公爵領のお披露目祝祭〜逃亡妻が手に入れた、世界で一番温かい居場所〜
雲ひとつない青空が広がる爽やかな朝、公爵領の都はかつてないほどの熱気と祝祭の鐘の音に包まれていた。
城下のメインストリートには色とりどりの旗と花飾りが揺れ、広場には露店が立ち並んでいる。
かつて私が血と汗で書き上げた『交通整理の引継書』が完璧に運用されているおかげで、これほどの人出にもかかわらず押し合いへし合いの混乱は一切なく、領民たちは整然と、晴れやかな笑顔で城の広場へと集まりつつあった。
城の控室では、純白と深い青を基調とした公爵家の正装に身を包んだ私たちが、出番を待っていた。
私の腕の中には、ヴィクトル様から届いた白銀の毛皮の縁取りが施された、特別な手縫いのおくるみに包まれたルーカスがいる。
生後一ヶ月を過ぎ、ふっくらとした頬を桜色に染めて、時折「あぅ……」と小さな声を漏らしていた。
その隣で、同じく白銀の正装を纏ったユリウス様が、信じられないほどカチコチに硬直していた。
「リリア……いよいよだな。広場には数万の領民が集結している。万が一、群衆の中に悪意ある不届き者が紛れ込んでいたらどうする!? 今からでもバルコニー全面に厚さ三メートルの絶対防壁を展開し、私の魔力で領都上空を氷点下三十度に保って怪しい者の筋肉を麻痺――」
ペチンッ。
澄み切った部屋に、愛用の指示棒の鋭い破裂音が響いた。
「痛っ……!?」
「バカなの?」
子供用の小さな正装ドレスをビシッと着こなしたクロエちゃんが、呆れ果てた顔でユリウス様を見上げていた。
「領民はみんな、公爵家の新しい跡継ぎの誕生を心から祝いに来てくれたのよ。防壁なんか張ったら誰もお顔が見えないし、真夏に氷点下にしたら作物が全滅して領地の経済が破綻するでしょ。狂犬おじさん、せっかくの晴れ舞台で暴君に逆戻りする気?」
「ぐはぁっ……! ぼ、暴君……っ!?」
相変わらず容赦のない正論の刃に胸を貫かれ、ユリウス様がガクンと膝をついた。
「記録」
控室の壁際で、ソフィア様が静かに手帳にペンを滑らせる。
「従兄殿の過保護パラメーターが一時的に限界突破しかけましたが、クロエの論破により即座に正常値へと鎮火。……シリル様、血圧の変動はいかがですか」
「いたって平穏、血圧も脈拍も理想的そのものだよ。こんなめでたい日に胃薬の小瓶すら持たずに立っていられるなんて、数年前の私に教えてやりたいくらいだ」
シリル様が穏やかに笑い、胸ポケットから胃薬ではなく祝宴用の花飾りを取り出してみせる。
「がっはっは! おいおい、揃いも揃って朝から賑やかなこった!」
豪快な足音と共に現れたのは、黒い長外套を羽織ったヴィクトル様だった。
潮風の香りをすっかり落とした隻眼の英雄は、ルーカスの顔を覗き込むと、その太い指先で赤ん坊の小さな鼻の頭を優しくつついた。
「いい面構えだ、ルーカス。お前のお披露目だ、堂々と胸を張って外の空気を吸ってこい」
ルーカスはヴィクトル様の顔を見上げると、怖がるどころか、小さな手をもぞもぞと動かして「きゃっ」と声を上げた。
父親の深夜スクワットと、歴戦の海の男のあやし合いを潜り抜けてきた我が子は、少々の強面には微塵も動じない大物へと育ちつつあるらしかった。
「……ふぅ。情けないところを見せてしまったな、クロエ先生」
ユリウス様が立ち上がり、すっと背筋を伸ばした。
剃り上げられた端正な顎を引き、深呼吸を一つ。
その青い瞳からは過剰な殺気や狼狽えが綺麗さっぱり消え失せ、領主としての、そして一人の父親としての静かで凛とした威厳が満ちていた。
「大丈夫ですか、ユリウス様?」
私が微笑みかけると、彼は柔らかく目を細め、私の手を優しく包み込んでくれた。
壊れ物に触れるように繊細で、けれど絶対に離さない、体温の通った大きな手。
「ああ。君とルーカスが隣にいてくれるなら、私に恐れるものなど何一つない」
時を告げる鐘が鳴り響き、重厚な扉が左右へと開かれた。
光あふれるバルコニーへと、私とユリウス様は並んで一歩を踏み出した。
――うおおおおおおおおっっっ!!!!!
姿を現した瞬間、城下の広場を埋め尽くした数万の領民たちから、地鳴りのような歓声と拍手が沸き起こった。
色とりどりの紙吹雪が空へと舞い上がり、教会の鐘が一斉に祝福を告げる。
ユリウス様はチート魔法で派手な光を散らすこともなく、ただ一歩前に進み出ると、広場全体を見渡して深く一礼した。
そして、よく通る澄んだ声で、広場へと言葉を届けた。
「我が領民たちよ! 私は今日、愛する妻リリアと共に、我が公爵家の新しい光をここに紹介できることを誇りに思う!」
私が一歩前に進み、抱き上げたルーカスを領民たちに向けて掲げると、歓声はいっそう大きく爆発した。
春の柔らかな光を浴びたルーカスは、父親とまったく同じ透き通るような氷の青い瞳をまん丸に見開き、空を舞う花びらを見つめた。
そして、何万の歓声に怯えることもなく、ふにゃりと小さな口元を大きく広げ、満面の天使のような笑顔を咲かせたのだ。
「公爵閣下にそっくりだ!」「なんて可愛い若君だ!」「奥様、若君、万歳!!」
領民たちの温かい祝福の声が、津波のように押し寄せてくる。
その光景を見つめながら、私は胸の奥から熱いものが込み上げてくるのを抑えきれなかった。
――思い返せば、最初の人生は絶望の淵で終わった。
生まれ変わり、二度目の人生で再びこの男に出会った時、私はその重すぎる愛と規格外の狂気から逃げ出すことばかりを考えていた。
夜逃げを企て、森を走り、連れ戻されては「お座り」や「待て」のコマンドで必死に猛獣の手綱を握りしめていた日々。
けれど、あの嵐のような日々の中で、この人は決して私の手を離さなかった。
私の言葉に耳を傾け、私の怒りに怯え、私の笑顔のために不器用な努力を重ね続けた。
チート魔法を封印し、血と汗を流してヤスリを握り、深夜に一人でスクワットを繰り返し、怪獣のような面構えを捨てて笑顔の練習をした。
すべては、私と、この子を護るためだけに。
「……リリア」
ふいに隣から優しく名を呼ばれ、私が顔を上げると、ユリウス様がこの世の誰よりも愛おしそうな眼差しで私を見つめていた。
「私の冷たく閉ざされていた世界に、君が居場所をくれた。……今、君は幸せだろうか」
問いかける彼の声は、ほんの少しだけ震えていた。
どんな敵にも怯まない男が、私の心一つを確かめるために、子犬のように不安そうに瞳を揺らしている。
私は思わず吹き出しそうになり、そして、心からの確信を込めて首を横に振った。
「いいえ、『幸せだろうか』じゃありません」
私は彼の手をぎゅっと握り返し、春の陽だまりのような満面の笑みを向けた。
「私は今、世界で一番幸せです、ユリウス様。……ここが、私の生きる場所ですから」
私の言葉を聞いた瞬間、ユリウス様の青い瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちた。
大歓声の領民たちの前だというのに、彼は格好をつけることも忘れ、私の手の上に自らの額を押し当てて、声にならない歓喜の嗚咽を漏らしていた。
「……まったく、何万人もの前でみっともなく泣きじゃくって。でも、まあ……」
バルコニーの影から見守っていたクロエちゃんが、腕を組みながらふっと誇らしげに呟いた。
「……今日の狂犬おじさんは、百点満点以上の花丸をあげるわ」
「記録。公爵夫妻および若君、精神的結びつきは完全無欠。……公爵領の未来は、かつてないほど安泰です」
ソフィア様のペンが軽やかに踊り、シリル様とヴィクトル様が顔を見合わせて快活に笑い声をあげる。
腕の中のルーカスが、父親の頭に小さな手を伸ばし、ぺちんとその銀髪を叩いて愛らしく声を立てて笑った。
空にはどこまでも澄み渡る青空が広がり、私たちの未来を照らすように、温かな光が降り注いでいる。
逃亡妻が手に入れたのは、どんな魔法よりも強固で、どんな世界よりも温かい、かけがえのない私の家族だった。




