「執務室が寝室の隣に移築されました〜旦那様の寝言が物騒すぎます!〜」
大混乱の建国記念の夜会から数日後。
カミラ夫人への(スパイ対策のための)非情な切り捨てを目の当たりにした私は、ユリウス様の冷酷な本性を確信し、すっかり絶望のどん底に沈んでいた。
「……トントン、トントン……」
私は豪華な長椅子に体育座りをし、虚ろな目で壁を叩く大工たちの音を聞いていた。
「あそこはもう少し防音材を厚くしろ! リリアの安眠を妨げるような音を少しでも立てたら、お前たちの首を物理的に飛ばすぞ!」
壁の向こうから、ユリウス様の物騒な怒号が響いてくる。
なんと彼は、夜会から帰還した翌日、宣言通り王城の宰相の執務室を、公爵邸の本邸最上階(つまり私たちの寝室の真隣)に移築するという暴挙に出たのだ。
(王様もどうして許可したの!? 宰相閣下が在宅ワークで引きこもるとか、国政はどうなっているの!?)
「妻と一秒でも離れていたくない」という名目で強行されたこの改築工事。
しかし、私にとっては「いつでもスパイ(私)を監視し、尋問に駆けつけられるようにするための、恐怖の前線基地建設」に他ならなかった。
「……終わった。私の人生、完全にこの部屋だけで終わるんだわ」
窓枠には新たに魔法の鉄格子(外からは見えないが、中からは絶対に開かない)が設置され、バルコニーに出ることすら禁じられた。
完全無欠の、黄金の鳥籠。
慰謝料をもらって円満離婚などという甘い夢は、はるか彼方へと消え去ってしまった。
その日の深夜。
隣室での執務室移設工事が終わり、静寂に包まれた寝室でのことだ。
私はふかふかの天蓋付きベッドで、ユリウス様の逞しい腕の中にすっぽりと収められ、抱き枕のようにして眠っていた。
いつものように、彼の強い拘束力のおかげで身動き一つ取れない。
「……ん……」
ふと、背後から苦しげな唸り声が聞こえた。
驚いてそっと振り返ると、熟睡しているはずのユリウス様が、眉間に深いシワを寄せ、脂汗を滲ませていた。
「だ、旦那様……?」
こんなに苦しそうな彼を見るのは初めてだった。
氷の公爵と恐れられる彼でも、悪夢を見ることがあるのだろうか。
「……やめろ……行くな……リリア……!」
「ひゃっ!?」
突然、私の体を抱きしめる腕の力が、骨が軋むほどに強くなった。
彼特有の冷たい香木の香りが強くなり、ガタガタと大きな体が震えている。
「血が……冷たい……どうして……私のせいで……」
「ユ、ユリウス様? 痛いです、苦しい……」
私が必死に腕を解こうとしても、彼は夢の中で何かに取り憑かれたように言葉を紡ぎ続けた。
そして、次に彼の口からこぼれた言葉に、私は全身の血が凍りつくのを感じた。
「……『毒』だ……あの毒を盛った奴らは……万死に値する……! リリア、死なないでくれ……っ! まだ、何も……っ!」
――ドクンッ!!
心臓が、嫌な音を立てて激しく跳ねた。
『毒』
その単語を聞いた瞬間、前世で私が冷たい離宮の床で血を吐き、孤独の中で死んでいった時の焼け付くような痛みがフラッシュバックした。
(ど、どうして……ユリウス様が、『毒』のことを……?)
パニックになる頭で、私は必死に推測を組み立てた。
前世で私が毒殺されたことは、実家が放った暗殺者の仕業だ。
ユリウス様は私が死んだことすら知らずに、カミラ夫人と楽しく過ごしていたはずだ。
それなのに、なぜ二度目の人生の今、彼が『毒』と『死なないでくれ』と寝言で言うのか?
……答えは一つしかない。
(そうか! ユリウス様は、私が実家から『彼を暗殺するために送り込まれた毒使い(スパイ)』だと疑っているんだわ!!)
私の頭の中で、恐ろしいパズルのピースがカチリと音を立ててはまった。
彼が私の食事に必ず毒見役をつけるのは、私を守るためではなく、「私が自作自演で毒を盛る」あるいは「彼に盛ろうとした毒を誤爆する」のを防ぐためだ。
彼が「死なないでくれ」「まだ何も(聞いていない)」とうなされていたのは――。
『黒幕(実家)の情報をすべて吐かせるまでは、絶対に死なせない(からな、この毒使いめ!)』という、強烈な尋問の意志の表れなのだ!!
「ひ、ひいいぃぃぃっ……!」
私は恐怖のあまり、ベッドの上で声にならない悲鳴を上げた。
間違いない。
彼は私が暗殺者だと思い込んでいる。
だからこんなに厳重に軟禁し、逃げられないように毎晩のように体に印をつけ、精神を削り取ろうとしているのだ!
(殺される! このままじゃ、前世と同じように……いや、それ以上のむごい方法で、情報を引き出されて処刑される!!)
ガタガタと震える私の気配に気づいたのか、ユリウス様が「ハッ」と息を呑んで目を覚ました。
「……リリア!? どうした、震えているじゃないか!」
悪夢から覚めた彼の青い瞳には、尋常ではない焦燥と狂気が渦巻いていた。
彼は飛び起きると、私の顔を両手で包み込み、穴が開くほど見つめてきた。
「どこか痛むのか!? もしかして、誰かが食事に何かを……っ! いや、あり得ない、この結界の中でそんなことは……リリア、息はあるか!? 私の声が聞こえるか!?」
「い、生きてます! 生きてますから!! 毒なんて盛ってません!!」
「毒!? なぜ君が毒のことを……っ!」
(しまった!! 墓穴を掘った!?)
焦った私は、必死に言い訳を並べ立てた。
「あ、あの! 夢です! 私が悪い人に毒を飲まされそうになる悪夢を見て、それで……っ!」
「……悪夢、だと?」
ユリウス様の顔が、サァッと青ざめた。
前世でリリアが毒殺された記憶を持つ彼にとって、リリアが「毒を飲まされる夢を見た」という言葉は、何よりも心臓を抉る刃だったのだ。
「ああ……神よ、なんてことだ。君にそんな恐ろしい夢を見させてしまうなんて……私の守りがまだ足りないというのか……!」
ユリウス様は私を抱きしめ、まるで小さな子供をあやすように背中をトントンと叩き始めた。
「大丈夫だ、リリア。それはただの夢だ。現実には、君の口に入るすべてのものは私が完璧に管理している。君を害する可能性のあるものは、チリひとつ残さずこの世界から消し去ろう。……だから、もう怖がらなくていい」
(物理的に消し去る宣言が出たーっ!! 完全に暗殺者(私)への脅迫じゃない!!)
彼の甘く優しい声色は、私にとっては死の宣告そのものだった。
このままではいけない。
彼の中の『私=暗殺者』という疑いを、なんとしても晴らさなければ、本当に命がない!
翌朝。
隣室に完成した新しい執務室へと、ユリウス様が後ろ髪を引かれながら出勤(徒歩十秒)していった後。
私はベッドの上で、一人で生き残り戦略会議を開いていた。
(疑いを晴らすにはどうすればいい? 逃げるのは不可能。実家との繋がりはすでに断たれた。なら……私が彼にとって『完全に無害で、彼に依存しきっている愚かで可愛い妻』だと証明するしかないわ!)
スパイでも暗殺者でもなく、ただ彼に恋い焦がれるだけの頭の弱い令嬢。
それを完璧に演じきることができれば、彼の警戒も解け、いつか監視の目が緩む日が来るかもしれない。
「よし、やるしかないわ……!」
私は気合を入れると、用意されていた室内着の中でも、ひときわ布地が柔らかく、体の線が出やすいネグリジェのようなドレスに着替えた。
そして、ユリウス様が休憩(という名の監視)のために寝室に戻ってくるタイミングを見計らって、扉の前で待機した。
ガチャリ。
数時間後、分厚い扉が開き、少し疲れた顔をしたユリウス様が入ってきた。
「リリア、ただい――」
「旦那様ぁっ!」
私は助走をつけて、ユリウス様の広い胸板にダイブした。
ドスッという鈍い音がしたが、彼は見事に私を受け止め、驚きのあまり目を丸くした。
「リ、リリア……!? どうしたんだ、急に抱きついてきたりして。それに、その薄着は……」
「寂しかったんですぅ……」
私は前世の記憶を総動員し、ぶりっ子と呼ばれる最高難度の演技を繰り出した。
彼を見上げ、瞳を潤ませ、上目遣いで甘ったるい声を出す。
「旦那様が隣のお部屋に行かれてしまって、私、寂しくて死んでしまいそうでした。ずっと、ずっと旦那様のお顔が見たくて……お仕事なんて放り出して、私だけを見てほしくて……」
「…………っ」
ピタリ、と。
ユリウス様の呼吸が止まった。
彼の体が石像のように硬直し、私を抱きしめる腕が小刻みに震え始める。
(よ、よし! 完璧な『夫に依存する頭の弱い妻』の演技! これで私が国政や暗殺なんて難しいことを考えていないとわかってくれるはず!)
私はさらに追撃をかけるべく、彼の首に両腕を絡ませ、つま先立ちになって彼の耳元に顔を寄せた。
「ねえ、ユリウス様……。私、もうお部屋の外なんて出なくていいです。ずっとこのお部屋で、あなたに抱きしめられていたいです。だから……私を、離さないでくださいね?」
――ブツンッ。
ユリウス様の中で、最後に残っていた『理性』という名の糸が、見事にちぎれ飛ぶ音がした。
「あ、あの、ユリウス様……?」
「……リリア。今、なんと言った?」
ユリウス様は低く掠れた声で問い返しながら、私の腰に回した腕を、ギリギリと締め上げてきた。
見上げた彼の青い瞳には、普段の冷酷さなど微塵もなく、ただどす黒く煮えたぎるような『欲望』と『執着』の炎が、制御不能なまでに燃え盛っていた。
「ひっ……!」
「私に依存し、部屋から出なくていいと、君の方から望んでくれたのか? この私だけを求めて、寂しいと泣いてくれるのか……?」
「あ、えと、はい……(だから暗殺者じゃないって信じて!)」
「ああ……あああ……!! 神よ、私は今、世界で一番幸せな男だ!!」
ユリウス様は歓喜の叫びを上げると、私を軽々と抱き上げ、そのままベッドへと一直線に突き進んだ。
「きゃあっ!?」
「仕事などもうどうでもいい! 宰相の座などくれてやる! 私は今日から、君を愛するためだけに生きることに決めた!!」
「えええええっ!? ちょ、お仕事は!? 隣の部屋で部下の皆様が待っていますよ!?」
「防音結界を最大出力で張った。三日は出てこないと伝えてある。さあ、リリア。君が望んだ通り、ずっと一緒に、骨の髄まで愛し合おう……!」
バサリとネグリジェがはぎ取られ、熱く狂おしい口づけが全身に降り注ぐ。
(違う! そういう意味じゃない!! スパイ疑惑を晴らしたかっただけなのに、なんでヤンデレのスイッチを限界突破させちゃったのーーっ!?)
完全なる大失敗である。
生存のための無害アピールは、結果的に『最高の愛の告白』として受け取られ、彼の独占欲と加護欲にガソリンをドラム缶ごと注ぎ込む結果となってしまった。
「愛している……愛しているよ、私のすべて。君を私だけのものにするためなら、私は悪魔にでもなろう」
耳元で囁かれる甘く恐ろしい愛の言葉に、私は抵抗する力も奪われ、ただ絶望の涙を流すことしかできなかった。
勘違いから始まった決死の演技が、鳥籠の鍵をさらに何重にも掛けさせる結果を招くとは。
二度目の人生、愛のない政略結婚はどこへやら。
私は冷酷無比な公爵様の、底なしの愛の沼(※リリア視点では処刑の一歩手前の拷問)へと、さらに深く沈んでいくのだった。




