「三日三晩の結界が解除されました〜旦那様が自白剤入りのスープを作ってきました!?〜」
――「私が悪かったわ。だから、お願い、もう許して……」
――「許す? 君が私を誘ったんだよ、リリア。それに、君の愛はまだまだこんなものじゃないはずだ」
そんな、地獄のような(甘すぎる)問答を何度繰り返しただろうか。
私の決死の『無害アピール(夫に依存する妻の演技)』が裏目に出て、ユリウス様がヤンデレのスイッチを完全に限界突破させてから、丸三日が経過していた。
防音結界が張られ、外部からの接触が一切遮断された公爵邸の最上階。
文字通り『三日三晩』、私は巨大な天蓋付きベッドから一歩も降ろされることなく、冷酷公爵様による過剰な尋問……という名の、底なしの愛情表現を受け続けていた。
「ん……ぁ……」
重い瞼をゆっくりと開けると、そこは見慣れたシルクの天蓋。
そして、私の体を毛布ごとぐるぐると巻き込み、背後からがっちりと抱きしめている、大きな温もりがあった。
「おはよう、私の愛しいリリア。今朝も最高に愛らしいね」
耳元で、甘く低く、そして恐ろしいほどに活力に満ちた声が囁かれた。
振り返ると、そこには三日も引きこもっていたとは思えないほど肌ツヤが良く、氷の青い瞳をキラキラと輝かせたユリウス様が微笑んでいた。
対する私は、目の下に薄くクマを作り、声すらまともに出ないほどヘロヘロのボロボロである。
(化け物だわ……。あの氷の公爵様、体力オバケすぎる……!)
私がスパイ(暗殺者)だと疑っているがゆえの、精神と肉体を追い詰めるための高度な拷問。そうとしか思えないほど、彼の体力は無尽蔵だった。
私がピクリと動こうとしただけで、彼はハッとして私の体をさらに強く抱きしめた。
「ああ、駄目だリリア。まだ動いてはいけない。三日間も私に付き合ってくれたんだ、君の小さな体は限界だろう。今日は一日中、この腕の中で休んでいなさい」
「……ゆ、ゆりうす、さま。おしごと、は……」
「仕事? ああ、そういえば隣の部屋で部下たちが泣き喚いている声が、結界の外からかすかに聞こえていたな。だが、君と過ごす時間に比べれば、国政など路傍の石以下の価値しかない。彼らにはもう三日ほど頑張ってもらおう」
(宰相閣下がそれを言ったら、国が滅ぶんですけどーーっ!?)
私の悲痛なツッコミは、声にならないまま空気に溶けた。
さすがにこれ以上は本当に命に関わる(私の体力が)。
なんとかしてこの密着状態から抜け出さなければ。そう思った矢先、乾燥した空気を吸い込んだ私の喉が、チクリと痛んだ。
「こほっ、けほっ」
ごく軽い、ただの咳だった。
しかし――その音が部屋に響いた瞬間。
ユリウス様の体が、ビクンッ!!と大きく跳ねた。
「……リリア!?」
彼の顔から一瞬にして血の気が引き、氷のように冷たかったはずの青い瞳が、極限まで見開かれて私を凝視した。
「ど、どうした!? どこか苦しいのか!? 喉か!? 肺か!?」
「え、あ、いえ、ただ少し空気が乾燥して――こほっ」
「誰か!! 誰かある!!」
ユリウス様はベッドから弾かれたように飛び起きると、部屋に備え付けられていた緊急用の魔力ベルを、叩き壊さんばかりの勢いで連打した。
ガンガンガンガンッ!!
「ひっ!? ゆ、ユリウス様!?」
「待っていろリリア! 今すぐ王都中の……いや、世界中の医者をここに集める! 痛いか? 苦しいか? 吐き気はないか!?」
彼の取り乱し方は尋常ではなかった。
美しい顔を恐怖で歪ませ、ガタガタと震える手で私の頬を包み込む。
その瞳の奥には、前世で私が血を吐いて死んでいった時の、あの凄惨な光景へのトラウマが、狂気となって渦巻いていたのだ。
(えっ!? ど、どうしてそんなにパニックになってるの!?)
私は完全に状況が理解できず、目を白黒させた。
ドタドタドタッ!と廊下を走る複数の足音が聞こえ、バンッ!と扉が蹴り開けられる。
「旦那様!! いかがなされましたか!!」
「リリアが咳をした! 結界は完璧なはずだ、どうしてだ! まさか、食事に毒が……!? いや、あり得ない、すべての食事は私がこの目で確認し、毒見もさせているはずだ!」
血走った目で執事長に詰め寄るユリウス様を見て、私の頭の中で、またしても最悪の勘違いの方程式が組み上がった。
(わ、わかったわ……! ユリウス様は、私が『自作自演で毒を飲んで、尋問から逃れるために自死しようとしている』と疑っているんだわ!!)
暗殺者(私)が、黒幕の情報を吐く前に服毒自殺を図った。
そう勘違いしたから、こんなにも顔を青ざめさせて、「結界が完璧なはずなのにどうして毒が!」と激怒しているのだ。
「ち、違いますユリウス様! 毒なんて飲んでません! 自殺なんてしません! ただ喉が少しイガイガしただけで……っ!」
「無理をするな! 君は昔から、痛みを隠して一人で耐えようとする……っ。近衛! 今すぐ王城の筆頭宮廷医を引っ張ってこい! 魔法陣を使って一秒で連れてくるんだ!! 万が一リリアの身に何かあれば、お前たちの命はないと思え!」
「は、ははーーっ!!」
(物理的に命が狙われているのは近衛騎士たちだったーーっ!)
私が止める間もなく、公爵邸は蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。
それからわずか数分後。
魔法陣の光とともに、寝巻き姿のまま寝癖を爆発させた初老の男性が、近衛騎士に首根っこを掴まれて寝室に放り出された。
王国最高の医療技術を持つ、筆頭宮廷医その人である。
「ひぃっ!? な、なな、何事ですか公爵閣下!! 私は今、ようやく非番でベッドに……っ」
「黙れヤブ医者! 早く私の妻を診ろ! リリアが咳をしたんだ! もし見落としがあれば、貴様の首を物理的に刎ねて、その一族郎党まで王都から追放してやる!!」
「せ、咳をしただけで一族郎党追放ォォ!?」
涙目で叫ぶ宮廷医に、ユリウス様は氷の刃のような視線を突き刺す。
宮廷医はガタガタと震えながら、私のベッドに近づいてきた。
(お医者様、ごめんなさい! 巻き添えにして本当にごめんなさい!)
私は心の中でジャンピング土下座をしながら、宮廷医の診察を受けた。
宮廷医は私の脈を測り、顔色を確認し、魔力探知の水晶玉をかざして……やがて、ひどく言いにくそうに、気まずい顔でユリウス様を振り返った。
「……あの、公爵閣下」
「なんだ! 毒か!? やはり遅効性の毒でも盛られていたのか!?」
「い、いえ、毒など一切検出されておりません。奥様は極めて健康でございます」
「ではなぜ咳を!? 結核か!? それとも未知の風土病か!?」
「あの、その……」
宮廷医はチラリと私の首元(無数の赤い痕が残っている)を見て、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「……極度の、睡眠不足と……過剰な、その、肉体疲労……つまり、『旦那様からの愛情の注ぎすぎ』による、ただの体力低下と乾燥による咳でございます……」
シィィィン……。
広い寝室に、気まずすぎる沈黙が降り下りた。
控えていたメイドのマリーたちは顔を真っ赤にして俯き、執事長は「おいたわしや、奥様……」とハンカチで目頭を押さえている。
私は羞恥のあまり、布団を頭まですっぽりと被ってその場から消え去りたくなった。
「……私の、せい……?」
ユリウス様はハッとして、自身の両手を見つめた。
そして、この世の終わりのような絶望の表情を浮かべ、フラフラとベッドの横に膝をついた。
「ああ……なんという愚かな。君を愛するあまり、私はまた君を傷つけてしまったのか。君の体が悲鳴を上げているのにも気づかず、自分の欲望を押し付けて……! 私は、夫失格だ!」
「だ、旦那様! お気を確かに!」
「私は自分を許せない! この腕を切り落として、君への謝罪と……っ!」
「やめてください!!」
本当に自分の腕に魔法の氷の刃を突き立てようとする狂気の夫を、私は布団から飛び出して必死に止めた。
(どんだけ極端なの!? スパイへの尋問をやりすぎて反省してるのはわかったから、自傷行為に走らないで!)
「わ、私は大丈夫ですから! 少し休めば治ります! だからお願いですから、刃物をしまってください!」
「リリア……。君は、こんな私を許してくれるというのか……?」
「許します! 何でも許しますから!」
私が涙目で訴えると、ユリウス様は氷の刃を消し去り、私の手を両手で包み込んで、祈るように口づけを落とした。
「ありがとう……ああ、私の女神。君の海よりも深い慈愛に、私は一生かけて報いよう。……よし。君が元気になるまで、私がつきっきりで看病しよう。栄養のあるものを食べさせなくてはな」
(つきっきりで看病=二十四時間体制の尋問・監視の継続!!)
私の絶望など知る由もなく、ユリウス様は「宮廷医よ、滋養強壮に一番良い食材を教えろ!」と再び医者を脅し始めた。
冷酷公爵の手作りスープ(自白剤入り?)
それから数時間後。
寝室の扉が開き、エプロン姿(!)のユリウス様が、ワゴンを押して入ってきた。
「待たせたね、リリア。君のために、私が腕を振るってきたよ」
王国最高の頭脳であり、冷酷無比と恐れられる氷の宰相。
彼が純白のフリルエプロンを身につけ、ニコニコと微笑みながらスープの入ったボウルを運んでくる姿は、完全にシュールレアリスムの絵画だった。
後ろには、公爵家の料理長が「旦那様の包丁さばき、見事でした……!」と号泣しながら付き従っている。
「ゆ、ユリウス様が、お料理を……?」
「ああ。君の口に入るものは、私が一番安全だと確信できるものでなければならないからね」
(『安全』……つまり、私(暗殺者)が自死できないように、毒を完璧に排除したってことね。でも、待って)
私はワゴンの上に置かれた、黄金色に輝くスープを見つめた。
とてもいい匂いがする。だが、相手はあの冷酷な氷の公爵だ。
私がスパイ活動の情報を一向に吐かないことに業を煮やし、ついに――『自白剤』や『精神を操る魔法薬』をスープに混ぜてきたのではないか!?
(そうよ! 『私が作ったから安全だ』なんて言って、油断させて飲ませる気なんだわ! 前世の暗殺者も、私の食事に毒を盛った。今回は、夫自らが手を下すのね!)
ガタガタと震え出す私を見て、ユリウス様は「まだ寒気がするのか?」と心配そうに眉を下げ、スープをスプーンですくった。
そして、ふうふうと息を吹きかけて冷まし、私の口元へと差し出してきた。
「さあ、あーんしてごらん、リリア」
「っ……!」
「君の疲れた体を癒やすために、最高の薬草と鳥の出汁を煮込んだ特製スープだ。これを飲めば、すぐに元気になるよ」
(『薬草(自白剤)』って言った! 完全に自白剤って言ったわ!!)
私はギュッと口を真一文字に結び、首を横に振った。
「ど、どうした? 熱いか?」
「い、いえ……あの、私、食欲が……」
「駄目だ。少しでもお腹に入れないと、治るものも治らない。君が少しでも痩せてしまうのは、私の心が耐えられないんだ。……どうしても飲めないなら、私が口移しで飲ませようか?」
「のみます!!」
口移しなどという最悪のセクハラ(拷問)を受けるくらいなら、自白剤を飲んで素直に「私はスパイではありません!」と叫んだ方がマシだ!
私は決死の覚悟で口を開き、ユリウス様が差し出したスプーンのスープを飲み込んだ。
ゴクリ。
「…………あっ」
「どうだい? リリア」
私の瞳が、驚きで見開かれた。
――美味しい。
とろけるような鳥の旨味と、微かに香る爽やかなハーブ。
塩加減も絶妙で、疲れて荒れた胃に、じんわりと温かく染み渡っていく。
前世でろくなものを食べてこなかった私の人生史上、文句なしに一番美味しいスープだった。
「お、おいしい……です……」
「そうか! よかった。さあ、どんどん飲んでおくれ。君がいっぱい食べてくれることが、私の最高の喜びなんだからね」
満面の笑みで次々とスープを口に運んでくるユリウス様。
私は美味しさのあまり、パクパクとスプーンの動きに合わせてスープを飲み進めてしまった。
(ああ、なんて恐ろしい……! 美味しくして油断させるなんて、高度なテクニックすぎる……! 自白剤が効いてきたら、私、何を喋ってしまうのかしら……っ!)
しかし、当然のことながら、スープには自白剤など一滴も入っていなかった。
入っていたのは、前世で妻を死なせてしまった後悔から来る、重すぎるほどの『特大の愛』だけである。
「全部飲んでくれたね。偉いぞ、私の可愛いリリア」
空になったボウルを下げたユリウス様は、私の口元を優しくハンカチで拭い、そのままチュッと軽いキスを落とした。
「さあ、お腹がいっぱいになったら、また一緒に寝よう。君が完全に回復するまで、私は一歩もこのベッドから離れないからね」
「えっ……お隣の、執務室は……」
「防音結界をあと三日延長してきた」
(国が終わるーーーーっ!!)
私は絶望で白目を剥きそうになった。
「妻を絶対に死なせない」と過保護すぎる看病(という名の軟禁)に精を出すヤンデレ公爵様。
「自白剤を飲まされた! いつ効いてくるの!?」と怯えながら、彼の過剰な密着に耐える訳ありヒロイン。
壁の向こうから聞こえる部下たちの悲鳴(幻聴)をBGMに、私たちのすれ違い看病生活は、さらに甘く、そして息苦しい方向へとこじれていくのだった。




