海の彼方からの祝福〜最強のオジ様が贈った極上毛皮と手紙が、旦那様に本当の覚悟を灯します〜
ユリウス様が血と汗のヤスリがけで完成させた、世界一安全な手作りのベビーベッド。
それが夫婦の寝室の窓際に据え付けられてから数週間が経ち、私のお腹はさらに丸みを帯び、いよいよ出産に向けたカウントダウンが近づいているのを感じていた。
そんなある日の午後、城の執務室に重厚な荷物が運び込まれた。
長旅に耐えられるよう幾重にも防水布で巻かれた巨大な木箱。
その側面に焼き印されていたのは、見覚えのある荒々しい海運ギルドの紋章だった。
「リリア、下がっていてくれ! 遠方の海から送られてきた謎の木箱……万が一にも呪詛や魔導兵器が仕込まれている可能性がある。私が空間ごと木っ端微塵に――」
「バカなの?」
いつものように愛用の指示棒を構えたクロエちゃんが、眉をひそめてユリウス様の前に立った。
「木箱の外側に神殿の正規輸入証明書と、安全祈願の結界札が貼ってあるのが見えないの? 差出人の筆跡を鑑定する知能すらないわけ?」
「くっ……!?」
クロエちゃんの指摘通り、木箱の蓋には無骨で力強い文字で『リリアお嬢さんと、狂犬へ』と記されていた。
遠い海で軍事国家の艦隊をお掃除している、あの隻眼の最強オジ様――ヴィクトル様からの荷物だった。
「ヴィクトル殿からか! 敵国の艦隊を沈める片手間に、一体何を送りつけてきたんだ……!?」
シリル様がハーブティーのカップを置き、興味深そうに身を乗り出す。
ユリウス様は警戒を解かないまま、けれど木箱を壊さないよう丁寧に蓋の釘を抜いた。
中から現れたのは、息を呑むほど美しい白銀の輝きだった。
「わぁ……!」
私が思わず感嘆の声を漏らしたのは、ふわりと木箱から溢れ出た、極上の毛皮だった。
深海に棲むという伝説の霊獣の毛皮らしく、絹よりも細く柔らかな毛先が陽光を浴びて真珠のように淡く煌めいている。
そっと指先を埋めてみると、驚くほどの弾力と、まるで春の陽だまりのような優しい温もりが伝わってきた。
しかも、ただ珍しい素材を放り込んできたわけではない。
木箱の底には、海運都市の一流職人による『完全滅菌・天日干し・乳幼児安全検査済み』という証明書が丁寧に添えられていたのだ。
「すごい……全くチクチクしないし、すごく軽くて温かいです。赤ちゃんの敷物にぴったり……」
「くぅぅっ……! なぜあのオッサンは、こうも的確にリリアが喜ぶ品を嗅ぎ分けるのだ! 私の自作ベッドの上に他人の毛皮を敷くなど……!」
悔しそうに唸るユリウス様。
しかし、その毛皮の隣に置かれていた小さな木箱を開けた瞬間、彼の動きがピタリと止まった。
そこに入っていたのは、透き通るような青い貝殻と真珠を編み込んで作られた、海の神殿の『安産祈願のお守り』だった。
派手な魔力は一切込められておらず、ただ母子の無事を祈る純粋な祈祷だけが宿っている。
そして、その下に挟まれていた一枚の便箋。
ユリウス様は唾を飲み込み、その手紙を広げて静かに視線を落とした。
『よぉ、お嬢さん。腹の具合はどうだ。
無茶ばかりする狂犬の手綱を引きながらの妊婦生活、さぞかし骨が折れるだろう。無理だけはすんじゃねぇぞ。
……そして狂犬、てめぇに言っておく。
赤ん坊ってのはな、親の心の揺らぎを誰よりも敏感に嗅ぎ取る生き物だ。お前がいつまでもオロオロと取り乱したり、過剰な殺気や魔力をピリピリ散らしてたら、生まれてくるガキが安心して息もできねぇだろうが。
背筋を伸ばせ。チート魔法に頼るな。一人の男として、腹を括って父親の顔をしろ。
お前がお嬢さんを命がけで愛していることくらい、遠い海の上にいる俺にだって痛いほど分かってる。だからこそ、どっしり構えて家族を支えてみせろ。お前なら、それができるはずだ。
海が綺麗に片付いたら、孫の顔でも拝みに行ってやる。それまで、しっかり父親やってろよ。 ――ヴィクトル』
手紙を読み終えた執務室に、静寂が訪れた。
いつもなら「あのオッサンめ、誰が孫の顔など見せるか!」と憤慨し、手紙を凍りつかせてもおかしくない場面だ。
しかし、ユリウス様は動かなかった。
彼は便箋の文字をもう一度、じっと見つめると、ゆっくりと丁寧に折り畳み、自らの胸ポケットへと仕舞い込んだ。
そして。
「……フッ。言われなくても、当たり前だ」
スッと背筋を伸ばしたユリウス様の顔に浮かんでいたのは、嫉妬でも苛立ちでもなかった。
大海原の猛者を前にしても決して引けを取らない、静かで、凛とした『一人の男』としての誇りと覚悟だった。
「私は我が子の父親であり、リリアの夫だ。狼狽えて我が子を怯えさせるような無様は、天地がひっくり返ろうと晒すものか」
その声には、かつての制御不能な狂気のトゲは微塵もなかった。
ただ愛する者を護るための、揺るぎない芯が通っていた。
「……記録」
ソフィア様がバインダーを胸元に抱え、静かに眼鏡の位置を直した。
「従兄殿の精神安定度、過去最高値を更新。外部からの挑発に対し、嫉妬ではなく『責任感』で打ち返しました。……父親適性値、特大の加点です」
「いやはや、あのヴィクトル殿の言葉選びも見事だが……あいつがここまで立派に受け止められるようになるとはな」
シリル様も、温かい眼差しでユリウス様を見つめている。
胃痛の欠片もないその表情は、どこか誇らしげでもあった。
「狂犬おじさん」
クロエちゃんがツカツカと歩み寄り、ユリウス様を見上げた。
「いまの顔、ちょっとだけカッコよかったわよ。ヴィクトルのおじさまに負けてなかった」
「……ふん。当然だ、クロエ先生」
ユリウス様はふっと口角を上げ、クロエちゃんの小さな頭に大きな手をそっと乗せた。
いつものような力の暴発はなく、ただ優しくポンポンと叩くだけ。
その光景を見て、私の胸の奥は言葉にできないほどの温もりで満たされていた。
逃げ出したくてたまらなかったあの嵐のような日々が、嘘のようだ。
いま私の目の前にいるのは、世界を凍らせる恐ろしい公爵ではなく、家族のために誰よりも頼もしく成長した、私のたった一人の旦那様なのだから。
その日の夕方。
私たちは手作りのベビーベッドに、ヴィクトル様から届いた白銀の毛皮を敷き詰めた。
木の温もりと極上の毛並みが合わさり、世界中どこを探しても見つからないような、最高に心地よい小さな寝床が完成した。
その枕元には、青い貝殻の安産のお守りが優しく揺れている。
「リリア」
夕日に染まる寝室で、ユリウス様が私の隣に立ち、そっと私の肩を抱き寄せた。
その腕の力加減は、驚くほど柔らかく、けれど絶対に私を離さない確かな強さがあった。
「怖がることは何もない。どんな痛みも、どんな困難も、すべて私が君の隣で受け止める。……だから、安心してその時を迎えてほしい」
低く穏やかなその声に、私は小さく頷き、彼の手の上に自分の手を重ねた。
お腹の中の我が子が、海の向こうからのエールと、パパの確かな覚悟を聞き届けたかのように、トスッと力強く一度だけ、内側から合図を送ってきた。




