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黒と黒のコントラスト  作者: じっぴー
第四章
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 僕は線路の上を歩いている。

 文字通り、電車が走る線路であり、昔どこまでも続くと歌った、あの線路である。機関車に顔のついたかなり奇妙な筐体を運んでいたのも、この線路である。ヘンリーとゴードンが好きだったような気がする。

 これまでこの鉄のレールの上を、僕と同じように歩いた人はいなかっただろう。

 線路の幅が路線によって異なる、ということを知ったときは衝撃だった。

 僕はいつもチンチン電車と呼ばれる路面電車の代わりに、同じ線路に新幹線が走る日を夢に見ていたからだ。寝ている時に、夢に出てきたこともある。

 夢の中の僕は、大学生になっていた。しかし声変わりはしておらず、鉄琴のように自由に高い音が出せた。

 家の庭先まで続いてきた線路に、堂々と新幹線が乗り込んできていた。背丈も横幅もワゴン車程度で、実物と比較するとかなり小さかった。

 大学に遅れるからと、臨時で庭に停まるように取り図ったのだ

 僕は羨望の眼差しで、白と青で彩られた車体を眺めていた。

 残念ながらここまでしか覚えていない。果たして遅刻することなく大学の講義に間に合ったのかはわからない。もっとも講義がどのような形式で行われ、授業の出席をどのようにカウントしているのかを知らない当時の僕には、そんなに細かいところまで再現できていたとは思えないのだけれども。

 確か夢を見たのは小学一年生の頃で、その頃は夢の内容も、夢の中で感じたことも、実際に体験したことのように鮮明に覚えていた。しかし、時が経つにつれて、どんどん靄がかかっていくような、ゆるやかに視界に入らなくなっていった。

 最近は夢を見なくなった。代わりに見たくもない現実が多く目に入るようになっていった。

 それは単に睡眠時間が当時よりも半分以下になったとか、そういう理由だけではないとこは間違いないだろう。

 その当時から、ずっと疑問に感じていることがいくつかある。

 まだ一つも答えは出ていない。

 例えば、どうして電車は急に止まれないのだろうか、ということ。

 現代の新幹線を例に出してみると、いくらブレーキの性能が向上したとはいえ、制動距離は四キロメートルに及ぶ。これでは何のためにブレーキがついているのかと思える。

 おそらく目的に、線路内に立ち入った人や動物、車などを守ることが含まれていないのだろう。

 もしも本気で守りたいのであれば、車輪に爆破装置でも仕掛けておいて、いざいというときに爆発させればよい。そうすれば惰性のみで動くことになり、制動距離を短くすることが可能だろう。しかしこれだけでは目的を達成できるはずもない。そこで脱輪した所に大量の接着剤を塗布しておくか、あるいは爆破と同時に超強力な瞬間接着剤を車体前方に噴き出すようにしておけば更に効果があるだろう。

 また逆にブレーキをつけずに、ジャンプして飛び越えるのも一つの手ではないかと思う。

 しかし現実にそれらの案は採用されない。なぜならコストがかかりすぎるからだ。お金をかけなければ逆に乗員や乗客の命が危険になるだろう。

 人の命はお金には変えられないとよく言われるけれども、結局はお金のほうが大事なのだ。それが、安全リスクアセスメントの本質である。頻度と被害状況。それらを鑑みるとはいえ、結果的にコストが合わなければその仕事が断念されるケースが往々にしてある。彼らは命よりもお金が大事だと主張しているのである。

 安全第一を掲げている会社で、これまで何人が命を落としてきたのだろう。

 安全第一と看板が掲げられた高速道路で、これまでいくつ事故が起きたのだろう。

 つまり誰一人、自分のこととして考えていないのである。当事者になって初めて気がつき、絶望し、そして声を荒げる。「ずっと事故が起きると思っていたんだ」こんなことまで言ってしまう。

 百聞は一見に如かず、というけれども、百見は一験に如かず、この表現が最も適当であるように思う。一験というのは僕の考えた、一体験の略語である。見と験が同じ「けん」という読みなので、言葉にすると難解であるが、そこが面白いのだと自負している。

 いずれにせよここまで命がないがしろにされている社会で、命を守れと主張され続けるこの社会で、僕たちはどのように生きていけば良いのだろうか。

 誰に命を狙われているかわからない社会。

 映画などで、殺人鬼に追われている作品が多々見受けられるが、あんなものは対象が明確な分、安心感がある。

 常に人は命を狙われているのだ。逆に自分も常に誰かの命を狙っている。

 ややもすると、僕が小学生の頃から抱いている疑問の一つ、人を殺すことは、どうしていけないこととされているのだろうか?

 人を殺してはいけないのだろうか?

 前者への回答は言わずもがな、後者への回答は「ノー」である。

 当然だ。

 誰しもが遠回りにも人を殺しているのに、殺してはいけないというのは道理に反する。無論ここでの人を殺してはいけない、というのは、「自らの意志で」という前置きがあってこそ、ということは理解している。

 それならば、と僕は思う。

 どうしてその前置きを省略して伝えるのだろう。最も重要であると思われる部分を省略するのはなぜなのだろう。

 だがその前置きがあったところで、結論に変わりはない。

 それは、殺人が意図的に横行されているからにほかならない。死と殺人はつながっており、切っても切り離すことはできない。

 一人死ねば、少なくとも一人殺人者は生まれる。

 どうして人が死ぬか? それは、生まれてきたからだ。

 両親は、殺人者といえるだろう。既にその時には殺人者は亡くなっているかもしれないけれども。少なくとも僕の母は五人殺している。父はそれ以上かもしれない。

 しかし罪には問われていない。

 うまく逃げおおせているだけだ。

 僕は、人を殺した。狭い意味では、意図的にといって差し支えないだろう。しかしやはり、大きな問題ではない。

 みんな、人を殺している。それも、意図的に殺している。

 何がいけないのだろう?

 どうして人を殺したら、その行為が罪となり、その罪を償わなければならないのだろう?

 それが僕にはわからない。誰に聞いても答えてくれない。正しくは、納得できる答えがもらえない、であるが。

 たいていの大人は、決まりだから、法律で決まっているから、自分に返ってくるから、家族が迷惑するから、という、他者から強要された世間体を気にしての意見しか持っていない。

 僕はそのような他人に与えられた、自分がこう言われて育ったのだから、あなたも同じこと言われたら納得するでしょう、という考えで言われると、その瞬間話を打ち切ってしまう。もちろん相手はまだ話し続けているというケースがほとんどだ。しかし僕の脳では、別の処理に労力を費やしている。

 また、一部の大人は自分で考えなさいと言う。

 考えた結果が、あなたを殺すことでした、となれば、あなたは何て言うだろう?

 じゃあ、私を殺してください、と言えるのだろうか?

 納得してもらえるのだろうか?

 向こうから電車が来た。

 僕はレールに何かいたずらをしようかと考えた。だが、結局はやめることにした。

 電車を脱線させようと思えば、僕がレールに身体を預けるのが一番手っ取り早いだろう。けれど、それでは僕が死んでしまう。

 他人からは単なる自殺にしか見えないだろうが、僕にしてみれば殺されたとしか思えない。

 この世に自殺なんて言葉は存在しない。

 殺されている。

 必ず誰かに、殺されている。

 殺したのは、自分ではない。他者だ。

 電車から、ラッパを耳につけられたような大きな音が聞こえた。

 振動だ。音の大きさは振幅によって決まると習った。どうやら正しかったようだ。

 ブレーキの音は聞こえない。

 車体が、顔がどんどん大きくなる。

 人の顔ではないだけ幾分ましだ。

 レールから逃れられない電車。かわいそうな電車とその車体。

 僕の頬に冷たい何かが筋を引いた。

 瞬間僕の身体は何かに引っ張られるかのように右に反転した。

 ぐらりと世界が回る。

 回っている。

 輪廻だ。

 電車がすぐ目の前を過ぎていく。

 筐体と僕の隙間は五十センチもなかった。 


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