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金曜日。ここ数日は夕立もなく、カラっとした陽気の暑さが続いていた。
正午を回り、休憩に入るところだったが、虎次郎はパソコンで文書を打っていた。内容は『京都自動車暴走事故』の概要および考察である。
休憩時間は業務時間外だから、担当以外の事件の捜査をしていても構わないだろう、という言い分だ。しかしここ二日、新聞で事故ではない可能性が高いという記事を読んでからというもの、ずっとこの事件のことばかり考えていた。実際に業務時間であっても、水雲の忠告通り、上司である塚崎には気づかれないよう細心の注意を払いながら捜査を進めていた。
もちろんやってはいけないことだとは理解している。
「奏君、今日は奢らへんくて大丈夫か?」
まばらになった職場で、水雲が話しかける。
「今日はパン買ってきたんで大丈夫です」
虎次郎は視線を水雲に移したが、まだ文字を打ち続けていた。
「で、調子はどんな感じ?」満面の笑みで水雲は訊く。破顔と共に質問が投げかけられるとは珍しい、いや、初めてかもしれない。笑うと非常に幼く見える。大学生と言われても通じるだろうと思った。もっともアラサーと言われてもそうだろうなと思われるだけだと推測されるが。
「京都の事件の方は、向こうの方でも殺人で捜査を進めているようですね」
水雲は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに元に戻した。
「それ、若田部に訊いたんか? そもそもそう新聞に書かれてへんかったっけ? 疑ってたってこと?」
「いえ、地域部の波須川という方です。見た目は八十ぐらいのおじいちゃんなんですけど、現場にいらっしゃったんですよ、地域部の方ですね。疑ってたかに関しては……そうですね、疑ってました」
「もしかして僕があんまり関わらへん方がいいって言ったから?」水雲は笑って訊く。
虎次郎も笑って返した。これだけで水雲にはその通りだと伝わっただろう。
京都府警に電話をかける時、どのような経路で連絡するか正直かなり迷った。少なくとも表沙汰になってはマズい。そもそも隣の都道府県の警察とは仲が悪いという話を聞いたことがある。虎次郎自身はそういった意識はまったくなかったし、先日の事故で京都府警の刑事とあった際にもそのような印象は受けなかった。一部が騒いでいるだけかもしれないと思った。
色々考えた末、京都府警察署地域部に電話することに決めた。決め手となったのは、『地域部のドン』と呼ばれていた波須川が、虎次郎が現場を見たいと言った時に比較的好意的だったからだ。仮に双方の警察署で見えない壁なり、やっかみがあったとしても、少なくとも波須川はそのような視点で仕事をしていないということは明らかだった。
最初電話には舟木という男が出た。事件当日、パトカーを運転してきた男だ。しばらく話し込んでいたこともあり、すぐに顔が思い出せた。それと同時にかなりホッとしていた。
捜査動向をいち早く知りたかったということもあって、どのような立場で聞き出すべきか考えられていなかったからである。受話器を取られた瞬間はかなり焦っていた。一般人を装って事件の捜査動向を訊いても丁重に断られるだけだ。普通一般人にそんなこと教えたりしない。いっそ名乗ってしまおうか、いや、それで上司に伝わったら厄介なことになる、という具合に一瞬で頭がかき混ぜられた。
舟木はもちろん部署名を名乗っただけだったが、すぐにわかった。どう切り出そうという不安は消え去り、すぐに本論に入っていけた。
虎次郎はまず、事件の担当者を確認した。舟木は何も訊かず、スラスラと答えた。
京都警察署の地域部では波須川の影響なのか、他都道府県の刑事が捜査に関わっても特に気にならないらしい。これまでに聞いてきた話と大きな隔たりがあるなと思った。
事件担当責任者はアロハシャツで現場に来ていた、あの若田部という男だということだった。驚いたのが、若田部が既に警視正という立場である、ということだ。虎次郎としては、三十歳前後、あるいは、もっと若いかもという印象を受けていた。そもそも先日水雲から、虎次郎の受ける五年ほど前に若田部は国家公務員試験を受けたと聞いていた。計算上、七年目か八年目ということになる。その年代で警視正という地位に就くことは不可能だ。就けたとしても警視だろう。ということは、水雲の話が間違っているか、あるいは、例外か、ということになる。公務員という立場上、そんなものは無いと思いたいところだが、やはり何があっても不思議ではない。それもまた公務員ならではといえるのかもしれない。
そして、現状捜査がどのように行われているのかを訊いた。
ここで舟木はお役御免となり、波須川に代わった。さすがに立場上判断に迷う部分が多く出てくるからだろう。
波須川は風邪を引いているのか、かなり嗄れた声をしていた。しかし、発声はしっかりしており、聞き取るのにさほど苦労はしなかった。
方向性としては、殺人を中心として捜査が行われている、ということだった。無論、容疑者は教えてもらえなかったが、何人か捜査線上に浮かびあがっているようだ。その中の一人に、新聞記事にも書かれていた、四十万胡桃が車にはねられる直前まで一緒にいた人物も入っているということだった。虎次郎自身、この人物に心当たりがあったのだが、ここではあえて言わなかった。心当たりといっても、釈然としないというか、ぼんやりとしすぎていたせいもある。
他には想像通り新聞に書かれている通りで、それ以上のことは教えてもらえなかった。
虎次郎としては、新たな情報をもらえる期待をしていたわけではなく、どのように捜査を進めているか確認することと、事件の担当者は誰かを確認することを目的として電話をかけたので、これはこれで良かったとみた。
「思っていたより寛容やったっていう印象ですね」虎次郎は素直な感情を伝えた。
「なるほど。まあ特殊なパターンやと思っといた方がいいやろうけどな」水雲は顎を手でこすりながら言った。
「ところで」水雲は続ける。「殺人っていうぐらいやから何か痕跡が見つかったってこと?」
「それがまだ何も見つかっていないそうです。これってうちではありえないですよね?」
少し間をおいて、水雲は答える。
「まあ、あの雑草生い茂る中で見つかった変死体は特殊やな。被害者も被害者やったし。うちであの事件が起こってたらさすがに痕跡なくても殺人で捜査するやろ。自分で質問しといてこういうのも変やけど」水雲は苦笑した。
「そうですかね……あの人はそうしない、いや、させない気がしますけど……」
まだ水雲警部と塚崎警視の言い合いが頭の中に残ってるせいか、塚崎に対してかなり懐疑的になっていた。
「奏君、いくらなんでも疑いすぎちゃうか。だって……運転手がいいひんかったんやで。そらどう考えても事故って結論は導きにくいやろう?」
「はい……」先輩を立てるという意味で虎次郎はそう返事したが、内心本気でそうだろうか、と思っていた。ただ相変わらず水雲の真意は汲み取れない。ずっとニコニコしながら話している。塚崎との議論の中で生まれた「謎モード」にパート2が加わった印象だ。もちろん人間をそんな単純なモードで計ることはできないと理解しているが、これまで「通常モード」と「ラブモード」しか見たことなかったのに、ここに来て急に新しいキャラクターが登場してくると、既存のものに追加していく形にせざるを得ない。しかし、と考える。「通常モード」と「謎モード」の差は当然はっきりしていない。ひょっとすると、これまで虎次郎が水雲に対して抱いていたマイペースだという印象は、もっと大きな「通常モード」に含まれているのかもしれない。「通常モード」をもっと広げるだけで、「謎モード」がそこに含まれるということだ。
ここまで考えて、なんとなくバカバカしくなった。思わず笑みがこぼれそうになったが、すんでのところで堪えて口をすぼめる程度の仕草に収まった。
「あれ……? あっちの事件のことは調べてへんの?」
水雲はハッと思い出したかのように訊いた。
「え? あっちって最近また暑いですけど……どういう意味ですか?」
「……あっちぃ! ってそっちじゃないで」熱いヤカンに触れたような仕草をとりながら言う。
「あ、ああ! すみません。変死体の方ですね……。えー……。進展ありません」
「やっぱり抜けてるか。奏君な、ようあるで。一つの事件に執着し出したら他の事件が見えへんようになるってこと。俺も近いとこあるけど、さすがに自分の担当事件やらへんってのはマズいわ。あんまり好きじゃない言葉やけど、公務員としてどうかと思うな。給料が払われへんところで色々調べるのは別にいいけど……」
「そうですよね……。本当にすいません」
「若さ溢れてるところは全然悪いと思わへんけどな。ってあんまり歳変わらへんやん」
「いや、十分ジェネレーションギャップ感じるとこありますよ」
「二年でそこまでないやろ」
「ありますよ。水雲さん、ボカロとか聴かれます?」
「何それ? チョコレートの名前?」
「え? それこそわかりません」
「カフェの名前? 探偵?」
「なかなか良いとこついているような気がしますけど、全然わからないです。ボカロっていうのは、機械が歌ってる歌のことですよ」
「ああ、奏君の大嫌いなオタクとやらが好む音楽のことか」
「うわ……。なかなか酷い偏見ですね」
「真実やからいいやろ。震えるブルドックに憧れてか知らんけど」
「あれ? 水雲さんそんな風にあの人のこと呼ばれてましたっけ? ああ、いやいや、ボカロの話が飛んでいってましたね」
虎次郎はすぐさま軌道修正をかけた。
「いずれにしても、二年っていうのは想像以上に大きいってことですよ」
「うーん……そうなんかあ……。僕の奥さん、僕より六つ下やけどあんまりそういうの思わへんなあ」
「あっ、結婚されてたんですね」
「そうそう、奏君が警察になるより前やけど」
「そういえば水雲さんとこういう話したことなかったですね」
これまで水雲とした会話といえば、食事を奢る奢らないだの、どこどこの定食屋が美味いだのという、あまり中身のないものだった。何を持って中身がある会話とするかは難しいところではあるが、事件の話はもちろん、プライベートな話もしたことがなかった。基本的に刑事は、自分を語らない人が多い。職場では、という注釈がつけば割合はもっと高くなるだろう。
「まあそれはいいか。とにかくその暴走車の事件。ほどほどにしといてや。実はこっちの事件も殺人で捜査を進めなあかんかもしれん」
「えっ、それはどういうことですか?」
「その返事がくるということは、やっぱり知らんってことやな。死体……もちろんどんな状態やったか覚えてるやんな?」
「ええ……一言酷かった、と言いますか、身体の一部が白骨化していて、損傷が激しかったと記憶してます」
「そう、その一部ってところに、引っかかるものがあるんやなあ」
水雲は少し間を置いた。虎次郎はハッと息を吸った。
「さすがにここまで言ったら分かってしまったか。普通夏場、この暑い時期にずっと外に死体が放置されてたらどうなるか、二週間待たずに全身が白骨化するのが通常。鑑識の検死結果でも死後半年っていう最初に言われてた見解からは変更なし。やとすると、どう思いますか? 奏君」
水雲は塚崎の声真似をしながら言った。
「死体はその場所にずっとあったわけではない。誰かによって運ばれた……。ということですね」
「そう、その可能性が高いということやな」
虎次郎はこの瞬間、言おうか言わまいか迷ったが、一言目が口から出てしまったがばかりに、勢いに任せてついてでた。
「お言葉ですが、警視は当然、白骨化にかかる時間の件、ご存知だったんですよね? だとしたら自殺って結論には至らなくないですか? 確かに、死後半年ってところで最初から例えば殺人として捜査を進めていても、現状とほとんど進展に変わりはないと思いますよ。けど、僕たちの一週間分の労働、この事件を捜査をしていた時間は無駄になってるわけですよね?」
「いやあ、それは残念ながら違うわ。無駄っていうのは刑事という職業で存在しいひんって覚えといた方がいいで。今後似たような事件が起こった時に、絶対に考え方とか捜査の方向性とか参考にできるしな。それとなんで刑事は年配の人らも現場で働いてると思う? 一般企業やったら管理職やっててやれ会議だの出張だので現場にはほとんど出えへん年齢の人らがやで。なんでかっていうと、刑事の勘とか捜査してる時にある違和感とかっていうのはやっぱり経験からしか得られへんもんで、いわゆるベテラン刑事ってのはそれが備わってるっていう判断からやと思うねんな」
ある事件を追う際に、一つ一つの聞き回り、一つ一つの意見の精査が重要であると刑事になる前、いや刑事になってからも認識していたのに、どうしてそんな基本的なことが抜けているのかと半ば自分に呆れていた。
「そうですね……。水雲さんは、実際にこれまでのいくつかの事件を担当する中で、やっぱりそのようなことお思いになられました?」
「経験の差を実感するか、ってこと?」
「そうです」虎次郎は軽く頷く。
「それはもうめちゃくちゃあるよ。奏君もこれから増えてくるわ。増えてきて捨てたくなるぐらい。でも当然それは捨てたら駄目で、何かしらの形で蓄積していく必要はあると思うな。多かれ少なかれ皆、まあ奏君は別の事件のもやってるみたいやけど、ファイリングしてるやんか。それをどう活用して、経験値として残していくか。もちろん一番の目的は捜査の整理なわけやけど、その他の部分での話なわけやな。経験値っていうぐらいやから何もしてへん人もいるで。でもな、やっぱり出世するというか、上がっていく人はしっかり残してる人が多いわ。これは僕の考えやけど、結局人の上に立つっていうのは、人に動いてもらう、人に教えるって能力が必須になってきて、これは信頼に関わってくる話やと思うねんな。やっぱり何も残してへん人に限って話の内容が薄っぺらくて、その時思ってることを次々と適当に話してる感じやねん。でもちゃんと何かを残してる人っていうのは、話が理路整然としてて分かりやすいっていうのがあるんよね。多分それは、一つ一つの事件要素に対して、なんでこうなったんやろう、とか、動機はそれで十分か、とか、細かいところを考えやすい状況を生み出しているというか、事件をまとめるっていうのは、そういう勘の根拠を教える能力を向上させてるって捉えることができるんよね」
「お二人、ちょっと」水雲の熱弁は、いつもより穏やかな塚崎警視の言葉に遮られた。
いつからそこにいたのだろう。水雲の斜め後ろに立っていた。ファイルを三冊ほど持っていたので会議の終わりだと想像できた。
なんとなく辺りの温度が下がった気がした。




