つわりの朝と、匂いなき愛妻料理〜すべての匂い分子を消滅させようとする旦那様に、幼女先生の鉄槌が下ります〜
お腹の中に小さな命が芽生えてから、数週間が経ったある朝。
目覚めた瞬間、私は胃のあたりに鉛を詰め込まれたような、強烈な不快感に襲われた。
「(……うっ……気持ち悪い……)」
これが、いわゆる『つわり』というものなのだろう。
なんとか身を起こしてダイニングへ向かったものの、テーブルの上に並べられた湯気立つ焼きたてのパンと、香ばしいベーコンの匂いが鼻腔をかすめた瞬間、胃袋がキュッと悲鳴を上げた。
「……っ、う……!」
思わず口元を手で押さえ、その場にうずくまってしまう。
「リリアァァァッ!?」
その様子を見た瞬間、向かいの席にいたユリウス様が椅子を跳ね飛ばし、音速で駆け寄ってきた。
「顔が真っ青だ! 呼吸も荒い! な、何者だ……! 何者が我が愛する妻を、そして我が子の揺りかごを苦しめているのだ!!」
ユリウス様の氷の青い瞳が、カッと血走る。
彼は私の視線の先にある朝食テーブルを睨みつけ、凄まじい殺気と冷気を立ち昇らせ始めた。
「貴様らか……! 朝食の分際で、湯気などという不埒な煙を立ててリリアを苦しめおって……! 許さん! 今すぐこの城、いやこの公爵領全域に存在するすべての『匂い分子』を絶対零度で凍結させ、分子レベルで消滅させてやる!!」
ドワァァァァッ!!
城のステンドグラスがガタガタと悲鳴を上げ、床に霜が張り付き始めた。
匂いを消すために領地ごと真空状態にしようとする、相変わらず極端すぎるヤンデレ公爵の暴走。
「(だ、ダメ……声が出ない……コマンドが……)」
吐き気で息が詰まり、「待て」の一言すら絞り出せない私の目の前に――。
――ピシャァァンッ!!
小気味よい音が響き、ユリウス様の太ももに、小さな指示棒がクリーンヒットした。
「痛っ!?」
「バカなの?」
いつの間にか現れていたクロエちゃんが、子供用の白衣を着て腕を組み、冷え切った視線をユリウス様に突き刺していた。
「匂い分子を全部消滅させたら、おばさまは呼吸ができなくなって窒息死します。それに、急激な気圧変化と極低温は、妊婦の血管に最悪の負担をかけます。おじさんの愛、毎回殺傷能力が高すぎて本当に迷惑」
「ぐはぁっ……!?」
正論の刃が、最強の公爵様の鳩尾を正確に刺し貫いた。
「つわりはホルモンバランスの変化によって起きる、ごく自然な生理現象です。敵がいるわけでも、毒を盛られたわけでもありません。大気汚染を引き起こす前に、まず換気をして温かい食事を遠ざけなさい」
「は、はいぃぃっ……!!」
ユリウス様は涙目で床の冷気を引っ込め、手動で窓を開け放ち、朝食のワゴンを廊下の遥か彼方へと押し出した。
朝の澄んだ風が部屋に吹き込み、温かい油の匂いが消えると、私の吐き気もようやく少しだけ落ち着いてくれた。
「ふぅ……助かりました、クロエちゃん」
「どういたしまして、リリアおばさま。……まったく、手のかかる狂犬ね」
「……ああ、なんと素晴らしい朝だろう」
サンルームの扉から、シリル様が高級ハーブティーの湯気を優雅に吸い込みながら現れた。
「かつてなら、私が『概念切断』を叫びながら血反吐を吐いて胃薬をあおっていた修羅場が……たった一言の正論で鎮火する。クロエ、お前は我が家の守護天使だ」
「記録。夫の胃粘膜の状態は極めて良好。……一方、従兄殿の父親適性値は、再びマイナス四万九千九百へと後退しました」
ソフィア様がバインダーに淡々と数値を書き込んでいる。
「し、しかしクロエ先生! 朝食を下げてしまっては、リリアとお腹の子の栄養が……!」
床に正座したユリウス様が、おろおろと縋り付くように訴えた。
「つわりの時期は、無理にフルコースを食べる必要はありません。食べられるものを、食べられる時に少しずつ摂ればいいの。……冷たくて、水分が多くて、酸味のあるものなら喉を通りやすいはずよ。たとえば、すりおろしたリンゴとか」
「リンゴだな!? よし、最高級のリンゴを空間転移で――」
「転移はいいけど、魔法で一瞬ですりおろすのは禁止」
クロエちゃんが人差し指をピシッと立てた。
「魔法で破砕すると、熱でビタミンが壊れるし、食感が死にます。おじさんの手で、丁寧にすりおろしなさい。繊維の細かさを指先で確認しながら、プレママの弱った胃に負担をかけないよう、極上の滑らかさを目指すの」
「手作業……! 私の、この手でか……!」
ユリウス様は自らの大きな両手を見つめた。
かつて木彫りの簪を作ろうとして、四百本以上の丸太を粉砕したその怪力。
「やってみせる……! リリアが一口でも口にできるなら、私の全筋力を極限まで制御してみせる!!」
こうして、厨房での『すりおろしリンゴ特訓』が始まった。
――バキィッ!!
「ああっ! リンゴがおろし器ごと真っ二つに砕けた……!」
「おじさん、力任せに押し付けすぎ。握力五百キロで握らないで」
――シュパァァッ!!
「粉々になりすぎて、果汁の霧が天井まで吹き飛んだぞ!?」
「手首のスナップを使いすぎ。剣を振るんじゃないの」
クロエちゃんの容赦ないダメ出しを受けながら、ユリウス様は滝のような汗を流し、何個ものリンゴと向き合った。
一切の魔力を封印し、愛する妻が吐き気を催さないための、究極に優しく、滑らかな力加減。
かつて敵国を震え上がらせた卓越した身体能力が、今、たった一つの陶器製のおろし器の上で、ミリ単位の繊細さへと研ぎ澄まされていく。
「……リリア」
三十分後。
ソファで横になっていた私の元へ、ユリウス様が足音を殺して戻ってきた。
その手には、氷の魔力でわずかに冷やされた小さなガラスの小鉢。
中には、驚くほどきめ細やかにすりおろされた、淡い黄金色のリンゴが入っていた。
「レモン果汁を極微量だけ垂らして、変色を防ぎ、さっぱりとした後味にしてある。……匂いは、ほとんどないはずだ。無理にとは言わないが……一口だけ、試してみてくれないか?」
大人の男を目指す彼の声は、ひどく静かで、けれど震えるほど優しかった。
額には汗が滲み、指先はわずかにリンゴの果汁で濡れている。
彼がどれほど集中してこれを作ってくれたかが、一目でわかった。
「……いただきます」
私はスプーンを受け取り、淡い色のすりおろしリンゴをすくって、そっと口に含んだ。
「……っ」
冷たくて、みずみずしい甘み。
嫌な匂いは一切なく、すっと喉を滑り落ちていく。弱りきっていた胃袋に、染み渡るような優しさが広がった。
「……美味しい」
私が顔を上げて微笑むと、ユリウス様の氷の青い瞳が大きく見開かれた。
「本当に……? 気持ち悪く、ないか……?」
「はい。すごく滑らかで、甘酸っぱくて……これなら、全部食べられそうです」
私がもう一口スプーンを運ぶのを見て。
ポロポロと、大粒の涙がユリウス様の頬を伝い落ちた。
いつもなら「おおおおおっ!」と咆哮を上げるところだが、今の彼は、私が驚かないように必死に口元を手で押さえ、声を出さずに泣いていた。
「(……暴れずに、我慢してる)」
歓喜で爆発しそうなエネルギーを、私のために懸命に抑え込み、ただただ嬉しそうに涙をこぼす旦那様。
その姿は、どんなチート魔法を使っている時よりも、ずっと頼もしく、温かい『夫』であり『父親』の顔だった。
「記録。従兄殿が『プレママの体調に配慮した静音モード』の習得に成功しました。……父親適性値、大幅にプラス補正です」
「よし、クロエ。今日のお礼に、街の美味しいケーキを買いに行こう」
「賛成。シリルおじさまの奢りね」
静かに部屋を出ていくシリル様たちの足音を聞きながら、私はガラス鉢のリンゴを最後の一口まで綺麗に平らげた。
「ごちそうさまでした、ユリウス様。……すごく、元気が出ました」
「リリア……っ」
私は彼の手をそっと取り、自分の頬にすり寄せた。
まだ少しリンゴの甘い香りが残るその大きな手は、これから生まれてくる私たちの宝物を守るために、誰よりも優しく成長し続けているのだった。




