世界一愛される名前〜神話級ネームを却下された旦那様と、夫婦で決めた優しい名前〜
三千百グラムの小さな男の子が誕生してから、二日が過ぎた。
母子ともに経過は極めて順調で、寝室には穏やかな木漏れ日と、ヴィクトル様から届いた白銀の毛皮の温もりが満ちていた。
手作りのベビーベッドの中で、息子は時折「ふにゃ……」と小さな声を漏らしながら、平和そのものといった顔で眠っている。
そんな静かな寝室に、突如としてバサァッ!と嵐のような気配が吹き込んできた。
扉の前に現れたのは、抱えきれないほどの羊皮紙の束を胸に抱いたユリウス様だった。
目の下には徹夜の影が見えるが、その青い瞳はかつてないほどギラギラと燃え盛っている。
「リリア! ついに選定が終わったぞ! 我が公爵家の未来を背負い、君と私の愛を永遠に証明するための、至高にして究極の命名候補だ!!」
ドサァッ!と寝台のサイドテーブルに積まれた羊皮紙の山。
一番上の紙をめくった瞬間、私は思わず目眩を覚えた。
「……ユリウス様。これ、候補が千個くらいありませんか?」
「千二百三十四個だ! 三日三晩、一秒たりとも眠らずに世界中の古代魔導書と神話体系を読破し、我が息子にふさわしい響きを厳選したのだ!」
胸を張って豪語する旦那様に、私は恐る恐る視線を落とし、筆頭候補に挙げられている文字を読み上げた。
「第一候補……『リリア・インフィニティ・オメガ・公爵ジュニア』」
「うむ! 最愛の君の名を冠し、無限の可能性と終焉を司る完璧な響きだ!」
「第二候補……『氷帝神罰破壊神』」
「いかなる外敵も名乗った瞬間に恐れ慄く、圧倒的覇道を示す名だ!」
真顔でとんでもない怪獣のような名前を熱弁する若き父親。
私が「待て」のコマンドを口にするよりも早く、部屋の隅からコツコツと小さな靴音が響いた。
ペチンッ。
いつもの愛用の指示棒が、ユリウス様のすねを正確に撃ち抜いた。
「痛っ!?」
「バカなの?」
腕を組み、冷え切ったジト目を向けていたのは、もちろんクロエちゃんだった。
子供用の白衣を翻し、ため息まじりに首を横に振る。
「男の子に母親の名前をまるごと移植するセンスもどうかしてるし、破壊神なんて名前にしたら思春期にグレて家出するわよ。出生届を出した瞬間に王宮の戸籍管理官が過呼吸で倒れるし、学校で名前を呼ばれるたびに一生消えない黒歴史を刻むことになるわ。おじさん、子供の人生を台無しにする気?」
「く、黒歴史……っ!? 人生を、台無し……!?」
ぐうの音も出ないロジカルな正論に心臓を貫かれ、最強の公爵がガクンと膝をついた。
「記録」
部屋の扉の脇で、ソフィア様が静かにバインダーを開く。
「従兄殿のネーミングセンスは、古代中二病の末期症状と判定。……却下です」
「いやはや、私の胃が痛まないのは素晴らしいが、甥っ子の名前が『破壊神』にならなくて本当に助かったよ」
シリル様も、優雅に温かい紅茶をすすりながら心底ホッとしたように息を吐いている。
「し、しかしクロエ先生……! ならば、どんな名をつければいいのだ!? 私には、力強く、誰にも負けない存在になってほしいという願いしか……!」
床に手を突き、狼狽えるユリウス様。
私はベッドの上から、そんな不器用な旦那様の手をそっと握りしめた。
「ユリウス様。顔を上げてください」
「リリア……」
「強い名前をつけて、敵を怯えさせる必要なんてありません。だって、この子が危険な目に遭わないように守るのは、世界で一番強くて優しい父親である、あなたの役目でしょう?」
私が微笑みかけると、ユリウス様の瞳がハッと見開かれた。
「この子には、戦うための名前じゃなくて……誰かに愛されて、誰かを温められるような、優しい名前をあげたいんです。あなたが私にくれた、あの穏やかな光のような」
私の言葉を聞き、ユリウス様は立ち上がり、静かにベビーベッドのそばへと歩み寄った。
小さな手足をもぞもぞと動かし、眠り続ける我が子の寝顔。
その額にそっと触れたユリウス様の指先は、かつてのように破壊の冷気を放つことはなく、春の木漏れ日のような温もりを帯びていた。
「……光、か」
ユリウス様が、低く、穏やかな声で呟いた。
「私の世界は、かつて冷たく閉ざされていた。誰も信じず、ただ力を振るうことしか知らなかった私の凍てついた世界に……光をもたらしてくれたのは、リリア、君だ」
彼は振り返り、真剣な眼差しで私を見つめた。
「この子にも、触れる者の心を温め、闇を照らす光であってほしい。そして、君と私の歩んできた道が、決して間違いではなかったと示す光であってほしい」
ユリウス様は息を吸い込み、慈しみを込めて一つの名を紡ぎ出した。
「……ルーカス。ルーカス・フォン・公爵。……この名は、どうだろうか」
ルーカス。
光をもたらす者。
私の名と同じ『L』の音から始まり、どこか柔らかく、けれど凛とした響きを持つその名。
「……ルーカス」
私が口の中でその名を転がしてみると、胸の奥にじんわりと温かい灯がともるようだった。
「すごく、素敵です。優しくて、温かくて……この子にぴったりです」
「ふん」
腕を組んで見守っていたクロエちゃんが、フイと視線を逸らしながらも、満足そうに口元を緩めた。
「……合格点ね。響きもいいし、画数も悪くない。何より、さっきの珍妙な呪文に比べたら百億倍マシよ」
「記録。新生児の命名、完了。名前に込められた魔力波長も極めて安定しています」
ソフィア様のペンが軽やかに走り、シリル様も「いい名だ」と嬉しそうに頷いた。
ユリウス様は再びベッドの横に膝をつき、眠る我が子の小さな耳元へと顔を寄せた。
「ルーカス。我が息子よ。聞こえるか? お前の名は、ルーカスだ」
その優しい呼びかけに応えるように。
それまで深く眠っていた小さな男の子が、ふぁあ、と小さなあくびをした。
そして、薄っすらと開かれたその瞳は――父親とまったく同じ、透き通るような美しい氷の青色をしていた。
ルーカスは、目の前にある父親の大きな人差し指を見つけると、小さな両手でぎゅっと抱きしめ、ふにゃりと天使のように微笑んだのだ。
「――っっっ!!」
ユリウス様の目から、大粒の涙が滝のように零れ落ちた。
声を上げて泣き叫ぶことはせず、必死に口元を押さえながら、彼は小さく震える声で何度も、何度も繰り返した。
「ルーカス……! 私の、愛しい息子よ……! ああ、笑ってくれた……私を認識し、名前を受け入れてくれた……!!」
世界を滅ぼすほどの力を持つ男が、我が子の小さな笑顔ひとつに打ち震え、床に額を擦り付けるようにして静かに感動に浸っている。
その背中を見つめながら、私はベッドの上でくすくすと笑った。
手作りのゆりかごの中で、温かな春の光に包まれて微笑む私たちの宝物。
ルーカスという世界一愛された名前と共に、私たちの騒がしくも温かい新しい家族の物語が、いま確かに歩み始めたのだった。




