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二年前の四月。
僕は蜷川留美子と出会った。
生まれて初めて見る、本当に人間かを疑わざるを得なかった女性だった。
それほどの衝撃を受けた。
毎年行われる新入生歓迎のバーベキューだったことしか覚えていない。おそらく硬式テニスのサークルだったように思う。
今となっては、どうして僕が、そのバーベキューに参加したのか、まったく覚えていない。なぜなら彼女が全てを、消したからだ。
僕の過去や記憶、そして未来でさえも。
代わりに、作り出してくれもした。
いや、元からあったのか。
元からあったとしたら、どうしてずっと隠れていたのだろう。
実際には隠されていたのかもしれない。
この日から、僕の過去や記憶、未来は新しく書き換えられた。ちょっと書き間違えたから消そう、とても軽く、簡単に変わってしまうものだと知った。
惨たらしいという人もいるだろう。
微笑ましいという人もいるだろう。
僕のこの時の感情は、「眩しい」だった。
見えなかったものが蜷川留美子によって照らされて見えるようになり、しかし逆に、見えていたものが、輝かしすぎて見えなくなった。
見えなくなったことに何の不自由も感じなかった。僕以外の人から僕を見れば、幾分不自由だろうなと思われたことだろう。手も足も、口も目も思い通り動かせたし、考えている通りの表現ができた。
漸近と虚脱。
双曲と楕円。
玲瓏。
両方とも、僕のままだった。
すべてが、僕だった。
「どうもはじめまして」
彼女は日に焼けた顔のせいで目立つ白い歯を見せて笑った。
「はじめまして」僕も同じ言葉を返す。
「一つ教えてもらってもいいですか?」
「どうぞ」
「何故ここに来られたのですか?」
僕は返答に窮した。理由はかなり多い。
一つ目は、まだお互いに容姿以外の情報を持っていないのに、質問されたということ。
講演会の質問でさえ、多くの人は、質問の前に自ら名乗る。僕がこの風習を快く思っていないことはこの際どうでもよくて。本日は貴重なお話しをありがとうございました、なんて本心から思ってもみないことをいう、それもどうでもよくて。
二つ目は、質問の内容である。新歓のバーベキューに足を運んだことに理由は必要なのだろうか。それがわからなかった。
そして三つ目。二つ理由を挙げたが、この三つ目が八割近くを占めていた。それはその質問が、核心をついていたからだ。
見抜かれた――
ただ、何故――
口に出したわけでもなく、態度で示したわけでもない。無論これまで見抜かれたことなどない。
しばらく呆然とした後、僕はおもむろに天を仰いだ。
今目の前にいる女性は何者だろうか? たまたま思いついたままの質問を僕にぶつけたのだろうか? そうだとすれば、どうしてそのような質問を?
「どうぞ」と紳士的に返事してしまったがゆえに、何も返事をしないわけにはいかない。この間は不自然に思われただろうが、長くなればなるほどより不思議がられるだろう。
「どうして」緊張で口の中から水分が奪われたせいで、なだらかに言葉が出てこない。
「どうしてですか?」
「どうしてとは?」
「いや、なんでそういう質問をされるのかなと」
「それが、答えというわけね」
僕には何がなんだかわからなかった。会話が成り立っていないことだけは分かる。
「ただ、私の考えを言っておきますね。私が興味を持っているのは、あなたの動機だけです。そう、動機。きっかけです。何故このような行動を取られるのか、それだけです。今後も続けられるおつもりですか? それならば尚更知りたい。それが私の夢。あなたには共感しています。私も、あなたと同じことを考えています」
再び僕は沈黙した。先ほどとは異なり、かなり安心感を持って思考を巡らせることができた。
同類か……
同じ人種であれば、意志を合わせるのに苦労はしないはずだ。それに、相手は僕のことを知りたがっている。ここが山間を流れる川沿いでなければ、騒がしい大学生が周囲を取り囲んでいる状況でなければ、香ばしい匂いを発してくる焼きあがった牛肉がなければ、適した場であるといえるだろう。つまり、そういったことを話すには相応しくない場だといえる。
だからといって、場所を変えるということはしたくない。それではせっかく出向いた意味がなくなってしまう。
「僕の目的は、ギャップの発見にほかなりません。発見というよりは、発覚といった方が正しい表現かもしれませんが。その人が持っていた、無意識に隠そうとしていたものが、自然と明るみに出る。差があればあるほど、僕は喜びを感じるのです。喜び……そうですね、これを幸せ、と呼ぶべきなのでしょうか。ところであなたにとって幸せとは何ですか?」
「あなたはただ、私の質問に答えてくれたら良いのよ」
彼女は即答する。まるで僕がこのタイミングでその疑問を投げかけることがわかっていたかのように。
僕は不思議と腹は立たなかった。むしろ楽しくすらあった。幼少の頃、近所に住む幼馴染の女の子ととの会話に似ていると思った。
そして、また見抜かれたのかとも思った。僕が彼女と対等になろうとしたことを。
「テニスには興味がおありですか?」
彼女はすかさず質問を繰り出す。
「大学生の頃、あ、今もそうでしたね……。漫画で読んだ程度ですよ。興味があるかと訊かれれば……、そうですね、ありますね。僕自身、興味を持たないものはないと想像します。その中で優先度が高いと判断したものから順番に選んでいますね。テニスに関しては、そのようなことを考えたことがありません」
僕は質問の答えになっているかは不安だったが、思った通りの回答をした。
「男性ですか? 女性ですか?」
僕の返答に本当に興味を持っているのだろうか。一切反応を見せず、質問が次々に飛躍する。
質問の意図は図りかねるし、それだけ聞いただけでは何のことか分からないようなザックリとした訊き方だったが、これまでの彼女とのやりとりを思い出して、
「両方ありますが……、やはり女性ではないでしょうか。自分にないものを持っている。それだけで十分に理由に値すると思います。他には、平均的に頭が良くないというところですかね。周りが見えないのか、はたまた周りを見ようとしていないのか。いずれにせよ世界の中心に自分を置いているケースが散見される。男性では、なかなか見られない現象です。男性はどちらかといえば、拠り所とするものを中心に置く傾向にある。それに依存しすぎるというか、頼りにしすぎるがゆえの失敗は多いけど、それは見ていてとても可愛らしい。対して女性は、その状況を自らが生み出したと思っている。これは良くない。その点からも女性の方が頭が良くないと思ってしまうわけですよ」
「血液型は何型ですか?」
「え……? О型ですね。もちろん……両方の意味です」
完全に相手のペースに巻き込まれている。これまでの経験上、わざと巻き込まれにいくことはあっても、自分の意志とは違うところで巻き込まれるようなことはなかった。台風の進路がわからない時代、急に風や雨足が強まり家が吹き飛んだ。それに近い感覚。
「さすがね」彼女はポツリと言った。
「え?」
「これに触ってみて」
僕はずっと彼女の目を見て話していたので、腕に抱えられたそれに気付くことができなかった。視線を落とし、焦点を合わせる。
それは、古びた熊のぬいぐるみだった。どこかで拾ってきたと言われても信じてしまうだろう。
「これは何ですか?」
「何だと思う?」
「ぬいぐるみです」
「分かっていることを質問しないでほしいんだけど」
僕の専売特許を取られた気がして、思わず噴き出した。
「どうかしました?」
「いえ、近しいものを感じたので」
「それは、私を誘っている?」
「むしろすがっているのかも」
「面白いですね」
「僕も同じ印象を持っています」
「で、これに触ってくれないのですか?」
彼女は水晶のようなまん丸い目を僕に向けた。そらしたくてもそらすことができない。一種の幻惑が使われているのだろうか。
改めてみるとかなり美人だ。年齢は僕と変わらないくらいだろうか。しかし女子高生と言われればまだ通用する気がする。それは肌が黒いことと無関係ではないだろう。日焼けは若い人の専売特許だ。一昔前に流行ったガングロという言葉の発祥者たちは除いて。
僕は無言で頷いていた。
彼女も同じように頷く。
僕はおそるおそる、ぬいぐるみに人差し指でちょんと触れた。
その瞬間、ぬいぐるみの目が動き、僕を見つめたような気がした。
停止。
いや、完全に、ではない。
限りなく停止に近いスローモーション。
すべての動物の呼吸が聞こえてきそうな、
すべての植物の吸水が聞こえてきそうな、
生命活動が止まっているかのような錯覚。
何かが僕から出て
何かが僕に入ってきた。
意思なんてはっきりしたものではないけれど、透明よりははっきり見える。
透明って何だっけ?
色が無いことの定義か、電磁波の散乱が起こらないことか。
存在の拒絶。
存在への憂慮。
それらがもたらした結果なのか。
最悪の結末、それだけは避けなければならない。
次の瞬間、僕が分裂した。
そして、分裂した僕が更に分裂する。際限なく増える僕。
借金システムのモデル図としても見たことのない増幅。
人が数えたことのない数字まで増え続けた後、今度は結合が始まった。
アメーバかスライムか、僕が溶け出し、再構築される。
他ならぬ自分自身だから、より恐怖を増大させる。というより、理解が追い付かない。
やがて僕は二人になった。僕自身を含めれば、三人になる。
二人の僕が僕に駆け寄ってくる。
さすがに僕を見すぎたせいか慣れてしまっており、何ら恐怖を感じなかった。
「よろしくお願いします」
三人の僕が同時に口を開いた。驚くべきことに、僕自身も無意識に言葉を発していたらしい。
これは夢か、幻か。
否、現実。
引き戻されたような感覚。
もう熊のぬいぐるみは手元から消えていた。今となっては本当にぬいぐるみに触ったのかすら怪しい。
「……今のは?」僕は困惑したまま、率直な思いをぶつけた。
「やっぱり成功したようね。じきに分かるわ」
彼女は白い歯を見せ、無邪気な表情を僕に向けた。
「説明するほど、私は野暮な人間じゃないの」
野暮ってそういう使い方するのだったろうか、まだ頭がぼーっとしている。
僕が蜷川留美子という名を知ったのは、このできごとの一週間後のことだった。
彼女が僕の実家まで押しかけてきたのだ。
その時に一度だけ、その名を名乗った。
以来、彼女の口から一度も、その名を聞くことはなかった。




