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「ちょっと奏。どうして泣いてるのよー。泣きたいのはこっちなのに」
「そんなこと言われても……」
「泣きたいのはこっち? お前はもう泣いているのに、そういう言い方は矛盾しているだろう。さてはそれに気付くこともないくらい混乱しているのか?」
「……ごめん」
いつもなら「北斗の拳じゃないんだから」というツッコミを入れるか、顔を膨らましてにらみつけている円香が、小さな声で謝った。
おそらく寿至にとっては初めての経験だっただろうが、彼は微動だにしない。
このやり取りの中、虎次郎はどうして自分が泣いているのか分析しようとした。しかし生まれて初めての感情をうまく捉えることはできなかった。
この年齢になっても、人生初があるのだな、とまるで他人事のように思った。
人はどうして嬉しい時に涙を流すのか。
中学の家庭科の先生が話していたことを思い出す。その問いに対する答えは、人間が生まれた時にどういう状態になるかを考えたらおのずと答えは出る、とのことだ。
つまり、人が生まれた瞬間、すなわち産み落とされた瞬間赤ちゃんが涙を流しているのは、この世に生を授けてくれてありがとう、という嬉しさが影響しているということである。もっともだと思う反面、感情を制御できない赤ちゃんが何かを表現していても、それはわかってやっているわけではないから、嬉し涙という言い方はどうなのだろうと思っていた。
しかし現に自分がその状態になれば、理由なんてものは存在しないと思える。悲しいから泣く、悔しいから泣く、この二つの状態に「嬉しいから泣く」という回路が追加されただけのような気がする。電源と抵抗、それらが直列か並列か、小学校で習う回路のような単純さはもちろんなく、ホイートストンブリッジやトランジスタで構成される高校の物理で習うようなものでもない。
人の思考がそんな単純化された回路で表せるのなら、人同士の付き合いがいかに円滑化されるだろう。
「いや、お前が黙ったらこの場は成立しないだろう」
寿至の指摘で虎次郎は我に返った。いつも通り、ゆっくりと視界が開けていき、自分の手足がこの場に戻ってくる感覚を味わう。円香はまだ洟をすすっている。
「ありがとう」
気付けば虎次郎の口からは、思ってもみない言葉が漏れていた。目から液体が漏れたこととは無関係だろうか。
だが言葉は続かなかった。
「どうして俺たちがここに来たか訊かないのか?」
何故、何故と口を動かして考える。それはどちらの意味だろうか?
「それは……」
「why? の方だ」
「そうじゃなくて……」
「ん? あいにく俺はまだコジローの気持ちが読めるステージには立てていない。説明が必要だ」
何故、虎次郎がここにいるのが分かったのか?
理由はなんとなく察しがついていた。
答えはおそらく、円香。
そして、虎次郎が浜大津駅に来た理由の一つも円香だったことに今気がついた。
あれは中学一年か二年の頃だ。
当時の円香はいじめに遭っていた。いやあれはいじめと呼べるか疑問だ。一部の女子から無視されたり、周りに聞こえるくらいの声でМちゃんってきもいよねーというイニシャルトークをされたくらいだったらしい。
理由は今でも分からない。
おそらく誰かからラブレターをもらったことの妬みだとか、スーパーで万引きしようという声に乗らなかったとか、一言で表すなら「若気の至り」で済ますことができそうな些細な問題だったのだろう。ただこれまで学校での生活しか知らない、学校というコミュニティでしか過ごしたことのない彼女にとってそれは苦痛だったに違いない。
虎次郎がそれを知ったのがこの浜大津駅のペデストリアンデッキだった。
土曜日。虎次郎は港近くのアミューズメント施設『キャルロス』で映画でも観ようと一人浜大津駅に降り立った。中学生になり、一人で行動できる範囲が増えていた彼は、一人でどこかに行くという行為だけでステイタスになると信じ込んでいた。
改札を出て東に進路をとり『キャルロス』に足を向けたところで、目の端がかつてジム通いの時に自分が陣取っていた場所に佇む少女を捉えた。
それが円香と気づくのに数秒を要した。
何せその立ち振る舞いが、この上なく美しく感じたからだ。
頬を伝う涙が、この上なく綺麗で尊いものに感じたからだ。
見とれていた、とは全く異なる、夜空に神々しく浮かぶ満月を見た時のような感動に近かった。
彼女もこちらを見た。
しかし、口は真一文字に結ばれたままだ。それでもずっと虎次郎を見つめている。
十メートル以上の空気が二人を隔てていたが、小学生、いや、もっと前から知った顔がやけに遠くに感じられた。
虎次郎は自分が何か言わなければ、と言葉を探して口を薄く開いた。
彼女はそれを制するように、大げさに口の前で人差し指を立てて、今自分が置かれている状況を淡々と話し始めた。
彼は誘われるように彼女に近づき、その内容をどこか夢見心地で聴いていた。彼女の口ぶりが他人事だったからというのは無関係ではないように思う。
一気に話し終えると、円香は「私帰るね」と言って改札に向かっていった。虎次郎は一歩だけ追いかけたが、その場に立ち尽くし、彼女がエスカレーターを降りて姿を消すのをぼんやりと見ていた。
次に会った時、彼女はあの橋上の出来事などなかったかのように振る舞った。それに倣う形で虎次郎もこの日以前と同じ態度で接した。夢見心地だったためか、彼は話の大部分を忘れてしまっていた。そのため内心とてもホッとしたことを覚えている。
それからずっと彼女の涙は虎次郎の深層で寝息を立てていた。
高校三年になり、虎次郎は進路のことで悩むたびに、この場所まで自転車を漕いできた。
自宅から最も近い高校に通っていたため、通学は専ら自転車だった。
珍しく補習のない水曜日。
虎次郎はジメジメした鈍色の空の下、橋の上から逢坂山を見ていた。否、正確には逢坂山があるであろう方面を見ていた。鈍が視界を奪い、空気を淀ませていたからだ。
「先客いるやん」
突然の来訪者に彼は氷に触れた後の手を首に押し付けられたかのような反応をした。
「そんなに驚かんでもいいのに」
「いや、驚いてへんけど」
円香とこの場所で顔を合わせるのは、あの時以来だ。嫌でもあの時の記憶が蘇ってくる。そのためか彼女の顔を凝視できない。もっともそれはいつもとあまり変わらないことなのだが。
円香は虎次郎の隣に立ち、柵にもたれこんだ。二人の間を生暖かい風がすぎていく。双方が何も話さない。彼女はこの状況をどう思っているのだろうか、あの日のことを思い出しているのだろうか。
「そういえば東後って進路どうするんやっけ?」
「そりゃ大学に行きたいよ。けど……」
虎次郎にはその後に続く言葉が予想できた。しかしもちろんそれは拾わない。
「そうやんな。でも今は奨学金とか、成績良かったら授業料免除とかもあるしな」
「ショーガクキン?」
「まあ俺も知らんかったんやけど、無利子で借りれるお金があるみたいやで」
「でもそれって詐欺とかあるやつじゃないん?」
「確か法人やからそういうことは無いはずらしいわ。ああ、保証人っていうのがいるか」
円香ははあ、と息を吐いた。
「結局そこに行きつくねんな」
彼女の横顔を見てなぜかあの日を思い出した。あの日横顔など見た記憶はないのに。
「うちの親が何とかするんちゃう?」
「いやあ、そこまで迷惑かけられへんわ」
全然迷惑ちゃうよ、という言葉をすんでのところで飲み込んだ。彼女が最も嫌う言葉だ。
「まあ、協力してほしいことあったら何でも言って」
「うん、ありがとう」
彼女は丸い目を細めて両手を合わせた。ワンテンポ遅らせてお辞儀も加えられた。大げさないただきます、といっても過言ではない。
「逆に奏はどうするんやっけ?」
「俺も大学やで。国語が無理すぎるから多分私立かな」
「ご謙遜を。さすが部活にも入らんと時間の浪費とか言って帰宅部部長を名乗ってただけのことはあるね。コンスタントにテストも良い点とってたって聞いてんで」
「誰がそんな噂流してるんや」
頭を掻いて照れ隠しをした。
「英語の松宮先生」円香は胸を張って答える。
「うーわ、あのおっさん頭おかしいんちゃう」
松宮先生は虎次郎の学年の担任に二人いた。一人は虎次郎の成績を垂れ流ししていた英語教員の松宮晃であり、高校二年時の円香の担任でもある。ぎょろりとした目と腫れぼったい唇が特徴的なぼそぼそとフランス語のような英語を話す男性教師だった。
「それにしても東後が四年制の大学目指せるレベルになるとはなあ。正直まだ信じられへんわ」
「まあ……ね。でもやっぱりまだ足りひんねんな。奏の大得意な数学が全然偏差値上がらへんし。この前なんて数字見ただけで吐き気が襲ってきたもん」
「それは嘘やろ」
「いや、ほんまやって。あ~やばい。思い出しただけでちょっと来た」
そう言って円香は両手の手のひらを強く口に押し付けていた。
「今回も風邪引く作戦で行ったら受かるんちゃう?」
虎次郎は高校受験の時の円香を思い出しながら言う。受からない可能性の方が高いと評されていた上、試験当日インフルエンザにかかったのに、今の高校に入学できたという奇跡のような出来事。
「たぶん私の人生の運はあそこで使い果たしてるんやろなあと思ってるんよね」
「なかなかもったいないことしたな」
「うーん、そうかもね」
彼女はツンとした表情で下を向いた。
大量の水を含んでいる風が、二人を撫ぜる。灰のような空からは今にも雨粒がこぼれてきそうだが、なんとか表面張力で持っているようだ。
「奏は……」
「うん?」
「あのジムに通ってたんやっけ?」
「そやで。まあ通ってたと言えるかは疑問やけど。それがどうしたん?」
「いや、別に」
彼女はそこでまた押し黙った。
この時虎次郎は、またか、と思った。
中学に入学したあたりから会話が長く保たなくなっていった。長く保つ必要はないし、保たせる努力をしようとも思わなかった。円香はどうかわからないが、少なくとも虎次郎は何も思うことはなかった。この時と同じように、いつものやつか、と思った程度であった。
それは円香に限った話ではない。
今となっては職業柄仕方なく、というわけでもないが、自然と男女関係なく会話をつなげるが、当時は必要性を認識していなかった。最低限の困らない程度の友人と、話しかけられれば返答できる能力だけで十分だと思っていたからだ。
「東後はなんでここに来たん?」
言ってからしまった、と思った。思い出したくないことを思い出させてしまったかもしれない。円香の姿を見た時から言ってはいけない、と言い聞かせてきたのに言ってしまった。心にとどめることがどれだけ危険かを思い知った。
虎次郎の懸念はよそに、彼女はにっこり笑って答える。
「それは……秘密。あの土管の中と同じ」
一瞬彼の頭にクエスチョンマークが踊った。しかしすぐに思考が追いつく。
「ああ、それやったら絶対バレるで。てかよく思い出したな」
「奏も覚えてるんや。今どうなってるかなあ」
「理想としてはめちゃくちゃあの頃のまんまで残っててほしいけど。多分ボロ雑巾みたいになってるにゃろな」
「あ……うん。多分ボロ雑巾に例えるのは間違ってるけど……うん。荒廃してるんやろうなあ」
彼女は遠くを見つめる。山のその向こうに過去があるとでも言わんばかりに。
「そういえばあそこにかえるのぴょんきち忘れてるわ」
視線の方角そのままに彼女は言う。
「ええ……それは全然覚えてへん。そういうところの記憶力はほんまに人間離れしてるよなあ。めちゃ羨ましいわ」
「もう、嫌味にしか聞こえへん」
彼はふと自分がどうしてここに来たのかを考えた。
進路以外での悩みがあったからではなかったか。
そしてそれが、彼女がここに来た理由と同じだったら。
中学生のあの日、結局虎次郎は何も話せず、彼女一人が淡々と話していた。苦しんでいたのは彼女一人だった。彼は悩んですらいない。唐突さと他人事のような彼女の話ぶりがそうさせたのだ。しかしそれは自分の都合の良いように解釈しただけだ。
あの時の謝罪をするべきではないのか。
ただ、と思う。
嫌な記憶をこのタイミング、それもこの場所で思い出させることになる。先ほどのミスもあるし、それはできれば避けたい。あの時と同じだ。
怖いから。うまく積み上げていた、唯一のバランスで保っていたものが、さも堰を切ったように崩れ落ちるのが怖かったのだ。
かといって、悩みの回答を示すのも違う。
中学生の円香、高校生の円香。
虎次郎にとっては単なる幼馴染だった。その考えは正直今も変わっていない。
しかし、あの時声をかけることで何かが変わっていたとしたら。
もしもここで、秘密と答えられた、彼女の悩みを聞き出せていたら。
何故この場所に来たのか。
怖かったのだ、本当のことを知ることが。仮に今の自分が、当時の虎次郎に乗り移っても同じことをするだろう。いくら社交性が上がったからといって、以前から知る人に対しての接し方は変わらないかもしれない。
虎次郎は駆け巡った記憶を悟られないように深呼吸をした。
「二人が俺がいるこの場所に来れた理由じゃなくって、なんでこの場所に来たかってこと」
寿至はきょとんとしていた。想像していない反応だったので、虎次郎は面食らった。
「その答えならつい先ほど彼女が言ったじゃないか」
「え……? 東後が?」
円香は、丸い目を更に丸くしている。言葉には出さなかったが「私何か言った?」という表情だ。
寿至は二度、裏声の発声練習をした。
「『LINEスルーするってどうなってるのよ』この言葉を忘れたのか?」
すぐにスマートフォンを取り出す。暗い画面が出迎えた。
「なるほど、どうも雨にやられたっぽいな」
円香はぷっと吹き出した。寿至も左の口角だけが上がっている。
「お気の毒。しかし俺たちが連絡したのは、昨日だ」
昨日?
いや、それよりも壊れたことの反応それだけ? 酸素濃度が薄すぎるってこと?
無関係の情報が頭の中で叩き合っている。
虎次郎は昨日何をしていたかを思い出そうとした。
しかしスマホの画面同様、漆黒が脳に満ちていた。いつからか暗闇に居続けていたらしい。ずっといると目が慣れてくると言われるが、この状況では疑わしく思える。
返事の代わりに虎次郎は思い切りくしゃみをした。
夕立が止んだ後特有のじめっとした空気なのにやけに寒かった。
「それはごめん。まあこんな場所で立ち話もあれやから移動せえへん?」
「いやはや、こんな場所とはな……その上、降雨に襲われたのに何時間も居座ってたのはどこのどいつだよ」
寿至がもっともな指摘をしたところで、円香がボソッと言った。
「私はここがいい」
もう涙は声に混ざっていなかったが、虎次郎は心臓をきゅっと握られた感覚に陥った。
「じゃあ俺もここでいいや」
寿至のツッコミを待ったが、ジトッとした目を虎次郎に向けるだけだった。その目に軽蔑の意味が込められていないことに少しほっとした。
「ところで、なんだが」
普段よりも一オクターブくらい低い寿至の声。この世で虎次郎を含む数人しか聞き取れないであろう低さだったが、なんとか耳に届いたようだ。前置きや脈絡は会話に不要だと、常日頃言う寿至だけに新鮮に感じる。
「俺たち二人は、仕事を辞めてきた」
「……は? いや、………は……?」
気温は下がっていないはずなのに、より一層寒気を感じた。寒くなれば動物、細胞、原子の動作は低下する。ゆえに思考能力が低下しているのか。いや、実際は逆だ。分子の振動が熱を生む。どうにも思考が分裂してしまっている。
「ああ、明白だがコジローのせいじゃないぞ。それに円香と申し合わせたわけでもない。それぞれがそれぞれの意思でもって、この決断をしたまでだ」
処理速度が一向に元に戻らない中で彼の思考はは急いでは転倒し、急いでは転倒しを繰り返した。耳に届いた情報がうまく変換、整理されない感じだ。
寿至の話によると、彼は千葉の勤め先である会社に、今日の朝、辞意を伝えたらしい。理由は会社の経営方針が次の世を生き抜けるものになっていなかったから。入社して六年目に突入したのだが、この七月の大幅な体制の変化に、会社の未来をイメージできなくなったとのことだ。会社にも率直な意見を伝えていて、自分の上司を通り越して、社長室まで出向いて話を聞こうとしたのだが、門前払いされてしまったという。この出来事が直接的な退職の原因となったそうだ。人を大切にする職場を掲げているにも関わらず、人を無下にするような対応という矛盾がどうも許せなかったようだ。
虎次郎は寿至という人間を誤解していた。人間関係は彼にとっては不必要なもので最低限にしているものだと思っていたのに、この事例のようにそれが原因で仕事を辞める決意を固めるまでに至ってしまうとは。少なくとも毎日を共にした大学生の頃の寿至なら会社を辞めるというような結論には至らないだろう。やはりどんな人間でも、社会という空気が身体に染み込んで、思考回路を組み替えてしまうのだろうか。
ただ話の中で驚いたのが、昨日辞意を上司に表明したばかりなのに、全ての手続きを滞りなく済ませ、今ここにいるということだ。虎次郎ですらあれから警察庁に行くのはおろか、県警にすら行ってないし、近畿圏内から一歩も出ていない。
薄々辞意を抱いていたとはいえ、そこまで簡単に手続きをこなせるものなのか、従業員が一万人を優に超える大企業なのに。
一方で円香も負けていない。
ただ、退職理由はレベルが違う。もっと休みが欲しかった、という習い事を沢山させられている小学生のような理由だった。彼女も入社六年目に入り、自分の行く末や会社の行く末に少なからずの懸念や不安を抱いていたことは間違いない。しかし、それにも増して休みが欲しいという気持ちが勝ったそうだ。照れてほんのり顔を赤らめた彼女に、寿至は追い打ちをかけるように社会人はなんたるかと熱弁していた。だが彼女の、自分も辞めてるじゃんという正論をぶつけられると、それは棚に上げていたのに、という言い訳をしてから黙ってしまった。
彼女の話で驚かされたのは、それに思い立ったのは今日の昼休みの時間で、昼一で上司に伝えたという点だ。そこから上司だけでなく関係者、上司の上司、さらに上司、取引先の会社の人々と、自分の仕事に関わる人への謝罪の挨拶、仕事の引継ぎ、会社を辞める手続き、近辺整理をこなした。虎次郎なら一週間はかかりそうなことを、ほんの半日で済ませるとは、よほど決意が固かったのか、そんなに休みが欲しかったのか、どこからそんな執念が生まれるのだろうとすら思えた。
「そんなこんなで滋賀に戻ってきたのであります」
敬礼しながら彼女は言う。先ほどまでの涙は嘘だったのではないかと訝ってしまうほどの態度の変化だ。
彼女の敬礼を見て「あ」と気付いた。
そういえば二人に警察を辞めたことを伝えていなかった。時系列的には自分が最初に言わなければならないのに、おかしいことになったぞ、などと的外れなことを思っていた。
そして彼は打ち明けた。
実は一週間前に警察庁を退職したこと。
警察という職業では自らの目的が達成できないから、という理由。
約二週間前に三人で目の当たりにした、あの事故が間接的に関係していること。
寒気を感じていたため、彼の声は震えていたかもしれない。そのせいで話の内容がちゃんと伝わらなかったら申し訳ないなと考えていた。
しかし二人は予想外の反応をした。
「ほらな、言った通りだろう」寿至が笑いを押し殺しながら言う。
円香に関しては大声で笑いだした。傍から見たら終電を逃した飲み会終わりの大学生が駅前ではしゃいでいるようだろう。現実は皆三十手前のそこそこいい歳なのだが。
「ちょ……どういうこと?」
虎次郎は困惑した。意味がわからない。
「いや、実はな。この前会ったときの帰りの電車で円香とお前の近い将来を予想していたんだ。そこでは二人のダークな部分が表面に浮上しすぎてだな、あまりに非現実な、いや、非現実だと思える想像を張り巡らせていたのだが……。いやはや、全て同等、あるいはそれをお前は超えてきた、というわけだな。うーむ……。人間とは恐ろしいな、ここまでのレベルになってしまうとは」
「なんとなく悪口言われてるんは分かったけど、寿至もたいがいやで。そんな人間が恐ろしいなんて台詞、絶対に言えへんかったやん」
「ある意味では、コジローは俺たちの想像の少々外側にはみ出た程度だろう。つまり俺たちの想像力の方が勝ったわけだな」
「そら一対二やったら敵うわけないやん」
何を議論するでもない。連続的な論点のすり替え。かつてのやりとりだ。結局何が言いたかったのか、と寿至がツッコミを入れるまでは終わらない。しかし今回は円香の一言だった。
「奏の想像力が乏しかったという結論で終わりね」
「いやいや、勝ち負けの話とちゃうからな」
「今更まともな議論をしようとしても遅いぞ。やるなら取り上げられていたその時だけだ」
三人が三人共、理由は異なれど職を辞した。
事実を聞かされてからずっと、いとも簡単に仕事を辞めてしまう二人に驚嘆している。二人が辞めた理由は納得できるものではあるが、それらを我慢して仕事をしている人がほとんどだ。それに仕事とはそういうものではないかと思う自分もいる。
我慢の代わりが賃金なのかもしれない。
嫌なことをするからお金がもらえる。だから続けられる。自分の意思にそぐわなくても、気に入らないことがあったとしても。
ここで虎次郎は、先ほどチームについて考えていた時に閃きかけた考えが夕立の残り雨のように頭に落ちてきた。
「わかった!」
興奮のあまり、大声をあげてしまっていた。三人の中で最も酔っぱらっているのは彼だと思われたかもしれない。実際に全身びしょびしょなのだから、文字通り酒に呑まれているようにもみえる。
「余計なお世話やけど、これからどうしようとかって考えてる?」
「俺たちがそんなことも考えずに仕事を辞めたと本気で思っているのか? とは言ってみたもののそこまで考えてるわけじゃないんだな。多少の金と血の気は貯まったようだから、公務員試験の勉強でもしようかなと考えている。コジローでも国家公務員になれたんだからな」
最後の一言の必要性について是非を問いたかったがこちらの血の気が高まるだけのような気がしたから止めておいた。
「東後は?」
「私も休暇と引き換えにそこそこお金貯まってるし、しばらくこっちでゆっくりしようかなと思ってる」
「なるほど」
虎次郎は深呼吸する。興奮しているのは自覚できている。だからこそしっかりと熱を放出しておかなければ。
「そんなに決まった将来がないんやったらさ、三人で探偵やらへん?」
「ほう、面白そうではあるが……」
「えー。あのダサい帽子かぶって変なコートを着ろってこと? 暑すぎて無理でしょ」
彼は円香と探偵のイメージが同じだったことに顔をほころばせた。
チームとは何か。
答えは人によって異なるだろう。答えではなく、定義というべきか。
仮に同じベクトルで目的に向かう集団をチームと定義するのなら、向きと力が揃っていることが条件になる。ここでの力は単に一つの能力のことではない。人間の能力をパラメータで表現するとしたら、その種類は天文学的数字になるだろう。見たこともないオーダーになるかもしれない。誰にも長所と短所がある。それを補って力を高めるのがチームだともいえる。
しかし、と虎次郎は考えた。もし力、意識がかけ離れすぎていたらどうか。
どうしてあの人はあんなにサボるのだろう。
どうしてあの人はあんなに頑張れるのだろう。
どうしてあの人はあんなに仕事ができないのだろう。
どうしてあの人はあんなに仕事ができるのだろう。
京都府警において、若田部恭介は明らかに強すぎる、大きすぎる存在だ。それに、公務員特有の倦怠感。
事件解決に積極的に動かない人も多く存在する。
仕事だから、生活がかかっているから、お金がほしいから、それだけのために警察官になったような人たちだ。
もちろんチームの一員に数えられてはいるが、彼らは明らかにそぐわない。
本当にそれで強いチームが形成されるのだろうか。
否、考えにくいだろう。
一方で三人で組んだ場合、このチームはどうか。
全員が持てる力を最大限に、同じ力を注ぐ。適材適所。
それらは現在把握している分には文句なしだ。
それが無理だとしても、少なくとも心は一致できるのではないか。
能力は後からいくらでもついてくるが、心の向かう先を同じにすることは不可能だ。
もちろん説得という形ではなく、自らの意思で探偵をやるとなって始まる話だ。
それが叶えば、それさえ達成できた、そんなチームなら、相手のチームにどんな大きな存在がいたとしても勝てると彼は確信した。
生暖かい風が吹く。いつの間にか虎次郎の服は乾燥していた。
二人の仕草を覗き見る。もちろん視線は動かさずに。
寿至はまったく表情を変えない。しいていつもとの変化を挙げるなら右の口角が上がっていることくらい。虎次郎の提案を、本当に言葉通り面白そうだ、と思っているようだ。
円香は両手をほっぺに当てて上下させていた。特にそんな風には見えないが、強張った筋肉をほぐしているように見える。大げさな動作をさせたら右に出る者はいない彼女であるが、今はほっぺ上下以外に変わった動きはない。ましてやその行動から彼女の意図するところは何も見えない。
「俺はやるぞ」
表情を変えずに寿至は提案にのった。
円香はう~、といううめき声を漏らして続ける。
「資本金は? 給料は? あ、休みは?」
この瞬間、虎次郎は彼女が仕事を辞めた理由は休みがないからではないのでは、と思ったが口には出さなかった。
虎次郎は彼女に気付かれないように溜息をつく。寿至と二人で探偵事務所を立ち上げようかと考える。緊急時の円香の冷静さや思考は間違いなく役に立つ。それを無しにするのは損得でいえば、損になるわけだが。しかし、チームの概念が引っかかる。
そんな風に巡らせていると、彼女が平然と言った。
「あ、私の了承は質問とは無関係に取れてますので」




