魔のワンオペ深夜勤務〜夜泣き相手に魔法封印スリングで死闘を繰り広げます〜
ルーカスと名付けられた我が子が誕生してから一週間。
母子の体調は安定していたものの、産後の体にはまだ鉛のような疲労が残っており、私は日中もベッドで横になる時間が多かった。
そんな私を誰よりも案じていたのは、新米パパとなったユリウス様だった。
「リリア。今夜は君を絶対に起こさない。すべての夜間警備……いや、夜泣き対応は、この私が単独で完遂してみせる!」
夕食後、ユリウス様はかつてない決意を込めた眼差しで、私の前に仁王立ちした。
「でもユリウス様、昼間も領地の執務をこなしていたのに、夜まで起きていたら倒れてしまいますよ」
「案ずるな! 私の無尽蔵のスタミナは、君とルーカスの安眠を守るために天から授かったものだ! 我が愛する妻にこれ以上の疲労を残すことなど、夫として万死に値する!!」
「意気込みは立派だけど、やり方を間違えたら即失格よ」
静かに寝室の扉を開けて入ってきたのは、夜用のフリル付きナイトキャップを被り、小さなバインダーを手にしたクロエちゃんだった。
「いい、狂犬おじさん。赤ちゃんが夜中に泣くのは、空腹、オムツの汚れ、温度変化、そして『ただ不安だから』のどれかです。決して敵の奇襲でもなければ、呪いでもありません。安眠結界や強制睡眠魔法で黙らせようなんて考えたら、その瞬間に首輪を締め上げるからね」
「そ、そんな非人道的なことなど毛頭考えておらん! ……ちょっと精神安定の冷気を漂わせようかとは思ったが……」
「やっぱり企んでたんじゃない。魔法は完全封印よ。これを使いなさい」
クロエちゃんが取り出したのは、柔らかい綿と革で作られた頑丈な布の帯――いわゆる『抱っこ紐』だった。
大人の体に巻き付け、赤ちゃんを胸元にぴったりと密着させて支える育児道具だ。
クロエちゃんから装着方法の講義を受け、ユリウス様は分厚い胸板にスリングをきつく巻き付けた。
逞しい体躯に密着した布地は少し窮屈そうだったが、その青い瞳は歴戦の戦場に臨む戦士のように研ぎ澄まされていた。
「記録。従兄殿の深夜ワンオペ育児ミッション、これより開始。……リリア義姉上は完全休養に入ってください」
廊下でソフィア様が静かに時刻をメモし、シリル様が「明日の朝、生きてたら声をかけてくれ」と優雅に手を振って自室へ戻っていった。
私はユリウス様の熱意に甘え、別室の寝台で目を閉じることにしたのだった。
そして、深夜二時。
静まり返った公爵城の別室で、試練の火蓋が切って落とされた。
「……ふぎゃあ! ふぎゃあああっ!!」
ベビーベッドから、ルーカスの火がついたような泣き声が響き渡った。
椅子の上で直立不動の待機をしていたユリウス様が、音もなく立ち上がる。
まずオムツを確認する。汚れていない。
絞って用意してあった母乳を人肌に温めて飲ませる。
ごくごくと飲み干したものの、哺乳瓶を離した瞬間に再び激しい夜泣きが始まった。
「ふぎゃあぁぁん! えーーん!!」
「ぬぅ……! 飢えでも不快感でもない……これが噂に聞く、理由なき『黄昏泣き(深夜版)』か……!」
ユリウス様は呼吸を整え、両腕で慎重にルーカスを抱き上げると、胸元のスリングの中へと滑り込ませた。
首をしっかりと支え、父親の心臓の鼓動が一番よく伝わる位置へと密着させる。
「――ここからが勝負よ、狂犬おじさん」
部屋の隅のソファで、白湯の入ったマグカップを両手で持ったクロエちゃんが、暗闇の中から鋭い眼光を光らせた。
徹夜で監視する気満々である。
「赤ちゃんは、お腹の中にいた時の揺れを求めているの。ベッドに置けば背中スイッチが作動して即座に大号泣よ。朝までその体勢を維持し、一定のリズムで微振動を与え続けなさい」
「微振動……! つまり、私の筋力で地震波を発生させればよいのだな!?」
「床が抜けるでしょ、バカなの? 縦揺れスクワットよ。膝のクッションを使って、頭を揺らさないよう優しく上下運動を繰り返しなさい。音を立てたらリリアおばさまが起きるから、完全な無音で行うこと」
「承知……したッ!!」
魔力を完全に封じられた最強の公爵による、孤独で過酷な深夜スクワットが始まった。
スッ……スッ……。
床板の軋み音一つ立てず、ユリウス様の強靭な太ももが沈み込み、滑らかに浮上する。
一秒間に一度の、正確無比なリズム。
かつて千人の兵士を薙ぎ払った無尽蔵の体力が、今はたった三千グラムの我が子に「世界一心地よい揺れ」を提供するためだけに浪費されていく。
「ふぎゃ……ふぇ……」
胸元で暴れていたルーカスが、わずかにトーンを落とした。
しかし、ユリウス様が少しでも疲れて動きを緩めたり、姿勢を変えようとすると、敏感なセンサーが作動したかのように再び「びえぇっ!」と泣き声を上げそうになる。
「油断するな、おじさん! スクワットを止めるな!」
「くっ……! まだだ、我が愛する妻の睡眠時間を一秒たりとも削らせるものか……! リリアがくれたこの命、この腕の中で眠らせてみせる!!」
額から大粒の汗が吹き出し、床へと滴り落ちそうになる。
ユリウス様は首をわずかに傾け、汗がルーカスの顔に落ちないよう顎の先で拭った。
魔力を使えば一瞬で疲労など消せる。
だが、それでは肌の温もりが変わってしまう。
父親の体温、父親の心音、そして自らの肉体だけで生み出す確かなリズム。
百回、五百回、千回……。
終わりの見えないスクワットの最中、ユリウス様の胸の奥にあったのは、苛立ちや苦痛ではなく、不思議なほどの充実感だった。
自分の胸板にぴたりと小さな額を押し当て、一生懸命に生きている我が子の重み。
これが、リリアが十月十日の間、ずっと背負い続けてくれていた命の重さなのだと、痛いほどに理解できたからだ。
やがて、部屋の東の窓が、白み始めた。
カチ、カチと静かに時計の針が進む中、泣き声は完全に止んでいた。
「……すぅ……すぅ……」
静かな、規則正しい寝息。
スリングの中で、ルーカスは小さな両手を父親の服の胸元にぎゅっと添えたまま、天使のような穏やかな顔で熟睡していた。
「……寝た、のか……?」
かすれた声で呟くユリウス様。
その膝はさすがに微かに震えていたが、足はしっかりと大地を踏み締めていた。
「……お疲れ様。一度も着地させずに朝までキープしたわね。……満点をあげるわ、おじさん」
ソファの上でうとうとしていたクロエちゃんが、マグカップを置いて小さく息を吐いた。
その時、ギィ……と静かに扉が開き、朝の柔らかな光と共に私が部屋に入ってきた。
十分な睡眠をとってすっきりと目覚めた私の目に飛び込んできたのは、汗だくになりながらも、信じられないほど穏やかな表情で立ち続ける夫の姿だった。
「ユリウス様……! ずっと抱っこしていたんですか……?」
「リリア……」
私が駆け寄ると、ユリウス様は慌てて人差し指を唇に当て、「しーっ」と静かに微笑んだ。
そして、スリングの隙間から、すやすやと眠るルーカスの寝顔を私に見せてくれた。
「見てくれ、リリア。……私の胸の中で、こんなにも安らかに眠ってくれた。私の心音を、父親だと認めてくれたのだ……」
疲労困憊のはずのその顔には、世界中のどんな栄誉を手に入れた時よりも眩しい、至福の光が満ちていた。
声を出して暴れることもなく、ただ愛おしそうに我が子の背中をそっと大きな掌で撫で続ける姿。
私は胸が熱くなり、汗の滲む彼の逞しい首筋にそっと手を回した。
「……世界一かっこいいパパですね、ユリウス様」
「リリア……っ」
歓喜のあまり泣き崩れそうになる旦那様を支えながら、私は彼の手を取り、三人で朝の光を浴びた。
泥臭くて、手がかかって、けれど何よりも温かい。
新米パパの最初の夜警任務は、完璧な勝利で幕を閉じたのだった。




