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眼下を通り過ぎる京阪グリーンの車体を見やりながら、懐かしさに捕らわれて彼は動けなくなっていた。
滋賀県南部をJRと並行して走る京阪石山坂本線。十年近くまえは赤字続きで存続も危ぶまれていた路線だが、アニメのキャラクターを主としたラッピング電車が好評で、他府県からの乗客も増え、近年ではそのような声も聞かれなくなった。もっとも住宅街を走っていることや、京都の三条まで直通する市営地下鉄東西線に乗り入れる京阪京津線の発着駅である浜大津もあることから、利用者にとってはかけがえのない路線であることは間違いない。
現に彼の通っていた高校にもおよそ三分の一の学生は当路線を利用している学生がおり、通勤・通学の時間帯には、一時間に六本走る二両の車両が満員になっていた。半面、日中はその逆の事例が見受けられた。どうして本数を減らそうとしないのだろう、と思ったことは何度もあった。
彼の実家の最寄り駅である京阪膳所から二駅、浜大津駅のデッキ上に虎次郎はいた。
そのペデストリアンデッキは浜大津駅を中心として国道百六十一号線をまたぐ南へ伸びた部分と港近くのアミューズメント施設につながる部分、西側にある商業・公共施設『鈴花』へとつながる部分とに分かれていた。どの通路も大人が五人程度は横並びに歩ける幅があり、両側面には百五十センチほどの白い塗装を施した鉄柵があり、子供はおろか、大人でも意図的でなければ乗り越えることはできない。
虎次郎は『鈴花』へとつながる橋上で思いを馳せていた。
この場所からは浜大津駅に入る、石山坂本線の二両の電車、逢坂の山を越えてはるばる京都からやってきた京津線の四両の電車、またその逆方向への電車を臨むことができる。
彼は小学校低学年の頃を思い出していた。
どんな習い事も続かずに辞めてしまう彼にと母親はスポーツジムに行ってみてはと、この週末になるたびに連れてきた。
その頃は『鈴花』ではなく、異なる呼称の店だった。虎次郎が高校三年の時に『鈴花』に変わったのだ。
当時から入っていたスポーツジムは未だに健在のようだ。最古参になっていても不思議ではない。
運動は元々得意な方ではなかった。それは兄の無茶士とは正反対だった。勉強はその逆だった。毎週の漢字テストは常に満点だった虎次郎に対し、無茶士は五点取れれば良い方だった。学年は二つ、無茶士の方が上だったが、兄との会話に困ったことはなかった。むしろ虎次郎の方が難しい言葉を知っていたし、無茶士の方が困っていたかもしれない。
無茶士は地元の野球チームに入っていて既に忙しい週末を過ごしていたが、ジムという響きにやられたのか、いつも虎次郎についてきていた。虎次郎自身も、最初はジムに行くという、大人になったような気分にさせられる言葉に騙されていた。
入所してしばらくは母もランニングマシーンで走ったり、バーベルのシャフトのみを持ち上げる筋トレまがいの動作を嬉々と眺めていたが、やがてその単調な動作に飽きたのか、一月もすると、同じ建物内の店で買い物をするようになった。
いつしか親子は橋を渡り切った先で別れ、母は食材や日用品の調達に、兄弟はジムに汗を流しに行き、帰りは別れた場所で落ち合うという流れになった。
しかしそんな日も長くは続かなかった。兄はランニングマシーンに夢中になり、中学生と変わらないペースで走れるようになってきた。普段運動をしないサラリーマンよりは確実に速いペースだ。一方で虎次郎もそこそこのペースで走れるようにはなっていた。走り始めると楽しいし、頭がぼーっとして視界が狭くなる現象には中毒性がある。だが、そこまでだった。これを続けて何か意味があるのだろうか、と思ってしまったのは確かだ。周りが習い事をしているから自分もしないといけない、そんな思いを抱いていたのも確かだ。だが、続けられなかった。自分でも理由は分からない。今になって振り返ってみても分からなかった。
鳥谷寿至と出会った時に抱いた感情。
誰とも交わることなく、交わる必要性を最初から排除していた男。自分もそうなりたい、と思ったことはなかったが、自分の奥底の、誰も触れないような部分でくすぶっていたのだろうか。自分が成れなかった姿に憧れのような感情を抱いたのかもしれない。
そして虎次郎は、志都子が食料品売り場へのエスカレータを降りるのを見届けた後、身体を反転させて、この橋上に来た。
このことに無茶士は何も言わなかった。騙されたようについていったジムが思いのほか楽しかったのか、虎次郎に興味が全くなかったのかは分からないが、おそらく後者だろう。あるいは、自分がジムに行っていないと母親にバレた時のことを考えたか。
これかもしれないな、と虎次郎は思った。これまで深く考えたことがなかったから気付かなかった。かつての仕事柄、人のことを考える癖がついていたせいか、人の気持ちを読み取る能力が高まったのかもしれない。
弁当の一件もそうだ。
母の作る弁当が間に合わないと判断し、いつの間にか学校に行っていた。
料理に関してもそうだ。
母の手料理に対して、常に私は関わりません、というスタンスを貫いていた。
それは全て、母に嫌われたくない一心だったのかもしれない。
勉強しなさい、と言われたことは一度もない。おそらくそれは兄の無茶士も同様だろう。だから勉強に力を入れなかったのだ。勉強ができなくても怒られることはない、兄はそう考えたのだろう。
勉強は選択肢の増大だ。自分の将来の可能性を広げるだけにしかならない。そして、ほぼ努力で決まってしまう。自分が努力できる人間か、そうでない人間かを見極めるために、最も身近にある手段である、というだけのことだ。
それは、スポーツに関しても同様のことがいえると思う。
そんなことを考えていると、辺りは自然と暗くなってきていた。
いや、自然ではない。南の山の方から重々とした雲がこちらに手を伸ばしていた。どこかこまねいているようにもみえる。
若田部警視正と話をして四日が経過した。
芦田が殺された事件も、四十万が殺された事件も、情報源は京都府警の捜査一課が握っている。そしてその捜査一課を若くして背負う若田部に一切の協力を拒絶されたとなれば、頼れるところはどこにもないといえる。
この三日間、虎次郎は事件現場に行ってみたり、また、ノートを開いてこれまでの情報を整理したりしていたが、何の進展もなかった。ニュースを見ていても、今年は本当に猛暑ですね、とキャスターが苦々しい顔をして言うだけで、事件に関する情報は一切伝えられなかった。若田部が一枚噛んでいるのは容易に想像できたが、虎次郎一人のために、そこまでするのだろうか、という疑問もあった。
しかし、若田部ならやりかねない。
あのような若田部の姿を見たことのある人はどれほどいるのだろう?
圧倒的な強者。
勉強は選択肢を広げるにすぎないと今でも考えているが、彼を見ていると全て疑わしくなってくる。彼が正しく、自分は間違っている。まるで彼を中心として世界が回っているような錯覚。
あの感覚を味わうことは二度とないのだろうか。
ランナーズハイとは全く逆の、別世界に行ったような感覚。
逃げ出したいけれど、もう自分はそこにいなくて、しかし確かに存在はしている。奇妙なあの感覚。
いや、違う。眼下を通り過ぎるラッピング電車のガタンゴトンという振動に合わせるように首を横に振る。
今はそんなこと考えている場合ではない。
四十万胡桃は一体誰に殺されたのか?
犯人はどこに消えたのか?
虎次郎は思考を転換する。
若田部の言っていたストーカー二人。これをあたってみるべきなのだろうか。若田部と会う前なら間違いなく四十万の通っていた大学に足を運んだだろう。
しかし、ためらわれた。
それを若田部に嗅ぎ付けられたらどうなる?
きっと、どうにもならない。
もしも証拠を揃え、虎次郎が犯人を見つけてどうする?
きっと、何もできない。
それが個人の弱さだ。
チームで戦っているーー
若田部の強調していた言葉がここにきて胸に突き刺さった。それは絶対に自然に抜けないだろうという強い確信があった。
抜けないのならば、どうすればいい?
あえて抜かずに戦いぬくのか。
いかにして抜くのかを懸命に考えるのか。
そんな都合の良い方法など、簡単に見つかるはずもない。
何もかもがこれで終わりなのだろうか。
こうなってみると、何故刑事を辞めたのかさえも疑問に思えてくる。
この三日間、事件と並行してそれも考えていた。公務員である故の苦悩。虎次郎が子供の頃から世間の親は、子供を公務員にさせたいと願い続けている。約三十年間。時代が変わっても、親そのものが変わっても、これだけは変わらない。
それはどうしてなのだろう。
自由が消え、定年までずっと続くレールを、自分が敷いたように見えて、実際は誰かに敷かれたレールの上を、延々と歩き続ける。例えレールの上に石が置かれていようが、左右の木から枝が進路を塞ごうが進まなければならない。分かりきったことなのに、世間はそれを望んでいる。そして公務員でない人たちからは、妬まれる、恨まれる。
人から巻き上げたお金で生活しているのだからーー
レッテルが常に貼られている。
国の制度がそうなっているから、というと、言い訳だと言われる。
しかし、親は子供にそうなってほしいと望む。安定が理由だそうだ。
頑張らなくても、適当に仕事をしていても、お金は貰えるし、潰れることはないーー
その考えが、国を都道府県を市町を滅ぼしているのにどうして気付かないのか。気付いていても、止められないのか。
それもそうだ。人間は誰だって楽をしたい。しかし公務員はそれが許されてはいけない。
チームで戦っている、の本質はここにあるのだろうか。
チーム。
チームとは何だろう。
自由を失った者の集団をチームと呼ぶのだろうか。
個人ではできないことを行う、それをチームと呼ぶのだろうか。
それは団体か。
ならばチームとは何か。目的に向かって役割を決め、同じベクトルで全力投球できる集団。目指すべきところが同じ。
刑事にとっては事件解決にあたるものだ。しかし全員がそのような意識で仕事に取り組んでいない。それは、公務員は楽だから、と親に教わったからではない。世間がそのような教育をしてきたから、でもない。
結局は自分がどうしたいのか。それに尽きる。一人前の大人が、自分の将来の決定権を持つ大人だ。そしてそんな自分を生み出した、作り出したのは、紛れもなく自分自身だ。
淀み切った空から、ポツポツと水滴が落ちてきた。
水滴は鉄柵を跳ね返る。コンクリートの匂いが鼻についた。
しかし、虎次郎はその場を離れられなかった。
猛勉強、そして警察官になるための運動。雨が降ろうが、雪が降ろうが全力で駆け抜けた一年間。決して楽だから、安定してるからなどという理由ではなかった公務員への道。すべては事件解決のため。自分のためなどではなく、ある意味贖罪のような。
幻像だったのだろうか。虎次郎が見ていたものは全てがまやかしだったのだろうか。
静かにリズムを奏でていた雨は、次第に情熱的なダンスを踊るかのように強まってきた。
雨の匂いが鼻腔を刺激する。水分を含んだTシャツがねっとりと身体にまとわりつき、肌との空間を意図的に作る。その空間を生暖かい風が通り抜けていく。
傘をさしながら橋を渡る人たちは皆、怪訝な目で虎次郎を見やる。もっとも虎次郎は彼らに背を向けているので気付いていない。誰も声をかけようとしない。この世のものではないかのような見て見ぬふり。もしや自分だけにしか見えていないのではないかという不安。瞬時に目を逸らす彼らはそんなことを考えているのかもしれない。
虎次郎は往来する車と、信号待ちをする電車をぼんやりと見ていた。
これまで幾度となく見てきた光景がやけに新鮮だった。自分が変わればこんなにも見え方は違ってくるのかと思った。
そうか、これが一人か。
いくら生活が便利になっても、雨を避ける手段が傘から進歩しない理由が分かった気がした。雨に濡れないと気付かないことが沢山ある。
耳を澄まして雨の落ちる音だけを感じとる。楽し気に歌っている。雨も一人じゃない。様々な粒が、一つとして欠けると別の音になる。今、この瞬間に降る雨が奏でる音は、唯一無二だ。
これもまた、チームの成果といえるのだ。
周囲を太陽が沈んだ色をした空が包み始めたころ、ようやく雨が音を止めた。
虎次郎はその最後の一音を確かに聴いた。音楽は全く分からなかったが、盛大なクラシックを聴いた後はこんな気分になるのだろうなと思った。
頬を濡らしているのは雨か涙か、もはや判らなかった。
それから何時間もずっと同じ体勢で逢坂山を見ていた。京都が日本の中心にあった頃、華々しい生活を夢見て、この山に呑まれた人間はどれくらいいるのだろう。
この場所に来れば、いつも同じことを考える。
そして自分のちっぽけさに気付かされ、元気と答えをもらうのだ。
しかし今日はまだ答えはもらえていない。
いや、もらうなどと、そんなおこがましさはない。
何のないまま時間だけが過ぎる。
家族は誰も心配しない。一週間くらい黙って家を空けたところで何も言われないだろう。どこにいるの? くらいは訊いてくるだろうが、答えたらそれで終わりだ。
それが大人だ。自分のことは自分でやる。それが奏家の方針だ。放任主義と言ってしまえばそれまでだが、それでも二人とも立派に成人した。二人とも一人で暮らせるだけの財力もある。ただ、職場が近いというだけで実家に住んでいるだけだ。
実際家にいてもあまり会話することもないので、一人で生きているといっても過言ではない。
どうも本当に答えが欲しい問題だけを考えることができない。
何故この場所に来たのか。
その答えが知りたかったのではなかったか。
違う。
これからどうしていけばいいのか。
その答えが欲しかったのだ。
雨が刑事だった自分の過去を、これまでの自分を洗い流してくれることを期待して雨に打たれていたのではないのか。雨に打たれないと分からないこともあるというのは、単なる正当化ではないのか。
一人で事件解決に向かうのか。
不可能だ。
その答えに反論が見つからずにいた。見つけられない自分に苛立ちもした。
警察に戻るのか。
いや、それはあり得ない。多すぎる制約の中で事件を解決する辛抱さがないことは分かった。というより、事件解決の目的への最短ルートではないと思ったから辞めたのだ。
若田部の指摘。ひょっとしてその考えは間違っていたのではないか。刑事が目的達成には最適だったのではないか。
探偵はどうか。
探偵も個人だ。チームではない。個人がチームに勝てるはずもない。
瞬間、彼の頭の片隅、それも見えるか見えないかの際で何かが光ったような気がした。命を失う前の蛍が発するような光。瞬きよりも短い間にそれは消えた。
何かがつかめそうだ、と思ったその時、聞き覚えのある声が、後ろからした。
「君の言う通りだったな」
バスボイスが周囲を包む。この一週間で聴いた音の中で最も低かった。
「終電、無くなったぞ。この見返りは、ラーメン五十杯は固いな」
その後ろからボサボサの髪の女性が顔をひょこっと出した。
「LINEスルーするってどうなってるのよ」
怒っているような、泣いているような口調だった。
「この責任は忘年会の幹事だけでは済まないからね」
彼の背後にある『鈴花』に焦点を合わせて彼女は言った。
虎次郎は全身の毛が逆立つのを感じた。次にこれまで経験したことのない痛みが、身体の奥底に染み込んできた。形でいえば、丸い痛みだった。優しく撫でられているのに襲ってくる痛み。心地よいはずなのに、痛い。痛いからーー
「どうしたコジロー、液体が眼球から漏れてるぞ」
「ちょっと……寿至、やめなよ」
そういう彼女の目からも漏れていた。
そうか、これは痛みではない。
嬉しいからだ。
彼は生まれて初めて、嬉し涙を流していた。




