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手原祥子はお守りを握りしめて悩んでいた。警察に相談すべきかどうか。
一人娘のめぐみが何も言わずに家を出て三日が経つ。
一日目、二日目は『かわいい子には旅をさせよ』という諺を自分の胸に無理やり押し付けていた。しかし今日になって自分から送り出していない、という明らかな事実がその考えを撥ね退けた。
ひょっとして何かしらの事件に巻き込まれたのではないか。漠然とした不安が具体的な形となって彼女の中に形成された時、これまで感じたことのないような締め付けを感じた。祥子は咄嗟に胸を押さえていた。
昔、まだ皆が一様におかっぱの髪形をしていた頃、近所の身体の大きい男の子に乗っかられたことを思い出す。痛いというと、周りの子たちも面白がって更に上に乗ってきて呼吸ができなくなった。当時の苦しさに匹敵する。
夫はめぐみの家出について、かなり寛容な姿勢だった。どうしてあんなに娘が心配にならないのだろう。むしろ生き生きとしているように見えるのは何故だろう。
おそらく夫はまだめぐみを自分の子供だと自覚していないのだ。
結婚して四か月後、彼女の妊娠が発覚した。
その際、夫は顔をくしゃくしゃにして歓喜に浸った。一通り喜んだ後で彼はとんでもないことを彼女に言った。
「それって本当に俺の子か?」
祥子は愕然とした。怒りを通り越して、自然と涙がこぼれていた。彼はそういうつもりで言ったんじゃないから、と謝ってきたが、じゃあどういうつもりで訊いたのだと問い詰めようかと思った。しかし、これから生まれてくる子の父親がいなくなるかもしれない恐怖、不安に勝つまでには至らなかった。もしも一度だけ時間を切り取って無きものにできるのなら、この場面以外にないと思っている。
めぐみが生まれてから、彼が父親らしいことをしたといえるのは数える程度しかなかった。結局祥子が一人で子育てしてきていたようなものだ。
そういう経緯もあってか、二人目を作ろうという気にはならなかった。あるいは、あの時二人の間にルールとして決まったのかもしれない。ルールを変更しようと思えばできたはずだが、あの会話を思い出すくらいなら必要ないと祥子は判断していた。
今となっては、夫がどうしてそのようなことを訊いたのか分からないし、二十年近くもまえのことをぶり返そうなどとも思わない。
だから今回のめぐみの家出にどういう対応をしようが構わない。
しかし、そうなると誰に頼ればいいのかという話になる。
もしもめぐみが家出をしたなどと、近所の主婦友達に聞かれたら終わりだ。どんな噂を立てられるのか想像もしたくない。
「めぐみちゃん、どっか行っちゃったらしいわよ」
「あーあそこのお父さん高卒でしょ? そりゃロクな子が生まれるはずないわ。馬鹿が子を作っちゃいけないっていう典型ね」
「ずっと図書館に通い詰めだったらしいわよ。嫌いなのよね、自分の世界に引きこもる子って」
「大学受験が嫌になったんじゃないの? そもそも商業高校から四年制大学に行こうだなんて馬鹿のやることじゃない?」
ざっと想像を巡らせても良いことなんて一つもない。あの人たちは何かにつけて人を批判したいのだ。そのせいであんなにギョロ目になっているのだろう。常々祥子はその目を魚目と呼んで侮蔑していた。
主婦軍団は一緒にいる時は愛想よく振る舞うが、対象者がいなくなれば、ここぞとばかりに責め立てる。祥子もその真似事をよくやるが、本気ではない。彼女たちは病気だ。彼女は絶対にうつってなるものかと心を強く持つようにしていた。
そう、絶対に主婦軍に知られてはならない。したがってあの人たちに相談を持ち掛けるのだけはありえない。
家で悶々と考えていても埒が空かないと思い、祥子は外に出ることにした。主婦軍に見つかっても良いように、いつもの買い物に行くときの服に着替えた。
時刻は九時を過ぎた頃だった。夫を見送って二時間も経つのかとビックリした。
外は祥子の心とは対照的に晴れ渡っていた。子供に『クレヨンで自由に空を書いてください』と言った時に九割以上が使用するであろう色の空をしていた。
まず彼女は、暑すぎる、と思った。次にめぐみもこの暑い空の下にいるのだろうかという不安が襲った。
まずは高校? それともやっぱり警察? 信頼できる大人ってどこにいる?
めぐみのよく行く所……図書館の人に話を訊けば何かわかるだろうか。
いや、この暑さの中この長い坂を登ろうという気にはなれない。そもそも途中で主婦軍に出会ったら何て言い訳をすればいいのか、良い言い訳が何一つとして浮かばない。
外に出たのは良いが、やはりどこに行くかしっかり考えてから外に出れば良かったと反省していると、のびやかなテノール歌手のような声に名前を呼ばれた。
「あら、手原さん。どこかお出かけですか?」
主婦軍の三幹部の一人、塚崎さんだった。
「ええ、ちょっとね……買い物に行こうとしたんだけど今日は暑すぎるわね」
祥子はいつも通りを意識して差しさわりのないことを言った。
「ああ、確かに買い物に適した温度ではないようね」
「そうなのよ」
祥子は早く会話を切り上げようとわざわざ引き延ばすような真似はしない。ただ、会話を切り上げたところでどうするかは考えていないのだが。
「でもどこか行かれるんでしょう?」
「いや、もう部屋に戻って主人に帰ってくる途中に買ってきてもらうように頼もうかとも思ってますの」
「ああ、手原さんのお宅も女が強いですのね」
女というワードに少し反応してしまったが、塚崎夫人は気付かない様子だった。
「うちは駄目ね。フィフティフィフティ。それは私が勝つ日もあるのよ。でも今日だって、『こんな暑い日ぐらい背広脱いでいったら? クールビズ推奨してるんでしょ』って言ったら、『これは俺のポリシーだ』なんて言って聞かないのよ。本当に、聞き分けの悪い子供じゃないんだから。この歳になってもか、なったからこそかプライドが高いのね」
一体この塚崎夫人は何の為に外に出てきたのだろう、どうしてこんなに長く話せるのだ、この暑い中を、とぼんやり思った。しかし会話の流れでふと気になることがあったので訊いてみることにする。
「塚崎さんのご主人って公務員でしたわよね?」
「ええ、警察官。警視ですのよ。時代もあってノンキャリアからのスタートだったんですけどね、普通はここまで上がれないそうなのよ。まあその分家庭を省みてないのですけど」
「へえ、それは素晴らしいですわねえ」
祥子は感嘆の声を上げるのとは裏腹に心の奥で舌をはねた。
「そうそう、キャリア組っていっても、全然仕事できないらしいのよ。主人はいつも愚痴を言ってるわ。根性も何もない、勉強できる奴が得をするシステムは、警察を内部崩壊させるって。ちょっと前に決まったじゃない? 高校生が殺されていった事件が原因で各県に警察庁からキャリア組が出向されるようにって。そのことも主人の逆鱗に触れてるみたい」
警察の仕組みは全く知らなかったが、その事件なら祥子も覚えている。日本中を色んな意味で震撼させたのだから。
塚崎夫人はバッグから日傘を取り出し優雅に広げた。コウモリが飛び立つ姿を連想した。
「私はこれからお茶会があるので駅に向かうのですけど、よろしければご一緒にいかが? みんなで話した方が楽しいでしょう」
祥子は買い物を諦め、同じように電車でどこか行こうと考え始めていたのだが、
「やっぱり私買い物行きます。今日主人帰り遅くなるって言っていたのを思い出しました」そう言って山の方を指さす。
「そうですか、じゃあまた」
羽根を広げたコウモリを肩にかけた塚崎夫人はゆったりとした歩調で駅の方向に進んでいった。
若作りはしているが、もう五十を大幅に超えている。祥子とも十近く離れているはずだ。自分もあのようになってしまうのだろうか。いや、あれは権力をもった夫がいてこそだ。自分には程遠い世界。彼女は自分に言い聞かせる。
祥子は歩き出す。
しかし先ほど指さした方角ではない、国道沿いの歩道を西に進むことにした。とにかく塚崎夫人含めて主婦軍に会っては駄目だ。今回はたまたまめぐみの話は出なかったが、女という単語を耳にしただけで息が詰まりそうになるのだ。本当に娘の話になった時に、自分がどうなるか想像できない。だから近場のショッピングモールに行くことはやめにした。
それに、警察に連絡することもできなくなった。警視というのがどれだけ偉いかは知らないが、失踪届を出したり、捜索願を出したりすればどのような経路をたどってあの夫人に届くか分からない。もしも耳に入ったりしたら……やはり想像したくない。
さてどうしようかと祥子は歩きながら考える。
昔から代謝が悪いのかあまり汗をかかない体質だったせいか、すぐに身体が熱っぽくなる。そのたびに家から持ってきたコールドスプレーを首筋にかけてやった。
めぐみの通っていた高校に向かおうか。
そう考えて電車に乗ろうかとも考えたのだ。JRで二駅、京阪に乗り換えて五駅。
しかし塚崎夫人と同じ電車になると思い断念した。西に進路をとったのは最悪次の駅でも京阪に乗れば一本で高校に着くからだ。
十日前、めぐみと二人で三者面談のために高校に行ったことを思い出す。
反芻するうちに、腹の底から沸々と煮えたぎる怒りが、彼女の首筋から顔にかけてせり上がってきた。体質と相まって表面温度が上昇する。
めぐみが家を出るきっかけを作ったのは間違いなくあの担任だ。
あの先生がめぐみを逆なでするようなことを言わなければ、こんなことにはならなかったのに。あの時先生は祥子を自己中心的だと猛烈に批判した。おまけにそれが原因でめぐみが傷ついているとのことだった。
断じてそれはありえない。
祥子は誰よりもめぐみを案じている。父親がああだから余計にそうしなければならないと強く誓った。だから生活の全てがめぐみを中心に回っていた。決して独りよがりなどではなく、どうすればめぐみが幸せになれるか、ただそれだけを熟考して暮らしてきた。
少なくとも彼女の父親のような男と結婚しないようにしなければならない。そういう意味で高卒という最終学歴は父と同じゆえに、同じ考えにはしりかねない。
彼女の望むままにと商業高校に進学させたが、まさかそこから就職するなどとは考えもしなかった。中学の時に夫への皮肉、裏返しの意味を込めて大学に行くな、というようなことは言った。もしかしてあの言葉をそのまま受け取ったのだろうか。純粋なめぐみならそれはあり得た。
しかし、それが祥子が自己中心的であることとはつながらない。全てはめぐみのためを思ってやったことだ。むしろ担任のあの先生こそ自己中心的ではないか。
休日の日の暮れかかる時間帯に、三者面談をする先生がいるだろうか。めぐみはその時間を先生が指定してきた、と言った。非常識にも程がある。しかも三年間担任は変わらなかった。もしもあの先生自らが、めぐみの担任になることを立候補していたとしたら。
もしやあの担任めぐみの父親になろうとしていたのではないか。
そう考えて祥子は寒気がした。
ひょっとするとその先生の悪意に気が付いていて、三者面談のあの日、祥子に助けを求めていたのではないか。先生が祥子に暴言を吐いたのは、父親としての威厳めいたものを祥子に見せつけるものだったのではないか。
祥子の身体から一気に汗が噴き出した。体質など知ったことではないような身体の反応だった。そして一瞬で蒸発した。熱が奪われ、寒いという感覚のみが駆け巡る。ほんの刹那感じた寒気とはまったく異なる感覚。恒久的に胸にあるのではないかと思える感覚。自分が抱え込んだのではなくて、無理やり胸に抱かされたような、半強制的に植え付けられた感覚。
振り払おうと思っても靴の底にへばりついたガムのように取れない。真夏の太陽の熱をもってしても屁のつっぱりにもならないようだった。
そんな太陽の下、いつの間にやら一駅歩いてしまっていた。こんなところまで歩いてきたことは一度もなかった。近くに大型ショッピングセンターができてからは疎遠となってしまったが、以前は駅前のスーパーまで電車に乗って来ていたものだった。懐かしい反面、こんなに廃れていたのかと、かつての自分の記憶を疑った。
さて、と祥子は自らを奮い立たせた。
めぐみの通っていた高校に行くことによって、めぐみが失踪した手がかりを掴むことができるだろう。しかし、同時に何か得体の知れない、触れたくない、信じたくない事実が待ち受けていそうで行くのが怖く感じている自分がいることも確かだった。
失踪の理由に、あの担任が絡んでいることは間違いない。しかしそれは現状、祥子の勘でしかない。ただ確信めいたものはある。それだけだ。
紛れもなく現在高校は夏休み。教師という職業の夏休み事情はどうなっているのか分からないが、商業高校ともなれば生徒の就職関係から多くの仕事があると予想される。さすがにいないというわけはないだろう。
しかし仮に、めぐみの失踪と何も関係がなかった場合、必ず警察に連絡がいくことになるだろう。母とはいえ、祥子個人の意見で警察沙汰にしたくないという意見がまかり通るだろうか。公務員という立場を相手にそれは通用しないだろう。
逡巡する彼女の目の前に、スーパーに通っていた当時はなかった看板が目についた。周辺の色変わりした看板とは異なり、真新しさからか光を反射して眩しさを感じた。金属に筆書きされていて、どこか昭和の香りを思わせた。看板自体の煌びやかさと書体からにじむレトロな雰囲気のギャップに惹かれたのも事実だが、何よりもその文字の並びに目は奪われていた。
「探偵……事務所……?」祥子は思わず言葉を漏らしていた。
看板には『探偵事務所 巌流島』と書かれていた。 見るからに胡散臭いと祥子は感じた。看板がなければどうみたって普通のマンションである。どうもその一番奥にその事務所はあるらしい。そんなところに陣取って客は来るのだろうかという余計な心配をする。
そんな思いとは裏腹に彼女は歩き出していた。どれほどお金を取られるのかは知らないが、生まれて初めて探偵という職業の人を見られる喜びと、警察には相談できないという焦りが彼女を動かしていた。
事務所の前にたどり着く。マンションの前にあったものと同じ看板が出迎えてくれた。ただ、下の方に書かれた文章の内容は異なっていた。
『インターホン故障の為、勝手にお入りください』とある。
新手の宗教勧誘だろうかと奥底の祥子は訝ったが、表立つ彼女はそんなもの歯牙にもかけない。
鉄製のドアノブを引くと、驚くほど簡単に開いた。すみません、と声をかけようとしたのと同じタイミングで廊下の奥から快活な女性の声が飛んできた。
「はーい。どちら様でしょうか?」
「あ、えっと、私は……」
自己紹介しようとした祥子の声を、低音が遮った。
「声のかけ方が不適切だ。ここは探偵事務所だぞ、名乗りたくないお客様もいらっしゃるだろう」
低音の男性が女性の後をゆっくりと歩いてきた。
「自分接客できない癖にー」そう言って女性はほっぺを膨らませた。
「こんなところでお客様を端目に内輪語りを始めてしまう奴に、接客云々言われたくないな」
低音で言い返す。
祥子は戸惑った。状況が状況でなかったらすぐに踵を返していただろう。
「もうなんやねん二人とも」
後ろから更に男性が現れた。彼が探偵だろうか、西洋の探偵がパイプを吹かしながら被っていそうな鹿撃ち帽を頭に載せている。とすると最初に接客してくれた女性が秘書、低音の男性が助手といったところか。祥子が勝手なイメージを作り上げている間に探偵は彼女の傍まできていた。
「大変申し訳ございません。二人に悪意はありませんので」
探偵はいたずらな笑顔と深刻そう表情を交互に作った。どれだけ謝ればこんなにスムーズに表情を変えられるのかと思った。
「二人ともちゃんと謝って」
秘書と助手は素早く腰を折って非礼を詫びた。しかし、男の方の声は低音すぎたのか祥子の耳には届かなかった。
通された奥の部屋で、祥子はここに来た経緯を説明した。
その部屋は六人掛けの長机が中央に一つと椅子とが置かれているだけの部屋だった。その長机も一般的な家庭のダイニングにありそうなこげ茶色をしており家族団らんを連想させた。
最初に料金のことを訊いたのだが、「私たちが話を訊くところ未満は無料ですから」と撥ね退けられた。低音の助手は「それだと払わせることになるぞ」と言っていたが、ああ、そんなルールあったなと遠い昔のことを思い出していた。
祥子の説明を三人は真剣な眼差しで訊いてくれた。特に探偵の男性は相槌がうまく、メモをとりながらも祥子の考えや情報の不足している部分をうまく引き出してくれた。
失踪する一週間前にあっためぐみと祥子と担任の先生との三者面談。それから祥子とめぐみは全く口をきいていなかったこと。そして突然の失踪。
「では、ご依頼内容は、娘さんの捜索でよろしいですか?」
「そうですね、ただ――」
「ただ、何ですか?」
探偵が微笑みを浮かべながら訊く。テーブル越しのためによく顔が見れた。あどけない笑顔とは不釣り合いの眉間の皺に視線が泳ぐ。
「お金はあまり用意できそうもないのです。娘には大学に行ってほしいと言ってきましたが、本当にどうしようか迷っていたくらいで……」
探偵の左右に座った秘書と助手が、探偵の背中越しに視線を交わしていた。
「いや、本当にいいんですよ、お気になさらず。我々がお金をいただくのは、ご依頼者様の目的を達成できてからです。ああいや、これだと解決になってないですね。まあさすがにボランティアというわけにはいかないですけど……」
ここで助手が口を挟む。
「ならばこうしましょう。我々がめぐみさんを見つけることができたら、この探偵事務所で働いてもらうと」
一瞬沈黙。ややあって秘書が口を開く。
「どういう意味?」
「お金が無いのなら、働けばいい。それだけのことだろう?」助手はつっけんどんに言った。
「そういう問題じゃなくて。いや、そういう問題なんだけど、仕事が全然ない現状に加えてバイトでも人を雇うってなったら、私たちの貯金を崩さない状況になるかもしれないよ」
何だか変な話になってきたぞ、と祥子は聞こえないように溜息をつく。やっぱりここに来たのは失敗だったか。いや、そんなはずはない。これしか選択肢はなかった。他に探偵なんて聞いたこともないし、たまたまここに流れ着いたというのも運命だろう。それが巌流島だっただけだ。そう考えて彼女は噴き出した。
「あ、すみません、本当に、この馬鹿が不躾な……」
秘書は何度も頭を下げる。助手は何か言いたげだったがそれに倣った。
「いえ、正直私どうしたらいいか分からなくて……。これまでずっとめぐみの為に生きていましたら、何が何やらもう……。ただお話を訊いていただけただけでも、感謝してるんです。現に気持ちも和らいでいますし」
本心だった。胸につっかえていた幾つかが消えた感覚があった。残っているしこりもまだあるが、息苦しさは話しているうちに消えていた。三人に話した分、祥子含めて四等分されたようだ。
「それは良かったです。ああ、ちょっと質問させてもらいます」
探偵はいきなり真剣な表情に戻り、メモ代わりのノートを見ながら言った。祥子は目で先を促す。そう、めぐみがいなくなった事実が変わったわけではない。その事実が少しでも好転するのなら自分は何だってしてもいいと、静かに誓った。
「娘さんの行き先候補としてはどいういった所が考えられますか?」
「質問を質問で返すようで恐縮です。というより 探偵さん……あ、こういった所に来るのが初めてなもんで、あんまり勝手を分かっていないんですが、名刺はいただけないのですか?」
彼女も社会人の端くれである。初対面の人と会う際には必ず名刺を持参する。
めぐみの話を吐き出してできた余裕からかようやく自分を取り戻しつつあった。
「あ、すみません。先に探偵さんの質問に答えるべきでしたね。えっと……候補といっても私たち夫婦の親元くらいしか分からないんです。友人というかめぐみの交友関係にはあまり関与していなかったと言いますか、あまり答えてくれなかったものですから」
「分かりました。それと名刺……ですね」
頭を掻きながら探偵は頬をすぼめた。
「まあ大体予想つかれてると存じますが、会社を立ち上げたばかりで全然その方面の準備ができていなくて……。ああ、私の名前は奏虎次郎と言います。で、この声が低い男が鳥谷寿至。こっちのしっかりしてそうな女性が東後円香です。我々の名前を覚えておく必要はないと思いますけど、一応。別に私のことは探偵さんと呼んでいただいて構いませんので。この二人のことは好きに呼んでください」
「おいおい、コジロー。いや、探偵さん。存外にひどい言い草だな」
助手で鳥谷寿至と紹介された男は皮肉めいた表情で言った。
「寿至が出てくると話が進まないじゃない。ちょっとは喋るの我慢したらどうなの」
秘書の東後円香がなだめる。
祥子はいいですよ、と微笑んだ。そして思いついたことを呟いた。
「ああ、それで巌流島……」
「いやまたそれには別の理由が……」
「何認めたくないようなこと言ってるのよ。その通りじゃない」
探偵の話を秘書が遮った。
「おいおい、先ほど俺に言ったあの台詞は何だったのかと思う変化だな。理解に苦しむし、同時に苦みを感じている」
秘書は口を膨らませていたが、二人はその様子に気付いていないようだった。
「名刺の件は次回にお渡しできるようにしておきます。で、まだ幾つか質問がありますので……」
探偵ははにかんだ表情で言った。先ほどと同様祥子は目で促す。
「失踪されためぐみさんは、当日どのような服装でしたか?」
祥子は三日前のことを思い出そうとした。しかしその思考は無駄だと知っている。
何度も何度も記憶を辿った。
警察に行くことになれば、必ずされる質問だろうから答えられるようにしておかなければという考えからであった。だが失踪する一週間雨からめぐみとは会話も交わしていなければ、姿を見た覚えすらない。したがって洋服箪笥から消えた衣服が、失踪当日にめぐみが着ているものになる。
その思いでもって箪笥を開いた祥子の目に飛び込んできたのは、見たこともない服の面々だった。衣服は祥子が買い与えているもの以外無いと考えていた分、驚きは大きかった。小遣いもロクに渡していないのに、一体どこから手に入れたのかと訝ったものだ。改めて考えればお年玉や誕生日のささやかなお金をうまくやりくりしていたのだろう、という予想はできるのだが。
「すみません。正確には分からないです。おそらく色は白だと思うんですけど」
「なかなかざっくりとしてますね」眉をひそめて探偵は言う。声には茶目っ気があったが、偽らざる反応か判断できなかった。
「白というのは何故?」
「えっと、それは……」彼女は少し視線を下げた。「めぐみの着ていた服は、ほとんどが白だったから……」
「なるほど。そうおっしゃるということは、Tシャツとか種類は分からないということですね」
「そうです。申し訳ないです」
「いえいえ、謝る必要ないですよ」
ここで秘書である東後が声を乗せた溜息をついた。
「どうした?」探偵が秘書を向いて訊く。
「いや、うちと似てるなと思って」
「おい円香。説得力という言葉を知っているよな? ある指摘をした場合、自分が同じ状況で同じ指摘を受けるような行動をとるのは、それを大いに失う行為だぞ」
このやりとりは定番なのだろうか。状況が状況ではあるが、祥子は笑ってしまっていた。
「ちょ、仕事中に二人してなんやねん。なんか二人が普通に辞められた理由が……あ、ごめん、忘れて」
冷静に聞き流していた探偵までもが仲裁に入ろうとして、仲間入りしてしまったようだ。探偵事務所というぐらいだから、非常に重い空気が流れているのだろう、と考えていたが改めないといけないなと彼女は思っていた。むしろこれくらいの方がリラックスできて良いのかもしれない。ここ三日、笑うことどころか、感情がプラス側に振れることはなかったのに、この十分程度で大きく変わった。
「コジロー。今の台詞は聞き捨てならない……が、そう指摘されたように仕事中だ。お客様を眼前に議論すべきことではない。しかしさっきはああ言ったが、先の東後の言葉の意図は聞くべきだろう。うちと似ているとはどういうことか」
祥子もその点は気になっていた。目の前の秘書と失踪しためぐみ。見た目は似ても似つかないが、どこか共通点があるのだろうか。
「大した話じゃないよ。状況がね、似てると思っただけ」
秘書はどこか遠くを見ていた。彼女の心が現代にいないことだけが分かった。
沈黙が流れた。祥子にはまったく理解できない沈黙だった。
ただ、秘書の過去に何かあったんだろうなということは確かだろう。
沈黙は続いている。二十秒は経っただろうか。祥子は探偵事務所とだけあって、防音対策がしっかりとされているのかな、などと関係ないことを思った。しかし普通のマンションだったことを思い出し、かぶりを振った。
「うちは……どうやろ。知らんかも。いつも通販やからなあ」沈黙を探偵が破る。
「俺も一人が長かった、というか今もだが、同じようなもんだろう」
「そういう話ができるだけいいじゃん」
秘書の言葉には、どこか涙めいた音が隠れているような気がした。
二度目の沈黙。
一度目の沈黙との違いは、秘書の視線が祥子の顎付近に移ったことくらいか。感覚的なところでは、空気に重みが感じられた。最初に事務所に入った祥子の纏う空気と同等の重さではないだろうか。妙に俯瞰で見ているなと彼女自身評価した。
沈黙をやぶったのは、探偵の軽々しい声だった。
「話を戻します」沈黙時に流れていた空気が瞬時に外部へと追いやられた。部屋の隅に残っているかもしれないが、認知することはできない。
「祥子さんの話を聞いているとどうも、何かに疑念を抱いていらっしゃるような印象を受けたんですが、実は何か気付いておられるのではないですか?」
どっしりと腰を下ろした、落ち着いた声色だった。探偵から初めて探偵らしさを感じた瞬間でもあった。なんとも言えない威圧感。絶対に嘘をつけない、ついてはいけないという空気に纏われていた。
鼓動を大きくする胸を左手で押さえて、できるだけ普通に話そうと心がけた。
「怪しいと思う人ならいます」
「これはまた核心をつきますね。怪しい人、ということは誰かに誘拐されたと」
「そうです。めぐみに限って一人でどこかに行くとは思えません。単なる母としての勘ですけど」
探偵は眉間を押さえて考えていた。
「そうですか。誘拐……。確認ですが事件に巻き込まれたとして、つまり娘さんが誰かに誘拐されたとすると、何か祥子さんにアプローチがあってもいいと思うんですが、そういった類の接触は無いですよね?」
「それは……そうですね」祥子は頷く。
「まあ、可能性は低い気もしますが……。怪しい人というのは? 具体的に教えていただいてもいいですか?」
ここで本当に名前を出すべきか、祥子は考えを巡らせた。
しかし改めて考えてみても、この『探偵事務所 巌流島』以外に信頼できる場所などないように思えた。警察に頼りたくない事情を持った人は少なくない。だから探偵に頼る人も出てくるだろう。中にはたっぷりとお金を搾り取る探偵もいるように思う。
目の前の探偵には金を無心するだとか、そういった悪い印象を受けない。もちろん演技の可能性もある。彼女にそれを見破る術はない。
消去法と言ってしまえば過ぎないが、ここで探偵事務所に入ったことは運命だと自分を納得させた。めぐみのことしか考えられなかった自分と、今の自分は異なってる。しかし二人とも導き出した答えは同じだ。
「めぐみの担任の先生です。三年間ずっと変わらずでした。名前は」
担任という情報だけで、名前を調べることは可能だろう。しかし冷静さの影に隠れていた冷徹さが彼女の名を告げさせた。
これでめぐみは助かる。めぐみを見つけることができる。祥子は確信していた。
「長戸照貴弥です」
探偵は助手よろしく低い声で、わかりました、と顎を引いた。




