3
水曜日。午前五時三十分。
虎次郎はいつものように目覚まし時計が鳴る前に目を覚ますと、いつものように新聞を取りに玄関まで歩いた。ここまではいつも無意識だ。
玄関の扉を開き、裸足のままでポストに向かう。大理石の石がひんやりとして気持ちいい。既に周囲は明るく、じめっとした暑さがあった。昨日の夕立のせいだろうと推測した。
そしていつものように台所に向かうと、テーブルに新聞を放り投げ、冷蔵庫から冷たいお茶を取り出した。昔は一年中ペットボトルに家で沸かしたお茶を入れて、冷蔵庫で冷やしていたのだが、年を取るにつれて冬には冷やさなくなった。
コップに氷を二つ入れ、お茶を注いだ。コポコポという音がまだ静かな台所に響く。
虎次郎は両親と兄と四人暮らしだ。サラリーマンとして働いていた頃はアパートを借りて一人で住んでいたのだが、警察官になり、地元への配属が決まったので実家に戻ってきていた。良くないことだと認識していたが、実家暮らしの良さを知ってしまうと、もう一度一人暮らししたいという気にならないものだ。
父親は来年、定年を迎える。具体的な仕事の内容を虎次郎は把握していないが、エアコン修理のサービス業で、一年の半分以上出張で家を空けている。現に今日も家にはいない。母親は近所の集会所で週に二回、火曜日と土曜日に折り紙教室を開いている。虎次郎の大学卒業と同時に始められた。それまで母親は主婦として家庭を支えていたので、仕事をするというイメージがどうしてもできなかった。それは今も変わらない。
兄は県内の工場で働いており、三交代制の職場である。今日は深夜勤務なので、家にはいない。
つまり今、家の中にいるのは虎次郎と、その母親のみということになる。母親は何もない平日は大体九時まで寝ているので、虎次郎が家を出る八時には当然姿を見せないだろう。実際平日に母親と顔を合わすのは、例の折り紙教室がある日の朝しかない。
父親が出張ではなく、家から出勤する日でさえ九時まで寝ている。父親はそれに対して何の文句も言わないし、何か言っているところを見たこともない。虎次郎が嫌じゃないのかと訊いた時も、「別にええやん。いいひんかっても大丈夫やし」と笑って答えていた。マイペースというか、崩れないというか、その心が自分にも欲しいと思う返事だった。
椅子に座りコップに口をつける。渇いた喉が潤い、少し視界が開けた。一つ大きなあくびをする。
朝食べる予定で買っていたパンを冷蔵庫から取り出そうと腰を上げた。その時目の端に新聞のとある文字が入ってきた。寝起きの視野では捉えられなかっただろう。
『京都自動車暴走事故 殺人か?』の見出しだった。
こういう見出しを見るたびに誰が事件や事故の名前を決めているのだろうと思う。少なくとも刑事はそのような仕事をしない。というより、世間一般と警察内で事件の名称が異なることは往々にしてよくある。
マスコミによる呼称が世間一般として認知されるケースがほとんどという印象だ。おそらく一担当が試行錯誤していくつか案を出し、上司に駄目だの考え直しだの言われて修正し、それを何度か繰り返した後、まあこれでいいだろうと半ば呆れた顔で言われて決まるのだろう。それが新聞社やテレビ局のあり方だ。あるいは思わぬ鶴の一声で決まってしまうか。いずれにしても、多くの労力が割かれていることは間違いない。まったくもって無駄である。
今回の名称は適当すぎるだろう、と虎次郎は思った。間違ってはいないが、広すぎる。京都の高速道路で制限速度を大幅に超過した車が事故を起こしたと捉えられてもおかしくない。が、そんなこと言い出すと、キリがないのかもしれない。東日本大震災にしてもそうだ。今回の事故に関しては、人が亡くなっている以外には有名な地名でもなければ、別段人通りが多い道路でもない。これしかないと言われればそうなのだろうかと妙に納得した。
彼は直立したまま、何をしようとしていたのか忘れ、新聞を手にとった。
ここ数日はそんな出来事があったことすら忘れていた。自分が関与していたのにもかかわらず、だ。多分変死体の方に興味が向いていたからだろうと推察した。その状態だと毎日新聞を眺めてはいるが、文字通り眺めているだけで、頭に内容は何も入ってきていない。それならば何の為に新聞を手にとっているのかという話になるが、単なる癖なので仕方がないというところである。
まだそれほど時間が経っていないということもあり、事故の概要が長々と書かれていたが、現場を間近で見ていたからか真新しい情報は無かった。むしろ全て記載があるわけではなく、割愛というよりかは省略されているように感じだ。それは何か特別な力が働いているためではないかと思った。
そして、『殺人か?』の部分であるが、予想通りだったのでさほど驚きはしなかった。むしろ、どうしてこの記事が出るまで事故から三日かかったのかが気になった。
京都府警の中でも掲載するか否かで葛藤や言い争いに近いものがあったのだろうか。公表するか否か、その問題は捜査を進めていく上でかなり大きなウエイトを占めている。どのような事件であっても、記者クラブが所属するマスコミ各社にFAXを送るわけだが、紙に記載された内容がそのままそっくり情報として一般人に流れていくわけではない。それは警察側も承知の上であるし、マスコミ側も結局はお金を儲けないと仕事が続かなくなるわけだから、売るために表現を変えることもある。新聞でも各社によって微妙に言い回しやニュアンスが異なっていることに気付けるだろう。もっともほとんどの人は他の新聞と見比べたりしないのだが。
つまりマスコミは警察を信用していないし、警察もマスコミを信用していない。初動捜査の重要性は誰もが理解しているのに、メディアによって異なる捉え方をしてしまうようになっている。日本語の特異さによるところも大きいが、悪意をもって報道されている現状においては、怒りを通り越して「ああ、どうでもいいや」といった無視に近い感情を持たざるをえない。警察官として悪い傾向だと認識してはいるが、これは警察になる前から考えていて、ここ一年ぐらいで確信に変わったことなので、仕方のないことなのかなと考えている。それでも難事件が解決されるのは、ひとえに優秀な刑事が多いからなのだろうと思う。マスコミの力を借りるか借りないか、実はそれほど大きな問題ではないかもしれない。しかし、双方が一歩でも歩み寄れば、従来解決できなかった事件が解決できた、というケースが増えるのは間違いない。
記事を読み進めていくと、虎次郎の知らない情報が二つほど出てきた。
一つ目は、事故を起こしたピンクの軽自動車のナンバーは、どこにも登録されていないものだということ。おそらく犯人、あるいは犯人たちが制作したと思われるとある。車検証ももちろん見つかっていない。
二つ目は、被害者の女性、四十万胡桃は事故発生直前までは誰かと一緒にいたとのことだった。軽自動者が突っ込んだレディース専門店の店員が覚えていたらしい。店の前で別の女の子と座り込んでいた、とのことである。ただ、ほんの数秒のことだったらしく、その女性の特徴は捉えられていないとのことだった。
少し驚いたのは、「マイルドリンゴ」と理髪店の間の路地裏で殺されていた麻薬常習犯、芦田渋の情報が一つも書かれていないことだ。別事件かもしれないが、人が一人死んでいる事実は変わらない。もっとも虎次郎が世間から得た情報は、眺めた新聞以外ほとんどないので分からないが、水曜日になっても報道されている現状を見る限りでは、少なくともマスコミ内では既に事件に対する重み付けがなされていると思わざるをえない。
確かに危険度でいえば、麻薬を使用しない人から見れば、麻薬常習犯を殺した犯人よりも、理由は不明だが一人の若い女性をひき殺した犯人の方がはるかに大きいように思う。そういうことだろうか、と虎次郎は勝手に解釈した。
人間は生まれながらに平等である。この言葉の不完全さを今更ながら思い知らされた。
要するに、何も進展していないということか――
虎次郎は上を向いてため息をついた。
公務員は仕事が遅いとよく言われる。実際に一般企業に勤めた後なので、時間軸の違いを強く感じている。時間の流れというものがそもそも違うらしい。もっとも早ければ良い、遅ければ悪いという結論には至らない。
もう一度記事に目を移す。今度はただ眺めている状態になっていた。考えを巡らせていると、やはり活字の意味を受け取ることができないようである。もっと良いセンサやコンバーターがあるはずだと彼は頭の隅の方で考えた。
三面記事を一通り確認した後で、虎次郎は腰を浮かせた。もちろん記事を確認したとはいっても、頭にインプットされたわけではない。
冷蔵庫からパンを取り出し、洗面所に向かう。顔をパシャパシャと申し訳程度に洗った後、歯ブラシを手に取る。歯を磨きながら自室に戻り、出勤の準備を整えた。朝食べようと思っていたパンもカバンに詰め込んだ。一旦洗面所に戻り口をゆすいでから、新聞を取りに再びキッチンに入った。
父親も母親も基本的に新聞を読まない。ニュースは全て、インターネットから情報を得ている。兄についてはよくわからないが、きっと読まないように思う。ただ虎次郎と違い、他の三人はテレビをよく観るのでテレビ欄はしっかりチェックしている。虎次郎が新聞を家から持ち出したところで、誰も何も言ってこないだろう。
布団を畳み、部屋の隅にスライドさせる。スーツに着替え、着ていたジャージをハンガーに引っ掛けてラックにしまう。シェーバーで軽く髭を剃り、ハードタイプのコンタクトレンズを着用した。そしていつもより一時間以上早く家を出た。
滋賀県警までは二キロ程あるが、いつも徒歩で通勤している。歩いている時間が最も思考能力が高い。身体を動かすことで脳も活性化するというのは当たっていると思っていた。
冬は歩いていれば温まるから良いものの、夏の暑さはどうにもならない。到着する頃にはいつも汗だくになっている。クールビズでネクタイはしなくても良いのだが、準新人という立場上それはできないという、本当につまらないプライドが邪魔をし、ネクタイに留まらずしっかり背広も着ていた。幾度となく自動車通勤を検討したが、どこか気分が乗ってこない。正午を超えてようやく頭が回るというイメージだ。いつもと睡眠時間は変わらなくても、である。不思議だがこればかりは自分の身体なので仕方がない。
職場には、六時過ぎに到着した。通常勤務の場合は八時半からなので、二時間三十分は時間外手当が付かない。もちろん承知済みだ。フロアを見渡すと、何故か捜査一課の島に水雲がいた。当直ではないはずだ。
「水雲警部、おはようございます。お早い出勤ですね」
「おはようございます」水雲はいつも通り敬語で挨拶をする。「奏君こそやね。これまでで一番早いんと違う?」
「多分そうですね」
水雲はやっぱり、とだけ言い、すぐにモニタに視線を戻した。何かしらの文章を書いているように見えた。
虎次郎はカバンから新聞を取り出した。『京都自動車暴走事故』関連の記事を丁寧にハサミで切り取り、空きのファイルにファイリングしていく。
個人的な、それも他署の事件を調べることは当然許されていない。しかし彼は自分が事件に関わったという事実を重く受け止めていた。それにほぼ無意識だったのだが、京都府警の人たちに『この事件は自分が解決する』と豪語してしまっていた。京都府警に対して滋賀県警は意欲的であることのアピールがしたかったのではなく、単にプライドが許さなかっただけだ。これは責任感という言葉と置き換えられる。許可されていないが、自分の時間を割いて捜査しようと考えていたので、他の刑事からの謂れはないと思っている。
もちろんここ数年の刑事生活でそんなものが通用するはずがないとも感じていた。しかし、結局何もしなかったら、何もしなかったという事実だけが残る。それが、刑事として許せなかった。
事件を解決し、人を正しい方向へ導く。この信念は、都道府県の垣根など存在しないものだとみなすに十分な効力があると自信を持っていた。
「あ、そういや今日の新聞、三日ぶりにあの記事出てたな。見た?」水雲は手を止め、伸びをしながら訊いた。
「当たり前じゃないですか」虎次郎はできるだけおどけた印象を与えられるように答えた。
「そういや京都さんの担当、えーと……あの人、誰やったっけ……? あの壁みたいな名前の……」
「若田部さんですか?」
「そう、それ!」
「いや、"て"が抜けてますからね」
「うん、細かいことは気にしたらあかん。で、その若田部って刑事、めっちゃ有名人やで」
「え? そうなんですか?」虎次郎は若田部恭介の身なりを思い出そうとした。「若い人やなあというぐらいの印象しかないですけど」そういえば水雲さんに似てる部分はあるかも、という台詞は飲み込んだ。
「いわゆる事件オタク。僕よりかは奏君に近いっぽいんやけどなあ。基本的に刑事って最初は現場に入るなって言われるやんか。どこかで聞いた台詞やけど」水雲は先日の上司の言葉を思い出していたのだろう。虎次郎も塚崎の声で再生された。「これまで滋賀県警の方では一回もないけど、警部補以下は絶対に現場に行くなって指令があって、そういう状況でも若田部は行くらしいんやわ」
「それはすごいですね、色んな意味で」
「そやろ? どっかに似た奴いるやろ?」
「……はい、確かに」虎次郎は苦笑いを浮かべた。
「当然それだけやと有名にはならへんやんか。奏君が受ける五年ぐらい前の公務員試験。彼はこれ、満点で通過したらしい。ここまでやったら警察庁捜査一課の刑事やったらありがちやけど……。そういう人らだけなんや特別な適性検査があるんやけど、知ってる?」
「いや、知らないです」虎次郎はかぶりを振った。
「やろうな……。実際僕も都市伝説的な形で伝聞されたから。同期の飲み会やけど。ああ……逸れたな。それはええねん。推理力を試すような問題らしいわ。多分僕なんかでは太刀打ち出来ひん難易度で。しかも、短時間且つちゃんと人に説明できる能力を備えてるかってのも見たいから面接形式なんやって。ほんでこれでも完璧。公安の中でも特別なグループ……あー名前が出てこうへん……三十なると記憶力が低下して適わへんわ……。要するに秘密警察の幹部候補に就くってなってたんやけど」
ここで一度言葉を切った。間違いなく「ラブモード」に入っていると認識した。
「刑事に憧れてたからって断ったらしい。で上の方々はそれにお怒りになって、京都に流れてきたというわけ。憧れてたってのが事実かわからんけど、貪欲すぎる行動見る限り、ほんまなんやろうなって思うよね」
「それって僕のことも褒めてもらってるんですか?」
「いや、褒めてへんからな、本気で。本気って書いてマジと読むってやつやで」
虎次郎はすいません、と笑って謝る。「でも、誰かに似てた気がするんですよねえ、それが思い出せないんですよ」
「それって容姿のこと?」
「そうです」
「ああ……そう。まあいずれにしても、あんまり関わらへん方がいいと思うわ。なんとなくやけど」
数秒沈黙。
「まあ、僕は止めへんけど、警視にはバレへんようにうまくやりや」
やはり水雲にはこれから虎次郎が何をしようとしているか筒抜けのようだ。この上司には敵わないなと思った。
水雲と虎次郎は年齢としては二つしか違わない。果たして二年後に同じ姿になることができるのか、瑣末な心配が頭を一瞬で通り抜けていった。




