初めてパパの胸で笑った日〜温かい魔力の鼓動と、世界一優しい笑顔〜
洗面所に籠もって数時間。
扉が静かに開き、中から現れたユリウス様を見た瞬間、サンルームにいた全員の視線が釘付けになった。
「……リリア。戻ったぞ」
そこに立っていたのは、いつもの研ぎ澄まされた刃のような近寄りがたさを綺麗さっぱり削ぎ落とした、見違えるほどすっきりとした旦那様だった。
無精髭はミリ単位の狂いもなく綺麗に剃り上げられ、青白いほど滑らかな肌が露わになっている。
何より驚いたのは、その表情だった。
いつも爛々とギラつかせていた氷の青い瞳は、ふわりと細められ、まるで春の陽だまりを眺める子鹿のように穏やかで、口元には不器用ながらも柔らかな笑みが浮かんでいた。
「……記録」
ソフィア様が眼鏡の端を押し上げ、バインダーにペンを走らせる。
「従兄殿の顔面筋肉の緊張度、通常時の八十パーセント減。威圧感のパラメーターが『飢えた白銀の狼』から『人懐っこい大型犬』へと大幅にダウングレードされました」
「おいおい、あいつ本当にあの狂犬か……? あんな気の抜けた顔、生まれてから一度も見たことがないぞ」
シリル様がハーブティーを吹き出しそうになりながら目を丸くしている。
クロエちゃんはツカツカとユリウス様の足元まで歩み寄ると、指示棒を構えてじろじろと彼の顔を見上げた。
「顎のライン、剃り残しゼロ。肌の触感、滑らか。視線の攻撃性、完全消失。……ふん、怪獣から『無害な草食動物』くらいには昇格したわね。合格よ」
「ク、クロエ先生……! 感謝する……!」
感極まって涙ぐみそうになるユリウス様を、クロエちゃんが指示棒の先で制した。
「泣かない。感情を昂らせたら心拍数が上がって、また赤ちゃんが緊張するでしょ。いい、狂犬おじさん。今回は『好かれよう』なんて下心は一切捨てなさい。ただの温かいクッションになりきるの。抱っこするんじゃない、自分自身が大きなゆりかごになるのよ」
「クッション……ゆりかご……承知した」
ユリウス様は深く、ゆっくりと息を吐き出し、肩の力を完全に抜いた。
私は腕の中でご機嫌そうに手足を動かしているルーカスを見つめ、そっと立ち上がった。
「ユリウス様。おいで、ルーカス。パパのところに行きましょうね」
「リリア……頼む」
ユリウス様はソファに腰を下ろし、背筋の強張りを解いて、柔らかく両腕を開いた。
私がルーカスを彼の逞しい胸元へとそっと預ける。
父親の肌に触れた瞬間、ルーカスの小さな身体がピクンと反応した。
「(……大丈夫。怖くないよ、ルーカス)」
私は祈るような心地で息を呑んだ。
ルーカスの丸い瞳が、じっと目の前のユリウス様を見上げる。
以前のように黒々とした髭の影はなく、自分を射抜くような鋭い視線もない。
そこにあるのは、澄み渡る青空のような優しい瞳と、自分を慈しむように向けられた穏やかな笑顔だけ。
ルーカスは小さな眉を微かに寄せ、不思議そうに小さな手を伸ばした。
ぷにぷにとした柔らかい指先が、ユリウス様の剃り立ての頬に、ぺたりと触れる。
「……っ」
ユリウス様の身体が一瞬だけ硬直しかけたが、彼は必死に己を制し、深く息を吐いて脱力した。
そして、胸の奥底から、あの雪解け水のような温かい魔力を、そっとルーカスを包み込むように滲ませたのだ。
ドクン、ドクン、と。
ユリウス様の分厚い胸板の奥から、深く、一定のリズムで力強い心音が響く。
それは、あの深夜のスクワットで、何時間も自分を揺らし、守り続けてくれた、世界で一番懐かしい音。
頬に触れる父親の肌の滑らかさと、包み込まれるような心地よい温もり。
ルーカスはパチパチと瞬きを繰り返したかと思うと、ふにゃりとその小さな口元を大きく横に広げた。
「――きゃっ! あぅ……っ!」
鈴を転がすような、高く澄んだ愛らしい笑い声。
ルーカスは両手をパタパタと羽ばたかせ、ユリウス様の胸元に顔をすり寄せながら、満面の、天使のような笑顔を咲かせたのだ。
「…………っ」
静まり返るサンルーム。
ユリウス様は叫ばなかった。
立ち上がって世界を凍らせることも、黄金のオーラを爆発させることもなかった。
ただ、胸の上で声を上げて笑う我が子を、壊れ物どころか神聖な奇跡を抱くように、震える両腕でそっと、けれどしっかりと抱きしめた。
ポロポロと、大粒の涙が彼の目から零れ落ちていく。
ルーカスの頭にかからないよう、顎を上へと反らしながら、彼は口元を手で押さえ、声にならない嗚咽を必死に呑み込んでいた。
「笑った……。私の胸の中で……私を見て、笑ってくれた……」
かすれた、泣き笑いのような声。
「ああ……ルーカス……。お前が、私を父親だと……受け入れてくれたのだな……」
胸元で微睡み始めた息子の背中を、ユリウス様の大きな手が、信じられないほど繊細なリズムでトントンと優しく叩き続ける。
かつて破壊の冷気を纏っていたその手は、いまや世界で最も穏やかで、最も安全な居場所となっていた。
「記録」
ソフィア様が、少しだけ口元を緩めながら手帳を閉じた。
「パパ見知りの完全克服を確認。乳児の愛着対象リストに、父親が最上位ランクとして追加されました」
「……まったく、大の大人がみっともなく泣きじゃくって。でも、まあ……」
クロエちゃんは腕を組み、ツンと顔を背けながらも、小さな声で呟いた。
「今日の狂犬おじさんは、百点満点よ。……よく頑張ったわね」
「いやはや、私の胃が健康なだけでなく、こんなに心温まる家族の光景まで拝めるとは。長生きはするものだな」
シリル様も満足そうに目を細め、最後の一口の紅茶を飲み干した。
私はソファの隣に腰を下ろし、ユリウス様の逞しい肩にそっと自分の頭を預けた。
父親の胸元にすっぽりと収まり、安心しきった顔ですやすやと寝息を立て始めたルーカス。
そして、我が子を抱いたまま、空いた手で私の手を優しく包み込んでくれた旦那様。
「リリア。……ありがとう」
涙で濡れた瞳を向け、ユリウス様が囁いた。
「私のような男に、こんなにも美しく、温かい世界を与えてくれて……本当に、ありがとう」
「お礼を言うのは私の方ですよ、ユリウス様」
私は彼の手をぎゅっと握り返し、微笑みかけた。
「あなたが諦めずに、こんなにも優しいパパになってくれたんですから」
春の柔らかな日差しが、サンルームの窓から降り注ぎ、私たち三人をごく自然に包み込んでいく。
逃げ出したかった過去も、不器用な愛に戸惑った日々も、すべてはこの穏やかな午後のためにあったのだと。
重なり合う三つの温もりを感じながら、私は心からの満ち足りた思いで、深く息をつくのだった。




