幼女先生のスパルタ沐浴特訓!〜魔法を封印された旦那様が、3キロの人形相手に死闘を繰り広げます〜
私のお腹に新しい命が宿っていることが判明し、ユリウス様を「まともな父親」に更生させるため、シリル様たちの姪っ子・クロエちゃん(六歳)によるスパルタ育児特訓が始まってから数日が経過した。
「……素晴らしい。朝のハーブティーが、胃の粘膜ではなく純粋に味蕾に染み渡る。胃薬を飲まずに迎える朝が、これほど美しいとは……!」
サンルームの隅で、シリル様が優雅にティーカップを傾け、感動の涙を拭っている。
クロエちゃんがユリウス様を完封してくれているおかげで、彼の長年の胃痛は完全に消え去っていた。
一方、サンルームの中央では。
かつて周辺諸国を震え上がらせた『氷の狂犬』ことユリウス様が、六歳の幼女の前に正座し、滝のような冷や汗を流していた。
「狂犬おじさん。今日の課題は『沐浴』です」
クロエちゃんは、子供用の白衣(ソフィア様のお手製)を羽織り、小さな指示棒で黒板代わりのホワイトボードをピシィッ!と叩いた。
「も、もくよく……! つまり、神聖なる我が子を清めるための、重大な儀式だな!?」
「ただのお風呂です。大げさに言わないで」
クロエちゃんは容赦なく一刀両断すると、ベビーバス(赤ちゃん用のお風呂)と、本物の赤ちゃんとほぼ同じ重さ・サイズで作られた『赤ちゃん人形(約三キロ)』を用意した。
「首が座っていない赤ちゃんをお風呂に入れるのは、とても繊細な作業です。さあ、やってみて」
「よし……任せておけクロエ先生! 我が子(人形)の肌に触れる水は、世界樹の根元から湧き出る聖水を空間転移で――」
「却下。普通のぬるま湯を使って」
「くッ……ならば温度調節だ! 私の氷と炎の魔法を完璧にブレンドし、赤子にとって最適とされる三十八・〇〇〇度の絶対水温を一瞬で――」
ピシャァッ!!
クロエちゃんが持っていた指示棒で、ユリウス様の腕をペチンと叩いた。
「痛っ!?」
「おじさん、バカなの? 魔法で温度を固定したら、もしおじさんの集中力が一瞬でも途切れた時、赤ちゃんが熱湯で茹で上がるか、氷漬けになるかのどっちかでしょ? リスク管理ができなさすぎ」
「ゆ、茹で……氷漬け……!!」
ユリウス様は想像して血の気を引き、ガクガクと震え出した。
「機械や魔法に頼り切る親は三流です。自分の手の甲で温度を確かめて。少しぬるいくらいが正解。はい、お湯を入れて」
「は、はいぃぃっ!」
魔力を完全に封印された最強の公爵は、普通のバケツと桶を使い、プルプルと腕を震わせながらベビーバスにお湯を張り始めた。
「(……すごい。あんなに魔法至上主義だったユリウス様が、クロエちゃんの正論に一切逆らえないなんて)」
私はノンカフェインの紅茶を飲みながら、その光景を微笑ましく見守っていた。
クロエちゃんの言葉は厳しいけれど、すべては「私と赤ちゃんを安全に守るため」の正論だ。
だからこそ、ユリウス様も必死にそれに従おうとしているのだ。
「お湯の準備ができました、クロエ先生!」
「じゃあ、人形を入れて。片手で首と頭をしっかり支えて、落とさないように」
「承知した!」
ユリウス様は、大きく深呼吸をしてから、赤ちゃん人形に手を伸ばした。
剣を握れば巨大魔獣を一刀両断し、魔法を放てば地形を変えるその巨大な両手が、たった三キロの、小さな小さな人形の背中と首にそっと添えられる。
「……っ!」
人形を持ち上げた瞬間、ユリウス様の体がビクンと強張った。
首がグラグラしないように左手でしっかりと支え、右手でそっとお湯をかける。
その動きはまるで、錆びついた機械のロボットのようにカクカクとしていた。
「おじさん、肩に力が入りすぎ。もっとリラックスしないと、赤ちゃんが怖がるよ」
「し、しかし! もし私の力が強すぎて、この細い腕が折れてしまったら……! もしお湯に顔が浸かってしまったら……!」
顔面蒼白になりながら、ユリウス様は必死にお湯をかけ続ける。
いつもなら「私の魔力で汚れだけを完璧に消滅させる!」と豪語する彼が、自分の手のひらを使って、人形の体を優しく、優しく撫でるように洗っていた。
――チート魔法なんて、育児にはいらない。
自分の手で温度を感じ、自分の腕で重さを知り、怖いくらいの責任感と共に、新しい命と向き合うこと。
「(……ユリウス様……)」
大粒の汗を流しながら、決して人形から目を離さず、全神経を集中させて沐浴を続ける彼の横顔を見て。
私は、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
「……ふきふき、完了しました……」
数分後。
無事に人形を洗い終え、タオルで綺麗に拭き上げたユリウス様は、魂が抜けたような顔で床に突っ伏した。
「ハァッ……ハァッ……! 巨大クラーケンを十匹同時に相手にするより、何万倍も疲労した……! なんだあの脆くて尊い物体は……!」
「お疲れ様。まぁ、初めてにしては落とさなかったし、及第点(Cマイナス)をあげる」
クロエちゃんがバインダーにチェックを入れ、少しだけ満足げに頷いた。
「Cマイナス……! 赤点回避……!!」
ユリウス様は床に這いつくばったまま、歓喜の涙を流した。
私はソファから立ち上がり、床でゼェゼェと息を切らしている彼のもとへ歩み寄った。
「お疲れ様です、ユリウス様」
「リリア……! すまない、君の夫は不器用で、魔法を使わないとただの木偶の坊になってしまう……」
「そんなことないですよ」
私はしゃがみ込み、彼の汗ばんだ銀髪をタオルで優しく拭ってあげた。
「魔法を使わずに、一生懸命に力加減をして、お湯の温度を気にしてくれた。その姿、世界中のどんな魔法よりもカッコよかったですよ」
「……リリアァッ!!」
私の言葉を聞いた瞬間、ユリウス様の背後に巨大な幻覚の尻尾が現れ、猛烈な勢いでパタパタと振られ始めた。
「私は! 私は君とこの子のためなら、魔法など一生使えなくなっても構わない!! ああ、早くこの腕で、本物の我が子を抱きしめたい!!」
「ふふっ。そのためにも、クロエ先生の特訓、これからも頑張りましょうね」
「記録。従兄殿の『父親スキル』が、マイナス五万から、マイナス四万九千にレベルアップしました」
「……先は長そうだが、俺の胃は平和そのものだ。クロエ、今度お小遣いを弾んでやろう」
ソフィア様の淡々とした分析と、すっかり健康を取り戻したシリル様の笑い声がサンルームに響く。
最強の狂犬から、不器用で真っ直ぐなパパへ。
新しい命を迎えるためのドタバタで愛おしい特訓の日々は、こうして幕を開けたのだった。




