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八月の初日。虎次郎は京都タワー内の喫茶店で人を待っていた。
ブラックのアイスコーヒーを一口啜り、まだ自分は子供ではないかと思わされた。コーヒー自体の味をまだ感じることができないし、ブラックで飲める人の気が知れない。眠気覚ましになる、と言われても冗談だろう、と思ってしまう。カフェインの効果が表れるのは三十分後らしいが、一時間後だろうが二時間後だろうが目は覚めてこない。むしろ顔を洗えば一発だ。
子供の頃から味覚が全然変わらない。ずっとハンバーガーが好きだし、ずっとピーマンが嫌いだ。周囲には食べられなかったものが食べられるようになった、好きだった食べ物が嫌いになったという話をよく聞く。それは当然のことであるらしい。
年齢を重ねるにつれ、味を感知するセンサーの精度が悪くなっていくらしい。敏感ではなくなるがゆえに、また、慣れのために、味覚が変化するとのことだ。これもやはり、大学の友人、鳥谷寿至からの情報だ。
そんなことを考えている内に約束の時間から五分が過ぎた。
虎次郎が京都県警の若田部恭介警視正に電話で連絡をとったのが昨夜である。事件に関する情報を得るには、担当している刑事から聞くのが正確で最も手っ取り早い。事件の真相に向かって彼と競争したいという気持ちは、啖呵を切ったあの時は、少なくともあったのだが、彼の役職や、虎次郎の現状から考えて到底勝てるとは思えない。
こうなれば臆面もなく、事件解決に向けて最善の策をとる。指向性という一点において、彼は突出しているが、彼自身まだ把握できていない。
当然彼はこの時点で、かつての同僚、水雲鶴の忠告など忘れていた。
「お待ちどうさんです。遅れて申し訳ない」
事件当日とは異なりアロハシャツで若田部は登場した。
「すみません。お時間とらせていただいて」
前夜の電話では、事件の情報を交換したい、と言っていた。無論虎次郎の持つ情報など、若田部にとってみれば既知だろうが。若田部ももちろん承知のはずだが、彼の頼みを受け容れてくれた。
お互いに譲り合いながら腰を下ろし、若田部はエスプレッソを注文した。
どう切り出そうかと迷っていると、若田部から声をかけてきた。
「で、どちらからいきますか?」
朝食は味噌汁からか白米からかを尋ねるかのような柔らかい口調だった。
事件から一週間。事件の進展を最も案じている男とは思えない。
勤務時間中だろうが、まったく刑事だと思わせない。やはり先輩である水雲に似ているなと感じた。
しかし消えない眉間の皺が二人を大きく隔てているように思った。二十代ともとれる若々しい顔立ちだが、太い溝は張り付いたようになっていて薄れることもない。
「じゃあ、麻薬取引組織の幹部、芦田渋殺人事件からお願いします」
虎次郎が、します、を言い終わるや否や、彼は話し出した。
「芦田渋という男は、我々、いや、正確には警視庁が張っていたホシです。つまり関東、東京を拠点としていた男です。後の事件のせいで、それすら報道されてないんですが……。どうして京都にいたのか、実はこれがはっきりしてません。ですからその、麻薬関係から犯人を予想するのは難しそうです。最近また特に芸能人の麻薬の話題がメディアを賑わせていますが、そちらはですね、簡単に捜査は進むと言いますか、分かりやすいんですね、彼らは。すぐに麻薬ルートを話しますから。しかし、影響力というか、芸能人や事務所の力というのは少なからず働きます。ほんまに奴らは暴力団ですよ」
ここで一旦話を切り、店員からエスプレッソを受け取った。幼顔と釣り合わないゴツゴツした男らしい手が、カップを口元へと運ぶ。
ここまでの彼の話は虎次郎にとっては意外だった。犯人の目星はとうについており、すぐに捕まるのではないかと思っていたからだ。
結果的に彼もマスコミに流されていたのかもしれない。
「ここから捜査結果と、私の意見が混ざりますが」
そう前置きして若田部は一つ咳払いをした。
「結論として、無関係に見える二つの事件はつながっていると考えます」
虎次郎はドキリとした。心の中を見透かすという超能力を持っているのではないかと訝ったほどだ。
「それは、どういうことですか?」
喉の渇きに耐えられず、我慢してブラックコーヒーを流し込みながら訊いた。
「根拠はありません。単なる私の直感といってしまえばそれまでです。しかし」
若田部は間を空ける。
「私の勘がこれまで外れたことはありません」
本当だろうか?
一瞬でもそう思った自分を虎次郎は恥じた。
この若田部恭介という男はパーフェクトであの国家試験を突破したのだ。公安に関する特採にも引っ掛かったという噂さえある。
そしてこの若さ、この風貌、既に警視正という立場。不可能と思えることを成し遂げてきた男だ。充分にあり得る話だ。こう聞いてしまっては、自分の直感が若田部と同じだったことに喜ばざるを得ない。それくらい立場が違う。
一方で、しかし、と考えている虎次郎もいた。
事件に関しては、対等であるはずである。「真実」が一つしかなく、若田部も虎次郎も「真実」にはたどり着けていない。いくら百パーセント勘が当たると言っても、証拠を揃えない限り、それが「真実」だと決まったわけではない。一つの椅子を大勢で奪い合う椅子取りゲームだ、と彼は想像していた。
「すみませんが、そこまでの道筋を教えていただけませんか?」
「そのためには、二つ目の事件、世間では京都自動車暴走事故などと呼ばれていますが、こちらの説明をさせていただきたい」
虎次郎は首肯と目配せで続きを促した。
「分かりました。あの事件、まあ奏さんも知ってらっしゃると思いますが、事故ではなく事件です。そして犯人は車の中から消えました。おっと、私としたことが変な言葉を使ってしまった……、運転席から姿をくらましました。当然、まだ捕まっていません」
まずは世間一般でも知られているであろう情報が伝えられた。ここから若田部の声量は五分の一程度に絞られた。
「被疑者は、二人います。二人とも、被害者である四十万胡桃と同じ大学に通っている、そう、大学生です。そして同期生の証言によればですが……端的にいうと、彼らはストーカーまがいのことをしていたそうです」
「ストーカーですか。ない話ではなさそうですが、珍しいですね」
「ええ、まあなんというか、ちょっと信じられないところではあるのですが」
「どういうことですか? 二人もいたというところは確かに引っかかりますが」
「まさにそこ、なんですね」
なかなか本題に入ろうとしない若田部を不思議に思いながらも沈黙で先を促す。
私が言っていいのかわからないですが、と前置きして若田部は続けた。
「四十万胡桃のような容姿の女性にストーカーがつきまとっていた、というのは考えにくいというのが京都府警では一般的な考え方です」
京都府警の名前が出されたものの、彼の主観もかなり入っているだろうことは明らかだった。虎次郎は血だまりの中にあった彼女の遺体を思い出す。血は大量に流れ出ていたものの、四肢が切断されていたわけではなく、人としての形を保っていた。まじまじと見たわけではないが、驚きと寂しさが混じった表情で停止していた彼女の生前の顔を想像するのは難しかった。
「被害者の交際についてはどうなっていたのですか?」
「異性の影は全くありませんね。というのも、彼女の交友関係もそれほど多くなくてですね。大学でよくある、いわゆる仲良しグループってのにも属してなかったようです。全部のグループに属している、と言い換えることもできるかもしれないですが。友人との付き合いは、広く浅く、というよりは、とにかく広く、というのがモットーだったようです」
「なるほど」
虎次郎自身を振り返って、大学生活の大半を寿至と一緒に過ごしたと思い返した。研究室も寿至と同じになったが、さすがにその頃からは寿至を交えて複数人で昼食をとったり、酒を飲みに出かけたものだったが。
四十万胡桃は京都府内の大学の経済学部経済学科に通う二回生。
メディアからの情報では、両親が彼女が幼き頃に他界し、それから祖父母に引き取られ京都に移り住んだという。彼女の生まれは埼玉県さいたま市。当時は浦和市だった。
彼女が高校二年の夏、祖父が亡くなり、それからは祖母の手によって育てられた。その祖母も今は寝たきりになっており、府内の総合病院に入院中であるという。
「私は工学部出身なので、あまり分からないのですが、経済学部って男の方が多いのですか?」
「大学によりますが、大まかに六対四ぐらいですかね。仮に高校生全員が大学に進学するとなれば五分五分になるという計算ですね」
一瞬意味が分からなかったが、気づいたとき、ああ、と声を漏らしていた。虎次郎の通っていた高校もそうだった。短大や専門学校に進む学生は男よりも女の方が多い。現に友人である東後円香も最後まで四年制大学か短大かで迷っていた。それは将来の仕事、というよりもその時点での経済状況を考慮してのことだった。したがって大学進学率が百パーセントになれば、経済学部に入学する学生の男女比は一対一になる、ということだろう、どこからはじき出した数字かは知らないが。
「では、被疑者のお名前を……」
「いえ、それは出来ません」
虎次郎が言い終わらないうちに若田部は制した。
「さすがの私でも教えられないですよ、他県の刑事には。というより私が奏さんの立場なら自分で調べようと思いますがね。所詮人に聴いたことは人に聴いたこと、ですから」
「確かにそうですね。すみません、配慮が足りていませんでした」
虎次郎は非礼を詫びた。
「まあ、二人とも被害者と同じ学部だったとだけはお伝えしておきましょう。過労を防ぐという意味でもね。私だって早くこの事件を解決したいですし」
最後の方はかなり語気が強められていた。しかし若田部の醸し出す雰囲気と、その言葉にギャップを感じるのはなぜだろう、と不思議に思った。
「ではそろそろ本題に……」
「ああ、すみません。逸れてましたね、話が」
若田部はカプチーノで喉を潤した。
「どうしてこの二つの事件がつながっていると考えているか。最初にも言いましたようにやはり直感というのが答えで、証拠なんて何もないんですよ。ただ、その証拠をつかむ、という行為は人道を踏み外す可能性がある。それは警察官にとっては無理な相談ってやつです。分かりますよね?」
「はい」虎次郎はとりあえず自分のことを棚に上げて相槌を打つ。
「直感は実は事件の概要を聞いた瞬間に降りてきました。もちろんここでの下りてきたというのは比喩と捉えてください。私の事件解決方法はいつもこうなんです。なんとなく、感覚で答えがわかる。そしてその答えの反証ができなければ、それが答えだと。背理法の逆ですね、工学部出身の奏さんにはあえて言うことではないですが」
若田部はここで言葉を切った。
「そして今回もそうなりつつあります。仮にですが、ストーカーの一人が犯人とする。犯人は彼女が三条付近で誰かと待ち合わせをしていることを知った。その相手が、麻薬幹部の芦田渋だった。芦田は犯人と実は知り合いだった。麻薬取引をしていた、ということです。今や学生がクスリを手にするのは簡単な世の中なんです。ああ、これも奏さんには余計でしたね。どういう理由かはともかく、被害者と待ち合わせをしていた芦田を嫉妬心からナイフで刺し殺す。そしてそんな自分の知り合いと待ち合わせをしていた苛立ちから四十万胡桃までも殺そうと考える。芦田が死んでいたことで野次馬が集まってきますが、そんなことは気にならないでしょう。そんなことを気にしていたらストーカーにはなりません。そして自分を失いつつもどこかに転がっていた車を見つけ、彼女に向かって突撃する。我に返り怖くなって逃げた、というシナリオですね」
本当にあくまで一例ですが、と彼は付け加えた。
面白い仮説だな、と虎次郎は思った。確かに筋は通っている。もちろんそのような仮説を立てることなら誰でもできる。しかし、若田部恭介警視正。京都府警の捜査第一課のトップといっても差し支えない。この若さで警視正には普通なれない。その経歴がいやに説得力を持たせている。どこぞの新聞やどこぞのワイドショーで顔を利かせているコメンテーターからの発信だったら鼻で笑っただろう。
いずれにしても虎次郎がこの仮説に興味を持ったことは確かだ。
「その場合、東京を起点に活動している芦田渋がこちらに来ていたのは学生との麻薬取引のためだった、というわけですね?」
「そうです。私が大学に通う頃からも注意喚起されていましたしね。宗教や麻薬の勧誘に対しての。まあその時は話半分というか、自分が関わることはない、と思ってましたが、実際に警察になって想像よりも多かったですからね」
「その通りですね」虎次郎は頷く。
「では、その犯人はどうやって車から消えたのでしょうか?」
「それは方法、という意味ですか?」
「すみません、そうです」
若田部は苦笑して答えになってないかもしれないですが、と前置きした。
「それはオブザーバーが見間違えたというか、気づかなかっただけではないでしょうか。たまたま誰も見ていなかった時に犯人が逃げたという可能性ですね。あるいは代役を頼んだか」
「どういうことですか?」
「スタントマンを雇ったとか、マジックを使ったとかそういうことです。人間消失マジックなんてのは盲点をつくことを着目して考えれば結構簡単に思いつくらしいですよ。知り合いのマジシャンが言ってましたね。私にはまったく考え付きませんが」
「そういう方にこの話をしましたか?」
「遠回しになら訊きましたよ。このケースでどうやって消えるか。ただこれを聞くとマジックが楽しめなくなりますね、確実に」
今度は屈託ない笑顔で言う。一気に幼さが増した感じがした。
「是非教えてください」
虎次郎はマジシャンと呼ばれる職種の人と、その手の話をしたことがなかった。
「奏さん、全てのマジックの根幹にあるものって何か分かりますか?」
「器用さ、ですか?」虎次郎は思いついたまま言ってみる。「あとは、騙すという意識」
「惜しいですね、後の答え。これはですね、視線の動き、らしいです」
「視線……」
「そう、視線です。結局は対象者の視線の動きをコントロールすることが、マジックを成功させることにつながるのです。それに気付けば見破ることも簡単だとか。まあ見破ってやろうと思って見るものじゃないですけどね、マジックは。騙されたくて見るものでしょ?」
時折話が脱線してしまう若田部の癖にも慣れてきた。無言でいると勝手に本線に戻ることも学習済みだ。
「この事件の場合で考えると、観察者は皆、車を見ているわけです。となれば車以外のところから何か働きかければ良いことになります。具体的には、車の入れ替え」
「車の……入れ替え」彼は復唱する。
「そうです。観察者がずっと見ていた車は、実際に彼女を轢いていないというケースです」
眉間に皺を寄せている虎次郎に配慮してか、より速度を落として若田部は言った。
虎次郎は色々とシミュレーションをしたがどれもしっくりこない。指向性に優れている分、可能性が多すぎる問題を考えるのは苦手なのだ。
「例えば二台の車が並んでいるとしましょう。前の車には誰も乗っていません。後ろの車に犯人が乗っています。後ろの車の力で前の車を押すんです。観察者は人が乗っている後ろの車を見ていた。しかし、実際に轢いたのは誰も乗っていない前の車だった」
「それだったら絶対に気付くんじゃないですか」
「縦や横に並んでいたなら、そうですね。しかし、上下ならどうですか?」
虎次郎は店の外を見ようと顔を窓に向けた。奥まった席なのでミニカーくらいの大きさではあったが、駅前道路を車が徐行しているのが見えた。
「上下……あのピンクの軽自動車が上に載ってたってことですか? 車の?」
「違いますよ、というか冗談です」若田部はいたずらっ子のような表情を作る。虎次郎はふとこの表情は刑事として便利だろうな、と思った。
「時間差があった、ということですね。あの後で波須川さんに聞いたんですが、奏さん事故前の軽自動車をご覧になっていたそうで。そしてあの車は視界から消え、事故を起こした、と」
虎次郎は黙って首を縦に振る。
「その車と事故を起こした車が同じものだという証言ができますか?」
「できます」虎次郎は断言した。「ナンバーが同じでした」
「さすがの観察力ですね、感心します。ただ、そのナンバーも揃ったものが二台用意されていたとしたら、どういうことが考えられますか?」
着々と若田部のペースに乗せられているな、と思えてきた。
「いやあ……そういうことですか」
「分かりましたか?」
「つまり私が見た車は、どこかの角で曲がり、それとまったく同じ車が別の場所から発進して被害者を轢いた、と」
「そうです。補足すると、奏さんが見た速度変化や耳にされたクラクションの音は、意図的に鳴らされたものです。ちゃんと人が乗っているぞ、というアピールですね」
「なるほど、それはあり得ますね」
現場で舟木刑事に話していた内容を思い出しながら言った。
「誰も乗っていない車を一定の速度で運転しているようにするのは簡単です。ただ何かでアクセルを踏む、あるいは同義のことをすればいいだけですから。……」
先の若田部の言葉がどこかに引っかかっていたせいで、せっかくのトリック説明をちゃんと理解できなかった。
「すみません」と若田部を制し虎次郎は言った。
「さっきの話ですけど、私だけに見せるつもりだったようになりませんか? 若田部さんが言われたストーカー犯人説からみると、ちょっと考えにくいですけど。どうも計画的すぎて」
「おっしゃる通りです。マジックですからね、当然事前準備が必要です。つまり、先ほど私が言った説とは反します。それに」
若田部はアロハシャツの内ポケットから写真を取り出した。虎次郎は内ポケットがあったことに驚いたが、若田部が話し始めたので思考を切り替えた。
「これが、被害者をはねた軽自動車です。何度も調べてこの軽自動車はいたって普通のものでした。こういうケースですからね、より綿密に、はるかに車検を超えるような、一つ一つのパーツにバラす……まではまだできていないですが、それに近い調査を行いました。当然そんな仕掛けはなかった。だからこれは正解になり得ません」
そう、これこそが刑事の捜査だ、一つ一つ可能性を探っては消し込んでいく。と虎次郎は思い出す。辞めてまだ二日なのに、随分懐かしく感じた。
車には仕掛けがなかったのかーー
とすると、あり得ないだろうと思いつつもあげていた軽自動車の運転手が消えた理由をいくつか削除できる。
若田部に言われるまえから、何かしらのトリックを使ったのではないかと考えていた。例えば運転席の下が開き、道路に開いたマンホールに隠れる説。車の中に自転車がすっぽり入っていて、車が左右に分裂させてそこから逃げる説など。若田部が視線の動きの話をした時、おっと思ったが、百年くらい経たないと技術的に不可能と思える案はあり得ない。
若田部はアイスコーヒーをブラックで飲んでいた。さすがにこの暑さでカプチーノだけとはいかなかったようだ。彼は内ポケットからメモ用紙とペンを取り出した。
そして沈黙が訪れる。虎次郎は今度は自分が話す番なんだなと自覚した。こちらからも情報提供する、と言って呼び出しているのだ。
マジックの種は一つしか披露されていないが、虎次郎のネタ次第ということなのだろう。見合うものがなければ、そこで終わり。沈黙が物語っている気がした。
「芦田の第一発見者は男性らしいですね」
前置き無しで虎次郎は話し出した。若田部なら問題にしないだろうと判断したためだ。
若田部の眉がぴくっと動いた。少し間が空いた。
「……その情報はどこからですか?」
「マイルドリンゴのバイトさんです。思い出したとかなんとかで」
ここでもまた、沈黙。
「……嘘ですね、直感ですが」
虎次郎はやっぱりな、と思った。この男には嘘が通じないようだ。
「はい。若田部さんの真似をしたかっただけです。お気に障ったのなら謝ります」
「どうしてそんな嘘を?」
「いや、その女性、いや、男性が芦田を殺している可能性もあるなと思って」
完全に突飛な思いつきだった。何か理由がないと会話を打ち切る、そのような威圧感があったので咄嗟に出た。
「続けてください」
幸い興味を持ってもらえたようだ。虎次郎は考えながら、論理が破綻しないように丁寧にゆっくりと話した。
「四十万胡桃と共にいた女性……と思われる人物」
新聞には明確に女性と書かれていたが彼の中でどちらか答えは出ていないので、思わず付け加えた。若田部の反応はない。
「便宜上男性と呼びます。彼は芦田と麻薬取引をしていた。ひょんなことから言い争いになって芦田を殺してしまう。彼が路地から出てきてしばらくして、四十万胡桃が芦田を発見。それを見た四十万は気分が悪くなってしまい彼にもたれてしまう。彼はその場をすぐにでも離れたかったが四十万を無視して逃げれば怪しまれることは必至だ。だからしばらく介抱する。それを二人が寄り添っていると勘違いしたストーカーが、車で四十万をはねる。しめたと思った男性はその場をすぐに離れた。どうですか? ああ、そういえば四十万胡桃と一緒にいた子を女の子と証言したショップ店員に会おうと思ったんですが、店自体が閉まっていて会えませんでした」
若田部は上唇を左手の人差し指と中指でつまんでははじいていた。右手はペンをくるくる回している。ペンがカタンと音を立てて指から滑り落ちた。
「なるほど、一考の余地はありますね。男性と仮定するとそういう考えできますね。ストーカー説も後押ししているし、なかなか良いですよ。実際にその子を見た、という有力情報がですね、一人二人なもので、ちょっと無視していたんですよ。ただ、どこかが違う、という気がします。これも直感ですが」
若田部は照れ笑いを浮かべたが彼の直感ほどあてになるものはない。実際に、ああそうなんだろうなと虎次郎も思った。なんせ思いつきで話した内容である。こだわりなど全くない。
「私の考えでもそうですが、時間的な問題はありますよね。芦田が殺されたことを通報されてから軽自動車が突っ込んだという通報までは五分もないんですよ。ストーカーがたまたま無人の、それもナンバーの登録されていない車を偶然みつけるなんて奇跡を起こした後、自分はしっかりと消えるというトリックができるとは思いないんですよね。計画的な事件な気がしてなりません。まあ瞬時に車から消えるトリックを思いつければ別なんですけどね」
確かにそうだ。
二人の、といっても虎次郎のは思いつきだが、考えには欠落している部分がある。
やはり、四十万胡桃殺人事件の犯人がどうやって、どこに消えたか、これがキーになると改めて強く思った。
「ところで奏さん、今日はお休みなんですか?」
若田部に嘘はない。もっとも、想定できた質問なので普通に答える。
「実は私、刑事辞めたんです」
虎次郎はとってつけたような笑顔を貼り付けた。
理由を付け加えるか迷ったが、自分でもまだ整理しきれていない上、キャリアとしては元先輩という立場の、それもかなり上の役職の人に話すのは何か違うと思いやめた。
一方、若田部は想像よりも厳格な表情を作っていた。
「へえ、それでは刑事でもないのに今何をされてるんですか?」
……今……今……。
若田部の言葉を反芻しながら彼は考える。
「探偵……ですね」
一昨日マイルドリンゴで不本意ながら発したことを思い出しつつ言った。
「探偵……ね」
若田部は上唇をはじく例の仕草をしながら何か考えている様子だった。
「あ」
自ら探偵と名乗ったせいか思い出した。
「高校生探偵、京都府警は把握されていますか?」
「……高校生の探偵。知らへんですよ、それは確かな情報源ですか?」
明らかに纏う空気が変わっている。虎次郎はどこかで感じたことがあると思った。
「確かじゃない情報源ってあるんですか?」
じゃない、まで言った時点から若田部は話し出していた。
「ありますよ。あるに決まってるじゃないですか。奏さんはいちいちネットに挙がってる全ての情報に目を通すのですか? まあそうでしょう、探偵ならやりかねない。しかし私は刑事です」私は、のところにアクセントが強く置かれていた。
「一人で戦うか、チームで戦うか、の違いです」
虎次郎は思わず黙りこくった。
「こんなこと言いたくないけどね」
口調、言葉のイントネーション、更には顔つきまでもがガラリと変化した。眉間の皺はくっきりと姿を現し、端正な顔立ちが崩れ、顔面から蒸気が噴き出しているようにみえた。
虎次郎は中学時代に社会の資料集で見た金剛力士像を連想した。
「あなたはもしかすると、こう考えられているかもしれない。『若田部は自分と同じ人種だ。事件が起きればとにかくその事件を解決するためにとことん動く』と。確かに周囲には私をそう理解している人も多いですわ。しかしね、自分のことだけを考えているわけではないということですよ。事件解決に最も必要なのは人です。頭数です。どんな人も私に協力してくれるなら守らないといけない。守る人が増えれば増えるほど私の力になるんですよ。もちろん奏さんも例外ではないですが。ただし、刑事であれば、です」
最後の言葉はかなり語気が強められていた。一瞬も目を逸らそうとしない。断固たる信念がその目に宿っていた。決して逆らえない、逆らってはいけない、有無を言わさぬ漆黒に吸い込まれそうになる。
「申し訳やけど、今後事件のことは一切教えられません」
虎次郎の口からは幾つもの言葉が出ようとしてはフィルターにせき止められていた。何を言っても言い始めてすぐに反論される。若田部という男はもしかするとプログラムで作られた人間ではないかと思えてきた。
神の作ったプログラム。かつて寿至は言っていた。神がプログラムを組んだら、人間は生まれてこない。バグだとか、トロイの木馬だとか、そのレベルの話ではない。前提としてそのような存在を許してはいけない、こう言っていた。
許されない男が目の前にいる。何も言えるはずがない。
「ちょっと考えてみてくださいよ。一般人に情報公開しますか? あなたが犯人で私を殺すことも……。ああ、それは無いですね。失礼」
若田部は言葉だけ謝った。身体は微動だにしない。ずっと虎次郎の目を見つめている。棒読みというのか、台詞めいた話し方は崩れる気配すらない。
「立場が変わったことは最初にいうべきですよ。私が確認しなかったのも悪いですが」
言い出せなかったのだ、言う必要はないと考えていた、というのは完全に言い訳か、若田部という人間を、いや、神の傀儡を完全に見誤っていた。
若田部がもう話すことはないとばかりに立ち上がった。
もう交わす言葉はない。正確には、交わせる言葉は、ない。
無駄なのだ、全てが無駄。
虎次郎の耳に届くか届かないかくらいの声で若田部は何か言った。
それでは、なのか、私はこれで、なのかそういった類の言葉だろうか。
自分はもう、この場にいない。若田部も、自身と話した人間がどうなるのかは把握しているのだろう。振り向くことなく、出入り口に向かっていった。
若田部越しに見える往来する車が、やけにゆっくり見えた。
これまで自分の目に映っていた景色は何だったのか。
立ち去る若田部の背中と、警察を辞めると言って空き地から車に向かっていた自分の背中を想像して比べてみた。後者はなぜか水雲の目から見ていた。
上背はないが、その背中には確固たる正義と、少年のような若々しさが混在していた。




