絶望の『パパ見知り』発生!?〜大号泣された若き公爵が、幼女先生の心理分析で救われます〜
ルーカスが誕生してから数週間が過ぎ、城の暮らしはすっかり新しいリズムに包まれていた。
私の体調も順調に回復し、手作りのゆりかごの中で手足を元気に動かす息子を抱き上げる時間が増えていた。
生後一ヶ月近くになり、赤ちゃんの視界も少しずつ広がってきたのか、人の顔をじっと見つめるような仕草を見せるようになっていた。
穏やかな昼下がりのサンルーム。
私がルーカスを胸元に抱いてあやすと、ふにゃりと口元を緩め、天使のような愛らしい笑顔を返してくれる。
「あぅ……くぅ……」
「ふふ、ご機嫌ね、ルーカス。今日もいい子ね」
私が鼻先を寄せると、ルーカスは嬉しそうに小さな手をぱたぱたと振った。
その神聖な光景を、執務を終えて駆け込んできたユリウス様が、息を呑んで見つめていた。
その氷の青い瞳は、我が子への狂おしいほどの愛と期待に爛々と輝いている。
「おお……なんと尊い光景だ。リリアの聖母のような微笑みと、我が息子の純真無垢な笑顔……! 私の命を賭して護るべき楽園がここにある!」
「ユリウス様、お仕事お疲れ様でした。ルーカス、パパが帰ってきましたよ」
「うむ! 我が息子よ、父が抱いてやろう!」
ユリウス様は念入りに手を洗い、服の埃を払うと、あの深夜の特訓でマスターした完璧なフォームで、壊れ物を扱うように慎重に両腕を差し伸べた。
私がそっとルーカスを彼の腕へと手渡した、その瞬間だった。
ピタッ。
父親の逞しい腕に包まれた瞬間、ルーカスの動きが完全に止まった。
丸い瞳が大きく見開かれ、目の前にあるユリウス様の顔を凝視したかと思うと、その小さな眉が八の字に歪み、唇がへの字に結ばれ――。
「――ぎゃあああぁぁぁぁぁぁっっっ!!!!」
鼓膜を突き破らんばかりの、この世の終わりのような大号泣が炸裂した。
「なっ……!? ル、ルーカス!? どうした、腹痛か!? どこか痛むのか!?」
ユリウス様が狼狽えて体を揺らすと、ルーカスはさらに顔を真っ赤にして手足をバタつかせ、「ふぎゃあああ! えーーーん!!」と激しく拒絶するように泣き叫ぶ。
「ユリウス様、一回私に返してください!」
慌てて私が抱き戻した瞬間。
ルーカスは「ひくっ……ふぇ……」と小さくしゃくり上げ、私の胸元に顔をすり寄せて、嘘のようにピタリと泣き止んだ。そして、私を見上げて再び「あぅ」と微笑んだのだ。
「……ま、まさか……」
ユリウス様の顔から、すぅっと血の気が引いていく。
信じたくない現実を確かめるように、彼がおずおずと指先を伸ばし、「ルーカス、私の指を握って……」と顔を近づけた瞬間。
「びえぇぇぇぇぇんっっ!!」
ルーカスは全力で顔を背け、火がついたように再び泣き喚いた。
「…………っ」
ピキピキピキッ。
音が聞こえるかのように、若き公爵の全身が白く灰化していった。
「嫌われた……。我が子に……私が命よりも愛する我が息子に……存在そのものを、拒絶された……」
ドサリと床に崩れ落ちるユリウス様。
その背中からは、かつて世界を震撼させた覇気など微塵も感じられず、まるで嵐の夜に打ち捨てられた大型犬のような、底知れぬ哀愁と絶望のオーラが立ち込めていた。
「ああ……私は父親失格だ……。私の凶悪な面構えが、この子の純粋な魂に恐怖を刻みつけてしまったのだ……。私はもう、二度とルーカスの視界に入ってはならない……地下の永久凍土に引きこもり、物陰から一生、君たちを見守るストーカーとして生きるしかないのだ……」
「ユリウス様、極端すぎます! 立ち上がってください!」
「記録」
サンルームの入り口で、ソフィア様が冷徹にペンを走らせた。
「母親に対する愛着行動、良好。対する父親への拒絶反応、再現性百パーセント。……俗に言う『パパ見知り』の発生を確認しました」
「いやあ、実に香ばしい紅茶だ。……世の父親が必ず一度は味わうという絶望の味、まさかあの無敵の従兄殿が噛み締める姿を拝める日が来るとはな」
シリル様がスコーンを優雅に齧りながら、完治した胃の健康を噛み締めるように微笑んでいる。
「うぅぅ……シリル、笑うなら笑え……。我が子に嫌われた私には、もう生きている価値など……」
床に額を擦り付けて泣き濡れるユリウス様。
その時、カツンと乾いた足音が響いた。
ペチンッ。
愛用の指示棒が、ユリウス様のうなじを的確に叩いた。
「痛っ……」
「バカなの?」
腕を組み、冷ややかな視線を見下ろしていたのは、我らが特別講師・クロエちゃんだった。
「嫌われたわけでも、おじさんの存在が否定されたわけでもありません。ただの『発達段階における認知のズレ』よ。いちいち世界を呪ってないで、現実を直視しなさい」
「に、認知のズレ……?」
ユリウス様がおずおずと顔を上げる。
「いい、狂犬おじさん。生後一ヶ月前後の赤ちゃんの視力は、まだ零点零二くらい。全体がぼんやりと霞んでいて、主に明暗のコントラストと輪郭で世界を認識しているの」
クロエちゃんは指示棒で、ユリウス様の顔面をビシィッと指差した。
「原因その一、その顔。連日の執務と夜泣き対応で、うっすらと無精髭が生えているわ。コントラストしか見えない赤ちゃんにとって、その黒々とした髭の影は『顔の下半分が黒い謎の怪物』に見えているのよ。しかも頬擦りされたらチクチク痛いに決まってるでしょ」
「髭……! 私の、この無精髭が怪物に見えていたというのか……!?」
「原因その二、目つきと表情筋の硬さ。おじさんはルーカスを愛するあまり、目を血走らせて必死な顔で覗き込んでるの。大人にとっては情熱でも、視界の悪い赤ちゃんから見れば『獲物を狙う鋭い捕食者の影』よ。怖くて泣くに決まってるでしょ」
「ほ、捕食者……っ! 私が、我が子を狙う獣に見えていたと……!?」
クロエちゃんの精密にして容赦のない心理分析に、ユリウス様は胸を撃ち抜かれ、ハッと我に返った。
「おばさまが好かれるのは、肌が滑らかで、輪郭が柔らかく、笑顔の時のトーンが一定だからよ。おじさんに足りないのは愛情じゃないわ。『清潔感』と『脱力』よ」
「清潔感……と、脱力……!」
「今すぐ洗面所に行って髭を綺麗に剃りなさい。それから、鏡の前で笑顔の表情筋トレーニングよ。獲物を狩る目じゃなくて、日だまりの草食動物のような目をしなさい。……できるわね?」
「や、やってみせる……!! 我が息子に怪獣ではなく『優しい父』と認識してもらうためなら、私の表情筋など千切れるまで揉みほぐしてみせる!!」
絶望の底から立ち上がったユリウス様は、猛烈な勢いで洗面所へと駆け出していった。
それから数時間。
公爵城の洗面所からは、かつて戦場で死線を潜り抜けてきた男の「イ、エ、オ、ア……ふにゃ……にこ……」という、必死に表情をほぐす怪しい声が延々と響き続けることになった。
「(……ふふっ。本当に、どこまでも真っ直ぐな人)」
胸元ですやすやと眠り始めたルーカスの背中を撫でながら、私は洗面所の方角を見てクスリと笑った。
冷酷無比だったはずの旦那様が、我が子の笑顔一つを取り戻すために、髭を剃り、鏡に向かって必死に笑顔の練習をしている。
その不器用で懸命な背中が、私には何よりも愛おしく、誇らしかった。
パパ見知りという名の新たな壁。
けれど、この人が諦めるはずがない。
世界一優しい笑顔を手に入れた旦那様が、我が子の腕の中で心からの笑顔を受け取る日は、きっともうすぐそこまで来ていた。




