旦那様の怪我を手当てしたら、急に『大人の男』の顔を見せてきて私の心臓が爆発しそうです!
国を脅かす軍事国家の艦隊を「ちょっと大掃除してくる」と、たった一人で海へ旅立っていった最強のダンディズム、ヴィクトル様。
彼を見送る際、私が感謝のあまり抱きついたことで、ユリウス様は凄まじい嫉妬に駆られた。
しかし、彼はそれを自身の『我慢』だけで封じ込め、結果として両手を強く握りしめすぎたことで、その拳からは血が滴り落ちていた。
「さあリリア! あの男の匂いは消えたか!? まだなら私がこの身を挺して君を抱きしめ、最高級の薔薇の香油ごと私の匂いを――」
「ストップです! ユリウス様、お座り!」
自室に戻るなり突進してこようとした旦那様を、私はビシィッ!と一喝した。
「キャンッ!(はい!)」
ユリウス様は瞬時に床へ膝をつき、背筋を伸ばして待機姿勢をとる。
「匂いの上書きよりも先です。その手、見せてください」
私は救急箱を取り出し、彼の前にしゃがみ込んだ。
彼の強靭な肉体と無尽蔵の魔力をもってすれば、こんな傷など一瞬で治せるはずだ。
しかし、彼は私が手当てをしようとしていることに気づくと、わざと治癒魔法を止め、嬉しそうに血の滲んだ両手を差し出してきた。
「……バカですね。こんなになるまで我慢して」
「君が私以外の男に触れるのを見るのは、全身の血が沸騰するほどの苦痛だった。だが、君の大切な恩人との別れを、私の安っぽい独占欲で壊したくなかったのだ。……私は、君の誇り高き夫なのだから」
消毒液を浸したコットンで傷口を拭うと、ユリウス様は痛がるどころか、恍惚とした吐息を漏らした。
「ああ……君の柔らかい指先が私の傷に触れている……。このまま一生治らなくてもいい。いや、いっそ毎日自分で拳を砕けば、永遠にこの至福の時間が……」
「変なこと言わないでください。次やったら私が包帯でぐるぐる巻きのミイラにしますよ」
私がジロリと睨むと、彼は「それもいいな……」と頬を染めた。相変わらず重症である。
私はため息をつきながら、彼の手のひらに丁寧に真っ白な包帯を巻いていった。
「記録」
部屋の隅から、ソフィア様がバインダーにペンを走らせる音が聞こえた。
「義姉上と従兄殿のパーソナルスペース、現在ゼロ。心拍数の同期を確認。平和的かつ建設的なスキンシップです。シリルの出番はありません」
「出番がないのは良いことだ……。このまま一生、ホイッスルを吹かずに済む世界になってほしい……」
シリル様が壁際で温かいお茶をすすりながら、涙ぐんでいる。
「はい、終わりましたよ。もう絶対に、自分の体を傷つけるような我慢の仕方は……」
私が包帯を巻き終え、顔を上げた時だった。
「……リリア」
不意に、ユリウス様が私の手を、彼自身の大きな両手でそっと包み込んだ。
いつもなら「ご主人様!」と尻尾を振るような熱狂的な瞳ではない。
氷のように澄み切った青い瞳が、ただ真っ直ぐに、静かな熱を帯びて私を見つめていた。
「えっ……?」
距離が近い。
彼から漂う、微かな冷気と、それ以上に強く感じる圧倒的な男性としての熱量。
整いすぎた美貌が、普段の狂気や忠犬の仮面を脱ぎ捨て、ただ一人の『私を愛する大人の男』としての表情を浮かべていた。
「あの男が去る時……私は、君も一緒に海へ行ってしまうのではないかと、心の底で恐れていた」
低く、甘く、胸の奥を直接撫でられるような声。
「ヴィクトルは強く、頼りがいがあり、私のように君を怯えさせることもない。……だが、君は彼を見送り、私の元に残ってくれた。私という男を、夫として手懐ける道を選んでくれた」
「ゆ、ユリウス様……あの、顔が、近……っ」
私の鼓動が、ドクン、と大きく跳ねた。
包み込まれた手から、彼の体温が火傷しそうなほど伝わってくる。
「ありがとう、私の愛しい人。君が私に手綱を預けてくれる限り、私は君だけの最強の剣であり、盾でいよう。……君を、心の底から愛している」
ユリウス様は、私の手に巻かれた包帯越しではなく、私の指先にそっと唇を落とした。
触れるだけの、羽のように優しいキス。
狂気も、執着も、物理的な束縛もない。ただ純粋で、不器用なほどの愛情表現。
「(な、なにこれ……! ずるい!!)」
私の顔は、一瞬にして林檎のように真っ赤に沸騰した。
いつもなら「重い!」と逃げ出すか「お座り!」と一喝するところなのに、今の彼から放たれる色気と真摯な想いに、私の胸は完全に射抜かれてしまっていた。
「分析。義姉上の顔面温度が急上昇。脳内ホルモンが恋愛モードへ完全移行しました。ロマンスイベント、発生中です」
「よし! いいぞ従兄殿! そのまま普通の、普通の夫婦になるんだ!!」
ソフィア様が実況し、シリル様がガッツポーズをした、次の瞬間。
「ハァァァァァァッ……!! だめだ、リリアの指先の感触が愛おしすぎる!!」
ユリウス様が急に天を仰ぎ、凄まじい勢いで立ち上がった。
「この包帯! 君が私のために巻いてくれたこの純白の布! これは国宝だ! いや、世界遺産だ!! 今すぐこの包帯が汚れないよう、私の両腕を『絶対不壊の永久凍土』でコーティングして、そのまま君を抱きしめて永遠の眠りにつこう!!」
「(……ロマンチックの賞味期限、短っ!!)」
私のトキメキは、光の速さで彼自身の暴走エネルギーによって吹き飛ばされた。
部屋の温度が急激に下がり、ユリウス様の腕から凄まじい冷気が噴き出し始める。
『ピーーーッ!! ピーーーーーッ!!!!』
「レッドカード!! 従兄殿、ロマンチックな雰囲気を自らの狂気でぶち壊すな!! ムードの概念が死んだぞ! ――『概念切断』!!」
シリル様のホイッスルと共に光の刃が飛び、ユリウス様の錬成しかけた永久凍土がパァン!と弾け飛んだ。
「邪魔をするなシリル! 私は今、リリアと愛の極致に達しようとしているのだ!!」
「どこがですか! 義姉上の顔を見てみろ、完全に引いてるじゃないですか!!」
さっきまでの胸の高鳴りはどこへやら。
私は、両腕を広げて迫ってくる規格外のヤンデレ公爵を見据え、深く息を吸い込んだ。
「ユリウス様! 『待て』!!」
「キュンッ!?(は、はいぃっ!)」
私のコマンドで、再び床に正座してシュンとする旦那様。
最強のオジ様が去り、私たち夫婦が直面した新たな日常。
それは、時折見せる『大人の男』としての破壊力抜群な不意打ちに心臓を爆発させられそうになりながらも、数秒後にはいつもの猛獣使いに戻らざるを得ないという、極端すぎる寒暖差との戦いだった。
「……もう、本当に心臓に悪いんだから……」
私は赤くなった頬を両手でパタパタと扇ぎながら、素直に喜べない自分の胸の奥のトキメキを、必死に誤魔化すのだった。




