忠犬モードを封印した夜〜不器用な旦那様が見せた『大人の男』の素顔に、私の心臓が止まりそうです〜
私が不格好な手作りの木彫りの簪をもらい、ユリウス様の真っ直ぐな愛情をまた一つ受け取ってから数日。
城の夜は、珍しく静寂に包まれていた。
入浴を終え、寝室へ戻った私は、ふと足を止めた。
部屋の奥で、ユリウス様がちょうど寝香水をつけるために、シャツのボタンを外しているところだった。
「(……あっ)」
月明かりに照らされた、彼の引き締まった広い背中。
その肩甲骨の少し下あたりに、斜めに走る『古い傷跡』があるのが見えた。
いつもは服や強大な魔力に隠れて気づかなかったが、それは刃物か、あるいは魔獣の爪で深く抉られたような、痛々しい痕だった。
「……リリア?」
私の気配に気づき、ユリウス様はハッとして素早くシャツを羽織った。
「あ、ごめんなさい。覗くつもりは……」
「いや、いいんだ。……ただ、あまり美しいものではないから、君の目を汚したくなくて」
いつもなら「私の肉体美を君の瞳に焼き付けてくれ!」と幻覚の尻尾を振って迫ってくるはずなのに、今夜の彼はどこか静かだった。
私はゆっくりと歩み寄り、ベッドの端に腰を下ろした彼に並んで座った。
「あの傷……いつ、できたものなんですか?」
「……数年前だ。北の国境に魔獣の群れが出た時、討伐の際に少し気を抜いてね。今ほどの魔力制御ができていなかった頃の、未熟な私の勲章のようなものさ」
彼は自嘲気味に微笑み、私の隣で、大きな両手を見つめた。
「リリア。私は最近、少し考えるんだ」
「何をですか?」
「……私は、君に甘えすぎているのではないか、と」
ユリウス様の氷の青い瞳が、真剣な熱を帯びて私を捉えた。
「私は君を愛している。愛しすぎて、自分の魔力も情熱も、どうコントロールしていいかわからなくなる。
だから……君の『待て』や『お座り』というコマンドに、ひどく救われているんだ。
君が手綱を握ってくれている限り、私は君を傷つけずに済むと」
「ユリウス様……」
「だが、それは裏を返せば、君に常に『猛獣使い』としての負担と緊張を強いているということだ」
彼はギリッと奥歯を噛み締めた。
「ヴィクトルのような大人の余裕もない。君が手を握ってくれなければ、暴走して世界を凍らせてしまう。……私は、君を本当に幸せにできているのだろうか。ただ、君の優しさに寄りかかっているだけの、手のかかる獣なのではないか」
彼の内側に秘められていた、深い葛藤。
圧倒的な力を持つがゆえの孤独と、私を大切に想うからこその自己嫌悪が、そこにあった。
「……バカですね」
私はそっと手を伸ばし、彼のシャツ越しに、あの傷跡がある背中を優しく撫でた。
「手がかかるのは事実です。一歩間違えれば城が氷河期になるし、毛糸玉に殺意を向けるし、マフラーを巻いたまま植え込みに突っ込むし」
「うっ……面目ない……」
「でも、私があなたの手綱を握っているのは、義務だからじゃありません」
私は彼の大きな手を、自分の両手で包み込んだ。
「あなたが、私を世界で一番大切にしてくれているのがわかるから。あなたの真っ直ぐな愛情が、私に安心をくれるからです。……猛獣使いだなんて思ってませんよ。私は、あなたの『妻』ですから」
私が真っ直ぐに目を見て微笑むと、ユリウス様の瞳が微かに揺れた。
いつもなら、ここで「おおおおおっ! リリアァァッ!」と大号泣しながら足元にスライディング土下座をしてくるタイミングだ。
しかし。
今夜の彼は、床に膝をつかなかった。
「……そうか」
ユリウス様は、私の手を握り返した。
そして、もう片方の手で私の頬をそっと包み込むと、静かに、本当に静かに、距離を詰めてきた。
「(えっ……?)」
ヤンデレの狂気も、忠犬としての過剰な歓喜もない。
そこにあるのは、愛する女性を慈しむような、ひたすらに優しく、熱い眼差しだけ。
「君が私を夫として受け入れてくれるなら……私も、君に甘えるだけの獣からは卒業しなければならないな」
低く甘い声が耳元を撫でた直後。
彼の形の良い唇が、私の唇に、そっと重なった。
「――っ」
触れるだけの、羽のようなキス。
しかしそれはすぐに、熱を帯びた大人の口付けへと変わった。
彼の大きな手が私の後頭部を優しくホールドし、決して乱暴にはせず、ただ深く、溶け合うような時間を紡いでいく。
無尽蔵の体力と情熱を持つ彼が、そのすべてのエネルギーを『私を優しく愛すること』だけに一点集中させているのが伝わってきて、私の心臓は爆発しそうなくらい早鐘を打っていた。
「……愛している、リリア」
唇が離れた後、彼は私の額に自分の額をコツンと当て、吐息混じりに囁いた。
「いつか必ず、君がコマンドを出さなくても、君を安心させられる『大人の男』になってみせる。だから……それまで、もう少しだけ、私の隣にいてほしい」
私は顔を真っ赤にして、コクンと頷くことしかできなかった。
翌朝。
ダイニングルームの空気が、かつてないほど澄み切っていた。
「おはよう、リリア。今日の紅茶は、君の好きなダージリンにしてみた。……少し熱いから、気をつけて」
ユリウス様が、完璧な姿勢で私のカップに紅茶を注ぎ、穏やかな微笑みを向けてきた。
四つん這いにもならない。幻覚の尻尾も振っていない。ただ、妻を慈しむ『完璧な紳士』の姿がそこにあった。
「あ、ありがとう、ございます……」
昨夜のキスの記憶が蘇り、私はカップを受け取る手が少し震えてしまった。
「……記録。室内の魔力異常、ゼロ。従兄殿の奇行、ゼロ。……信じられません。彼が『自制』という概念を完全に学習しました」
壁際でバインダーを持ったソフィア様が、眼鏡の奥で目を丸くしている。
「あ、あり得ん……。あのブレーキの壊れた狂犬が、義姉上のコマンドなしに、自力で大人の余裕を醸し出しているだと……!?」
シリル様がホイッスルを握りしめながら、逆に恐怖でガクガクと震えている。
一見、完璧な『大人の男』へと成長を遂げたように見えるユリウス様。
しかし、私の席の隣に座った彼の手元を、私は見逃さなかった。
「(……ティーカップの持ち手が、私の淹れた紅茶を飲んでもらえる嬉しさと、紳士を演じ切る我慢のせいで、微かにプルプル震えてる……!)」
内なる忠犬は大暴れしているが、彼は必死にそれを理性で押さえ込んでいるのだ。私を安心させる、余裕のある夫になるために。
「(……ふふっ。本当に、不器用なんだから)」
私はテーブルの下で、プルプル震えている彼の左手を、そっと自分の手で握ってあげた。
ユリウス様の肩がビクッと跳ね、耳の先が真っ赤に染まる。
コマンドはいらない。
ただ寄り添い、体温を分け合うだけ。
ヤンデレ公爵の極端すぎる愛は、こうして少しずつ、確かな『夫婦の絆』と『大人の余裕』へと、形を変え始めていた。




