奇跡の胎動と、世界一優しいハイタッチ〜旦那様の掌が震えた瞬間、我が子との魔力共鳴が起きました〜
つわりの嵐が過ぎ去り、穏やかな季節の風が吹き抜ける頃。
私のお腹は少しずつ、けれど確実にふっくらと丸みを帯び始めていた。
クロエちゃんの厳しい指導の甲斐あって、ユリウス様は「静音モード」と「手作業の加減」を順調にマスターしつつあった。
もちろん、その内側に渦巻く愛の重さは何ひとつ減っていないのだが、今の彼は「リリアとお腹の子に負担をかけないこと」を最優先事項として、全知全能の自制心をフル稼働させている。
ある日の午後。
執務の合間に、ユリウス様が丁寧に淹れてくれたノンカフェインのハーブティーを飲みながら、私はサンルームの長椅子で寛いでいた。
「リリア、足元が冷えてはいないか? このブランケットの温度は適切だろうか。暑すぎたり寒すぎたりしたら、即座に申告してほしい」
「ふふ、大丈夫ですよ。すごく心地いいです」
ユリウス様は私のすぐ隣に腰掛け、私の顔色を一秒たりとも見逃すまいと真剣な眼差しで見つめている。
そんな穏やかな時間の中、ふいに。
――ぽこっ。
「……えっ?」
下腹部の内側から、小さな泡が弾けたような、微かな衝撃が伝わってきた。
「リリア!? どうした、腹痛か!? どこか痛むのか!?」
私のわずかな表情の変化を見逃さず、ユリウス様がバッと身を乗り出した。
その瞳に一瞬、敵を警戒するような鋭い光が宿る。
「ち、違いますユリウス様、痛くありません! 敵でもありません!」
「では、一体何が起きたのだ!?」
「……今、お腹の中で、動いたんです」
「う、動いた……?」
ユリウス様は彫像のように硬直した。
「はい。ぽこん、って……蹴ったみたいで」
「我が子が……我が愛する妻の胎内で、み、自らの意志で手足を動かしたというのか……!?」
ユリウス様の顔がみるみるうちに紅潮し、背中から見えない尻尾が猛烈な勢いで旋回を始めた。
「おおおおおっ……!! す、すぐにお腹に耳を当てて我が子の鼓動を全身で受信し、音波の波形を五線譜に記録して家宝の交響曲として――」
ピシィッ!!
いつの間にか現れていたクロエちゃんが、愛用の指示棒でユリウス様の額を正確に小突いた。
「痛っ!?」
「狂犬おじさん、落ち着きなさい。いきなり頭突きみたいに突進したら、おばさまのお腹が圧迫されて危険でしょ」
「く、クロエ先生……!」
「胎動を感じる時期になったのね。おじさん、触らせてもらいなさい。ただし、魔力はゼロ。手のひらを優しく添えるだけ。ぎゅうぎゅう押したら出入り禁止にするわよ」
「ぜ、全力を尽くしてソフトに触れる……!!」
ユリウス様はごくりと喉を鳴らし、ズボンの太ももで自分の掌を念入りに拭った。
大陸最強と謳われる魔法剣士の手が、まるで爆弾を解体するかのように、小刻みにプルプルと震えている。
「あいつ、あんなに震えている姿は魔獣の群れを前にしても見せたことがないぞ」
サンルームの入り口で、シリル様がスコーンを優雅にかじりながら笑っている。
「記録。従兄殿の心拍数が毎分百八十を記録。極度の緊張状態にあります」
ソフィア様も眼鏡のブリッジを押し上げ、静かに見守っていた。
「リリア……触れても、いいだろうか……?」
捨てられた子犬のように、おずおずと上目遣いで尋ねてくるユリウス様。
「はい。どうぞ、ユリウス様」
私が微笑んで頷くと、彼は深呼吸を一度し、膝をついて私の正面にしゃがみ込んだ。
そして、その大きくて少しゴツゴツとした掌を、私のふくらんだお腹の上に、壊れ物に触れるような手つきでそっと添えた。
「……あたたかい」
ユリウス様が息を呑む。
静かなサンルーム。
時計の針の音だけがチクタクと響く中、ユリウス様は息をするのも忘れたかのように、全神経を掌の一点に集中させていた。
一秒、二秒、三秒……。
そして。
――トスッ。
まるで、外側から触れてきた父親の大きな温もりに応えるように。
お腹の内側から、はっきりと力強い小さな蹴りが、ユリウス様の掌を押し上げた。
「――っっっ!?」
ユリウス様の氷の青い瞳が、限界まで見開かれた。
息が詰まり、声が出ないまま、彼は自分の手とお腹を交互に見つめる。
「動いた……今、確かに……私の手のひらを、小さな足が……」
「ふふ、元気いっぱいですね」
「我が子が……私に、触れてくれた……! 私の存在を認識し、挨拶をしてくれたのか……!? これは、ハイタッチなのか……!?」
ポロポロと、大粒の涙がユリウス様の瞳から溢れ出した。
声にならない嗚咽を漏らしながら、彼は震えるもう片方の手で口元を覆った。
「うぅっ……うおおおおん……! 生きている……! ここで、私とリリアの子が……懸命に命を育んでいる……!!」
暴れることも、魔力を爆発させることもなく。
ただただ、純粋な父性と感動に打ち震え、大の大人が子どものように涙を流している。
その姿には、かつての冷酷な公爵の影も、手のつけられないヤンデレの狂気もなかった。
その時だった。
ふわり、と柔らかな光が、ユリウス様の掌と私のお腹の隙間から溢れ出した。
「……あれ?」
それは、世界を凍りつかせるあの鋭利な冷気ではなかった。
春の雪解け水のように澄み渡った、驚くほど温かい淡い青色の光。
そして、それに応えるように、私のお腹の奥底から、小さく、けれど力強い黄金色の魔力の輝きがぽうっと灯ったのだ。
青と金。
二つの魔力が、互いを慈しむように、優しく、穏やかに溶け合っていく。
「分析……。赤ちゃんの微弱な生体魔力と、従兄殿の魔力が波長を同調させています。……攻撃性、完全なるゼロ。これは、魔力による『親子の対話』です」
ソフィア様が、少しだけ目元を緩めて呟いた。
「おいおい……あの男の魔力ってのは、触れたもの全てを凍結粉砕する劇薬じゃなかったのかよ。あんな、毛布みたいに温かい魔力を放つ従兄殿なんて、生まれて初めて見たぞ」
シリル様も、温かい眼差しで二人を見つめている。
「……リリア」
光の中で、ユリウス様が涙に濡れた顔を上げた。
「私は……誓う。この命の全てを、この魂の全てを賭けて……君と、この子を護り抜く。誰よりも強く、そして誰よりも優しい父親になってみせる」
その言葉は、もはや私への歪んだ執着から出たものではなかった。
新しい命を育み、家族を守るという、本物の『覚悟』に満ちた声だった。
「はい。信じていますよ、ユリウス様」
私は彼の手の上に、自分の手をそっと重ねた。
お腹の中の小さな命も、嬉しそうにもう一度、ぽこんと動いた。
「……合格ね」
腕を組んでいたクロエちゃんが、ふっと大人びた笑みをこぼして指示棒を引っ込めた。
「狂犬おじさん。今の顔、ちゃんとお父さんに見えたわよ」
「クロエ先生……っ!!」
感極まったユリウス様が、鼻水をすすりながらクロエちゃんにも抱きつこうとして、「近寄らないで、汚い」と即座に回避されるというオチはついたものの。
胎動という奇跡がもたらした世界一優しいハイタッチは、私たちの絆を、いっそう強く確かなものにしてくれたのだった。




