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車を走らせて十分足らずで現場に到着した。車を現場から五十メートルほど離れた空き地に回す。既に捜査で使用する車とパトカーが一台ずつ停まっていた。
鑑識の萩野と、水雲の同期と名乗った男、更に二人の男が顔をしかめながら何かを話している。空き地に入った虎次郎の車を認め、萩野がニカッとした顔をこちらに向けて最敬礼した。
パトカーの隣に車体を滑り込ませ、暑さがこもらないように手が入らない程度にウインドウを開けてから外に出た。既に元気な太陽はこちらの気持ちを晴らそうとしているのか、猛烈に地面を照らしている。
「ご苦労様。まだ七時前やで。塚崎さん何考えてはるんやろなあ」萩野は再び最敬礼して言った。行動と口調が揃っていないことがおかしかった。
萩野たちも何も聞かされずに呼ばれたのだろうか。
「お疲れ様です。鑑識の方々も急遽呼び出されたんですか?」
「そう、ゴリちゃんが今日当直やったんやけどな、朝っぱらから元気な声で起こされたわ。俺ぐらいの年齢やったらゆうに起きてる時間やと思ったんやと。目覚まし鳴っても全然起きひんじいさんもおるっちゅう話やんなあ」
萩野は満面の笑みで、ゴリちゃんであろう人物にチラチラ視線を送りながら言った。ゴリちゃんは三食ちゃんと食べてるのか訊きたくなるほど痩せていた。警察として多少心配にはなるが、そのような人が少ないわけではない。特に鑑識課で研究所に籠って各地から集められた証拠品と格闘している人に多いように思う。
「奏君も、その口ぶりやといきなり呼ばれた様子やなあ」萩野は続ける。
「そうですね。ちなみにこれまでも現場に集合ってあったんですか?」
「ああ、まだ二年目やったなあ。そら知るわけないか。覚えてるだけで五回はあるかなあ。ま、全部塚崎さんなんやけど。というか塚崎さん以外では……無いんと違うかいな」
萩野は大きく息を吐いた。
あの事件の時もですか、と訊こうか迷ったがやめておいた。
「察してるとは思うけど、良い話が聞けた試しはないから期待しいひん方がいいで」
虎次郎は苦笑いを浮かべた。「はい、それは……なんとなく……」
「お、そうこうしてるとお出ましみたいやな」
雑談をしていた萩野以外の三人は一斉に居直った。パトカー二台と乗用車一台が余裕を感じさせる運転で空き地に入ってきた。虎次郎の普通車と合わせて六台となり、無作為に駐車していると全台が停められないくらいに空き地が埋まった。
遺体が発見されてから一週間。日々鑑識課から情報を受け取ってはいたが、岬結良の死亡時期は半年前の二月という見解に変わりはなかった。遺体は一部が白骨化していた。厳密には、左上腕部と両足の脛部、更には顔面の左半分であった。先日、一部、という所がおかしいという話を水雲警部した。虎次郎は知らなかったが夏場ならば短くて二週間ほどで全身が白骨化するとのことだった。
遺体は冬用のダウンジャケットを着ていたので、一見するとバイパス下の草むらに半年間放置されたようにみえるが、果たして本当だろうか?
「おはよう」
水雲はパトカーの後部座席からゆっくり降りると、間の抜けた通常モードの話し方で挨拶した。とても声が小さい。確か今日水雲は非番であり、出勤しない予定となっていたはずだ。いつもの水雲であれば、この時間に署内にいてもおかしくない。したがってこれまで朝に弱いというイメージは無かった。
「おはようございます」
鑑識の四人が虎次郎の二メートルほど後ろに下がっていたため、必然的に前で出迎えることになった。
同じパトカーの反対側のドアから塚崎も降りてきた。いつも通りしっかりとネクタイを締め、スーツジャケットを羽織っている。表情は涼しげだが、顔は脂ぎっていた。
続々と事件の関係者が車から降りてくる。県警に来て一年と数ヶ月の虎次郎にとっては、挨拶程度しか交わしたことのない人が大半だった。顔は見たことあるけれど、名前までは覚えられていない。
誰が指揮をとったわけでもないが、テキパキと部署別に整列していた。塚崎は一人列と向き合い、目を細めながら、その列と列の間から顔を出し入れして人数を数えていた。
「えーっと……これで全員ですね。今日この場にお集まりいただいたのは、今後の捜査方針が決定しましたので、その報告をするためであります」
塚崎の顔からはいつもの貼り付けたような笑顔は消えていた。
「まず経緯からお話致しますが……」
改めて事件の概要が、捜査を統括する捜査一課の塚崎朋久警視から説明された。虎次郎はこの一週間、署内にいる時はほとんどこの事件のことを考えていたので、説明の内容が記号のようにしか捉えられなかった。
この歳になって小学生の国語とか道徳の授業を受けたらこんな感じなんだろうな、と思った。
連続する客観的事実の説明。分かりきったことをさも自分が気づいたかのように伝える言い回し。
どうしてだろう、この男の話す一つ一つの声、動作が苛立ちを募らせるのは。
どうしてだろう、無駄なことをするなと言っておきながら、現場まできて捜査状況を逐一読み上げる上司がいるのは。
虎次郎は、直射日光を頭に届けられ、オーバーヒート気味になった状態のせいで、冷静に物事を判断する能力が欠落しているようだと評価した。
「……というのが、現状です。……何か補足ある? 水雲君」
一通り話し終えたところで、塚崎は最前列に並ぶ水雲に話を振った。
「いえ、問題ありません」
少し間を置いて答える。
誰もが、メモは準備していたものの、何も書く必要がなかったというように皆ペンを持つ手を空中に待機させたままだった。ただ全身が焼かれていくのを待っているようだ。ホワイトボードの準備が必要のない事件など存在しないはずなのだが、それでも十分話の内容についていけた。つまり、ほとんど進展はないということだ。こういった塚崎の独演会は、捜査の初期段階で行われるのが多いのかな、と虎次郎は考えた。そうでないとすると、皆がイメージや情報を共有できない可能性が高く、非常に効率が悪くなる。
「そうか。それでは今後の捜査方針について説明する」
それまでほぼ虎次郎が作成した報告書を原稿代わりに読んでいるのか、時折視線を下に落として説明していたが、クイッと首を上げ、コキコキ鳴らしてから話し始めた。
「一部には伝えたが、この事件は自殺として処理することになった」
沈黙。朝から元気な蝉がミンミンうるさい。
「というのも、上位からできれば来週中には方針を決めてくれと言われてるんやな。ま、後一週間あるんやけど早めに出したほうが何かと喜ばれるからなぁ。その一週間で捜査が進むとは思えへんからね。もちろん独断じゃあないから」
いつものように語尾に「どう思う?」がついてこない。ということは水雲警部には相談したのだろう。昨日のあの後だろうか。そうだとすると、塚崎警視の神経の太さに敬意を評さざるをえない。
「で、自殺で進める理由やけど、大きく三つ」塚崎は人差し指、中指、薬指を立て三を表現した。
「まず一つ目、自殺以外だという物的証拠が何一つとして出てきていないこと。被害者の死亡推定時期は今年の二月。……もう半年もまえのことやな。死因は頭蓋骨陥没による脳挫傷。傷の具合から見て、高いところからの落下と思われる。簡単にいうと、これが鑑識から与えられた情報や」話しながらちらりと鑑識課の四人に目をやった。全員がコクンと頷いたように見えた。
「で、実際に倒れてたんが、あそこの草むら」塚崎は張られてから一週間経ち一部が垂れてきているKEEP OUTと書かれたテープの方向を指さした。「上には京滋バイパスが通っている。防風壁があるから大分登りにくくはなってるものの、絶対に不可能とは言い切れない。自殺をしようとする人間は何考えてるか分からへんからなあ。無我夢中で登ったんやろう……」
「え? 本当にそう思われます?」刑事企画課に所属している三十代の刑事が訊いた。既に頭髪の一部が真っ白になっている。童顔であるがゆえ、白くなった髪が余計に違和感を与えていた。
「どういう意味?」
「そのままの意味です」童顔刑事の声は徐々に小さくなっていった。
「そのままって……ちゃんと説明してくれへんかったら分からへんやん。そもそも本当に思ってもないことをこんな、ね、皆の貴重な時間を費やして話すわけないと思わへんか? どう、小山田君?」
「僕には自殺する人、ここでは被害者ですが、彼女があの防風壁を登れるようには思えませんが、本当に登ったと思われますか?」小山田と呼ばれた男はかなりゆっくりと、自らの発言を吟味しながら言った。
「だから」塚崎は少々不機嫌そうな声色で続ける。「そもそもそんな、登れるか登れへんかってことを考えられるような理性のある人間やったら、自殺せえへんでしょ? 違う? それとも何か? 君はこの世に不可能なことがあるって言ってる? それは刑事失格やで。可能性ってのは、絶対にゼロにしたらあかん。その時点で君の負けやわ。事件に対しても、自分に対しても」
童顔の小山田は、顔を真っ赤にして俯いしまった。心なしか白髪が増えたような気がする。
虎次郎は呆れて何も言えなかった。こんな警察官がいることが信じられなかった。いや、これまで信じたくなかったから考えなかっただけかもしれない。
人間は、矛盾だらけの生き物である。矛盾があるからこそ、奥が深くなるのだし、幅が広くなるのだと思う。
しかし数秒の間に同一人物の口から、それもあらゆる人間の人生がかかったこの場面で、矛盾を貫き通す発言ができるとは。なんたる焦燥感。本当の意味での確信犯。一般に誤用される確信犯など、可愛らしいものだ。
当然、信頼は地に落ちた。落葉のようにヒラヒラとではなく、密度の大きな剛体が落下するような速度で。
自殺と決めつけて捜査を進めようとする塚崎。その口から可能性をゼロにするなという言葉。相反するこれらを、彼自身の中でどのように捉えているのだろうか?
きっと何も考えていないのだろう。塚崎自身が、であるが。上司ありき。上司に言われたからこうする。上司に言われたからこうしなければならない。上司に好かれるには、昇進するにはどうすればよいのか。仕事、捜査一課の刑事としては、平たく犯人を捕まえることよりも、出世することを目的として動いているようにみえる。
少なくとも、これまで塚崎を評する意見を聞いた限りではこれは正しいように思う。
虎次郎自身、彼に対して怒りの感情がないのはずっと変わらない。哀れみすら感じる。それと同時に、昨日の夜から考えていた一つの決心が頭を支配しようとしていた。
「念のため言っとくけど、他のみなさんも意見があるときは、しっかりとして根拠を持ったものをお願いしますね」しばらく小山田をねめつけた後、貼り付けたような笑顔に戻り
「次に二つ目。あ、理由としては一つ目がもちろん一番大きいんで、そこはしっかりと理解してください。気を取り直して二つ目。ご存知の通り、我々は滋賀県民の税金をいただいて生活している身です。当然ですが、無駄といわれるようなお金の使い方はしてはいけません。時折公務員が経費を使って旅行出かけたり、まあ色々やってるけど、言語道断ですね。それはみなさん承知されていると思います。何が言いたいかというと経費削減ですね。上位方針の補足説明みたいになってるけど……。まあこれが方針を一つに定める理由で、殺人、自殺、双方から捜査を進めるっていうやり方をするところもありますが、実際それは無駄やと僕は思いますね。それに加える形でというのと、その理由として、僕の経験上ですが、半年前の遺体が見つかって殺人の方向から捜査して解決した試しがないんやね。じゃあそれは無駄でしょうと、そういうことです」
塚崎は少し間を置いた。おそらく周りが自分に追いつくのを待っている。時折こういった間を意図的に彼は作る。
「最後に三つ目」もう一度指を三にして強く前に押し出した。
「岬結良には身寄りの家族や親戚がいなかったということやな」
ここでもかなりの間があった。会話のキャッチボールが三回は往復できる長さだった。
虎次郎には塚崎が続ける言葉が予想できた。水雲は最前列で小刻みに肩を震わせていた。
そうだ、ここから先は言ってはいけない。
刑事として、というよりも人間として、だ。頼むから塚崎さん、これ以上は何も言わないでくれ――
哀れみ。それは一層強くなり、それとは正反対の祈りか、はたまた願う気持ちを引き起こしていた。しかし枯れ木の枝のように、その祈りはぽっきり折られた。
「身寄りがいいひんだけじゃない。施設で育った後は、一人暮らしの会社勤め。その会社でも、特に仲良くしている人がいた節はなかったと。ま……現実として、自殺だろうが他殺だろうが、それを知って何か思う人はいいひんわけやわな。もちろん彼女を知る富永学園の人らの中には結構な数の人が気にされてるようやったけど……。とはいえ、自殺でした、って言って断じて納得できませんなんて人はいいひんはずやし。以上、この三つの理由から、自殺として処理する方向で捜査を進めることにする。何か質問は?」
しばし沈黙。ちょうど蝉は鳴き止んでいた。刑事と一緒に話を聴いているのだろうか。理解が困難なこの話を。
そんな中、鑑識の萩野が口を開いた。
「塚崎さん。正気ですかいな? 他殺やった場合、殺人犯がどこかにうろついてるかもしれんのですよ?」
「じゃあ、何か証拠見つけてくださいよ。何も出してこないじゃないですか。不本意とはいえ、誰も頼ってこうへんかった、周りには誰もいいひん、そんな一人の人間が死んで、自殺以外の証拠は何も出てきてへん。そんなもん……自殺以外で結論付ける方がどうかしてるんと違いますか?」塚崎は早口でまくしたてる。
これを上位者に聞かれたくないからここでやったのか……とようやく現場で行われた理由がわかった気がした。そして、この意見こそが塚崎自身が強く思うことなんだろうなと想像した。
そうでなければわざわざ皆に伝える理由はないし、会議室で行えばよい。
捜査方針の決定はもちろんだが、『今後、わたくし塚崎は類似の事件があった時はこういった考え方で捜査を進めます』という意思表示、宣言と捉えることもできる。『逆らえばどうなるか分かってるでしょうね』という典型的なパワハラが後に続くようにすら思えた。
「あの……」
「ん? どうした、奏君。珍しくキャリアさんのご意見を言いたくなったか?」
塚崎は萩野に向けた勢いそのままの速さで言う。染み付いた笑顔がかなり不気味だった。
「一つだけ質問させてください」
「いいで」
虎次郎は気づかれないように深呼吸をした。それでも充分頭を冷静にするほどの熱量は奪われた。
「この、自殺で進めるという、我々の方針に上位が賛成しなかったらどうしますか?」
できるだけにこやかに、少々高い声で訊いた。
塚崎は脂ぎった顔をハンカチで強く拭きながら、うーんと唸り、
「それはありえへん話やけどなあ……。少なくとも今の警視正が反対することはありえないと、僕は思います。いやあ、まだ奏君は時間が経ってへんからどんな人なんかってことがあんまり分からへんのやろうと想像するけれども……。奏君が出世したい人間かは知らんけど、トップの人を知るっていうのは、一番必要やで、ここだけの話。まあもしもここで上がりたいんやったら、彼の特徴を掴まへんとお話にならへんで」
臆面もなく、満足そうな表情で話す塚崎を見て恥ずかしくないのだろうか、と疑問を持った。もっともここで、自ら言ったことに対して縮こまっているようでは、この立場になっていないと想像されるが。
「いや、別にそういうわけではないんですけどね」
「君はキャリア採用やからここでの評価はあんまり関係ないと思ってる節があるのかもしれへんなあ」瞳の奥でよりどす黒い炎があがったようにみえた。
そんなことはない、散々入庁時の研修でこの配属の意味を、そして、自身のキャリアに対する位置づけかを十二分に教育されている。口を開きかけようとした虎次郎を、ねちっこい声が遮る。
「あんまり詳しいことは知らんのやけど、奏君の年からやったっけ? 警察庁への配属人数もめっちゃ多くなったらしいやん。ということは、今後地方でのし上がるしかなくなるキャリア組も多くなるんやろ? 端的にいえば、仕事できひん奴が増えたって見方もできるからなあ。昔は警察庁なんて、憧れのなかの憧れ。それがほんまに……変な事件が起こってしまったがばっかりに……。あ、話逸れたけど、だからこその、地方でのし上がったノンキャリアからのアドバイスですわ」
「いや、出世は本当にいいんです。なぜなら私、今日で警察辞めますから」
あっけらかんと塚崎の目を見て虎次郎は言った。ほんの一瞬、塚崎の目が泳いだのを彼は見逃さなかった。
「ああ……そうなんや。いや、突然言われてもなあ」
声色から明らかに狼狽しているのが手に取るようにわかる。
虎次郎はずっと塚崎から目を離さなかったが、周りの視線が全部自分に注がれていると思えた。注目されるのはそこまで好きではなかった。しかし今言わなければ、タイミングを逃していただろう。
鑑識の萩野など、数人は身体ごと振り返り、こちらを見ていた。しかし水雲は振り返らない。
「キャリアの人間に対してどう思うかは自由だと思いますし、どうこう言うつもりはないですが……。どうでしょうか、塚崎さんにとってお嫌いなキャリアの部下が、理由はどうあれ辞めたというのが、出世には響きませんか?」
虎次郎は思い切って皮肉をぶつけた。辞めると言ってから一度も目は逸らしていない。
塚崎は顔を真っ赤にして、苦虫をかんだかのような表情を浮かべた。しかしすぐに貼り付けた笑顔に変わり強がりをみせる。
「まあどうとでもなるしええけど。奏君がいなくなることで、辞めさせたっていうイメージはちょっとはつくやろうけど、まあ、奏君自身の口から辞めるって言ったことをここにいる全員が保証するからな。さすがに公務員。皆、嘘はついたらいかんわなあ。そもそも警察官が嘘をつくのはどうかともなるし」
「そうですか」
思わず言葉を失う。呆れを通り過ぎて、虚しい。微小ではあるが、賞賛の意を表したくなってくる。
それは彼の、警察官としての矛盾。社会人としての非道理。
それら以前の問題。人としてどうなのか。
保身。ある程度は仕方ないと思う。誰だって自分が可愛いし、自分を助けたくなる。
ただ、年齢を重ねるにつれて、周りとの関わりが増え、自分以外に目を向ける機会が多くなるにつれ、そういった意識は少しずつ希薄し、内部には一部しかとどまらない。
それが大人だ。寛容になり、許容し、認め合う。
自らの言動に責任が必要だ、などと正直思っていない。ただ、上位に好かれたいがために、自己矛盾を平気で認可できる、その精神が大人として違っているのではないかと思うだけだ。
そういったことを何一つとして、考えられないのだろうか。考えた結果が今の姿なのだろうか。前者なら救いはあるが、後者なら何言うこと、言えることは何も無い。
「変な告げ口とかしませんから、ご心配なく。ただ、何かしらの形で会うかもしれませんので、今後ともよろしくお願いします」
虎次郎は軽い微笑みを浮かべてこうべを垂れた。
「…………」
塚崎は何度も汗を拭った。何かを言おうとしているが、何も言えないようだ。
ずっと蝉は鳴いていない。土曜日の早朝だからか、バイパスの車通りも少ないようで、目立った音は聞こえてこない。本当に静かだ。
これだけの人数の警察官が空き地にいて、これだけシーンとしていたら、何が起こったのかと心配になるだろう。聞く耳立てて、イルカの真似事でもしているのかと、無用な詮索を入れてしまうかもしれない。
「それでは、失礼します」
虎次郎は最敬礼をして、サッと振り返り、車に向かった。
誰も、何も言わない。
変に声をかけられても困るので、とてもありがたかった。
整列場所と、停めている車の中間地点に差し掛かったあたりで、後ろから「それじゃあ我々も解散! 持ち場に戻るように!」という塚崎のはっきりとした声が聞こえた。
塚崎朋久警視。
別れ際にも伝えたように、どこかでまた会うかもしれない。今後の人生のどこかで。
水雲鶴警部にも気づいてほしかった。塚崎の人を鼻で笑うかのような矛盾。
いや、気づいてはいたのだろう。口に出さなかっただけだ。口に出せば、辞めるとはいかなくても、何かしらの負の試練を背負わされることになるだろう。
何のために、この仕事に就いたのか。
虎次郎自身が辞めるという結論に至ったのは、その問に対する回答が、現状、そして予想される未來に対して、埋めきれないギャップがあると考えたからだ。
水雲には家族がある。実家に住み、扶養する家族もいない虎次郎とは置かれた状況が全く異なる。
だから、水雲にとって「警察官」は仕事であり、家族のことを考えると、仮に虎次郎と同じ風に思ったとして辞めることはできない。
あと数歩で車に着くというところで、背後に人が迫ってくる気配を感じ振り向いた。
「颯爽としすぎやで、奏君」
細身の身体に首が埋まってしまうかというほど、肩をすくめて水雲は笑った。
「そう……ですかね」
何と言っていいかわからず、とりあえずの相槌を打つ。
「そうそう、これだけは言わなあかんと思っててな」水雲は突如真剣な表情になり、
「二つ嘘ついててん。僕が滋賀に来たのは家庭の事情やない。あの……事件がきっかけや。もう一つは……僕はキャリアじゃないということやな」
「ああ、そういえばあの時おかしいと思ったんですよ。鑑識の同期の方。確か水雲さんは期待の星、とおっしゃってました。キャリアの人に対しての言葉じゃないなあって。そういうことやったんですね」
「あー……、あの時気づいたか……さすが奏君。あ、一応言っておくけど、嘘ついた理由とか訊かんといてな。なんとなくとしか言えへんから」
相変わらずつかみどころのない男だと虎次郎は思った。
「一つだけ質問していいですか?」
「おお、一つだけ訊くの好きやな。さっきもそうやったやん。ええよ、何個訊いてもらっても」
虎次郎は深呼吸をした。いつもより沢山酸素が取り入れられたような気がした。
「これでも……今でもまだ出世欲はおありですか?」月曜日の水雲との会話を思い出しながら訊く。
「え? これでもって……どういうこと? 僕そんなこと言ったっけ? いやあ忘れたわ。言ってたと仮定して答えるとすると……、うーん……出世欲……ないかな。嫌な事件が少なくなる、僕はそれで充分やわ」
「謎モードか……」予想外すぎる答えに虎次郎は意識せず呟いていた。
「え? なんか言った?」
「いえ、なんでもありません」虎次郎は顔の前でこれでもかというほど手を左右に動かした。
「ほんじゃ、また。若田部さんには気いつけや」
少年のような笑顔を振りまいて、水雲は空き地から歩いてくる刑事達に視線が向くように体を反転させた。
やっぱり、何もかもお見通しか。
虎次郎は最敬礼をして、車に乗り込んだ。
十分程度しか停めていなかったはずなのに、冷房の効かない満員電車に乗った時のような不快感をおぼえた。




