃあ私から提案します」
虎次郎はニッコリしながらいった。蒲山は黙ったまま頷く。
「きっと京都さんとこの刑事から色々と釘を刺されているために、話せないんだと思います。探偵が来ても何も答えるな、とか言われているのでしょう」
虎次郎は自分の立場を明確にしてから話を進めた方がスムーズに展開できると判断し、準備していた文言ではなく、今考えていることを中心に話すことにした。
「蒲山さんもこの付近に殺人犯がうろついてるってなったら怖くないですか?」
「いやそりゃあ怖いっすけど」
蒲山はボリュームを落としてボソボソ言う。
「ですよね。私からの提案は、答えたくない質問には答えなくていいですってことです。その恐怖を和らげることを目的として僕たちが来たって捉えてください」
ちらりと二人を振り返る。事前に打ち合わせした流れとは全く異なっていたが、渋々といった感じで頷いていた。
蒲山はまだ迷っている様子だ。腕を組みながら下唇を噛んでいる。細身の身体が心なしか震えているようにもみえた。
気にせず虎次郎は続ける。
「じゃあ、時間もあるでしょうし、何より僕らが服を買う時間もあるので、質問始めますね」
「はい……え?」
寿至、円香、蒲山の三人が同時に虎次郎を見た。
「マジっすか? 前回あんなに買ったのにまた買われるんですか? いや、こんな言い方お客様に大変失礼なんですが……」
「うん、まあ服っていくらあっても困らないですからね。裸で過ごせる国じゃないし」
「分かりました。じゃあ、できる限り協力します」
蒲山は任せてください、という風に右手の二の腕をぽんぽんと叩いた。
虎次郎には二人が引いているのが、手に取るように分かった。一つはファッションに無頓着なのに、この一ヶ月で二度目の大人買いを慣行しようとしているところ。もう一つが、交渉術だろう。
彼の情報を聞き出す力は、刑事時代、周囲の先輩達からも一目置かれていた。当然彼はそれを自覚していた。
「京都警察署から、注意された内容についてですが、具体的に僕たちの名前って出ました?」
「僕が言われたんは、探偵つっても捜査のアマチュアやから、下手に手を出してしまうと殺されるかもしれへんって話で、誰々には情報を出すな、とは言われてないです。警察関係者以外には言うなって感じっすね」
メモは寿至の役目となっていたので、虎次郎は不自然にならない程度の間を空けた。
「なるほど。じゃあ次に……」横目で寿至を確認しながら続ける。「被害者である四十万ですが、ストーカーがいたという話はご存知ですか?」
「それはニュースで知りました」
「それを踏まえての質問ですが、最近怪しい人物を見かけませんでしたか?」
犯人は、現場に戻ってくる。そういった心理は確かにあって、今回のような人を撥ねて死なせるような事故でさえ、よくあることなのだ。轢き逃げした犯人が、同じ道を通る心理は、その日以来別の道を通るようになったなどと噂にでもなれば自分に疑いがかかるからだ。しかし、犯人は、自然な心持ちでその道を通ることができない。どうしても変な所、例えば一瞬ブレーキが遅れて事故になりかけるといった反応が現れてしまう。そういった所から犯人逮捕に繋がるケースも少なくない。
「最近は……無いというのが答えになりますね……。ようやくお客様も入ってくれるようになったので、ちょっと忙しくて周りが見えてないってのはあるかもしれないですけど……。ただやっぱりずっと高校生、ああ、学ランを着た探偵の存在は気になってます。なんか今になって思うと、本当に探偵やったんかなっていう」
虎次郎は片方の眉毛を上げる。「どういうことですか?」
「学ランっていうのはまだしも、まえにも言いましたけど、質問が専門的すぎたというか、なーんか凄すぎたのが気になって」
「へえ、店長さん変な所に注目されますね。それは探偵なら当然のことなんですが」
「あ、そうっすか。でも思い出してみると、変なことあるんすよ」
会話に慣れてきたのか、かなり砕けた口調になる。
「例えばめちゃくちゃ質問の量多かったんすけどね、手帳とかペンとか一切持ってないんすよ。服とかやったらね、僕もどういうのが今年流行ってて、どんな生地でできててとか覚えられるんすけどね。さすがに自分が知らんことを質問していって、教えてもらってっていう風やと覚えられないっすよね。絶対あの高校生社会得意っすよ。社会っていうか歴史かな。ああ、テストの時とか楽なんやろうなあ、羨ましい」
虎次郎は噴き出した。後ろで円香も笑いをこらえている。
「上からで恐縮ですが、服のことならどんどん覚えられるんですよね、蒲山さん。だとしたらその理由をよく考えると、メモなんか取らなくても覚えられますし、テストでも良い点数が取れますよ。警察とか、今後ろで彼がやってますけど、メモを取る理由は、覚えられないからじゃなくって、思い出すきっかけのためですね」
「へえ、そんなこと考えもしなかったっすよ」
蒲山は心から感心している風だった。
「メモを取らなかったというのは目の付け所としては悪くないですね」
虎次郎は下唇を突き出し、腕を組む。
「というのも、メモを取らない探偵を見たことがないからです。寿至、どう思う?」
実際にメモを取る彼に質問を投げかける。寿至はペンを走らせながら、
「先ほどコジローが言った通り、記憶を呼び起こす作業のトリガの設定の違いだろうな。メモなどなくとも、暗記したもの、それは漢字や数式ではなく、場面、すなわち背景から時間、その他詳細、五感で感じ取れるもの全てをそのまま何に変換するでもなく、五感で記憶できる人も、この世には多数存在する。だが、現実問題として、そのような人がこの辺りをうろついているとは考えにくい。まして高校生ならなおさらだ。しかし」
寿至は手を止めると、ボールペンをシャツの襟元に引っ掛けた。
「だからこそ、と言う可能性もあるな」
「……」
しばらく待ったが彼の動きが今度は完全に停止していた。
「ちょっと寿至さーん、電池切れですかー? そもそも電池で動いてるんですかー?」
円香が寿至の眼前で手を舞わせる。
虎次郎は大学のテストを思い出していた。
哲学Ⅰという一般教養の講義だった。
レポートのみ、という評価方法に惹かれただけで軽い気持ちで受けたのだが、あまりにレポートの出来が良くなかったのか、レポート提出した者含め、全員参加のテスト形式に評価が改められたのだった。何か規則に引っかかるのではないかと思ったが、結局は単位が欲しい学生は皆一堂に会することとなった。
試験とは言ってもレポートと形式は似通っており、主に自分の考えを記述する、小論文に似た問題が八割程度を占めていた。残りの二割は、哲学者の名前や名言、思想などの穴埋め問題で構成されていた。
試験開始から十分ほど経過したころだった。
後ろからシャープペンシルが転がり落ちてきた。傾斜のあるリノニウムの床だったので、教壇近くまでコロコロと転がっていった。
担当教官がそれに気付きシャーペンを拾うために腰を上げた瞬間、「うわっ」という声と共に椅子が倒れる音がした。虎次郎は思わず教官に目をやった。
「ちょっと、そ、そこの君、何をしてるんや!」
それまで僅かな音しか存在しなかった教室にいて、はめごろしになった窓ガラスが割れんばかりの大声に感じられた。
教官である講師の質問が鳥谷寿至に向いていることに気付いたのは、誰も反応しない状況が二十秒ほどすぎた頃だった。テスト中、カンニングを疑われる行為はするべきではない、との教えを思い切って無視して後ろを振り向いた。
そこには中腰で、膝に手を置いて停止する寿至の姿があった。
試験中に椅子から立ち上がる瞬間など、トイレに行くか、時間が余ったので出ていく以外に聞いたことがない。しかもトイレに行くとなれば、立つ前に試験教官の了承を得るはずだし、時間が余った場合でも先にそういった案内がなければ勝手に立ち上がることもない。この哲学の試験はどれだけ早く問題が解けたとしても、試験時間である六十分はその場にいなければならなかった。
そんな中、何も言わず中腰の姿勢を崩さない。
さすがに不審に感じ始めた、特に寿至よりも後方の学生たちがざわつき出した。
今の寿至を円香が電池切れと形容したように、虎次郎はこの時、突然彼が死んでしまったのではないかと、一気に心臓を持ち上げられた気分になったことを覚えている。
しかし実際は違った。
この後のやりとりはほとんど忘れてしまったが、確かなことは、寿至が何事もなかったかのように腰を下ろして一心不乱に文字を書きなぐっていた点である。
それともう一つ。成績配布の日に、大学の教務課に哲学の点数を巡ってかなり強く突っかかっていたことだ。単位は落としていなかったのに、ここまで怒りを前面に押し出してくる学生は初めてだと、職員も呆れていた。しかし寿至は岩のようにその場を動かなかった。
その時の寿至には半分狂気のようなものを感じたので訊けなかったが、後日改めてどうしてそこまで熱くなっていたのか質問した。
「あの日まで悩んでいたもの、それは夏でいう線香花火が最後燃え尽きる直前の様であり、冬でいう氷柱が水滴に全て変化して無くなってしまう瞬間の様であったり、幼少の頃に観察した、どこか懐かしい感情が解決したんだ。もちろんその思考を文章に変換し、テストの回答として明確に記して提出したのに、それが反映されていないような点数だったからだ」
と、寿至は苦虫を噛み潰したような表情でいった。他のところで明らかな不正解があったのでは、と訊いたが、
「資料持ち込み可の試験においてそのミスをするのなら、今後人間としてやっていく価値はないだろう」と突き返された。
教務課を通した哲学Ⅰの講師の言い分は「テスト中に講師に逆らうような態度を取ったから」だったらしい。そのような記憶は一切ないと彼は言い張ったようだが、結局点数は覆らなかったとのことである。
記憶を失くしてしまうほど、否、周囲への観察が不可能になるほど集中して考えるとはどんな状態なのだろうと、虎次郎は思慮した。
「だからこそ、か。」
寿至は自分の言った言葉を反芻する。おっ、と思い、彼の次の言葉を待つ。けれども幾ら待てども何も話し出そうとしない。虎次郎は蒲山がじっと見つめているのに気付いた。。
「え?」
「あれ?」
「あー時にコジロー、いつものように別世界に行っていたな」
自分のことを棚に上げて物を言う、とは思ったが口には出さない。
「うん、ごめん。もう一回お願いできる?」
寿至はニヤリと笑い話し始める。嫌味の小言が無かったのはかなり機嫌が良いからだろう。
「高校生探偵が本当だと仮定した場合――」
「ちょっと、二回も同じ話聴く身にもなってよ! 店長さんもおんなじこと思ってるよ」
円香が話の腰を折った。
「ああ、それもそうだな。また後で話すから、ここじゃないとできない仕事をしよう」
通常より更に低い声で提案する。彼の考えがかなり気になったが、寿至の言う通りなので、頭を切り替えて話し出した。
「えーっと。まあ怪しい人に関してはまた思い出してもらったらで結構ですので、連絡ください」虎次郎はメモ用紙で簡単に作られた仮名刺を手渡す。
「あ、怪しい人といえば……芦田の第一発見者ですよね」
蒲山が思いついたという風に人差し指を立てていった。漫画でしか見たことのないポーズだと思ったが、今朝円香もしていたことを思い出す。
「あー男か女かすら分からないっていう話でしたね」
虎次郎もたった今まで忘れていた。
「え? え? 何? そんな人いたの?」円香は手をペンギンのようにパタパタさせた。
「そうそう、説明するん忘れてたわ。……って新聞には載ってるから知っててもおかしくないんやけど」
皮肉をつけ忘れずに、虎次郎は説明を始める。
芦田渋の第一発見者が二人いたこと。一人はその場でピンクの軽自動車に吹き飛ばされて亡くなった四十万胡桃。もう一人、行方不明になっているということ。
その行方不明の一人は『マイルドリンゴ』の店員曰く、男性か女性かすら分からない、更に特徴的な服装をしていたということ。特徴的な服装だったにも関わらず、どのようなファッションだったか、誰も覚えていない、ということ。
隣で聞いていた蒲山が、横槍を入れる。
「そのバイトの子ってあの子ですよ」
蒲山の指さした方向を見ると、店に入った時に明るい声を出していた女性の姿があった。先ほどまでの接客を終え、自動ドアから外に出て深々と頭を下げている。
「話聞かせてもらうことってできますか?」
「いいっすよ。おーい、たえちゃーん。ちょっと」
たえちゃんと呼ばれた女性は、無表情ですたすた歩いてきた。接客時とのギャップが大きすぎると思った。
「こちら探偵さんなんやけど、ほらあの事故の日に見たっていうおかしい服着てた人の話が聞きたいらしいわ。僕は全然良いと思うし、後はたえちゃん次第なんやけど」
蒲山はお願いします、という感じで手を合わせていた。目をぎゅっと瞑っている。
「店長、警察に色々言われてましたよね? まあ、店長が良いならいいけど。責任とかとってくださいね」
先ほどまでと明らかに態度が違う。虎次郎たちを客とはみなしていないのだろう。また、口調もかなりつっけんどんで、細かい棘を多く含んでいた。
「もちろん、じゃあよろしく。僕ちょっと後ろ下がってますんで」
そう言って蒲山はそそくさと奥に消えた。
たえちゃんはこれぞアパレル店員と思える、原色をふんだんに舞わせたファッションだった。服のことはよく分からないが、今年の流行りというやつなのかもしれない。所々に散りばめられたテラコッタカラーは、秋を先取りしているとか、そういう意味だろうかとかってに思案する。
背丈は平均的な女性より少し小さいくらい、円香とさほど変わらない。どんぐりのような丸い目に厚めの唇。マニッシュショートの髪。彼女自身が中性的な特徴を兼ね備えている。
一目、二十代前半だと思われた。以前蒲山店長がバイトの子と呼称していたので、大学生かなと想像する。
店長が去ったところで彼女はスマイルを見せた。ビジネススマイルだろうが、かなり魅力的だった。
「私、妙丸寧音っていいます。いつもあの店長に振り回されています」
一変した態度や表面ににじみ出る雰囲気が、蒲山店長への不快感を示している。
「わざわざすみません、営業時間中に」
まず虎次郎は非礼を詫びた。
「これまでも何度か同じことを訊かれたかもしれませんが、事件当日、消えたとされる人物について教えて頂きたいと思ってます。芦田……、えー、最初に路地裏で殺されていた男性の第一発見者である人物についてです。発見者二人の内、一人は事故で亡くなってますんで、もう一人の方ですね」
「あの……」
「はい」
「なんか結構キーポイントになってるって店長からも聞いたんですけど、軽い気持ちで言ったことってのもありますし、あまり重要視されても……って思うんですけど」
「ああ、それはお気になさらず。情報は可能な限り聞き出して、整理するのはこちらの仕事ですから。もちろん嘘をおっしゃってもらっても構いませんし、妙丸さんご自身が思っていること、考えていることを直線的に話してもらっても構いません。それも踏まえて評価しますから」
にっこり微笑んで相手を安心させるよう努める。
「ごめんなさい」
いきなり大声で謝罪してきた彼女に、不思議そうな目を向けると、
「自己紹介しましたけど、自分の名前好きじゃないんで『たえちゃん』って呼んでください」
そう話す彼女は幾分年老いてみえた。案外年齢を重ねているかもしれないなと思った。
「わかりました。そうさせていただきます」
彼女はホッとしたのか、肩の力が抜け一段と背が縮んだようにみえた。
「えっと、事件の第一発見者の話ですよね。二人いたのは事実です。そして一人亡くなったのも本当です。路地裏で人が死んでるって騒がしくなって、お客さんもほとんどが外に出ちゃったんで、私も出たんですけど。そしたら『プール』の前で女の子ともう一人が座ってて……」
『プール』とは『マイルドリンゴ』の隣にあるレディース専門店である。その店の店員が、第一発見者は二人いて、二人共女性だったと証言しているのだが、妙丸寧音は性別は不明だったと話しているのだ。
「で、変なことにその人のこと全然思い出せないんですよ」
前回店長と話した内容と一致している。
「今思い出しても同じですか?」
彼女はうーんと唸った。そして大きなため息を吐く。
「そうねえ、大して変わらないですね」
「見た目の特徴とか、外見でも良いんですけど……。できれば状況とか。例えば、完全に介抱しているような雰囲気だったとか、よそよそしかったとか」
「二人は知り合いだったかどうかってことですよね? うーん、ああ、でもどこかに電話をかけていたような気はしますねえ」
斜め三十度くらい上の虚空の一点を見つめながら言う。
虎次郎は彼女の次の言葉を待ったが、動作の気配がなかったので、
「着ていた服も分からなかったって聞いたんですけど」
「そうなんですよ、特徴的やった気はするんですけどねー」
考えながら話しているのだろう。亀が話をする時のように語尾が伸びる。
「特徴的とおっしゃいますけど、それなのに覚えてないっていうのが僕には引っかかってるんですよね」虎次郎は下唇を突き出した。
言うつもりなど全くなかったのに嫌味を言ってしまったと反省した。
「すいません、アパレル店員失格ですよねー。いやー、ずっと何かが引っかかってるんですよね、そう、一言でアンバランスっていうワードが頭にあるんですよ。よく分からないですねー」
相変わらず語尾を伸ばす彼女。心なしか背筋もより伸びてきているようにみえる。
「あ」
ぽかんと開けられた口がその形を保って言葉を押し出した。
「みかん……?」
「はい?」
虎次郎は耳にした瞬間、その柑橘系のオレンジ色の果物を思い浮かべることができなかった。
「知り合いだと思います!」彼女は興奮冷めやらぬといった感じで虎次郎、そして寿至、円香へと視線を巡らせた。
「あれ? でもどうして危ないんだろう……?」
彼女がまた回想の世界に入り込んでしまいそうだったので、無理やり手を引くことにする。
「あ、すみません。思い出したことがあるなら、まず言葉にして欲しいんですが」
思考中の人間を遮ると、その思考から得られるはずだった考えは二度と取り戻せない。承知の上だが、何か重要なことが隠れているかもしれない彼女の意見を掬い出したい欲望が勝った。
「でも、これ、思い出してみるとどうして思い出せなかったのかが分からないほど鮮明なんですけど」
「まあ記憶って大体そんなもんですよ」
たえちゃんは納得していない顔だったが、疑心暗鬼な表情のままボリュームを落として話し始めた。
「車の事故で死んだ子いるじゃないですか。あの子を呼んでたんですよ。危ない! だなんて。それが、確かみかん! って呼んでた気がして」
鮮明に思い出せた割に、自信のない口調になっていたのはまだ困惑しているからだろう。
「みかん……ですか。渾名ですかね。被害者は四十万胡桃ですし……。くるみから食べ物つながりでみかんって渾名になったとか、安易すぎますね」
虎次郎は自分のロジックに恥ずかしさが生じ頭を掻いた。
「しかし、その子の発言から考えると知り合いだった可能性は高いですね」
「そうですよね。でもやっぱりどんな服着てたかとか、顔とか、全然思い出せないです……」
心から不思議だという感情を顔に浮き上がらせる。
虎次郎もその点は不可解な点として引っかかっていた。
対象者の発言は思い出せても容姿が思い出せないとは。
人間が手に入れる情報源の八割以上は視覚からだと誰かが言っていた。その八割が無視をしたとでもいうのだろうか。その時だけ、ずっと目を瞑っていたか、あるいは目を塞がれていたか。しかし彼女の言葉からそのような意思はまったく見えてこなかった。
虎次郎はこれ以上聞き出せそうな情報はないと思って、二人を振り返った。
二人共今にも大きなため息をつきそうなほど下を向いて苦々しい表情をしていた。何か疑問が生まれるかもしれないので、それまで話を繋ぐことにする。
「事件の話と全く関係ないんですけど、なんで自分の名前が嫌いなんですか?」
それまでどことなく不安そうに眉が下がっていたのが、ピクリと反応したかと思うとすぐ少し上に移動した。学校であれば、よくぞ聞いてくれました! と満点がもらえそうな動きだった。
「そうですねえ、まず妙丸から」
口調が一変する。これまで何度も説明してきたに違いないと虎次郎は確信した。
「たえっていう漢字あるじゃないですか。これが炒めるっていう字に似てるってのが一つあって。中学生の時に調理実習があったんですけど、先生が作ったプリントに炒める、じゃなくて妙めるってなってたんですよね。それから家庭の授業だけじゃなくっても炒めるっていう言葉が出てきた瞬間、皆私の方を見る、みたいな」
たえちゃんは自嘲気味に笑いながら言う。
「ああ……名前でいじられたパターンですね、分かります」
その経験は誰もが一度は経験するだろうと思う。虎次郎自身、兄の無茶士とも相まって、特に小学生の頃は同学年はもちろん、兄の学年の人たちにも目を付けられたものだった。もっとも虎次郎はそれを嫌な経験だったとは思っていない。
「寧音の方は、丁寧の寧に、音って漢字書くんですけど、普通に読んだら〝ねね〟なんですよね。これってクレヨンしんちゃんでウサギの人形殴ってるあの子と同じ名前じゃないですか。今は読み方の難しい子が多いから、読み仮名の振ってある名簿を担任の先生は貰うらしいんですけど、私の時は最初に読み方を確認するみたいなスタイルやったんですよね。そこで毎年のように〝ねね〟って読み間違えられるからもう……変な渾名いっぱい頂いてましたね。いらんっちゅーねんって話ですよ」
虎次郎は微笑みながら話を聞いていた。
「あげくの果てに炒めるから連想された〝野菜〟ってのと〝ねね〟の二つの派に分かれて、不本意な取り合いがありましたね」
彼女は自分で言ってて恥ずかしくなったのか、口元を押さえながら笑っていた。
「なかなかハードな過去をお持ちのようで……」
どう言えばいいか分からなくて後半言葉を濁す。
「ついでに言うと」
まだあるのか、と虎次郎は目を細めた。
「ねおん、って読み方自体もねえ。ネオンってなんか夜の街っぽくて良い印象がないんでそもそもそんなに好きじゃないんですね」
そう言ってたえちゃんはニッコリと笑ってみせた。先ほどまでの営業スマイルとはまた違った幼さを覗かせいていた。
「ああ、話戻しますけど、一つ教えてください。直感でいいので」
彼女はこくんと頷いた。
「その危ない! って叫んだ子がストーカーだったなんて可能性はありませんか?」
そもそもこの店に来たのは、ストーカーの存在の聞き取りだった。蒲山店長の態度や過去の回想によって、最も大事な質問を忘れていた。
「ないと思います」
考える時間がもったいない、という様子で即答する。
「なんでですか?」
「同性の人のストーカーなんて聞いたことないですし、何より亡くなられた四十万さんは嫌がってなかったですもん」
「なるほど」虎次郎は縦に大きく二度、首を振った。
「あのさ」
ここで円香がやけに棘のある声色で口を挟んだ。
「気になることがあるんだけど」
虎次郎がどうぞ、と手をかざす間を惜しむように食い気味に話し始める。
「やっぱりその男か女か分からないってのがおかしいと思うんだよね。だって実際に声も聴いてるわけでしょ? 言葉が頭に残ってる、ああ、今出てきたのか……。だとしても事故の瞬間が再生されたんだったら、男の人の声か、女の人の声かは判別できるんじゃない?」
たえちゃんはきょとんと目を丸めていた。どんぐりの形だったのが栗に近づいた。
何も答えられない彼女を見て、放っておくと泣くかもしれないと思った虎次郎は、
「え~、想像よりめっちゃストレートに物言うやん。それは寿至の役割でしょうに」
「たまには言わせてよ。役割があべこべになっても別にいいじゃ……」
突然円香が黙り込んだ。
役割だけでなく、電池切れという寿至の特徴までもが移ってきたのか、などと悠長なことを考える。
「いや、私もだ」
店のBGMが大音量で耳に届いてくる。そのクラシックに円香の独り言はかき消され、口元の動きから何か言ったのだな、という予想しかできなかった。
しばらくはその余韻でクラシック以外の響きがあったが、瞬時に消え、再び元の世界に戻った。妙丸寧音は茫然自失といった状態でその場に立ち尽くしている。全くの無表情。円香もそれが移ったかのような無表情。先ほど妙丸寧音が無の空間を見ていた時と同じ角度で斜め上を見ている。念のため虎次郎も視線の狙いをつけてみたが何もなかった。一方寿至はウロウロし始めた。あまりに長く誰も言葉を発しないので、虎次郎同様動きを待っていると思われる。それにしても彼が目的無しに足を動かすのは珍しい。ファッションに興味があるとはいえ、まず何かしらの行動を起こしていることが珍妙である。
そんなことを思っていると、
「いや、本当にいた!」
寿至が大声を出した。
予想だにしなかった方向――虎次郎が目をやっていた方向から急に飛んできたので驚いて身体がビクっと反応した。
身体とは裏腹に脳は意外にも活性的に動いていた。
そうか、円香はこれを体感したために、動きを止めてしまったのか。
「そう、私たち誰かとすれ違ったじゃない! あの時……」
確かに、事故が起きて間もない頃、急いで現場に向かいたい虎次郎を二人が制した後、誰かとすれ違っていた。そして――
思い出せなかった。
円香が何かを言っていたことは思い出せた。
今の今まで忘れていた。そう、何か非常に特徴的だったと、円香が虎次郎たちに説明していた。
「あれは、誰だったんだろう……」
円香がぽつりと呟く。
その一言が、波紋のように広がって四人を包んでいく。
全員が黙りこくっていた。
寿至が言ったように、確かにいた。しかし思い出せない。男か女か、それさえも分からない。夏場の水まき、一瞬だけ見えて消える虹のように鮮やかで、そして儚く。




