「初めての夜会は処刑場ですか!?〜噂の愛人様が土下座してきました〜」
中庭での恐ろしい『手紙焼却事件』から数日後。
実家という名の黒幕(と私が勝手に思い込んでいるもの)からの連絡を物理的に断ち切られ、完全に退路を塞がれた私は、公爵邸の最上階にある豪奢な寝室で、借りてきた猫のように大人しく過ごしていた。
私が少しでも窓の外を見つめようものなら、ユリウス様は「外の景色など見ないでくれ」「私だけを映していてほしい」と縋るように私の目を塞ぎ、そのまま熱烈な口づけの嵐へと発展してしまう。
私が少しでもため息をつけば、「何が不満だ」「誰が君を悲しませた。そいつの首を物理的に刎ねてこよう」と物騒なことを言い出す。
だから私は、極力感情を殺し、彼が求める『無害で大人しい人形のような妻』を演じることに必死だった。
そんなある日の午後。
執務を早々に切り上げて(また魔法で部下を閉じ込めてきたらしい)帰宅したユリウス様は、私の銀色の髪を愛おしそうに梳きながら、ひどく不機嫌な声で呟いた。
「……忌々しい。国王陛下が、どうしても明日の建国記念の夜会に『新妻を連れてこい』と煩くてね」
「夜会、ですか……?」
私はビクッと肩を揺らした。
夜会。それは王都の貴族たちが集まる、華やかで、そして恐ろしい社交の場。
一度目の人生では、私は一度も公爵夫人として夜会に連れ出されたことはなかった。
ユリウス様は常に一人で出席するか、あるいは――美しいカミラ夫人を伴って出席しているという噂を、離宮のメイドたちがヒソヒソと話しているのを聞いたことがある。
「ああ。本当は、君の美しい姿を他の虫けら共の目に晒したくなどない。君が他の男と同じ空気を吸うことすら、私にとっては耐え難い苦痛だ。だが、王命とあっては無下にもできない……一瞬だけ顔を出して、すぐに帰ってこよう」
「は、はい……」
私は引きつった笑みを浮かべた。
社交界デビュー。それはつまり、私が『公爵家の妻(という名の人質・スパイ)』として、大衆の面前で値踏みされるということだ。
しかも、前世のトラウマが蘇る。実家にいた頃、姉の付き添いで一度だけ小さな夜会に出たことがあったが、みすぼらしいドレスを着た私は「男爵家の出来損ない」と嘲笑され、誰にも相手にされなかった。
(怖い……。でも、ここで拒否したら『外部との接触を恐れている=やはりスパイだ』と疑われてしまう!)
「私、旦那様の隣で粗相のないように努めます」
「粗相など気にしなくていい。君はただ、私の腕の中にいればいいんだ。もし君を不躾な目で見る者がいれば、その場で両目を抉り出してくれる」
相変わらずの過激なスパイ防衛対策(物理)に、私は胃の痛みを覚えながら頷くしかなかった。
翌日の夕方。
私はメイドのマリーたちに囲まれ、入念なドレスアップを施されていた。
先日、ユリウス様が王都の商人を呼び寄せて買い占めた、部屋を埋め尽くすほどのドレスと宝石の山。
その中から彼が自ら選び抜いたのは、夜空のような深い紺色に、星屑のように細かいダイヤモンドが散りばめられた最高級のシルクドレスだった。
「まあ……! リリア奥様、本当にお美しいです! まるで夜の女神のようですわ!」
「旦那様が奥様の紫の瞳に合わせてお選びになった、このアメジストとダイヤモンドのネックレスもぴったりです!」
マリーたちがうっとりと溜息をつく中、私は鏡に映る自分を見て戦慄していた。
(お、重い……っ!!)
首から下げられたネックレスは、中央に鳩の卵ほどもある巨大なアメジストが鎮座し、その周囲を無数のダイヤモンドが取り囲んでいる。
耳にも、手首にも、そして結い上げた銀髪にも、これでもかというほど宝石が飾られていた。
総額で小さな国が一つ買えそうなほどの莫大な富。
しかし、私にはこれが、逃げられないように繋がれた『純金の鎖』と『重り』にしか思えなかった。
(「お前は俺の管理下にある」という、周囲への強烈なアピール……! これで私がスパイだとバレた時、慰謝料として売って逃げることなんて絶対にできないわ……!)
ガチャリと扉が開き、漆黒の礼服に身を包んだユリウス様が入ってきた。
彼の姿は、息を呑むほど美しかった。
冷徹な宰相としての威厳と、大人の男の色気が混ざり合い、物語から抜け出してきた魔王のようだ。
しかし、ドレスアップした私を見た瞬間、その『氷の公爵』の仮面はあっさりと崩れ去った。
「…………っ」
「あ、あの、ユリウス様……?」
「ああ……駄目だ。美しすぎる」
ユリウス様はふらふらと歩み寄ると、私の前に片膝をつき、私の手袋越しの手に深く口づけた。
「やはり夜会には行かない。こんな美しい君を、誰にも見せたくない。今すぐこのドレスを脱がせて、ベッドで君を抱きしめたい……」
「だ、旦那様!? 王命です! 国王陛下がお待ちです!!」
本気でドレスの背中の編み上げに手をかけようとするユリウス様を、私は涙目で必死に止めた。
ここで夜会をサボって国家反逆罪にでも問われたら、私の円満離婚計画(すでに崩壊寸前だが)が完全に潰えてしまう!
「……わかった。だが、絶対に私から離れないと誓ってくれ。君が少しでも不安を感じたら、王の目の前でも君を抱えて帰るからね」
ヤンデレメーターが振り切れている夫をどうにか宥めすかし、私たちは王城へと向かう馬車に乗り込んだ。
道中も、彼は私が窓の外を見ることを許さず、ずっと私の腰を抱き寄せて「愛している」「私のリリア」と耳元で甘い呪文を唱え続けていた。
王城の煌びやかな大広間。
シャンデリアの眩い光と、オーケストラの優雅な音楽が響き渡る中、案内役の声が高らかに響いた。
「ユリウス・フォン・クライス公爵閣下! 並びに、リリア夫人、ご到着!!」
その瞬間、数百人の貴族たちで埋め尽くされていた広間が、水を打ったように静まり返った。
誰もが、信じられないものを見るような目で私たち――正確には、ユリウス様の姿を凝視している。
(ひっ……! な、なにこの視線……怖い!)
無理もない。
普段は「近づくだけで凍りつく」と恐れられているあの氷の公爵が、私の腰にがっちりと腕を回し、まるで壊れやすいガラス細工を扱うように優しくエスコートしているのだ。
しかも、彼の私に向ける瞳は、これ以上ないほど甘く蕩けている。
『……あれが、クライス公爵? 嘘でしょう……?』
『あんなに優しいお顔をされるなんて。まるで別人のようだわ……』
『奥様の美しさも尋常ではありませんね。あのような莫大な宝石を軽々と着こなすとは……実家の男爵家では冷遇されていたと聞きましたが、とんでもない』
ヒソヒソと交わされる貴族たちの囁き声。
しかし、恐怖で耳がフィルターをかけている私には、それがまったく違う意味に聞こえていた。
(『あんな見え透いた演技をして、スパイを油断させているのね』『なんて哀れな人質。あんな重そうな宝石で縛り付けられて』……絶対にそう言われているんだわ!!)
私は足の震えを隠すために、ユリウス様の腕にギュッとしがみついた。
するとユリウス様は「怖いのかい? 私がいるから大丈夫だよ」と甘く囁き、私の額にチュッとキスを落とした。
大広間から「ひゃあっ!」という令嬢たちの悲鳴(黄色い歓声)が上がる。
(やめてーーっ! 大衆の面前で高度な心理戦(嫌がらせ)をしないでーーっ!)
私のライフはすでにゼロに近かった。
その後、私たちは国王陛下への挨拶を済ませた。
初老で恰幅の良い国王陛下は、ユリウス様の変わりように目を丸くしながらも、「おお、我が国の氷の宰相にも、ついに春が来たか! 美しい妻を射止めて、仕事の鬼も丸くなったようだな」と高らかに笑っていた。
ユリウス様は「ええ、私のすべてを捧げるに足る、女神のような妻です。陛下といえども、リリアを長く直視することは許しませんよ」と、王相手にもブレないヤンデレっぷりを発揮し、周囲の文官たちを冷や汗の海に沈めていた。
挨拶を終え、壁際のソファーで休んでいた時のことだ。
別の国の使者からの急な挨拶があり、ユリウス様はほんの少しの間だけ、私の側を離れなければならなくなった。
「すぐ戻る。絶対にここから動くな。……おい、お前たち、私の妻に虫が一匹でも近づいたら、そいつを斬り捨てろ」
「ははっ!!」
私の周囲には、近衛騎士よりも強そうな公爵家の私兵が五人も護衛につき、鉄壁の壁を作っている。
一人になった私は、ようやく深呼吸をして張り詰めていた気を抜いた。
(疲れた……。早く帰りたい……)
そんな時だった。
護衛の騎士たちの向こう側から、一人の女性がふらふらと近づいてきたのだ。
「あ、あの……! リリア、奥様……!」
その声に顔を上げた私は、息を呑んだ。
そこにいたのは、燃えるような赤い髪に、蠱惑的な美貌を持つ女性――前世で、ユリウス様の『最愛の恋人』として噂されていた、カミラ夫人その人だったのだ。
(カミラ夫人!? どうして彼女が私に!?)
前世の離宮の窓から見た彼女は、自信に満ち溢れ、最高級のドレスを身にまとってキラキラと輝いていた。
しかし、目の前にいる彼女は、まるで別人のようだった。
化粧気のない青ざめた顔。
目の下には酷い隈があり、着ているドレスも、かつての彼女からは想像もつかないほど地味で目立たないものだ。
彼女は護衛の騎士たちに止められながらも、泣きそうな顔で私に向かって必死に手を伸ばしていた。
「どうか、どうか少しだけお話をさせてください! リリア奥様!」
「騎士様、通してあげてください。大丈夫ですから」
私がそう言うと、騎士たちは渋々といった様子で道を開けた。
カミラ夫人は私の前に進み出るなり、なんと――ドレスの裾が汚れるのも構わず、その場に崩れ落ちるように土下座をしたのだ。
「ひっ!? か、カミラ夫人!? なにを……!」
「申し訳ございませんでしたぁぁぁ!!」
大広間の隅とはいえ、貴族の女性が公衆の面前で土下座をするなど、前代未聞である。
周囲の注目が集まる中、カミラ夫人はボロボロと大粒の涙を流して叫んだ。
「わ、私と公爵閣下は、決してそのような関係ではございません! 私はただ、社交界の噂話を閣下に売っていただけの、ただの情報屋でございます! 愛人などという身の程知らずな噂を流されたせいで、私は閣下に命を狙われ……っ、い、いえ、なんでもありません!!」
彼女は怯えたように周囲をキョロキョロと見回し、ガタガタと震えながら言葉を続けた。
「どうか、どうか奥様のお口から、閣下にお伝えください! 『カミラはもう二度と閣下の視界に入らないし、王都の裏の仕事からも手を引く。だから命だけは、命だけはお助けください』と! お願いいたします、奥様ぁぁっ!」
地面に額を擦り付けて号泣するカミラ夫人。
その悲痛な姿を見て、私は確信した。
(あ、あああ……なんてこと!!)
私の頭の中で、すべての点と点が恐ろしい形に繋がった。
前世で、ユリウス様は確かにカミラ夫人を愛していた。
しかし今世では、スパイである私を警戒し、欺くために、彼は『私に夢中な愛妻家』を演じている。
そして、その完璧な演技にほころびが出ないよう――本当の愛人であるカミラ夫人を脅迫し、関係を無理やり隠蔽しているのだ!
命を狙われていると怯える彼女の姿こそが、ユリウス様の冷酷な本性を証明しているではないか!
(ユリウス様は、国家機密(スパイ対策)のために、愛する女性すらも切り捨てて脅迫する、血も涙もないモンスターなんだわ!!)
私は、カミラ夫人への深い同情と、ユリウス様への底知れぬ恐怖で、全身から血の気が引いていくのを感じた。
「カミラ様……お可哀想に……」
「えっ?」
私は彼女の前にしゃがみ込み、震えるその手を両手で包み込んだ。
「大丈夫です。私は、真実を知っています。あなたがどれほど彼を愛し、彼もまた、あなたを愛しているか……」
「は? い、いや、愛してなど――」
「苦しいですよね。私のせいで、二人の愛を引き裂いてしまって。でも安心してください。私は絶対に、あなた方の邪魔はしません。私が……私がいつかこの『役目』を終えていなくなれば、きっとまた元通りに……」
私が涙ながらに『いつか離婚していなくなるから待っていて』という旨を伝えたつもりのその言葉は。
カミラ夫人にとっては、まったく別の意味に聞こえていた。
(『いつか役目を終えていなくなる』……!? まさかこの奥様、公爵閣下の異常な愛を受け止めきれず、自ら命を絶とうとしているのでは!? いや、それよりも『愛を引き裂いた』って、奥様がまだ閣下の愛を信じていない!? もしこの誤解が閣下にバレたら、今度こそ私は物理的に消される!!)
カミラ夫人の顔色が、青から白、そして土気色へと変わっていく。
「ち、違いますリリア奥様! 誤解です! 閣下が愛しているのは宇宙でただ一人、あなただけです! 私は本当に路傍の石以下の存在で――!!」
「無理をして庇わなくてもいいのです。……彼の冷酷さは、私が一番よく知っていますから」
私が悲痛な笑みを浮かべた、その時だった。
「――リリア。そこで、何をしている?」
地獄の底から響いてくるような、絶対零度の声。
大広間の空気が、一瞬にして凍りついた。
振り返ると、そこには漆黒のオーラを纏い、青い瞳に狂気と殺意をギラギラと漲らせたユリウス様が立っていた。
「ゆ、ユリウス様……!」
「ヒィッッ!! こ、公爵閣下!!」
カミラ夫人は悲鳴を上げ、まるで蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
ユリウス様はズカズカと歩み寄ると、私をカミラ夫人から引き剥がすように抱き上げ、自身の背後に庇った。
「私が……『二度と私の妻に近づくな』と警告したはずだが。お前は命が惜しくないようだな、カミラ」
「ち、違います! 私はただ、奥様に誤解を解こうと……っ!」
「黙れ。お前の汚い息がリリアにかかることすら不愉快だ。近衛! この女をつまみ出せ!!」
ユリウス様の怒号に、広間中の空気がビリビリと震える。
カミラ夫人は近衛騎士たちに両脇を抱えられ、「ひぃぃぃ! 奥様ぁぁ! どうか閣下の誤解を解いてくださいませぇぇ!」と絶叫しながら引きずり出されていった。
(ああ、なんてむごい……! 本当は愛しているくせに、スパイ(私)の目を欺くためにあんな残酷な真似を……!)
私は、あまりの恐怖と申し訳なさに、ユリウス様の腕の中でガタガタと震え出した。
「……すまない、リリア。怖い思いをさせたね」
カミラ夫人が消えた途端、ユリウス様は私に向けた瞳を一瞬で甘く蕩けるようなものに変え、私の頭を優しく撫でた。
その完璧な切り替えが、私には何よりも恐ろしかった。
「あの女が君に何を吹き込んだかは知らないが、何も信じなくていい。私の心には君しかいない。君を不安にさせる要素は、すべて私がこの手で排除してあげよう」
「う、ううっ……」
「ほら、震えている。外の世界はやはり危険すぎる。さあ、帰ろう、私たちの絶対安全な愛の巣(寝室)へ。……もう二度と、君を外へは出さないからね」
こうして、私の初めての社交界デビューは、最悪の勘違いと絶望を残したまま、わずか三十分で幕を閉じた。
円満離婚への希望は完全に打ち砕かれ。
愛人を切り捨ててでも国家防衛(スパイ監視)を徹底する冷酷公爵様の『鳥籠』の鍵は、二度と開かないように固く、固く閉ざされてしまったのだった。




