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黒と黒のコントラスト  作者: じっぴー
第三章
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5

 その日の夜、奏虎次郎はなかなか寝付けなかった。

 いつもは寝床に入れば五分足らずで意識を失うのにである。原因は間違いなく昼間のできごとにある、と彼は評価した。

 どうも頭が冴え渡っている。

 そう、特に正午辺り。反芻し、巡り巡り、そして胸がチクチクと痛むのだった。

 このままでは駄目だと思い、体勢を変えた。二年前に買い換えたベッドが軋む音がした。

 寝ようと思っても、逆に眠れなくなる。それは何かを思うことで考え脳が働くからであって、睡眠に入る前には何も考えないのが理想なのだ。しかしどうやらその状態には持っていけそうにない。

 何も考えないでおこうと考えることが、そもそも睡眠導入を妨げる行為であって、となると何をしても無駄なのではないか、というのが前回眠れなくなった時に至った結論だった。こうなると、一体いつもの自分はどうやって眠りについていたのかさえ分からなくなる。巨大な迷路の中心付近で完全に行き場を失ってしまったような印象だ。

 そして今、おそらく前回と同じ状況にある。その時はどのようにして眠りについたのか、全く記憶になかった。それは当然だ、日々眠りにつく時でさえ、そんなこと考えたこともない。

 これまでにも数度、彼はこの眠れなくなる現象を体験していた。ただ、警察庁に採用されて、滋賀県警への配属が決まってからは一度もなかった。

 眠れない時はどうすれば良いか、という会話を大学の同期生である鳥谷寿至としたことを思い出そうとした。

 いつも通りの低音が頭の中で再生された。

「これまでにオールというものをしたことがないのか? そんな訳無いだろう。つまり一日ぐらい寝なくても大きな問題は起こらないんだよ。だたせっかく質問してもらったのだから、俺が持っている知識を伝えることにする。結論を言えば、横になってずっと目を瞑っておけ、ということだ。それで実際に脳と身体の疲労は、実際の睡眠と比べて七割くらいとれているらしい。八割というデータもある。そしてここからが本質、というか俺の考えも入るのだが、横になり目を瞑っておくだけで、睡眠とほとんど変わらない効果が得られると考えるだけで、幾分心に余裕が生まれるだろう。つまり余計なことを考えなくなるんだ。それで結局眠りにつくことができるのだと俺は思う」

 冒頭の皮肉がなければ歩く有能知恵袋なのに……と脳内で再生されただけの寿至の台詞にトゲのある感想をもった。

 寿至の言葉を繰り返し再生しながら考える。

 彼自身、最近寝不足だと感じたことはなかった。だから一日寝なかったところで大丈夫だろうとは思う。しかし、ここ五年ほど、オールしたことなどなかった。それは社会人になってからの期間と重なる。

 刑事になってからは連続して休暇を取ることが殆どなくなってしまったせいもあって、次の日への不安がいつも付きまとっていることも大きい。もっとも機会が無くなったといえばそれまでなのだが。

 いずれにせよ、その不安さえ取り除ければ何の問題にもならないと思えた。

 玄関の鍵が開けられる音がした。

 兄が仕事から帰ってきたようだ。残業次第で家に帰ってくる時間はバラバラなので、そこから現在の時刻は分からない。

 そして内側から鍵をかけた音がする。奏家は常に鍵がかかった状態にある。全員が家の鍵を持っており、家から出る時は閉める、帰ってきた時は自分の持っている鍵で開ける、というのが徹底されていた。スペアキーは無い。だが、虎次郎が小学生に上がった頃からずっと変わらないルールだったので、これまで一度もインターホンを鳴らして家族に玄関開けてくれと頼んだり、他の家族が帰ってくるまで玄関の前にちょこんと座って待っていたりすることはなかった。それは彼の家族にも同様のことがいえた。

 誰かが鍵をかけ忘れたり、誰かが鍵を持って家を出るのを忘れたり、ということは考えたこともなかった。だからこそ警察庁に採用された四月一週目に研修で『家の防犯を考える』テーマの際に与えられた、奏家方式の鍵管理方法は特殊であるという衝撃は忘れられない。その時、同期の女性に言われた、

「どうやって忘れないようにされているんですか? 私、しょっちゅう鍵かけるの忘れて家を出てしまうんです。実家暮らしの癖が抜けなくて」

 という台詞は信じられなかった。

 忘れる、忘れないの次元で鍵というものを捉えたことがなかったし、そもそも実家暮らしの癖もへったくれもなかったので、気の利いた返しができなかったことを覚えている。

 ああ、やっぱり駄目だ、と虎次郎は思った。

 寝られない時に限って、過去を思い出して色々と考えてしまう。何も考えず目を瞑っていようとは思うのだが、その度に同じことを繰り返してしまうなあと思い、ため息をついた。

 どうせならこうなった原因も含めてじっくり考えようと小さな決心をした。

 瞼の裏に警部と塚崎警視の顔が浮かんだ。表情は二人共笑っていたが、受けた印象は対照的だった。

 水雲の方は、三十歳の既婚者とは思えないほど若々しい笑顔をこちらに向けていた。いつもの誰にでも振りまくの顔だった。一方の塚崎も笑顔は笑顔だったが、果たしてそれを笑っていると形容してよいものかは疑問を抱かざるを得なかった。三十年、いや、それ以上続けてきたのではないかと思うほど、濃く、深く、皺として刻まれていた。笑うといったらこの顔、と決められているように感じる。

 大げさにため息を吐いてみた。流れを与えて二人がどのように変化するか見たかったからだ。しかし結局ずっと瞼の裏の光景が変わることはなかった。

 これから先、瞼の裏同様、変わらない生活が待っているのだろうか。

 二年前に国家試験を受けて、警察になろうと一大決心をして、見事にそれが叶った格好になった。一生をかけて、あの男に近づきたい、そう思って勉強にスポーツと自己研鑽を進めてきた。刑事というのは、あの男の職業であったからで、本来の目的が何だったかによって、手段は大きく変わる。これは仕事を辞める際に、これほどかというほど真剣に考えた。

 あの男が殺された事件が、奏虎次郎の人生を大きく変えた。

 改めて思うと、どうしてそこまであの男に憧れたのかは自分でも正確に理解できていなかった。あの男が殺されたことが、事件の始まりでなければ終わりでもない。その事件を解決したわけでもないし、誰かを逮捕したわけでもない。そんな男を何故か素通りすることができなかった。同じ年に生まれたということが少しは影響したと思われる。

 同い年の人間が、殺人事件を追って殺された。

 たったこれだけなのに、悲しみなのか何なのか分からない、煮えくるように沸き上がってくる感情が、そこにはあった。

 丸三年間、正確には、二年と十一ヶ月。彼は大阪の梅田に本社を構える「LAWWITH」という会社に勤めていた。従業員は五千人強。タッチパネルを主力商品として売り出す一方、近年ではスマートフォン向けアプリやヴァーチャル空間を作り出す技術の開発等、時代に取り残されまいと次々に新たな挑戦に取り組んでいる。

 スマートフォン産業の発展から、この十年で最も成長した日本の会社百選にも選ばれていた。

 虎次郎は「LAWWITH」に、大学からの推薦で入社していた。従来から研究室の先輩が数多く輩出され、癒着という言い方が適切かどうかは別として、それに近い何かがあったことは否めない。もっともそれは「LAWWITH」に限った話ではない。

 推薦で入社したこともあり、簡単には辞めてはいけないと入社前は思っていたが実際に先輩達の話を聞くとそうでもないようだった。実際に一年経たずして辞めてしまった先輩もいるという。それまで抱いていた、些末な不安とプレッシャーが綺麗さっぱり消えた記憶がある。この時の先輩の話が、結果的に警察官になりたいと思った虎次郎の背中をぐんと押したことは言うまでもない。

 入社して丸二年が経とうとした三月。

 今後もまだまだ伸び続けていくであろうタブレット機器の設計補助という形で指導員という名の先輩と共に、ハードウェアの設計に携わっていた時期だった。


「これって、かなやんの地元ちゃうん?」

 虎次郎の技術指導員である谷田が隣の席から声をかけてきた。紙に打ち出してこの設計で良いか目を光らせながら図面を見ている最中だったので、一瞬言葉の意味を理解できなかった。

 谷田の方に顔を向けるとこれだよ、と言ってPCのモニタをこちらに向けてきた。

 業務時間中ではあったが、時折このように仕事と関係のないことをインターネットで調べては、これ知ってる? という風に訊いてきた。しかも谷田が非常に忙しいであろう時にもふわっと飛んでくるので、そういう息抜きもあるのかと驚いた覚えがある。

「ああ、知った場所ですね。懐かしいです」

 そこには彼が通っていた高校を少し引いた所から撮影した写真が掲載されていた。遠目では、当時見た校舎と何ら変わりはなかった。

「殺人事件が起こったらしいで」

「えー、またですか……」

 虎次郎が大学生の頃、その高校でいじめ問題が発展して殺人に繋がったという事件があった。被害者の少年が長ったらしい名前だったことだけ印象深く覚えていた。

「またって……。ああ、そういうこと。六年ほど前のいじめとの繋がりがあるかもしれへんって書いてあるな。なかなか強烈な学校行ってたんやな」


 谷田がどのような反応を期待して虎次郎に話を振ったのかは分からないが、虎次郎の将来を変えたターニングポイントだったことは間違いない。この日賃貸アパートに戻った虎次郎は、何かに取り憑かれたかのように事件を追った。殺人事件といわれたので、一人が殺されたのかと思っていたが、実際はかなりの人数が殺されていた。そして、その中に一生忘れることのないと思われる名前もあった。


 金曜日で次の日が休日だったこともあり、一睡もせずに事件のことを調べた。

 ネットとは残酷なものだ。既にこの事件は解決していたものの、数々の謎が散りばめられていたことや、多くの若者が被害者になったことからも世間の注目がかなり大きく、ネットニュース、掲示板、はたまたホームページまで多岐に渡って語られていた。結局ここまで溢れてしまうと、ネットの持つ役割がどんどん低下し、何が事実かがまったく分からなくなってしまう。もっともネット普及以前は媒体がテレビや新聞しかなく、そこに嘘が書かれていたとして、それを信じた結果騙されてしまう、という風に媒体が変わっただけなのかもしれないが。昨今は更に幅が広がったというのは間違いないだろう。

 犯人や被害者だけではない。警察関係者やその家族にまで、無数の糸が我先にと末端に向かって伸びていた。

 被害者として挙げられた警察官は一人。二十五歳だった。

 大学卒業後、国家公務員Ⅰ種試験に合格。キャリアとしての道を歩むはずだったが、出向が二度あり、最終的に命を落とす滋賀県警に至った。当時はその異例の経歴も、一部ネット上でトピックスとして挙がっていた。しかし当時の虎次郎は警察のシステムを理解していなかったので、そうなんだくらいにしか思えなかった。今になって、二年で出向二回は、警察庁配属になった人間としてありえないことだと断言できる。

 警察庁配属となれば通常は、まず警部補の立場となる。警察大学校にて三ヶ月の初任幹部科の教育を受けた後、一年間交番等の第一線の現場で経験を積み、警察大学校で補修を受け、警部に昇進する。その後二年間警察庁にて勤務した後、また警察大学校で帝王学等の教育を受ければ警視に昇進する。

 現在は変わってしまったが当時はもれなくこのルートを通るはずだ。だからその男はこのルートをどこかで外したとしか考えられなかった。

 また逆にネット上では経歴が話題になっていたが、テレビや新聞等のマスコミ関係がこの点を深堀りしなかったのは、何か力が働いたことは確実だろう。

 虎次郎は一つ寝返りをうった。シャワーの音がやけにうるさく聞こえた。うるさくても、何も音がしなくても寝られないことはきっと変わらないので、どうでもいいことなのだが。

 それにしても、と虎次郎は考える。

 果たして今のこの生活が、「LAWWITH」を辞めてまで望んでいたものだったのだろうか。

 虎次郎は一昨年の国家公務員Ⅰ種試験に合格し、昨年の春、正式配属された。前年までは警察庁から地方の警察署にいきなり配属されることはありえなかったが、三年前に発生した事件の影響で警察庁から地方の警察署への配属を増やした方が良いのではという意見が多く出された為、制度が改められ、警視庁を除く各道府県に一人以上の新人が配属されることとなった。若田部のケースはもちろん当時はその制度はなかったので、特殊ケースであると推測される。水雲も同様のことがいえるが、家庭の事情と聞いたことがある。

 出向ではなく、配属という形になった格好だが、給与自体は各道府県からではなく国から支払われる。

 当然のことであるが、警察官の給与は国民の税金からなる為、起こってもいない事件に対して対策を前もってうっておくというのは、正しいのか、という意見も実際多くあった。多くあったのは内部からがほとんどだった。

 内部からというのは、大多数が年配の方々の意見である。「税金の無駄遣いをするな」こう批判され続けた世代の人達だ。

 今は、例えばストーカー殺人が起きた時に「どうして被害を受けていると言った時に動いてくれないのか。何かあってからでは遅いというのは明白ではないか」という意見をよく聞くご時世だ。

 まさに、あちらを立てればこちらが立たず。この二つが背反していることに気付かないのか、あるいは気付かないふりをしているのか。二つの意見を言うのが同じ人だというのが、非常に不可思議だ。しかもそういう人に限って、ならばどうすれば良いのかという、至極もっともな意見を投げかけた時に答えに窮することが多い。挙げ句の果てには「被害者の気持ちを考えたことがあるのか」なんて、見事すぎる論点のすり替えをしてくる。そういった感情論に話を持っていくと、どんな簡単なはずの問題も解決できなくなるのは分かりきったことなのにである。

 要は警察は無能だと、文句を言いたいだけなのである。

 もっとも一部の批判したがりの国民のことに頭を悩ませても何も進展しない。ひょっとするとそういった声への反発という意味で新しいこと、すなわちキャリアの積極的な地域への配属へつながったのかもしれない。

 この決定はもちろん警察庁のみで決められたわけではなく、きちんと国会で議論され可決された。つまり法律として定められたのである。

 保守的な人間が多いと言われる日本において、この法案が通ったことに正直虎次郎は驚いた。国家試験に向けて猛勉強中ではあったが、テレビや新聞、インターネットでかなりの時間をかけて調べた。想像よりも反応はかなり小さかった。報道が規制されていたわけではない。メディアにはあの事件起因ということもあり、殺人事件程ではないが、三面記事には載る程度のニュースにはなった。

 どうも世間一般の人は、警察が何をしようが、自分にさえ被害が及ばなければ良いと考えている節がある。虎次郎自身、あの事件が起きるまではそうだった。

 しかし現実に、同世代の人間が殺された、それも自分の地元で起きた。ともなれば危機感を持つほどではないが、胸の辺りがゾワゾワする、虫が這いずり回る気持ちの悪い感覚に襲われたことは仕方ないだろう。それが当事者意識であり、この事件、この法案に対する興味の差につながるように思う。

 結果として、虎次郎はその事件が起きた場所の警察官として働くこととなった。世間の抱く、キャリアのイメージからはかなりかけ離れているように思うが、現場の最前列で働いている。そして、あの男と同じコースを、違う方法で歩んでいる。

 いつの間にかシャワーの音は止んでいた。気付かないうちに兄は自分の部屋に戻ったらしい。

 ふう、と一息ついた。そして、現実へと引き戻された。

「LAWWITH」を辞めて、警察になり一年と四ヶ月。当たり前だが、あの事件ほどの衝撃はまだない。そしてそれは、非常に良い傾向だ。あの事件をきっかけとして模倣犯的な犯罪が増えるのではないかと、テレビで頭の薄くなった犯罪学の権威とやらが危惧していたが、杞憂に終わったわけだ。少なくとも現状はそう判断できる。

 おそらく、一部が白骨化して遺体が発見された事件も、京都で虎次郎の目の前で起きた自動車暴走によって一人亡くなった事件も、あの事件の衝撃を上回ることはないだろう。

 ただ、特に前者は担当を任されていることもあり今も全力で捜査にあたっている。

 しかし、公務員であるが故の捜査方法の制約が、思っていたよりもかなり大きくのしかかっていた。さすがにこの辺りの体質は簡単には変わらない。地方への新人配属では大した金額は動かないが、捜査方法を根底から変えるとなれば、莫大なお金が動くことは容易に想像がつく。

 だから警察はこれまで同様、「あの時警察が動いてさえいてくれたら」といった被害者の声には耳を貸すことができないだろう。それにそれが悪いとは思わない。

 莫大なお金は、結局は国民の税金である。「それならもっと沢山納税してもらいます」などと、到底簡単に受け入れられるはずもない。

 でも、と思う。

 人を助けるのにお金がかかることは必然だ。自分の両親、祖父母、兄弟、姉妹、妻、夫、彼女、彼氏、……仮に命を奪われそうになった人がいたら、一体いくらまで出せるだろうか? その時が来なければ分からないという人がほとんどだろうが、特に親しみが強い対象にほどお金を渋ったりしないだろう。

 警察にとっての対象は、国民全員ではないのだろうか。県警にとっての対象は、県民ではないのだろうか。

 少なくとも、上司である塚崎は異なる見解のようだ。

「無駄なことにはお金をかけるな。可能性を探るな。事実だけをみて行動しろ。それが公務員だ」

 正論ではあるが、警察の存在意義である「国の秩序を守る」を実現するという本質を正確に捉えられていないのではないか。上の意見だけに従い、自分というものを持たず、とにかく怒られないように行動しているようにしか思えない。果たして警察としてあるべき姿なのだろうか。

 あの事件を発生させたのは間接的ではあるが、この体質なのではないか。虎次郎は静かに憤った。この腹立たしさはどこから来ているのだろう、と分析しようとしたが、突然頭が回転を鈍らせた。これまで歯車に給油されていたのが、突然ストップがかかったような様相だ。

 おお、これが久しぶりに感じる、眠いという感情か。

 歯車の動きに同期して、頭の中が静かになっていく。

 えっと、何を考えようとしていたのか。

 そう思うということは、それほど大切なことではなく、歯車のことをギヤと呼ぶかギアと呼ぶかくらい、どうでもいいことだったのだろう。

 徐々に速度を落とした歯車は、彼の頭の中で艶やかな波紋となって「憤り」を撫で鎮めていた。


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