旦那様が勝手に空気を読みました〜忠犬モードを解除して見せた、完璧なエスコートに胸が高鳴ります!〜
私が「待て」や「お座り」のコマンドでユリウス様を手懐けるようになってから、城には比較的穏やかな時間が流れていた。
そんなある日の朝。
「……というわけで、本日は私たち夫婦の『有給休暇』を消化させていただきます」
「緊急の事態が起きない限り、通信魔導具はオフにしておきます。では、ごゆっくり」
シリル様とソフィア様が、私服姿で連れ立って城の門を出ていくところだった。
いつも私たちのカオスな日常の尻拭いをしてくれている二人だ。たまには夫婦水入らずの休日を楽しんでほしい。
……が、それは同時に、ある重大な事実を意味していた。
「(ヴィクトル様は海へ旅立ったし、シリル様たちも不在……。今日一日、この広大な城で、私とユリウス様は完全に『二人きり』ってこと!?)」
使用人たちは遠巻きに控えているものの、何かあった時にユリウス様の魔法を無効化できるストッパーが誰もいない。
私が気を抜いてコマンドを出し遅れれば、瞬時に城が氷河期に沈むか、私が重金属ダルマに封印されるかのどちらかだ。
「よし……。今日は一日、気を引き締めて猛獣使いの職務を全うしなきゃ!」
私は気合を入れ、寝室の扉を開けた。
「ユリウス様! 今日の予定ですが……え?」
部屋に入った私は、思わず言葉を失った。
いつもなら「おはよう、ご主人様!」と幻覚の尻尾を振りながら足元に伏せているはずのユリウス様が、そこにいなかったのだ。
代わりに立っていたのは、一寸の乱れもない完璧な燕尾服に身を包み、スッと背筋を伸ばした、極めて洗練された貴族の姿だった。
「おはよう、リリア」
ユリウス様は、氷のように澄んだ青い瞳を細め、穏やかに微笑んだ。
四つん這いにもならない。服の下の首輪もチラつかせない。ただ静かに私の前に歩み寄り、ひざまずくことなく、私の右手をそっと取って甲にキスを落とした。
「ゆ、ユリウス様……? どうしたんですか、いきなり」
「今日はシリルたちもいない。君と私、夫婦水入らずの貴重な休日だ」
彼の声は低く、落ち着いていた。若き公爵としての有り余る情熱が、今日は奇妙なほど静かに、しかし熱を帯びて内側に秘められているのがわかる。
「いつも君には『番犬』として負担をかけてしまっているからね。今日一日は、君のコマンドは必要ない。私が君を、完璧にエスコートしよう」
「(……ええっ!? 勝手に空気を読んで、忠犬モードを解除した!?)」
驚く私をよそに、ユリウス様は私の腰にそっと手を添え、優しく廊下へと誘導した。
それからの数時間は、私の知る「ヤンデレ公爵との日常」とは、あまりにもかけ離れたものだった。
昼食は、中庭に設えられたテーブルで。
彼が魔法で巨大な世界樹を錬成することもなく、ただ一輪の美しい青い薔薇をグラスに生け、「君の瞳のように美しい」とサラリと言ってのける。
午後は、図書室での読書。
私が少し高い本棚に手を伸ばそうとすると、彼が後ろからスッと手を伸ばし、代わりに本を取ってくれる。
その時、彼の引き締まった胸板が私の背中に軽く触れ、微かな香水の匂いがふわりと香った。
「(な、なんなのこれ……。すごく、普通に……カッコいいんですけど!)」
ヴィクトル様のような『枯れた大人の余裕』とは違う。
研ぎ澄まされた刃のような美貌と、隠しきれない若々しい熱情を、私のためだけに懸命にコントロールしている『真っ直ぐな愛情』。
私は、自分が少しずつ、彼にペースを握られていることに気づいていた。
いつもなら「お座り!」と一喝して主導権を握るのに、今日の彼は完璧すぎてコマンドを出す隙が全くないのだ。
「……疲れてはいないか、リリア」
夕暮れ時。
私たちはバルコニーで、茜色に染まる空を眺めていた。
「ええ、とても楽しい一日でした。……ユリウス様が、普通にエスコートしてくれたおかげです」
「そうか。君に喜んでもらえて、私も嬉しい」
ユリウス様は、バルコニーの手すりに寄りかかり、私を真っ直ぐに見つめた。
「ヴィクトルから学んだ『大人の余裕』……以前は形だけ真似て失敗したが、少しは身についてきただろうか」
「はい。今日は、本当に……素敵な旦那様だなって、思いました」
素直にそう伝えると、ユリウス様の頬が微かに赤く染まった。
彼がそっと私の頬に手を伸ばす。その指先は熱く、私の心臓の音は、自分でもわかるほどドクドクと早鐘を打っていた。
「リリア。君を愛している。世界中の何よりも」
彼がゆっくりと顔を近づけてくる。
私は目を閉じ、その熱い吐息を受け入れようとした――。
「……ッ!? リリア、どうした!?」
唇が触れ合う寸前、ユリウス様が突然バッと身を引いて、私の顔を凝視した。
「えっ?」
「君の心音……異常なほど脈が速い! それに顔も真っ赤だ! まさか、不治の熱病か!? 毒か!?」
「ち、違います! これは緊張っていうか、その……っ!」
私が慌てて弁解しようとするが、完璧なエスコートを続けていた彼の中で、「リリアの異常(に見える状態)」が最悪のヤンデレスイッチを押してしまった。
「ああ、なんということだ! 私が気取った真似をしている間に、愛する妻が病に冒されていたなんて!! リリア、安心してくれ! 今すぐ君の全身を絶対零度の氷でコーティングし、病の進行を完全に停止させる!!」
ドワァァァァァァッ!!
バルコニーの気温が一瞬で氷点下まで下がり、彼の両手から猛烈な吹雪が噴出し始めた。
「(ロマンチックの賞味期限、やっぱり短い!!)」
私は真っ赤な顔のまま、深く息を吸い込んだ。
「ユリウス様!! 『待て』!!」
「キュンッ!!」
ピタァッ、と吹雪が止み、ユリウス様は瞬時にバルコニーの床に正座した。
「病気じゃありません! ちょっと、胸がドキドキしただけです!!」
「……胸が、ドキドキ? それは、私にときめいてくれたということか……?」
「そ、そうです! だから氷漬けにしないで!!」
私が半ばやけくそで叫ぶと、ユリウス様はパァァァッ!と顔を輝かせた。
「おおおおおっ!! リリアが私にときめいた!! やはり私は世界一幸せな男だ!! さあご主人様、心ゆくまで私を褒めちぎってくれ!!」
結局、最後はいつも通りの『忠犬モード』に戻ってしまった旦那様。
シリル様たちが帰還した時、バルコニーで私が真っ赤な顔をして彼の頭を撫でているのを見て、「平和で何よりです」とソフィア様がバインダーに記録した。
少しずつだけど、彼の中にある純粋な愛情に、私の心は確実に揺れ動かされている。
ヤンデレ公爵とのカオスな日常は、少しの胸のときめきをスパイスにしながら、明日も続いていくのだった。




