陣痛の夜と、絶対に離さない手〜パニックの旦那様がコマンドで覚醒し、世界一頼もしい夫になりました〜
ヴィクトル様からの贈り物を受け取り、寝室のベビーベッドを整えてから数日後の、静まり返った深夜のことだった。
ふと、下腹部に重く鋭い痛みが走り、私は目を覚ました。
これまでの前駆陣痛とは明らかに違う、規則的で、奥底からギューッと締め付けられるような確かな激痛。
シーツに微かな湿り気を感じ、私は隣で眠る夫の気配を探った。
「……っ、ユリウス、様……」
押し殺した私の呻き声に、隣の影が弾かれたように跳ね起きた。
普段ならどんな微細な呼吸の乱れも見逃さない彼だ。
ベッドから飛び起きたユリウス様は、私の青ざめた顔と額に浮かぶ冷や汗を見た瞬間、氷の青い瞳をカッと見開いた。
「リリア!? 顔色が悪い……息が乱れている! まさか、どこからか呪詛が!? いや、体内の魔力循環が乱れたのか!? 待っていろ、今すぐ公爵領全域の時間を凍結し、王宮筆頭魔導医団を空間転移で――」
「バカなの!?」
激痛に耐える私の代わりに、パジャマ姿のクロエちゃんが寝室の扉を蹴り開けて突入してきた。
手にはいつもの指示棒ではなく、清潔なタオルと湯沸かしの指示書が握られている。
「時間を凍結したら赤ちゃんの心拍まで止まるでしょうが! 破水と本陣痛よ! ついにその時が来たの! おじさん、狼狽えてないで産婆さんを呼んで!」
「じ、陣痛……! つまり、我が子が、今まさにリリアの体を押し裂いて出陣しようとしているのか!? 許せん! 我が愛する妻にこれほどの苦痛を与えるとは、たとえ我が子といえど……いや、違う、私の身代わり魔法で痛覚の概念をすべて私に転送――」
「ユリウス様!!」
混乱のあまり魔力を暴走させかけ、訳の分からない自己犠牲に走ろうとする巨大な旦那様に向けて、私はシーツを握りしめながら、残る全力を込めて叫んだ。
「『お座り』ッ!!」
ドズゥゥゥンッ!!
ベッドの脇の絨毯に、ユリウス様の膝が見事な音を立ててめり込んだ。
かつての狂犬としての本能が、妻の絶対命令によって彼をその場に縫い留める。
私は痛みの合間を縫って荒い息を吐きながら、真っ直ぐに彼の瞳を睨み据えた。
「落ち着いてください……! チート魔法も、身代わりもいりません……! あなたがパニックになってどうするんですか!」
「リ、リリア……だが、君が、こんなにも苦しんでいるのに……!」
「産むのは、私です! ……でも、一人じゃ耐えられそうにありません。だから……そこにいて。私の手を、握っていてください……!」
その言葉を聞いた瞬間、ユリウス様の瞳の奥で渦巻いていた混乱と狂気が、スッと音を立てて消え去った。
彼の中で蘇ったのは、遠い海からのヴィクトル様の手紙。
――『背筋を伸ばせ。チート魔法に頼るな。一人の男として、腹を括って父親の顔をしろ』
そして、クロエちゃんとの厳しい特訓、あのヤスリがけで磨き抜いたベビーベッドの温もり。
「……承知、した」
ユリウス様の声から、震えが消えた。
彼はスッと背筋を伸ばし、立ち上がると、寝台のすぐ脇に椅子を引き寄せて腰を下ろした。
その表情には、もはや狼狽の欠片もない。ただ愛する妻を命がけで支える『夫』の、揺るぎない覚悟だけが宿っていた。
「産婆の手配は完了しました。部屋の温度、湿度、魔力循環、すべて出産に最適な状態を維持しています」
廊下からソフィア様が駆け込み、淡々と準備を進める。
「よし、外の警備と連絡網は俺が固める! 義姉上、安心して踏ん張ってくれ!」
シリル様がホイッスルを構え、頼もしく指示を飛ばして回る。
部屋に産婆たちが駆け込み、本格的なお産の準備が整えられていく中、痛みの波は容赦なく私を襲った。
波が引いては、さらに大きな激痛となって押し寄せる。
息が詰まり、思わず漏れそうになる悲鳴を噛み殺そうとした瞬間、大きな、温かい手のひらが私の右手をしっかりと包み込んだ。
「我慢しなくていい、リリア。叫びたければ叫べ。痛ければ、私の手をいくらでも握り潰していい」
ユリウス様の手だった。
魔力による防御壁など一切張っていない、生身の、体温の通った大きな手。
痛みのピークが訪れ、私は理性を失いそうになりながら、彼のその手を骨が軋むほどの力で握り締めた。
並みの男なら悲鳴を上げて骨折しかねないほどの握力。
けれど、強靭な肉体と精神を持つ若き公爵は、眉一つ動かさず、私の痛みをその身に引き受けるように、ただただ力強く、けれど決して私の細い指を傷つけない絶妙な力加減で握り返してくれた。
「大丈夫だ、リリア。私はここにいる。絶対に離さない」
もう片方の手で、彼は濡れタオルを取り、私の額に滲む汗を優しく、丁寧に拭ってくれる。
あのリンゴをすりおろした時のように。
あの三キロの人形をお湯に入れた時のように。
世界を滅ぼすほどの力を持つ男が、すべての情熱を「妻を安心させるための繊細さ」だけに注ぎ込んでいた。
「ユリウス、さま……っ、痛い……!」
「ああ、わかっている。君は今、世界で一番勇敢に戦っている。愛しているぞ、リリア。君の命も、我が子の命も、私が絶対に護る。……だから、安心して力を込めてくれ」
耳元で囁かれる低く甘い声は、どんな鎮痛の魔法よりも深く、私の心に沁み渡った。
逃げ出したかった過去も、規格外の愛に戸惑った日々も、すべてはこの瞬間に繋がっていたのだと思えるほどに、彼の存在が心強かった。
「奥様、もうすぐ頭が見えますよ! 呼吸を合わせて、息を吸って――!」
産婆さんの力強い声が響く。
ユリウス様が私の手をさらに強く握り締め、真っ直ぐに私の目を見つめた。
その氷の青い瞳には、溢れんばかりの慈愛と信頼が満ちていた。
私は大きく息を吸い込み、彼の体温を支えにして、新しい命を迎えるための最後の力を込めた。




