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黒と黒のコントラスト  作者: じっぴー
第五章
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 もう、一つの事件しか見えなくなっていた。

 奏虎次郎は思考を巡らせながら、自宅へと車を向かわせる。

 山を削って作り出された町。中腹を大蛇のように高速道路や新幹線の線路が横たわっている。蛇の下を一般道が、蜘蛛の巣のごとく各地区へと糸を伸ばしていた。

 その糸は絶対に切れないとばかりにアクセルを噴かせて走る。当然、ペダルを踏む足への意識は無いに等しい。

 糸の先端は住宅地に収束している。敷地規模や建築の質がごくごく標準的な住宅が並ぶ、いわゆる標準住宅地であり、約四十年の歴史がある。

 奏家は山の中腹に位置している。

 現場に向かった時よりも数分早く家に着いた。ガレージに車を停め、いつも通り鍵を開けて中に入った。

 玄関で靴を履いて足をトントンしている兄の無茶士と鉢合わせした。

「うぃーす」

 二人はほぼ同じタイミングで挨拶を交わす。無茶士はジャージ姿だった。おそらくジョギングに出かけるのだろう。虎次郎は兄が具体的にどのような仕事をしているのか知らない。工場勤務とは聞いているが、体力仕事だと想像している。更に昨日は前夜勤ということもあって帰ってくるのも遅かった。

 兄の体力には感服せざるを得ない。虎次郎も体力に自信のある方だが、兄には勝てないと思っていた。だからこそ勉学に力を入れたのだ。結局は警察になった時のために、と二十を過ぎてから体力づくりに励むことになったのだが、いつも無茶士の身体と入れ替われたらいいのにと願っていた。子供に人気のアニメで秘密道具としてそのようなものが出てきていた気がする。

 虎次郎は靴を脱ぎ、すぐ先にある左手の引き戸を開けた。彼の自室である。

 三年前、仕事を辞めると同時に実家に帰ってきた。家族にまるで変化は見られなかったが、大学在学時まで使っていた部屋が、完全に物置になっていたことには驚いた。大阪での一人暮らしが心地よく、年末年始すら実家には帰っていなかったので家の状況を知らなかったということもある。国家試験受験のために家に帰る、と母に伝えた時も「あんたの部屋ないから」の類のことを一言も言われなかった。

 

 現在虎次郎が一人で使っている部屋は、元々客間を想定して作られていた和室である。彼が一人暮らしをする直前までは物置部屋となっていた。したがって二階にあった彼の部屋に、客間にあった物を移した格好である。畳の部屋を自室にすることは初めてだったが、想像よりも温かみがあって過ごしやすいと感じていた。自由に寝転べるのところが良い。

 虎次郎は大きなため息をつきながら扉を閉める。

「どこから考えるべきかなあ」

 誰かと会話するようなボリュームで独り言をもらした。しわがれ声しか出なかったことで初めて猛烈な喉の渇きに気がついた。暑さだけのせいではないだろう。

 仕事を辞めると言ったのは人生二度目だ。

 一度目は完全に前向きな退職だったが、今回も同様のことがいえるのだろうか。虎次郎自身はもちろんそのように捉えているが、一般的にみると違うのかもしれない。

 踵を返し、台所へ入る。前日から冷やされたお茶入りのペットボトルがこちらを見て微笑んでいる。虎次郎は無表情で取り出す。

 夏場は一リットルのペットボトルが二本、冷蔵庫に常在している。彼の取り出したペットボトルは既に残り三分の一ほどになっていた。おそらく母親と先ほどジョギングに出て行った兄の無茶士が飲んだものと思われる。

 彼は四人掛けテーブルの冷蔵庫側に腰をかけた。座るやいなや、ペットボトルに残されたお茶を一気に流し込んだ。

 濃い目のウーロン茶が水にしか感じられないほど、味覚という感覚を捨てて飲むことに専念していたようだった。しかしまだ足りない。

 もう一本のペットボトルを取り出そうとした時、後ろから物音が聞こえた。振り向くと母親の志都子が片手に洗濯物かごを持ち、もう片方の手でドアをキープして首を突き出していた。

「なんや、あんたか。帰ってたんや」

「うん」

「分かってると思うけど、お母さん折り紙の先生やりに行くから、お昼なんとかしいや。あ、そういえばお父さん帰ってくるらしいわ、家で食べはるか分からんけどな。別に一緒にどこか食べに行ってもええんやで」

 志都子はニヤニヤしながら提案してきた。

「そやな」

 虎次郎の返事が意外だったのか、彼女は肩をすくめた。

「ああ、あんた家にいるんやったら洗濯物外に干そ。お母さん留守してる間、雨降らへんか見といてちょうだい」

 もうおばあちゃんと呼ばれて差支えない年齢なのに、まだ自分のことお母さんと呼ぶのかと心の中で苦笑いした。

 虎次郎は新聞のコラムに掲載されていた記事を思い出していた。

 それは人の呼称は場によって決まるという内容だった。その場にいる人の中で最も年齢が若い人に合わせるというものだ。

 例えば六十代の夫婦と三十代の夫婦が同じ場にいたとしよう。六十代夫婦の子供が三十代夫婦の嫁とする。すると六十代の夫婦は、自分たちのことを「お父さん」「お母さん」と呼ぶ。しかしその場に三十代夫婦の子供、六十代夫婦にとっては孫となる五歳の息子が登場すると、自分たちを「おじいちゃん」「おばあちゃん」という呼び方に変わるものだ。

 ちなみに小さな男の子に、「ぼくいくつ?」と話しかけるのも同じ理屈らしい。

 つまり、お母さんという呼称は、虎次郎たちが作り出していたのだ。そしてまだまだこの自称は終わりを迎えそうにない。そう考えて青汁を無理やり飲まされた上でくすぐられたような表情になった。

「え? そんなに嫌? それともどっか行くん?」

「ああ、ごめん、こっちの話。無視しといて」虎次郎は咄嗟に顔の前で手を横に振る。

「こっちの話て……お母さんとしか喋ってへんやん」志都子はボソボソと言う。

「そんな時もあるな。まあ洗濯物は見とくから」

「ありがとう」

 感謝の言葉を聞くと虎次郎はコップとペットボトルをテーブルに置いた。そしてコップウに勢いよく注ぎ込んだ。

「で、何か言いたいことあるんと違うの?」

 彼の手はいきなり冬の外に出た時のように震え、およそコップ半分のお茶をこぼした。まだ母親が洗濯物を干しに外に出ていなかったのかと驚いたのもそうであるが、心を読まれたことの方に驚嘆していた。

「うん、まあ……」

 虎次郎ははぐらかそうかと逡巡した。おおらかで何をしても諭すようにものを言う志都子であるが、さすがに既に二度、仕事を辞めたと聞けば怒りを爆発させてくるかもしれない。母に激怒されたことはない虎次郎だったが、案外スイッチは身近にあるのではと思っていた。

 それにしても、と虎次郎は考える。

 母の「直感」がここに来て邪魔をするのかと思った。唯一といっても過言ではない、彼が母親から受け継いだ部分だ。それだけで警察官になれたと言ってもいい。いや逆だ。それがなければ警察官になれなかった。

 ただ、本当に受け継いだのかは彼には分からなかった。なぜなら母のように、突発的に考えが降りてくることなどなかったからだ。悩んで悩んで、時間をかけて考えたあげく、もういいやと諦めて苦し紛れに出した考えが結果的に正解だった、だけのことである。

 思考の流れに、脈絡はほとんどない。その苦し紛れの案というのは、悩んでいたこととは別の場所から浮かんでくるから、「直感」だろうという気がしているだけのことだ。

「そこだけやけど、すごいのは」

「え? どういう意味?」

「ん、いや……」伝えるのが後になるか、今か、それだけしか違わない。家族と完全に縁を切ってしまうことは、まだできない。

「仕事辞めてきたんよね。実は」

 できるだけ暗くならないように、テストで悪い点数を取ってしまった子供が開き直った時の声色を思い出しながら言った。不必要な一種の賭けかもしれなかった。

「別にええやないの。あんたが決めたことなんやったら」

 志都子は何ら普段と変わらない様子で答えた。一驚とは無縁の表情だった。

 一年間の国家試験の勉強時間が無駄になるとか、将来の安定性とか、そんなこと彼女には関係ないのかなと、虎次郎は恭敬の意すら表したくなった。

「それやったらこれからどうするか考えへんとあかんなあ」

「うーん……」

 虎次郎は乗り気でない返事をする。今は、自動車暴走事故以外のことをあまり考えられない。考えたくない。

「お金だって湧いてくるわけとちゃうしなあ。そんな時代じゃないから」

「まあ俺にも考えはあるから、ほっといてくれて大丈夫やで」

「じゃあ仕送りは続けてくれるでいいんやな?」

 彼は実家から仕事場に通うようになってから家に五万円ほど入れていた。国家公務員とはいえまだ二年目ということに加え、近年の給与削減によって収入はそれほど多くはない。しかし彼自身、滅多にお金を使わないので貯まっていっている一方だった。

「うん、なんしかお金あるしね」

「ちょっと。前々から思ってたけど、どうやってお金貯めてるん? 大学の頃からずっとお金持ってるやん」

 志都子は持っていた洗濯物入れを床に下ろし、話し込む姿勢を向けていた。

「それは秘密。まあその言葉そっくりそのまま返すけどな」

 母はそこで黙り込むと、一つ大きなため息をついた。

「あんたどこまで知ってるん?」

「何のこと?」

「いや、もういいわ。とりあえずお母さんが家にいる間に出るんやったら一声かけてな」

「了解」

 半分は志都子との会話を打ち切る為の方便だったが、うまくいったようだ。


 虎次郎はこぼしたお茶を拭き取ると、自室に戻った。

 慌てて家を出たこともあり、布団が出しっぱなしになっていた。床に布団を敷いて寝るのも帰ってきてからだったが、片づけたり敷いたりという生活もとうに慣れていた。

 さて、と独り言をいい、一人暮らしをしている時に購入したビジネスホテルに置かれているようなアイボリー色をした事務机にノートを広げる。先週目の当たりにした京都での自動車事故を考えるためである。職場でも事件のことを調べていたが、当然それらの資料は職場に残していない。仮に残されていたら非常に大きな問題になるだろう。

 事務的な手続きのために、警察庁に行かなければいけないなとは考えていた。もっとも二度と足を踏み入れないであろう領域なので、このまま放っておいても問題ないように思う。

 それは社会人としてどうなのか。

 かつて彼が大学に通っていた時に聞いた台詞だ。顎ひげをふんだんに蓄えた、強面の五十代だった。

 就職活動を始めようとする学生に向けたガイダンスの中で、唾を吐き散らしながら熱弁していた。近頃の若者は、簡単に仕事を辞めようとする。アルバイトと同じ感覚だと。

 それには半分同意だが、半分は間違っていると考えていた。

 人の一生の内、睡眠等の欠かせない時間を除くと大半を仕事が占めている。

 就職先を決める機会が、就職活動時の一度に限られていることを考えると、その場で正しい選択をして、一生その仕事を続けるとなると非常に難しいのではないか。向いているか、向いていなか、その仕事がその人にとってどうなのか。やりたくもない仕事を定年まで続けて、人生それで良かったといえるのだろうか。

 一度の就活が今後四十年間を左右するなど、本当にばかげた話だと思う。更なる自己能力向上や、環境、労働条件を求めて転職する人には優しいが、例えば精神的苦痛を会社から受けるといったネガティブな理由で転職先を探す人には、とても厳しい社会である。虎次郎はそれが被雇用者の増加の要因の一つと考えている。しかし会社側は対策しない。低賃金で雇用すれば、トータルとして会社側にメリットがあると判断しているからだろう。

 また、「多様性」という点では昔とは比較の意味がないくらいになっているし、また逆に技術の進歩によって失われた仕事も多々ある。

 昔は専門性が必要だった仕事の多くが作業に落とし込めるようになり、誰でもできる仕事に変貌した。求められている人材や能力、人数だけでなく性別や人種もガラリと変わった。

 この教授に限ったことではないが、現代社会を理解できていないのか、あるいは思考回路が限定されているのか、自分たちが学生だった頃を基準にものを言うケースが目立つ。

 他にもこの時「辞める理由は、精神的に弱いからだ」とも説いていた。

 このような愚痴めいたものを若者向けのガイダンス、それも、これから社会に出ていく人間にすることは、精神的に弱いと言わないのだろうか。

 自らを大きく見せようとするのは、この世代の人に多いように思う。そろそろ定年を迎える年齢になって初めて気付くのだろう、思い描いていた自分と、周りからの自分への評価に大きな乖離があるところに。だからこそ、自らを正当化して若者に押し付けようとするのだ。深層部分でこんな思いをするのは自分だけじゃ嫌だからお前らも道連れだと思っているのかもしれない。いずれにしてもこういう主張をする人は、上を見ずに下を見る傾向がある。下に強くあたるのは、見下されたくないからに他ならない。

 場への対応力はもとより、求められていることよりも、自己の意見を貫き通す。精神的に強い者のすることではない。


 ここまで思い出して彼は、自らを取り戻した。

 いつもこうだ。真剣に何かを考えようとすると、かつて思っていたけれども言えなかったことが頭の中で展開される。そして思い出されるのは、いつもこのような静かな、ゆったりと流れている時間だった。

 教授から話を聞いた時点では賛成反対の比率は五分五分だったが、「LAWWITH」入社後しばらくすると、ああ、やはり誤った意見だったのだなと強く思った。

 健全な経営をしている会社ほど、代謝が良いように思う。

 天職だと思えるほど、仕事に向いていたという人は意外と少ない。けれどもそういった人達が会社を創っていくことに疑いの余地はない。したがって自分が向いていると思う仕事にどんどん転職すべきではないだろうか。

 職を転々とするのはいけないことで、一つの会社に尽くすべきだという風潮が日本では長年続いてきた。近年ようやくその呪縛から解放されつつあるが、まだ残っている部分も大きい。

 あの教授がその一例だろう。どうしても年齢を重ねると、自らの人生を否定したくないのか、信念を曲げなくなる。物事に対して決めてかかってしまう。

 また片隅に自己が追いやられそうになり、無意識に首を左右に振った。

 中には事件のことを考えている彼もいた。

 しかし、新聞に掲載された記事や、インターネットから得た情報には限りがある。警察からマスコミに伝えられていない情報が山のように眠っているはずだし、そもそも誰もまだ入手していないであろう情報もその山の十倍は眠っているだろう。

 ここから先、調査を進めるなら情報を集めるために行動をするしかない。

 虎次郎は、とりあえず出かけることに決めた。

 有益な情報が得られるところは限られている。虎次郎はそれらを頭の中で整理して、ノートに書き込んでいった。

 十分後、彼は玄関で靴を履いていた。

 下駄箱の上には志都子が折り紙で作った、イルカやクジラといった海の動物。ひまわりや朝顔といった花の数々。夏をモチーフにした作品が飾られている。彼はこれまでまじまじとこれらの作品を見ることがなかったので、その荘厳さに少し驚かされた。

 一度やると決めたら、とことんその道を極める。

 自分が正しいと思う方向に向かって全速力で走り続ける。

 虎次郎にも似た部分がある。

 いつも誰かに注意されて初めて気付く。そのたびに自分を俯瞰で見る大切さを思い知らされるのだ。

 彼はふう、と一息つくと内側から開錠し、丁寧にドアを開けた。


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