抱っこ争奪戦!〜ヴィクトルVSユリウス、大人の男たちの静かな火花〜
海からの凱旋祝いと息子の誕生祝いを兼ねた宴の翌日、城のサンルームは柔らかな午後の光に包まれていた。
母乳をたっぷり飲んだルーカスが、私の腕の中で手足を心地よさそうに伸ばしている。
そんな穏やかな空間に、ずかずかと大股で入ってきたのは、長外套を翻したヴィクトル様だった。
「ようお嬢さん、精が出るな。……おい、そのルーカスとやらを、ちょいと俺にも抱かせろ」
「えっ、ヴィクトル様がですか?」
「なんだ、信用ねぇ面してんな。昔、寄港した島で部下のガキや戦災孤児どもを何十人とあやしてきたんだ。そこらの若造よりはよっぽど年季が入ってるぜ」
そう言ってヴィクトル様は大きな両手を差し出した。
海魔を素手で引き裂くような分厚く節くれ立った腕。
けれど、ルーカスの背中と首元をすくい上げるその手つきは、驚くほど滑らかで一切の無駄がなかった。
ひょいと持ち上げられたルーカスは、泣き出すどころか、ヴィクトル様の頑丈な胸板にすっぽりと収まり、その広い肩にぽすんと小さな頭を預けたのだ。
「ふにゃ……くぅ……」
「がっはっは、どうだ! この腕っぷしと胸板の広さ、赤ん坊にとっちゃ極上の寝床だろうが!」
ヴィクトル様が足首と膝でゆるやかに船のような一定のリズムを刻むと、ルーカスは気持ちよさそうに目を細め、今にも微睡みそうになっていた。
その完璧すぎるあやしっぷりを、執務室から戻ってきたユリウス様が目撃してしまった。
ピキィィン……ッ!
空気が凍りついたかのような静寂。
ユリウス様の氷の青い瞳が、信じられないものを見るように見開かれ、そして激しい対抗心にメラメラと燃え上がった。
「ぬぅ……! なぜだ……! なぜあのオッサンの腕の中で、我が愛する息子がこれほどまでに弛緩しきっているのだ……!?」
「バカなの?」
すかさず背後から現れたクロエちゃんが、指示棒をユリウス様の腰にツンと当てた。
「無駄に悔しがらないの。ヴィクトルおじさまの体幹は荒波の船の上で鍛え抜かれてるのよ。揺れのリズムが波の周期と同じで、乳児にとって胎内にいた時と同じくらいリラックス効果が高いの。おじさんの無骨な筋力とはキャリアが違うのよ」
「キャリアの違いだと……!?」
ユリウス様はギリリと奥歯を噛み締めた。
かつての彼なら、「私の息子に触れるな!」と凍結魔法を放ち、実力行使で奪い返していたところだろう。
だが、クロエちゃんの特訓を経て、男としての誇りを手に入れた若き父親は、そんな無様な真似はしなかった。
彼はすっきりと整えられた顎を引き、静かに歩み出ると、ヴィクトル様の真正面に仁王立ちした。
「……ヴィクトル殿。我が子の父親として、貴殿に勝負を申し込む」
「あぁん? 勝負だぁ?」
片眉を上げるヴィクトル様。
「魔法の行使は一切禁止。物理的な妨害もなしだ。……どちらがより静かに、より確実にルーカスを深い眠りへと誘い、至高の安眠を提供できるか。男と男の『寝かしつけ勝負』だ!」
静かなサンルームに、目に見えない火花がバチバチと散った。
ヴィクトル様はふっと口角を吊り上げ、ルーカスを落とさないよう注意深く抱き直した。
「へぇ、言ってくれるじゃねぇか新米パパ。いいぜ、海の大海原で鍛えた揺りかごの腕前、骨の髄まで味わわせてやる!」
「記録」
サンルームの隅で、ソフィア様が静かに手帳を開く。
「新旧・最強の男たちによる、非破壊型あやし合い決戦の勃発。……シリル様、判定の準備を」
「ああ、任せてくれ。暴力沙汰にならなければ、私の胃はいくらでも平和にジャッジを下せるぞ」
シリル様が紅茶のカップを揺らし、すっかり健康になった笑顔で微笑んだ。
こうして、赤ん坊を巡る大人の男たちの静かなる死闘が始まった。
先行はヴィクトル様。
ゆったりとしたストライドで床を踏み、まるで穏やかな海を漂う帆船のように、大きく、深く、一定の周期でルーカスを揺らす。
太く低いハミングが、心地よい振動となって赤ん坊の背中に伝わっていく。
ルーカスは「ふぁあ……」と小さなあくびを漏らし、まぶたをとろりと重く落としかけた。
「……見たか、狂犬。これが百戦錬磨の包容力ってやつよ」
「ふん、悪くない。だが――甘いな」
ユリウス様が静かに腕を差し出した。
ヴィクトル様からルーカスを受け取った瞬間、ユリウス様はあの過酷な深夜勤務で極めた「無音の膝クッション」へと移行した。
スッ……スッ……。
床板の軋み音一つ立てず、ミリ単位で衝撃を吸収する神業のスクワット。
さらに、ユリウス様の胸板の奥から、ドクン、ドクンと力強く一定の心音が響く。
それは毎晩のようにルーカスが聞き慣れた、世界で一番安心できるリズム。
加えて、ユリウス様の手のひらからは、あの春の雪解け水のような温かい魔力の温もりが、ほんのりとルーカスを包み込んでいた。
ルーカスはヴィクトル様の胸板で感じていた大海の揺れから、父親の胸元の「いつもの温かい巣」へと戻ってきたことに気づいたようだった。
小さな手がぽすんとユリウス様の襟元を掴み、小さく「くぅ……」と喉を鳴らす。
そして――。
「……すぅ……すぅ……」
ほんの数十秒で、ルーカスは完全に深い眠りの世界へと落ちていった。
手作りのベビーベッドにそっと下ろされても、背中スイッチが発動することなく、ヴィクトル様から贈られた白銀の毛皮の上で、天使のような寝顔のまま熟睡している。
「勝者、ユリウス従兄殿。……勝因は、日々の地道な深夜スクワットの蓄積と、赤ん坊との圧倒的な接触時間です」
ソフィア様の冷静な判定が下された。
「けっ……完敗だな」
ヴィクトル様は苦笑し、豪快に頭を掻いた。
「毎晩地道に足腰鍛えてやがったとはな。チート魔法で世界を凍らせてた頃のてめぇからは、想像もつかねぇ泥臭さだ」
「泥臭くて結構」
ユリウス様は眠るルーカスの毛布をそっと直しながら、穏やかに微笑んだ。
「小手先の技術や魔法など、この子の前では何の役にも立たない。毎日この手で抱き、汗を流してきた時間だけが、父親としての私の力だ」
その横顔には、誇りと自信、そして底知れぬ愛情が満ちていた。
ヴィクトル様はその背中を隻眼でじっと見つめ、満足そうに小さく頷いたのだった。
その日の夜。
ルーカスが寝静まった後、城の最上階にあるテラスで、二つの琥珀色のグラスが月明かりに乾杯の音を響かせた。
冷たい夜風が吹き抜ける中、ユリウス様とヴィクトル様が並んで手すりに寄りかかり、静かに酒を酌み交わしている。
「……いい面構えになったな、狂犬」
ヴィクトル様が酒を喉に流し込み、ぽつりと呟いた。
「初めて会った時は、いつリリアを道連れに自滅するかヒヤヒヤもんだったが……今のてめぇなら、安心して海を任せられる」
「貴殿に認めてもらう必要などないと言いたいところだが……手紙の言葉には感謝している」
ユリウス様もグラスを傾け、夜空の月を見上げた。
「背筋を伸ばせと言ってくれたおかげで、私は己の弱さから逃げずに済んだ。……この命が尽きるまで、私は妻と息子を、この手で護り抜く」
「あぁ、そうしな。……だがな、たまには肩の力を抜けよ。てめぇが倒れたら、お嬢さんが悲しむからな」
「言われずとも分かっている」
かつて命を奪い合うかのように殺気をぶつけ合っていた二人の男が、いまや静かに父親論を語り合い、背中を預け合っている。
テラスの扉の隙間からその様子をそっと見守っていた私は、胸がいっぱいになり、思わずクスリと笑みをこぼした。
「(……本当に、変わったわね、ユリウス様)」
いよいよ明日は、公爵領の全領民に向けてルーカスをお披露目する大祝祭の日だ。
逃げ出したくてたまらなかったあの頃の私には、想像もできなかった未来。
けれど今、私の心には、世界で一番温かい居場所と、世界で一番頼もしい家族の温もりが、確かに息づいていた。




