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目覚まし時計の騒がしい音で、虎次郎は目を覚ました。
ぼーっとした頭で、珍しいなと思った。しばらく目覚まし時計の音を聞いていなかった。いつも設定時刻の十分前には起きてしまい、時計の目覚まし機能をオフにしていたからだ。
ベッドからゆっくりと下り、カーテンを開けている最中に後ろから声がした。
「なんや、起きてるんか」母親の志都子が開けっ放しだった部屋のドアから、にゅっと首を出して呟くように言った。土曜日は折り紙教室がある為、早起きなのだ。
「ああ」虎次郎はまだ頭が回っていないので、うわごとのような返事をした。
「今日も仕事やっけ?」
「うん」
「何か弁当作りたい気分やねんけど、欲しい?」
「いや、ええわ」
「あっそう」
そう言って志都子は部屋を後にした。
弁当……?
実家に戻ってきてから初めていわれた言葉ではないかと考えた。そして今思えば寝起きの割に母親の声がかなり澄んでいた気がする。
いつもと違い無意識ではなかったが、玄関に向かい、新聞を取り、台所に入った。志都子がそそくさとヤカンでお茶を湧かしていた。冷蔵庫を開け、どうしよっかな、と独り言を漏らした。
「ねえ、何か食べたいもんある?」
「別にないけど」虎次郎は座椅子に腰掛け、新聞を眺めながら言った。
「いつも朝はコンビニのパンやろ? たまにはええもん食べさしてやらんとなあ」
まだ六時前だというのに、やけに志都子の声は大きい。昨日兄貴帰ってくるの遅かったぞと言いたかったが、ここまで機嫌が良さそうな母親は久しぶりだったので、黙っておいた。
「たまに先輩におごってもらえるから大丈夫やで」
「ほんまに?」
「うん」
「ま、それならいいんやけど」
志都子は後ろ向きのまま言った。その時冷蔵庫がピーっという電子音を奏でた。あーあーと言って、少し大げさに扉を閉めた。
虎次郎は母親の手料理など、帰ってきてから一度か二度くらいしか食べたことがなかった。出勤日はいつも前日の帰りにコンビニで購入したパンを朝食にしていたし、気分次第ではその流れにのって昼食もパンという食生活だった。夜もコンビニ弁当か、牛丼チェーン店で済ますことが多かった。たまに先輩である水雲に奢ってもらっていたが、栄養の偏りという意味では、緩めのボディブローを毎日受け続けている程度のダメージは内蔵に蓄積されていてもおかしくない。休日にしてもそれほど違いはなかった。
弁当といえば、中学校の入学式翌日を思い出す。正確に翌日だったかは定かではないが、とにかく初めて弁当を持って学校に行く日だ。
元々志都子は、料理が得意ではないのか、虎次郎が物心ついた時から台所に立っている姿をほとんど見たことなかった。兄や虎次郎の誕生日の日だけ、年季の入った料理本を取り出してきて、大きな独り言を繰り返しながら不器用に手を動かしていた。そういう日は彼らも野菜を切ったり、フライパンで炒めている具材をかき回したりと手伝ったものだ。
遠足や運動会の日は、何時に起きているか分からないくらい早起きして重箱のような入れ物に食べきれない量の弁当を作ってくれた。普段料理をしない母親にしては見栄えも味も良く、隣で食べていた友人が羨むほどだった。
小学校は給食だったのだが、中学校からは弁当になった。
その頃から少しずつ母親は料理が苦手であることに気付き始めていたので、どうするのだろうと思っていた。実際先に中学に上がっていた兄が弁当を持って学校に行っているところを見たことがなかった。虎次郎はそれに対して何も思わなかった。なぜなら中学校も給食だろうと想像していたからだ。その当時は学校と名のつく教育現場の昼食は、給食なのだろうと信じ込んでいた。
明日から昼ご飯持っていくと告げると、志都子は「毎日作るから心配せんでええよ」と、いつもの何食わぬ表情で言った。これには隠し味に振る塩コショウの量と同じくらい少量の不安はあったものの、かつては友人に羨ましがられたりもしたお弁当を毎日持っていけるのかとワクワクした気分になっていた。
そして翌日。中学生になったからと目覚まし時計で起きるようになっていた虎次郎は洗面所で顔を洗い、台所に入った。しかし母も兄もいなかった。
不思議に思い、母親の寝室を覗く。そこには寝息を立てて寝ている志都子がいた。
「お母さん、朝やで」
枕元に置かれた、ボロボロの料理本を見やりながら虎次郎は言った。
「……え? 何時……? 今……」
志都子はたどたどしく答えた。
「七時回ったとこ」
「しち……って、え?」
志都子は飛び上がって布団を跳ね除けた。虎次郎はあまりの早い動きにたじろいた。
「うわ、ほんまや! なんで時計ならへんかったんやろう……。あ! ムサシも起こさなあかんやん」
そう言いながらパジャマのままで兄の部屋に向かっていった。兄は虎次郎の二つ上だが、まだ母親に起こしてもらっていた。
「ごめんな虎次郎、今から急いで作るから」
志都子は腕まくりをしながら、台所に戻ってきた彼を見て言った。
しかし結局、虎次郎たちが学校に行く時間になっても、成長期が来るのだから沢山食べられるようにと新調した大きな弁当箱の三分の一程度しか埋まっていなかった。
兄はいつの間にか黙って姿を消していたが、虎次郎はもう今日はいいわ、と言えずにテレビに表示される時間を見つめていた。
「虎次郎、まだ学校行かんでええの?」
「うーん」彼はどっちとも取れる返事をした。実際は走っていかないと間に合わないだろう。
「駄目なお母さんでごめんな。普通のお母さんやったら一時間もあったら余裕でできるんやろうけど……。間に合わへんわ……。お金あげるから購買でパンでも買って食べて」
志都子の声は震えていた。
「わかった」
虎次郎はできる限りの笑顔で母親に目をやった。
志都子は持て余された空間に目を落とし、こちらの笑顔には気付いていなかった。声は出ていなかったが、涙と思われる液体がその空間めがけて無情に引き寄せられていた。虎次郎は一瞬動きを止めた。
「じゃあ行ってくるわ」
彼は気付かないフリをしながら逃げるように家を出た。母親が「行ってらっしゃい」と言ったかは記憶にない。
その一件以来、昼食はほぼ毎日購買かコンビニで買ったパンかおにぎりになった。しかしそれでも志都子は時折弁当を作ってくれた。特にこういう日は作る等の決まりはなかったが、お世辞にも美味しいとはいえなかった。
父も兄も、食事のことに関して母親に何一つ口を出さなかった。諦めていたという表現よりも、我関せずという立場をとっていたという方がしっくりくる。とにかく嫌なものには目を背けて、勝手に良くなるのを待つ。それが二人の得意なやり方だった。
虎次郎はそんな二人に対して、怒りの感情を持っていた。特に中学二年、三年となるうちにその思いは強くなっていった。今思えば、その時期が反抗期だったのかなと少しおかしくなる。
「はい、できた」
「……えっと……これは、朝やからニワトリの真似でもしろってこと……?」
眼前に置かれた得体の知れない、おそらく卵と鶏肉が混ぜられているであろう物体を見て思わず言った。
「そうそう、元気にコケッコー……っておーい!」
「一向に上手にならへんやん」
聞こえるようにため息をつきながら、ノリツッコミは無視した。
いつからか母親に対して冗談で料理の話ができるようになっていた。
「失礼にも程があるやろ。これやから警察は怖いねん」
「偏見の塊やな。憲祐みたいになんで」
「けんす……ああ、綿鍋君か……。昔二回程泊まりにきたなあ。また呼んでもいいで」
「いや、ええおっさんがおっさん連れてきたら嫌やろ。……逆におもろいか。てか結婚しとるし厳しいわ」
綿鍋憲祐は小学校からの友人である。中学は区画の違いから別々だったのだが、また高校で一緒になった。
「え? 結婚しゃはったんや」
「うん。てか子供もいるらしいで」
「へえ……でもまあそんな歳やもんな……。ってもしかして話逸らしてお母さんの料理食べへん作戦やろ?」
「いや、違うって。どうやったら醤油をバレへんようにかけられるかなあ、って考えてるだけやん」
虎次郎は真顔で言う。
「ほとんど意味一緒やん。確かに見た目鳥が食べる餌みたいやけど、味は良いと思うで」
「あ、認めるんや」
実家暮らしを続けていた大学生時代に食べて以来の母親の手料理だ。中学、高校時代の弁当にも同様のことがいえるのだが、志都子が料理を急いで作ろうとすると、本に載っている調味料の量を見ないせいなのかとんでもない味になっているケースがほとんどだった。時には濃すぎ、時には本当に何か入れました? と思えるくらいの素材そのままの味を提供していた。それが、実家で育てている新鮮な野菜の特徴を活かしているからという理由で、素材そのまま味わってほしいと望むのであれば目的は達成されている。しかしもちろんそうではない。要するに丁度が無いのだ。もしこれが風呂の湯加減だとすると火傷しているか、風邪を引くかである。のぼせるだとか、もうちょっと微温くていいから水足そうとか、もうちょっと熱い方がいいから沸き上げしようとか、そういった議論をする状態ではない。
それに加えて見た目も、今目の前にある、鳥の餌のようなものだった。
「じゃあ……えー……食べさせていただきます」
虎次郎は自分ができうる最上級の棒読みをした。
おそるおそる口に運ぶと失礼になると思い、一気に書き込む。
「どう?」味覚を脳が察知するまえに志都子はニコニコした顔をこちらに向けてきた。
「あれ……? 悪くない……かも?」
かつては無かった『丁度』に近いものが口腔内に広がっていた。何故か涙が出そうになった。
「訊いてほしそうにしてるから訊くの癪やねんけど、何があったん?」
「よくぞ訊いてくださいました。折り紙教室に来てはるおばちゃんらに色々教えてもらってるねん」母親は最近大きくなった身体を更に大きく見えるように胸を張った。
「へえ、そんなこともやってるんや」
自分も十分おばちゃんやで、という台詞は心にしまっておく。
その時自室から電話の着信音が鳴った。箸を置いて、急いで取りに行く。
こんな朝早くに電話がかかってくることは、仕事以外ではない。しかし現状切羽詰っていることは無い。ということは何か起きたのだろうか。
一気に頭を仕事モードに切り替えてモニターを確認する。
そこには上司である水雲の名前が表示されていた。携帯電話からかけてきているようだ。盗聴を考慮して大ごとではなさそうだと思い、電話マークをスライドさせる。
「奏君やな」
水雲の声はどことなく緊張していた。
「京滋バイパス下で発見された変死体の件やけど、今後の捜査方針の説明を今からするらしいんで、現場直行してくれ。来られる……よな?」
「今からですか? しかも現場ですか?」
間違ってはないと思いながらも一応復唱した。
「そう、今から。ああ、正確には三十分後ぐらいかな。県警に来てから向かってもらってもいいねんけど、確か直接の方が早いかなと思って」
「分かりました。ただ、どっちが早いかってなると、とても微妙ですね……。いつもみたいに歩くとすれば現場直行だと思いますけど……。あ、現場に車で向かっても大丈夫ですか?」
「もち」水雲は力強く答える。
「承知しました」
「それじゃあ、よろしく」
どうして現場なのだろうか? 何か重要な証拠でも見つかったのだろうか? 自殺か、殺人か。どちらかで捜査を進めることになるのだろう?
普通はどちらの可能性も考えつつ進めるのだが、現状の捜査一課課長、塚崎朋久はそれを良しとはしないように思う。とにかく経費削減。与えられた仕事をこなせば良しのスタンスだ。塚崎自身は現にそのやり方で警視まで登り詰めたのだから誰も文句は言えない。キャリア出身だとしてもである。まずは階級ありきという考え方である。
どちらに転ぼうがすっきりと割り切れないだろうなと、虎次郎は深い溜息をついて台所に戻った。




