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黒と黒のコントラスト  作者: じっぴー
第六章
PR
27/45

2

「奏ー、これどこにしまっておけばいいのー?」

「それは……とりあえず物置部屋に置いといて」

「はーい……じゃあこの扇風機はー?」

「ああ、それも物置部屋の隅でいいや」

「もう。暫定感が過ぎると思うんだけど」

「それも物置……じゃなくて、そうかな? そんなもんやろ」

 奏虎次郎に乗っかって探偵事務所を立ち上げることが決まり、とんとん拍子でここまで来た。こんな簡単に事が運んだことに驚きを隠せない東後円香だったが、しっかりしていると思っていた鳥谷寿至もだが、男二人がここまで片付けできないとは、と呆れていた。

 せっかくこんな奇跡的に場所を借りることができたのに、すぐに駄目になってしまう。


 浜大津駅の出来事の翌日。

 三人はこれからの作戦会議と評して近所の喫茶店に集まっていた。そこで寿至は驚くべきことを言った。

「場所なら押さえた。心置きなく探偵できるぞ」

 彼とそれなりの年月共に過ごさないと気付けないほどの微妙に高い声だった。

「いやいや、あらゆる徒労を乗り越えてこそ、ってわけにはいかへんねんな」

 言葉とは裏腹に虎次郎は陽気な声で言った。しばらく放っておけばラッキーと叫ぶかもしれない。対照的に円香は冷静だった。

「怪しいルートじゃないでしょうね。闇金融的な」

「金融って……場所を押さえたんだぞ。お金を借りるとは一言も言っていない」

「だから、的な、ってつけたんでしょ」

「違う」

 いつも通り寿至は突き放すように言う。しかしいつもとは異なり彼は答えを言った。

「兄貴に借りた」

「え? 初耳すぎる。絶対に一人っ子だと思ってた。だって……。いや、なんでもない。じゃあお兄さんそんなお金持ちってこと?」

「そうでもない……と思う」

 珍しく寿至は断言しない。円香が指摘しようとすると質問を予期していたかのように、

「お金をいくら持っていれば金持ちとか、貧乏とか、定義が分からないから議論しても無駄だ。少なくとも俺よりは持っている。社会人歴が違うからな」

「何やってる人なん?」虎次郎が口を挟む。

「公務員」

「ああ、なるほど。で、場所っていうのはどこ?」

 ここから先の寿至の話は今思い出してみても信じがたい。未だに疑念は残っている。だが、この世の誰よりも疑い深そうな寿至が信じているのだから大丈夫だろうと高を括っているだけだ。虎次郎が同じことを言ってきたら全力で忠告しただろう。彼の天然には手を焼かされっぱなしだ。

 寿至が紹介したのは、石山駅から徒歩一分のマンションだった。実際に駅のホームからマンションまでは三分以上かかるのだが、ここでの二分の誤差は全く気にならない。

 かつて兄が借りていた部屋だが、何が起こるかわからないのと解約が面倒くさいという理由で契約は継続していたらしい。円香は後者の理由がほぼ全てだろうなと推測した。

 実際に足を運んで部屋の中を見た瞬間の印象は、汚い、だった。そして、想像以上に広くて解放感があるということ。

 汚いとは言っても長い間掃除されていないというだけで、物自体は整然としていたし、異臭を放っているごみなどは無かった。

 引っ越しの際に、多くの荷物を運び出したはずであるから当然ではある。

 ただ、リビングに六人掛けのテーブルが残っていたことには驚いた。家族持ちだったのかと寿至に尋ねたが、知らないの一点張りだった。椅子がなかったので、三人の貯金を崩す形で机の色に合った木の椅子を購入した。

「パイプ椅子でいいやん」という虎次郎の意見は二人が退けた。そんなアンバランスな探偵事務所が存在してたまるかという、変なプライドが働いたためだ。


「奏ー、このストーブはー? ……ってストーブ? いやさっき扇風機もあったな……。エアコンで十分じゃん。なんでこんなもの送ってきてるのよ」

「引っ越しみたいなもんやろ? 特に寿至はここに住むことになるやろうから俺からの感謝の気持ちやと思ってほしくて」

「その気持ちは分かるし、寿至も受け取るだろうけどさ。絶対にゴミ処理に困っただけだろ、とか言われるよ」

「大丈夫。計算のうち。またどこにしまうか迷うやつあったら言って」

 円香は静かに溜息をつく。

 昨日からずっとこの調子だ。奥の部屋に押し込められていた大量の段ボールから一発でパソコンの入ったものを見つけたかと思うと、すぐに開封して、空段ボールを組み合わせて小さな座椅子と床に座るタイプの机を作ってしまった。その上にデスクトップを置き、何やら配線を済まして、今のように胡坐をかいて作業に没頭している。

 円香が見た限りでは報告書のようなものだ。論文と言っても差し支えないだろう。興味で一度だけ虎次郎に卒業論文を見せてもらったことがある。よくわからないグラフが大半を占めており、文字ばかりの論文とにらめっこしていた円香にしてみれば、ページ数も稼げて良いなあと思った記憶がある。後ほど、そのグラフの作成には多大なる時間と労力がかかっていることを知り。ちょっとだけ畏怖の念に駆られたのだが。。

 その論文に似た報告書にはおそらく昨日の依頼者に関することが書かれているに違いない。

 一方寿至はというと、

「事務所という肩書でやる以上は会社めいたものになるだろう。探偵業は虎次郎が中心になるから社長や責任者も兼任すべきだと思うのだが、会社としての手続き、契約等の金銭面のやりくりは昨日のやりとりから見ても向いてないだろう。だからちょっと勉強する」

 という正論を残して図書館へ向かっていった。

 いの一番に円香もその点を懸念していた。事務仕事とはいえ、五年以上も一つの会社で働いていれば、どのような流れで会社というものが成り立っているかはなんとなくだが理解できていた。しかし、自分が経営者という立場になった時に何をすればよいかなどと考えたこともなかった。

 もしも虎次郎が探偵、厳密にいえば探偵補佐に誘わなければ、しばらくゆっくりしてからアルバイトでも見つけようかという風に考えていた。いわゆるOLとしての仕事自体に対して、つまらないなどと思ったことはない。もっといえば、彼女が学生の頃に想像していたOLと何ら差はなかった。

 何ならこの探偵事務所でも、これまでの経歴を活かして事務仕事をしてもいいと考えていた。そんな彼女のわずかに抱いていた望みは雨の浜大津の翌々日、すなわちこのマンションを事務所にしてしまおうと決めた翌日にあっさりと吹き飛ばされた。


「念のために言っとくけど、三人共探偵兼社員ってイメージやから」

 さぞ当たり前でしょという感じで虎次郎は言った。

「寿至も私も全然ノウハウとか無いんだけど」

 円香も当然の反論をする。「それに……というかイメージなんだけど、探偵って一人でやるものじゃないの? 探偵さんに会ったことないから分からないけど。映画とかドラマの世界だとそうだよね?」

「さすがに彼女と同意見だな。コジローは昨日、適材適所という言葉を使ったな。それでいくと警察経験のあるお前が探偵業務をメインに行い、俺たちは何か別の業務……、例えばそうだな、ワトスン役の助手とかだな。俺は向いていないように思うが円香なら適任だろうし。俺は……補佐の役目を担うのはどうだろうか?」

 虎次郎は少し黙りこくったかと思うと、頭を掻きながら言った。

「正直言って俺よりも寿至の方が探偵に向いてるような気がしてるんやけど、言い出しっぺの俺を立ててくれてるってことやんな? ありがたくその言葉もらっとくわ。あと、探偵兼っていうのは、俺が手伝ってほしいなあって思った時に、例えば同じ時間に二人の人間を見張らんとあかんっていう状況の時に片方を見張ってもらう、みたいなフォローをイメージしてるから寿至の言う補佐の役目でいいと思うで」

 昔から正直にものを言ってしまうところは変わらないなと円香は思った。ただそれは彼がノッている時に限る特徴であることも同時に思い出した。

 探偵補佐。一体どのような仕事だろうか。

 これまでの仕事という概念を取り去る必要があるのかなと彼女は頭を空にしようと試みる。

 しかし元から特別な仕事観を持っていたわけではないので、すぐに白紙に戻った。油性ペンで書かれていると思っていたのに、シャープペンシルで書かれていたという感じだった。

「冗談じゃなくて探偵って何してるか、あんまり知らんから二人はあんまり気負わんくていいと思うねんか。仕事リセット経験者の立場で言わせてもらうと、特にこういう職種が大きく変わる場合は、まえどうやったから、とかって考えへん方がいいで」

 寿至はうんうん、と頷いている。珍しい反応だ。円香もなるほど、と思っていた。彼女自身、再就職に関して最終的には何とかなるだろうと高を括っていたものの、多少の不安は持っていた。警察官になるために公務員試験を受けた虎次郎ならではの言葉に、状況は異なるが説得力を感じた。


 変わらぬ姿勢で虎次郎はパソコンに向かっている。

「粗茶ですが」

 円香はコンビニで買ってきたお茶をガラスのコップに注いで虎次郎に渡した。少しでも振動が加わればこぼれてしまいそうだ。

「おお、ありがとう。……って表面張力なかったらあかんやつやん」

「またそんな頭痛くなるような言葉使って」

「義務教育で習う内容で頭痛くなる?」

「なるなる」

「ああ、確かに道徳とかそやな。正解がない問題やのに先生が導き出した答えがあたかも正解ですよ、みたいに振る舞うあの感じ。当時から滑稽に思ってたもんな」

「全然思わなかったよ」円香は口の端を片方上げる。

「あ、ごめん」コップを片手に虎次郎は言う。

「いや謝らなくていいから」

 円香も水分補給したくなったので、冷蔵庫の方に向かった。

 探偵事務所は部屋二つと、リビングダイニングキッチン、いわゆる2LDKの間取りである。玄関を入り右手にある部屋は現在荷物置き場と化していて円香が整理中だ。そして奥の部屋が現在虎次郎が即席で作ったパソコンの置かれた作業場である。リビングには例の茶色の机が置かれてあり、お客様との応接室も兼ねている、という状態になっている。

 実は昨日の朝の時点では、どの部屋を応接室にするか、どこを従業員の職場にするか等、感覚的に広いと思えた空間をどのように利用するかは決まっていなかった。突然の来訪者に喜びと、探偵を頼る人などいるのだろうかと疑心暗鬼になっていた中で本当に来たという驚きから咄嗟にリビングに通したことが、暫定の部屋割りの決定につながった。

 ただ円香は遅かれ早かれこのような部屋割りになるだろうな、とも思っていた。暫定であるが、長くこの形をとっていくのではないかと予想した。

 改めて昨日のことを思い出してみる。

 手原祥子てはらさちこの来訪は予想外だった。祥子個人ではなく、お客様という意味である。話を聞いていくと、娘の捜索であり、警察に知られたくないために探偵への依頼を考えたとのことだった。これまで円香は探偵という職業の人に会ったことはおろか、見聞きしたこともなかった。需要があるのか非常に心配していたが、理由を聞いて納得した。

 パッと思いつく浮気調査だけでなく、円香では考え付かないような依頼も今後あるのかもしれないと思えてきた。当然元警察官の虎次郎の手に負えない依頼も来るだろう。そうなった時に、探偵補佐として、寿至や円香を置いておきたいということなのだろうか。

 ただ、虎次郎が解決できないような問題の中で円香が手を差し伸べられるものはあるのだろうか。円香が彼に勝てるケースはあるのだろうか。

 幼少の頃から彼を見てきて、昔なら勝てただろうと思うことは沢山ある。例えば持久走がそれだ。小学生の頃のマラソン大会は男女一緒にスタートだったし同じ距離でもあった。六年間、彼に負けたことはなかった。中学以降、同じ土俵に立って比較したことはなかったが、おそらく勝てるのではないかと思っている。しかし、警察官になる、ということで一時期ハードなランニングメニューをこなしていた、と聞いた。それが事実であれば、勝てないかもしれない。

 ただそれは、練習をすれば、という注釈がつく。

 すなわち単純な運動神経の比較では、虎次郎に負けないと思っている。例えばドッジボールやフットサルのような球技関係である。つまり虎次郎が練習していない、全くお互いにやったことのないスポーツで、出たとこ勝負をすれば、円香が勝つだろうということだ。

 もっとも運動神経で勝ったところで、円香にしかできない依頼を引き受けられることにつながらない。

 ずっと勝っていると思っていた対人のコミュニケーション力もいつの間にか抜かされていた。息つく間もなく置いてけぼりにされた格好だった。

 一般にコミュニケーション力は数値化できない。あれは二年前、入社して四年目に突入した頃、上司に採用面接時の採点の指標となるものが欲しいと頼まれたことがある。二、三回他部署も集めて打ち合わせをしたのだが、不可能、という結論に至った。理由は大きく分けて二つ。一つ目は評価項目が多すぎてまとめきれないから。二つ目は結局は採点者の主観によってしまうので、作成の意味がなくなるのでは、という考えからだ。

 どちらの理由も、大規模なプログラムを組めば対応できるとの意見も出たが、社内でそんな技術を持った人はいないだろうと却下された。

 円香自身、就職してからエクセルでマクロを組み始めてからプログラムの難しさを知った。というより、文系就職なのにここまで求められるものなのかと驚いた。実際に周りの話を聞いてみると円香が特別だったようだ。積極的に拒否する姿勢を示すことが得意ではないので、言葉は悪いが付け込まれていたのだろう。休みがなかったことの遠因でもある。 

 コミュニケーションの究極は、人工知能を作り出すことで近づけるのだろうか。その疑問を彼女は解決できなかった。そもそも勉強したことがない。大学の一般教養の講義で、『今後人工知能の発達による職業観の変化』というテーマで一度だけレポートを書いた気がする。友達とコミュニケーションを取りすぎていたので、講義の内容は耳に入っていたかすら疑問だ。だからレポートはインターネットからの抜粋と大学のPCを友達と交代しながら打った適当な文章で埋め尽くした。

 コミュニケーション力に勝ち負けは存在しない。もちろん理解している。優劣のつけようすらないことも理解している。

 ただ、より多くのチャレンジ、すなわち人と会う機会が増えれば、少なくとも自分の中では前に進むことになると思う。彼女は職場において、お客様とコミュニケーションをとるケースが単調減少にあることを認識していた。だが、その環境は自分で変えることができなかったし、変えようとも思わなかった。そもそも職場で自分を変えようなどとすら思ったことがなかった。それほど忙しかったのだ。

 忙しさの合間を縫って滋賀に戻ってきていたのだが、そのたびに三人で集まっていた。そしてそのたびに虎次郎には驚かされてきた。人見知りだった思春期時代の彼が、はるか遠くに見えるか見えないかくらいの大きさになっていた。

 特に昨日、最も接客ができないだろうと踏んでいた虎次郎が終わってみれば最もうまく接客をこなしていた事実は円香の心に深く刻まれた。不必要なサプライズだった。

 とはいえ、円香にしかできないような依頼は必ずあるだろう。女性にしかできない調査がそれにあたる。例えば何があるだろう。

 女性専用車両での盗難事件とか?

 女子トイレで幽霊が出るから困っています、とか?

 彼女は思わず噴き出した。

「どした?」

 虎次郎がパソコンの横からにゅっと顔を出す。

「思い出し笑い」

「ふうん」

 作業に集中しているのかと思っていたが、案外周りのことにも気にしているんだなと彼の反応に驚いた。無意識に反応できるような訓練を積んだのだろうか。どれだけ一つのことに集中していても、常にアンテナを張っている状態。それは集中しているとはいわないのかもしれない。

「ちょっと思ったんだけどさ」

「ん?」

「新聞とった方がいいんじゃないの?」

「ああ、それは考えへんかったなあ。確かにとった方が何かと便利やろな。お金どれぐらいかかるん?」

 円香はえーっと……と言って数秒固まった。

「大体でいいで」

「月に五千円しなかったっていうのは覚えてるけどなあ。それぐらいかな」

「ああ、そこそこ安いんやな。てか東後から新聞だなんて言葉が出てくるなんて……そんな時代が来てしまったんやなあ」

 虎次郎はモニターに視線を向けたまま言った。

「もう! 新聞ずっと読んでたし。特に高校入試前とか就活中とか。子供新聞? とかそんな名前のやつ」

「子供新聞!」虎次郎の声が半音高くなる。「そんなんあったなあ。ん? いや、待てよ。中学生はまだしも就活中も子供新聞読んでたってこと? 見た目からして子供からはかけ離れてるのに? 身長はまあ……そう言われても仕方ない高さやけど」

 虎次郎の表情はモニターに隠れて窺い知ることができない。

「……何なの? めちゃくちゃ寿至に似てきてるじゃん。二人もそんなキャラが同じ空間にいたら空気足りなくなっちゃうよ。あと、もしかしてのもしかしてで寿至のモノマネしたように見えたけど、してないよね? 三パーセントくらい寿至が入ってた気がしたよ」

「そんな訊くまでもないような質問せんといて。子供新聞で思い出したんやけど、こどもニュースってあったよなあ。懐かしい」

「え? 何それ?」

「知らんの? 嘘やろ? ああ、だからこんな感じに成長してしまったんだな」

 またも繰り出された申し訳ばかり似ているモノマネは無視して軌道修正をかける。

「K新聞でいいよね?」

「う~ん。まあ昨日の依頼だけで考えてもK新聞が最適やろな~。でも理想というかほんまは六社全部に目を通すべきなんやろうけど」

 円香は目を大きく見開いた。「え! 本当にそんなことしてる人いるの? 政治家とか評論家とかコメンテーターくらいかと思ってた」

「うん、まあ後半の人らは一部やろうけどな。政治家も同じようなもんか。けどまあ、もちろん五年以上は向こうの話やろうし。そもそも警察時代でもやったことないから何か言える立場にいるかって聞かれたらそうじゃないって言うしかないけど。あ、上司に一人やってる人いたわ。なかなか変わってる人で、休憩とかちょっと時間が空いたらどこからともなく新聞取り出して読んでたなあ。懐かしい」

 虎次郎は遠い目をしていた。

「そういえば私も思い出した。営業部のアマトウっていう……、あの、甘いに東って書くんだけど、実際はめちゃくちゃ辛党っていうそういう名前の部長さんがいるのね、あ、いたのね。ん? いるでも間違ってないかな? まあいいや。その甘東部長がいっつもふんぞり返って新聞読んでた。仕事は全然しないの。新聞読み終えたらネットサーフィンしてるか寝てるか。で毎日定時に帰る。最初の頃はイライラしまくってたけど、なんかどうでもよくなったよね、って何の話してるの、私?」

「いや、知らんやん」話の途中から相槌をつくペースがどんどん早くなっていたので、ツッコミを入れるタイミングを計っていたのだろう。自分も地元にいた頃は同じようなことしていたと懐かしい気持ちになった。

「確かに私も知らないことだから知らないよね。で、話戻すけど、K新聞だったら翌々日から配布だったはず」

「へえ、よくそんなん知ってんなあ」彼は感心したように頷く。

「東京に行った時に色々調べたからね。地元のことはちゃんと知っておかないと、と思ってK新聞頼もうか悩んだこともあったし」

「子供新聞は?」半笑いで茶々を入れる。

 円香はほっぺにできる限りの空気を貯めて虎次郎を睨んだ。

「覚えてない。じゃあネットで予約しとくから。……あ、この家に届けるでいいんだよね? 住所全然覚えてない……」

「あーそのあたりの手続きは寿至がやってくれたからなあ。あいつ帰って来たら訊こう」

 住所くらいならどこかに書かれた紙切れがありそうだから探せばいいのに、と彼女は思った。しかし口には出さない。

 寿至が図書館に向かってから一時間は経過していた。人工的な冷風が囲んでいる部屋で、円香は人間同士でしか生まれない温かみのようなものを感じていた。目標は未だ具体的に見えないが、会社を創っていくことにやる気が沸き起こってきていた。どことなく勉強に似ていると彼女は思った。根本的に動機が異なるが、それ以外はそっくりだ。無理やりにでもスタートを切ってしまえば楽しくなってくる。全ての面倒くさいことに同じことが言えるかもしれない。

 探偵事務所の設立。まだまだやらなければいけないことは山のようにある。その中で自分の仕事を、まずは精一杯取り組んでみようと円香は思った。


 土曜日。

 お盆真っ盛りということもあって、寿至は関東の実家へと帰っていった。虎次郎も墓参りだけは欠かせない、と円香に伝えて親戚の家に帰省している。

 円香は特別することもないので、段ボール箱が未だに積まれている事務所へと向かうことにした。園児だったら終わりの見えないこの暑さと産み出されるかの如く現れる雑品に全てを壊すだろう。余計に片付けに時間がかかってしまうパターンだ。この場に園児が来ないだけマシだとポジティブに考えようと試みた。

 照りつける太陽が眩しい。ここ数年お盆に天気が崩れるケースが多かっただけに、いささか懐かしく感じる。それは、お盆のこの時期もずっと会社にいたことも影響しているだろう。

 玄関のドアノブに鍵を差し込んだ時、妙な違和感が彼女を襲った。その正体はすぐに分かった。

 ドアの左手にある、錆のかかった箱型のポストに新聞が差し込まれていた。

 新聞の間から折り込みチラシも顔を覗かせている。

 鍵を回し、新聞を抜き取ってから中に入る。不快な湿った空気が身体にまとわりつく感覚があった。靴を脱ぎ、ちゃんと揃えてから奥の部屋へと一目散に向かい、エアコンの電源を付ける。同時に、新聞をテーブルの隅に置いた。

 少なくとも二人は今日この事務所の立ち寄ることは無いだろうと推測し、彼女のは一人分の飲み物をコンビニで購入していた。そのペットボトルを冷蔵庫にしまうと、機械的な動作音と共に、冷えた乾いた風が部屋を掻き回し始めた。エアコンがこの部屋に設置されてどれくらい経つのかは分からないが、しっかり動くことに安心していた。

 寿至はこちらに住まいを持っていない。一週間はビジネスホテルを使ったようだが、戻ってくれば事務所で寝泊まりすることになるのだろう。だが、エアコンはこの部屋にしかない。現在虎次郎がパソコンを置いている部屋か、荷物散乱中の部屋を寿至の仮部屋にするのが妥当ではあるが、この暑さだと虎次郎の持ってきた扇風機だけでは心許ないように思える。したがってエアコンが壊れていた場合、買いなおす必要が出てくる。

 もちろん寿至の件が本質ではない。重要なのは、応接間も兼ねているという点であり、お客様に対する配慮が理由である。不快に感じない程度の環境整備は探偵業だけでなく一般的な運営としての義務だろう。

 一つ息を吐き、椅子に腰かけた。

 新聞の一面は開催中のオリンピックで金メダルを獲得した選手の、この世の全てを手に入れたかのような笑顔だった。円香は経った今までオリンピックの存在自体を忘れてしまっていた。開催地が東京に決まった時は、あんなにも同僚と抱き合って喜んだのに。

 何の競技見に行く? 水泳、それとも柔道?

 あんなにもワクワクして語り合ったことが嘘のように思える。

 いつもの癖ですぐに裏側を向ける。うなるエアコンの力によって折り込みチラシが空気にもっていかれそうになったのをバンと押さえる。

 やはり殆どの番組がオリンピック関連だなと、円香は思った。四年後はもっと大きく扱われることだろう。なにせ競技が行われるのは深夜だ。地球の正反対で起こっていることにこんなに躍起になっているのだったら、東京開催だと、日本が沸騰してしまうのではないかと思えるほどだ。間違っても火山が噴火しないことを祈る。

 ペラペラと手に唾をつけながらめくっていく。周りに人がいたら絶対にやらないと自分に誓っている癖だったが、癖なのでこれまでもどこかで披露したかもしれない。もちろんこれまで指摘を受けたことはない。

 地元版のページで思わず手が止まった。

 見出しを見るや否や、涼しくなりかけた中にいるのに全身から汗が噴き出した。なかば予想はしていたものの、内情を知るだけでこんなにも動悸が襲ってくるのか。

 同時に口の中の水分が失われた。胃の奥底で、うごめくものを自覚した。

 手原祥子はこの記事を見て何を思ったのだろう。

 当然記事になっている、ということは既に母親にも連絡されているはずだ。頑なに警察への届出を拒否した手原祥子。

 お茶を飲むときも、何か説明するときも常に震えが伴っていた彼女。

 娘のためなら何でもする。特に担任の名を告げる時、悲壮なまでの痛みを孕んだあの表情。円香はぼんやり浮かび上がる彼女の幻影に、他の思考を忘れていた。

 手原めぐみが死体で発見された――

 我に返った円香は、三回繰り返して記事を読み、スマートフォンを取り出した。最近はげかけているカバーに手を滑らせつつも、文字を打ち続ける。

 手持ちの依頼はこれでゼロになった。しかしあの母親はまたこの事務所に来るだろうという。そんな予感がした。


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