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黒と黒のコントラスト  作者: じっぴー
第六章
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3

 日本列島周辺に複数の台風があるという、非常に珍しい夏になった。そのせいか朝から雨が降りしきっている。三つの台風の内、二つは太平洋、それも日本近海にて発生した。虎次郎はそのようなケースをこれまで聞いたことが無かったので、地球温暖化の影響だろうかと考えたが、それほど珍しくはないらしい。そう耳にすると、数年前にもそんな台風があったなあなどと記憶が掘り起こされる。

 指摘されてようやく頭が回転を始めるこの現象に名前はあるのだろうか。今度寿至に訊いてみようと思う。

 虎次郎周辺も同様に、複数の事件が渦巻いていた。刑事の頃なら、特殊な場合を除いて、二つ以上の事件を担当することはまず無い。一つ一つを徹底的に、ある時は人海戦術で解決するのが最も確実であり、批判も受けにくいからだ。

 しかし探偵業をするにあたっては、そんなことおかまいなしだ。そのことは重々承知していたが、現状依頼は一件。それも依頼を達成することはできなかった。探偵事務所の開業は容易だが、継続は難儀であると言われるが、紛れもない事実であることを少しずつ認識していた。

 ただ虎次郎は、探偵業がやりたいがためだけに、開業したのではない。京都自動車暴走事件の解決。それを強く願っていた。何故自分がそこまであの事件へのこだわりを持っているのかを分析できていない。漠然と引っかかるものがあった、ような気がする。そんなプランクトンがルアーにかかった程度の違和感。それだけだった。

 雨の中、傘をさして虎次郎は歩いていた。

 今になって、雨に濡れないと分からないこともある、だなんて考えを抱いた自分を恥ずかしく思っていた。傘から身体がはみ出そうものなら不快以外の感情は何も浮かんでこないだろう。

 家を出て二、三十分は経過しただろうか。虎次郎はどうしても刑事時代のことを思い出してしまう。晴れていようが、雨や雪が降っていようが徒歩で通勤していた時代だ。『探偵事務所 巌流島』は家から三キロ以上と、家から滋賀県警までよりも一キロ以上遠い。しかしこの習慣は変えようと思わない。車の駐車場を借りるのにお金がかかるだとか、JRだと駅から近いがこれまたお金がかかるだとか、賃金の問題ではない。理由は刑事の頃から変わらない。生産性の向上のため、それだけである。

 以前、課の飲み会で上司だった水雲に質問されたことを思い出す。


「じゃあさ奏君。刑事にとっての生産性って何?」

 水雲特有のあどけなさの残る一重瞼が、早く答えが訊きたいとうずうずしているのが一目で分かった。虎次郎は少し考えて答えた。

「県警の捜査一課の刑事にとっては、県民一人ひとりの意識の中から、犯罪に関連するワードが消えること、ですかね?」

 徐々に自信を失くしていったので、後半は囁くくらいの音量になっていたように思う。それを水雲はうんうんと大きく頷きながら聞いていた。

「面接やったら八十点ってところやな。それに俺でも上司が相手やったらそう答えると思うわ。結構多い間違いが、犯罪の件数が減ったことを生産性と捉える見方やな。刑事より広く警察っていう立場での回答としてもこれは誤り。犯罪が減って喜んでいいのは警察以外の人らやろ。僕らには何も還元されへんねんから。まあ警察官であるより前に国民やから、ってのも一つの言い分やけど、もはや屁理屈やわなあ」

 かなり短くなった煙草をくわえ、控えめに吐き出して水雲は続けた。

「僕の思う答えは、生産性なんか無い、やねん。質問のアレ、……仕方が悪かったっていうか、卑怯やったのは認めるけど」

「そうですか」虎次郎は相槌を打ちながら考えていた。水雲の言わんとすることは、説明を聞かずともなんとなくわかった。しかし、どうしても一つ疑問が残っていた。

「水雲さん、人生の生産性って何ですか?」

「ああ、そんな一瞬で僕の意図が伝ったんか。さすが奏君やなあ。生産性って言葉はめっちゃ便利で、特に成果が出えへん時に、それは本当は無駄なんじゃないっていう指摘と共に使ったら効果はてきめんやけど。僕が言いたいのは、生産性とは何か、これを考えるために生産性って言葉があるっていうこと」

「…………」

「うん、意味わからへんやんな。先に質問の答えを言うわ。人生における生産性ってのは、僕は考えることやと思ってて、考えて何も産み出さへんかったら生産性って言わへんのと違うのかってなりそうやけど、何か一つ、一つじゃなくてもいいわ。考えることによって動くものはあると思うんよね。それが最終的に、資本主義の国にとってはお金ってことになるんかな、そういう所につながっていく、これは立派な生産性とちゃうんかな」

「うーん、なるほど」

 完全に理解できたとは思えなかったが、一応納得した顔を作った。

 いつからか周りで難しい話をする人が少なくなっていったような気がする。歳をとると仕事に忙殺されてしまい、余計なことを考える時間が減るからなのかもしれない。刑事や探偵という職業においては、水雲のような脳を持っている人間もいるが、一般的なサラリーマンで生産性の定義についての議論を飲み会の場でしようものなら、しょうもない奴などと言われてしまうだろう。まえに勤めていた『サンライズ』でそれは十分に感じ取っていた。

 よくないことだなどとは思わない。上司に怒鳴られるポジションに就くことはなかったが、攻撃を受けることしかできない人の、ストレス発散の場として機能しているのならば、一つの成功と呼べるだろう。

 

「あれ?」

 汗でべたついた手で鍵をひねってから独り言をもらした。

 誰がいるのだろうと思ってドアノブに手をかける。

「二人共早すぎやろ」

 応接間でふんぞり返っている寿至と、キッチンでアイスコーヒーを淹れている円香が視界に入った。

「おお、お盆休み満喫できたか?」

「まあまあかな」

 無表情の寿至を横目に椅子に腰をおろす。同時に手提げかばんを広げ、持ってきた新聞を取り出した。どうせ誰も読まないからと、家の新聞もとってきた。さすがに父母と兄が愛読している番組欄は置いてきた。虎次郎が持ってきてもテレビ内で確認できるので重要ではない。

 キッチンから歩いてきた円香が声をかける。

「ねえ奏の家はさ、この探偵事務所始めたことに何か言ってるの?」

「うん、両親は完全に俺らに無頓着やからなあ。普通、大変ちゃうの? とか、やめときいってとか、好意的な人らやったら頑張りや、とか言うとこやと思うんやけど」虎次郎は主婦の口調を真似て言う。「家はただ、そうなんや、っていうその一言だけ。昔は違ったけど、大学入学した頃から一貫してるわ」

「ええ……。かわいそう。あんまり会話ないの?」円香が眉をひそめる。

「そんな思春期じゃあるまいし、普通に喋るで」

「反抗期という表現の方が適切だな」

 お決まりの寿至の指摘を受ける。受けてはいるが受け流す。実際に受けていなくても、受け流すと使ってしまっているなと虎次郎は思った。

 たった二、三日空いただけだったが、彼の指摘をかなり懐かしく感じた。これまでのように半年、あるいは一年間会っていない時に感じていたのは理解できるが、数日という括りになってももの懐かしく思えるのはなぜだろう。日単位の連続性に起因するのだろうか。毎日聞いているとありがたみを忘れてしまう、という厄介な性質のせいかもしれない。

「そうなんだ。お母さん元気?」

 円香も寿至の指摘を受け流した。華麗な身のこなしようだ。一週間まえまでは逐一反応していたのにも関わらずである。

「うん、特に変わりなく。東後が知ってる頃よりはかなり自分の人生に専念してる感じっかな」

 虎次郎はゆったりと慎重に言葉を選んで答える。

「そういや寿至は? 仕事辞めたこととかご両親に報告した?」

「そりゃあ話さないわけにはいかないだろう。君はまさか俺が家族に対しても質問されないと答えないなどと、そんな冷たすぎる人種だと考えているのではあるまいな」

 何ともなしに部屋の端を見ていた寿至は視線そのままに口だけ動かす。

「へえ、人種として成り立つほどいっぱい人がいると思ってるんだ」

「一人でも人種として成立する。人種の定義からして自明だ」

「で、どんな反応だったの?」

「やけに突っ込んでくるな」

「いや、なんとなく、なんだけど」円香ははにかむ。

 虎次郎には質問の意図が手に取るようにわかった。おそらく寿至もそれは同じだろう。しかし、そこには触れない。寿至の例えた人種よりも冷たいからだ。

「そうだな。うちの親も特に何も、というか、我関せずといったところだったな」

「あーわかるわかる。寿至も絶対にそうだもんね」

 円香は胸の前で手を合わせた。場面が違えばいただきますと言い始めそうだ。

「期待に沿えなくて申し訳ないが、いや実際には何とも思ってないのだが、俺は案外気にかける方だと思うぞ。そもそもまえにも言ったが、兄が公務員なもんで俺にはあまり期待していないようなんだ。もっともその兄はもう何年も実家に帰ってないのだが。両親の根本にあるのは、自分のことは自分で面倒を見ろの精神だ。一年前だったか、実家に帰った時に聞かされた話だが、ご近所さんと何ともない世間話をしている中で『子供二人共家を出ちゃって、老後は誰に面倒みてもらうつもりなの?』と訊かれたらしい。そもそもそんな発想がなかった母親は『自分たちですけど』と控えめに言ったそうだ。すると相手側が諭すように『それじゃあ何の為にお腹痛めて子供産んだか分からないじゃない』と言ってきたらしい。子供を自分の面倒を見るための道具として捉える考え方にカチンと来た母親はその夜、父親に愚痴をこぼしたそうだ。すると父親もありえないと母に同調して、まさかの殴り込みだ。相手の家の子供は三姉妹で、上二人が実家暮らしでまだ結婚はしていない状況だ。その二人に『君のところの両親は、君たちをこき使うつもりだぞ』と声を張り上げて言ったらしい。まあ言い方も悪かったんだろうな。そのつもりです、と二人の娘に言われ、ああ、何を言っても無駄だと引き上げたそうだ。結局その家とは近所付き合いを辞めたそうだ。一言ですら口をきいていないらしい。大の大人なのにそんなことするか? 俺でももっとうまくやれる気がするのに」

 二人は苦笑する。虎次郎は血ってやっぱり争えないんだと思っていた。

「きっと正しいよね、寿至の両親の考え方。でもどうしてか日本では受け入れられない考え方じゃない? どうして?」

「あくまで個人的意見だが、いや、人が個人的意見以外を述べることは基本的にありえないのだが、日本人の多くはまだ、助け合うことが生きがいだと思ってるんだろう。あるいは助け合わないと人は生きていけない、と。それなのに大人になったから自立しなさいだの、誰も助けてくれないなどと言うんだ。自分は一人で生きてきたんだと。しかし反面自分が困った時には誰かが助けてくれると思ってるし、実際に誰も助けないだなんてことはありえない。なぜならそれが日本国の仕組みとして成り立っているから。一言でいえば、おせっかいな人が多いっていうだけなんだろう」

「それはすっごい分かる」円香は最敬礼するかの如く首を上下させて頷く。「でも最近若い人で、そうじゃない考えの人増えてるような気がするよね。寿至のご両親くらいの年齢だと珍しい気もするけど」

「気がしすぎだ。まあ便利な言葉だから俺もよく使うが」

 寿至はブラックのままコップの半分ほどコーヒーを一瞬で飲んだ。

「とにかく、やっとと言うべきなんだろうな、賢い人間が増えてきたというのが実情だろう。人間には進化するような遺伝子が組み込まれているのだから、当然といえば当然なんだが」

「おお、それは初耳」

 ずっと傍観していた虎次郎が口を挟む。「あ、続けて」

 円香は丸い目を細めて虎次郎にとげとげしい視線を送っていたが、寿至は気にせず話し出す。

「欧米の考えが浸透してきたというのが理由の一つにあると思う」

「ああ、個人主義的な考え方ね」

「そう。良し悪しは別にして、至ってシンプルで合理的だ。資本主義の手本となるシステムを国として構築できている。よく格差が広がることを憂いたり、格差はいけないことだという報道がされるが、明らかに本質を取り違えていると俺は思う。そもそも資本主義の目指すところじゃないか。格差をなくしたければかつてソ連を代表とする国が失敗した社会主義や共産主義を掲げればいい。まあ既に結果が出ているのに、どうして繰り返すのかという議論になると思うが」

 鳥谷寿至はどうしてこうも博学なのだろうと虎次郎は感心していた。

 そもそも大学も理系で、就職してからも理系の仕事ばかりしてきたはずだ。単純な二極化で分類できないとはいえ、彼は文系の道に進んだ方がよかったのではないかとたびたび思ってきた。

 砂糖が足りない、と立ち上がった円香を横目に、虎次郎はいった。

「ってか寿至はなんでこんな早く帰ってきたん? もう二、三日長居するつもりやったんと違ったっけ?」

「おお、ちょっとすまない」寿至は一つ咳ばらいをする。「ときに円香、もう一杯おかわり淹れてくれ」

 彼女は素早い動きで戻って来て、何も言わずにキッチンに戻っていった。当然寿至は気にもとめない様子だった。

「事件に進展があったから。それだけだ」

 ぶっきらぼうな口調だが、表情は柔らかい。

「東後から直接連絡がきたってこと?」

「いや、そうではない。このご時世、インターネットで調べたら何でも出てくるさ」

 虎次郎は手原めぐみが死体で見つかったことを、親戚宅のテレビニュースで知った。お墓参りという目的を澄ませていたので、すぐに帰ってきたのだ。一年ぶりの帰省であり、もっとゆっくりしていけば、と言われたが、そわそわと落ち着かない状態では楽しめないだろうと思ったためである。無論楽しむことが目的ではない、とは言わなかった。ちょっと気分が優れないという、ありがちな嘘をついて電車で戻ってきた。

「ああ、ネットね……。小さい記事やけどよう調べたな。自主的に調べようとせんかったら見つけられへんやろう」

「ご名答。主体的と自主的が使い分けできるようになったんだな。良い傾向だ」

 虎次郎は、はは、と声を出して笑った。

 全く意識していなかったことを突かれて、必死で違いを思い出そうとした。いつか寿至が訊いてもないのに教えてくれたことがあったと思う。また、公務員試験に向けて勉強していた時期に興味をもって調べたようにも思う。警察庁の全体研修で講師が言っていた気もする。しかし肝心のところが思い出せなかった。

 寿至が、それほど手原祥子の依頼に真剣に取り組んでいたとは驚いた。彼はどちらかといえば、会社としての経営方面を司るポジションに就きたがっていると思っていたからだ。虎次郎もそれが良いと考えていた。

「それとは別件で、以前コジローから聞いていた事件で一つ思いついたことがあったんでな。何にも関係ないと思うが、気になったもんで」

 寿至がこういった前置きをすることは珍しい。

「ときにコジロー、マイナンバーカード見せてくれないか?」

「うん、ええよ、ってこれはノリツッコミを期待されてるわけちゃうやんな。会社とか特別な理由とか目的がない場合は見せるべからず。これが鉄則やろ」

「変な返しをしてくれること含め、想定内の回答だ。ただ一点、気になった。その言い方からすると、マイナンバーを他人に知られてしまうことにより発生するリスクは知らないようだから、もう一度調べなおすことをおすすめする」

 寿至は席について砂糖を溶かそうとスプーンを回す円香に視線を移した。

「ではときに円香、マイナンバーカードを見せてくれ」

 彼女は怪訝な表情を浮かべながらも答える。

「えー、私も知られたらダメな理由言えないよ。ってか持ってないから見せられないし」

「完璧じゃないか」

「え?」

「コジローはさすがに俺が言おうとしたことに気付いただろう」

 その通りだった。円香の返事を聞いた次の瞬間にはもう、別のことを考え始めていた。すなわち、岬結良が変死体で見つかった事件である。

「そう、バイパスの高架下で岬結良という女性の死体が発見された事件。身元の判明は、本人が持っていたマイナンバーカードだと言ったな。コジローもそうだと思うし、俺もそうなのだが、マイナンバーカードを身につけておくことはないだろう。円香のような一人暮らしでさえそうなのだから、身内のいない岬結良も同様のことがいえるだろう」

 うんうんと頷きながら寿至の話に耳を傾けていた円香が「あ」と言った。

「ごめん、続けて」彼女は肩をすくめて顔の前で手を合わせる。

「いや」寿至はどうぞのジェスチャーをする。「思い立った時に言うのが一番だ。その感覚を忘れてしまう」

 大したことじゃないかもしれないけど、と前置きして円香は話し始めた。

「似てるな、と思っただけだよ。二つの事件が」

 虎次郎は類似点を探そうとした。しかしどうも集中できない。マイナンバーカードが何故か頭から離れない。実際に自分のカードを確認したのは五分くらいだと思われる。それなのに岬結良の持っていたカードが思い出せる。まだ一か月経っていないがかなり昔のことに感じた。

 捜査員、確か萩野がいた。想像よりすんなり名前を思い出せたことに驚いた。

 いや、刑事の頃に担当した事件を思い出しても意味がない。それに県警もこの事件の捜査からは手を引いているはずだ。今更考えて結論を出したところで、生活できるわけではない。何にせよ今はフリーターといっても過言ではない状況なのだから。

 彼の頭ではあらゆる場面が加速し、衝突を繰り返していた。当然円香の話が入ってこない。

「……じゃない?」

「お前には珍しく正しいな」

 二人の視線が自分で交差することに気付き、大きくせき込む。

「……聞いてなかったでしょう?」

「ここまでわざとらしい咳払いは初めて見たな。貴重な経験をありがとう」

「いやー……夏やからしょうがないな。頭がぼーっとしてて」

「夏をなんだと思ってるんだ。運動して身体温めたりした方が脳細胞が活性化するっていうお前の理論と矛盾してないか?」

「脳細胞全部じゃないってことやな。見たり聞いたり、その他もろもろ合わせて五感の、それぞれを感じ取る部分は例外。冷やした方がいいんちゃう」

「なるほど。実際俺もその理論は正しいような気がしている。だから是が非でも体系づけてどこかしらに論文として発表してほしい。ただ、所属が『探偵事務所 巌流島』だったら信じてもらえないだろうから、大学に頼むとかすべきだが、果たしてそのコネがあるか」

「あー! もう! 相変わらず寿至は話が長い! せっかく私が話題を提供できる場面になったと思ったのに」

 寿至は、すまない、と何も言い返さずに引き下がった。珍しいことだが、寿至が正しいと思う意見を他人が話そうとするときはいつもこうだ。

「奏が教えてくれた、石山のバイパス事件あるじゃない」

 事件名の誤りは無視をする。本質である事件は間違っていないと虎次郎は考えているし、おそらく三人共が同じ事件を連想しただろうからだ。

「亡くなったのって二十四、五歳の女の子だったよね、確か。で、その子は一人暮らしの一人っ子だったんでしょ? めぐみさんも同じじゃない? あと二人共女性っていうところ」

 虎次郎は拍子抜けした。そのことは手原祥子から話を聞いた時に気付いていたからだ。そんな気持ちを察するように彼女は続ける。

「大事なのはここからなの」

 円香はいつの間にかふんぞり返るとまではいかないが背筋を反らせていた。

「実は私昨日、居てもたっても居られなくなって、めぐみさんの友達に会ってきたのよ。」

 恥ずかしさを蓄えながらも、自信に満ちた口調だった。

「そこでどういう話の流れだったか忘れたけど、めぐみさんの親の話をしたときに、その子が、え? ってなって。どうしてそんな反応をしたのか訊いたら、めぐみさん両親いるんですか? ってこっちに逆に尋ねられちゃって」

 円香はここで言葉を切った。虎次郎に考える時間を与えているかのような沈黙が辺りを包む。ただ、虎次郎は彼女の行動力、バイタリティへの感心から、一瞬遅れて話が入ってきていてすんなりと理解できなかった。円香が一人で聞き込み捜査をしていた。一体どのように名乗って話しかけたのだろう、といった余計なことばかりが渦巻いている。

「私普通にいますよ、って答えたんだけど、本当ですか? って何度も訊かれて。だって担任の先生もいないっぽい体でめぐみさんに話していたよ、って。通知表もらいに行くっていうイベントあったじゃない? その時も、めぐみさんには、おばあちゃんによろしく、って先生言ってたって」

「じゃあ、手原めぐみは担任も騙してたってこと?」

「きっとそうだと思う、多分だけど」

 あの母親の愛情には、過剰な部分も感じた。クラスメイトだけでなく担任の先生まで騙していたのは、考えられるかもしれない。もっともどれだけ両親を疎ましく思っていても、虎次郎にはできなかっただろうが。 

「これって、もし、もしもだよ。犯人が一人っ子の女の子を狙っていたとしたら、とてつもないミスだよね?」

 虎次郎は腕を組んで考える。

「ま、犯人がもしも、だったら、っていうめちゃくちゃ仮のところで喋ってるけど」

「いや、それはいい。そういうところを人海戦術でしらみつぶしていくのが警察のやり方やから」目を瞑ったまま答える。

「だから考えてるのね」

「お、頭回るな」

「そりゃあ探偵の端くれだからね」円香は表情を崩す。「人手が無いから、指針を決めなきゃいけないってことだよね。何か根拠みたいなの落ちてないかなあ……」

 円香は手で庇を作り、部屋中を見回す。

 落ちてる……か。ぼんやりと彼女を見ながら下唇を突き出す。

「あ」

 虎次郎は息を飲んだ。胃の中がひっくり返るかのようにぐるんぐるん蠢いている。それが止み、回転エネルギーが全て言葉に変換されていく感じがした。

「マイナンバー」

「え?」

「ほう」寿至は大きく首を縦に振り、溜息のような声を出す。

「何かずっと引っかかっててずっと気持ち悪かったんやけど、やっと分かったわ。岬結良がなんでマイナンバーを持ってたか。俺とか東後もそうやったけど、普通の人ってどっかい行く時とかマイナンバー持ってへんよね? 失くしたら再発行とか、それだけじゃないところに影響が及ぶから。で、死体が発見された状況を思い出したんやけど、そこそこ損傷してて、誰やか分からへんような感じじゃなかった。でも、おそらくそれは、比較的死体が遺棄されて時間が経ってへんかったからやと思うねん。もし発見されるのがもっと遅かったら、完全に白骨化された状態で見つかるから、身元判明には時間がかかることになる。そうなった時に、犯人として何か困ることがあるとしたら、もし東後が言ったように犯人が一人っ子ばっかり狙ってたことを世間に知ってほしいってのがあるとしたら、身元がすぐ判明するものを持たしておく必要があるやろ。それがマイナンバーカードやった」

 言い終えて、アイスコーヒーを口に含む。氷が溶けた分薄くなっており、味は感じられなかった。

「ああ。理由としては有りだな。いくつか疑問はあるが……。だがまあ、この事件が、他人の干渉なしであることはほぼ皆無になったといえる。したがって、犯人が独り身の女性の連続殺人に及んでいる可能性で捜査を進めることは、間違いではない」

 寿至の同意に、虎次郎の頬が緩んだ。

 改めて、どうして刑事時代はこの解釈ができなかったのかと悔やまれる。他の刑事は誰も気付いていなかったのだろうか。気付いていても、いえる状況ではなかったからか。。

 今更警察を辞めた虎次郎が何を言ったところで、捜査結果が覆ることはありえない。また、再調査にもならない。超有名な探偵ならいざしらず、現状ただのマンションの一室を借りた程度である。そんな探偵の一意見を取り入れられるほどの余裕は警察にはない。

「いや、ちょっと待って」

 突然円香が風船が破裂したような声を出した。沈黙が続いていた分、二人の耳に余計に強く届いた。その反応を気にしてか、左手を口の横にかざし、囁くように言った。

「……あの自動車事故の被害者は?」

 三人は顔を見合わせる。次の瞬間、虎次郎は隣の部屋のパソコンの前に飛び、電源をつけた。いつもより立ち上がるのにかなり時間を要しているように思えた。

 まさか、という思いが熱されたまま脳に響く。

 まったくの偶然なのか。どうして自分の周りで……?

 この共通点の発見に最も近いのは、間違いなく虎次郎だろう。

 中腰の姿勢で熱が蓄えられた右手でマウスを操作する。

 『京都自動車暴走事件』というタイトルがついたフォルダの上にカーソルを合わせ、そのまま右手の親指でエンターキーを強く叩く。三つ下の階層の一番上のファイルを開く。事件の被害者の情報がまとめられているファイルだ。

「……はあ、そうやんなあ」

 何も意識していなかったが、勝手に言葉が漏れた。

 モニターの背中を見ている二人に気付き、くるりとモニターを回転させようとする。しかし下が段ボールの仮机のためか、うまく滑らない。虎次郎は手招きし、二人をモニター側へ移動させた。壁寄りにあるので、三人ともがモニターを覗き込むことは不可能だ。

 虎次郎は寸前まで二人がいた位置に移動し、今度は意識して努めて普通に言った。

「四十万胡桃、……こっちは関係あるか分からへんけど、刺されて死んでた麻薬取引常習犯の芦田渋も一人っ子みたいやな」


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