「部屋が宝石とドレスで埋め尽くされました〜これって慰謝料の先払いですか!?〜」
三日分の仕事を半日で片付け、職務放棄をして帰宅したユリウス様の暴走から一夜が明けた。
二度目の人生、結婚三日目の朝。
現在の私は、どのような状況に置かれているかというと――。
「……あの、ユリウス様。さすがに、そろそろ降ろしていただけないでしょうか」
「駄目だ。君の体温を感じていないと、昨日のように文字が読めなくなってしまう。私は宰相として、国の政務を滞らせるわけにはいかないからね」
なんと、公爵家の私室(しかもベッドの上)に、王城から持ち込まれた膨大な量の書類が山積みにされていた。
ユリウス様はふかふかのクッションを背もたれにしてベッドに座り、その膝の上に私を抱きかかえながら、スラスラと書類にサインをしているのだ。
(宰相閣下が在宅ワーク!? しかも妻を抱き枕にしながら!?)
私の背中には彼の広く温かい胸板が密着し、腰には彼の左腕がガッチリと回されている。
彼は右手だけで羽ペンを走らせ、次々と難しい国政の書類を処理していく。
時折、「んっ」と羽ペンを持ったまま私の首筋にキスを落としてくるので、私はその度にビクビクと肩を揺らしていた。
「あ、あの……こんな重要な国家機密の書類、私のような者が見てしまってもよいのですか?」
「構わない。君は私の妻であり、私の半身だ。私のすべては君のものなのだから、隠し事など一つもない。それに――」
ユリウス様は羽ペンをインク壺に戻すと、私の耳元に顔を寄せ、低い声で囁いた。
「もし君がこの情報を外に漏らそうとしたとしても、それは不可能だ。この部屋の周囲は私の結界魔法と精鋭騎士で完全に封鎖されている。君は、私という鳥籠から永遠に抜け出せないのだから」
「ひっ……!」
耳元で囁かれた重すぎる独占欲に、私は恐怖で喉を鳴らした。
(やっぱり! 私を完全に閉じ込めて、情報漏洩を防ぐ気なんだわ! 『私のすべては君のもの』なんて甘い言葉で誤魔化してるけど、要するに『お前は俺の監視下から一生逃げられない』っていう死の宣告じゃない!)
前世の冷酷な彼の姿を知っている私からすれば、今の彼のヤンデレ的な愛情表現は、すべてが私を逃がさないための『高度な脅迫』にしか聞こえなかった。
私がブルブルと震えていると、ユリウス様は満足げに目を細め、私の銀色の髪を優しく梳いた。
「そう怯えなくていい。君が私の腕の中で大人しく微笑んでさえいれば、私は君に世界のすべてを与えよう。……そうだ。そろそろ彼らが到着する時間だな」
彼がそう言った直後、部屋の扉が控えめにノックされた。
「旦那様、リリア奥様。手配しておりました者たちが到着いたしました」
執事長の声に、ユリウス様は「入れ」と短く命じた。
ガチャリと扉が開くと、そこには十人以上の商人たちが、大きな木箱やトランクを抱えてズラリと並んでいた。
皆、王都で一番の高級店として名高い商会の者たちだ。
「さあ、リリア。ベッドから降りてごらん」
「えっ、はい……」
やっと膝の上から解放された私は、わけがわからないままベッドの横に立った。
ユリウス様が軽く顎をしゃくると、商人たちは一斉にトランクを開け放った。
「「「おおおお……っ!!」」」
部屋に控えていたメイドたちから、感嘆の溜息が漏れる。
私も、思わず息を呑んだ。
箱の中から現れたのは、最高級のシルクやベルベットで仕立てられた、色とりどりのドレス。
光を反射して輝く、ダイヤモンドやサファイアが散りばめられたティアラやネックレス。
繊細な刺繍が施された靴に、見たこともないような美しいレースの扇。
それらが、広い公爵の私室を埋め尽くさんばかりに並べられたのだ。
「こ、これは……一体……?」
「すべて君のものだ、リリア」
ユリウス様は私の背後に立ち、両手を私の肩に置いて愛おしそうに囁いた。
「実家から持ってきた君の服は、すべて燃やして捨てさせた。あんなボロ布、私の愛しい妻の白い肌に触れさせる価値もない。これからは、王都のすべての商人をこの邸に呼び寄せ、君の好みのものを何でも仕立てさせよう。もし気に入った宝石があれば、鉱山ごと買い取ってもいい」
「こ、鉱山ごと!?」
「ああ。君が微笑んでくれるなら、私はいくらでも金貨を積もう。さあ、どれが好きか選んでごらん。……いや、選ぶ必要はないな。ここにあるもの、すべて置いて行け」
「「「は、ははーーっ!! ありがとうございます、公爵閣下!!」」」
商人たちが狂喜乱舞して平伏する。
私は、目の前に積み上げられた莫大な富の結晶を前に、完全に思考が停止していた。
(どうして……?)
キラキラと輝く宝石の山を見つめながら、私の胸の奥がチクリと痛んだ。
一度目の人生では、こんな光景は夢のまた夢だった。
実家の男爵家では、姉のお下がりの色あせたドレスしか着せてもらえなかった。
公爵家に嫁いでからも、離宮での生活費は極限まで削られ、冬の寒さを凌ぐためのショール一枚すら買ってもらえなかったのだ。
ある日、離宮の窓から本邸の中庭をこっそり覗き見た時のことを思い出す。
そこには、太陽の光を浴びてキラキラと笑うカミラ夫人の姿があった。
彼女は、今目の前にあるような最高級のドレスを身にまとい、首元には大粒のダイヤモンドを輝かせていた。
メイドたちが『あれは旦那様からの贈り物よ』と噂しているのを聞いて、私は自分の惨めな姿を恥じて、泣きながら部屋の隅でうずくまったのだ。
(あの時、カミラ夫人が着ていたようなドレスが、今、私の目の前にある……)
ユリウス様は前世で、愛するカミラ夫人には惜しみなく富を与えていた。
ならば、なぜ今、愛していないはずの私(しかもスパイだと疑っている妻)に、こんな莫大な贈り物をするのだろうか?
私は必死に頭を回転させた。
愛がないなら、目的は別にあるはず。
スパイへの牽制? いや、それならこんなに大金をつぎ込む必要はない。
ならば、これは一体――。
「……あ!」
私の頭の中で、一つの完璧な推論が閃いた。
(そうか! これは『手切れ金』……つまり、『慰謝料の先払い』なんだわ!)
貴族の政略結婚において、愛人がいる夫が妻を邪魔に思った時、莫大な財産を与えて「これで大人しく身を引け」と迫るのはよくある話だ。
ユリウス様は、私を殺す(前世の結末)のではなく、金で解決して円満に離縁しようと計画を変えたのではないか?
私がスパイ活動を諦めて大人しくしていれば、これらの宝石を持たせて「はい、さようなら」と追い出してくれるに違いない!
(なんてこと! 一度目の人生では毒殺されたけど、今回は大金持ちになって自由になれるかもしれないのね!?)
私の心は一気にパァッと明るくなった。
死の恐怖から解放され、しかも莫大な逃走資金まで手に入る。
これぞまさに、私が望んでいた『円満離婚』への第一歩だ!
「ゆ、ユリウス様!」
「ん? どうした、リリア。そんなに目を輝かせて。やはり宝石が気に入ったかい?」
「はい! とっても、とっても嬉しいです!! ありがとうございます!!」
私は満面の笑みで振り返り、ユリウス様に深く頭を下げた。
前世のトラウマを乗り越え、これから手に入る自由な生活を想像して、私の心からの笑顔がこぼれたのだ。
「このドレスも、宝石も、大切に大切に……(売却できるように傷をつけずに)保管させていただきます! 本当に、私なんかにこんなにたくさんのものを……っ!」
私が両手で大粒のサファイアのネックレスを胸に抱きしめながら喜ぶと、ユリウス様は息を呑んで硬直した。
「リ、リア……」
「はい?」
「君は……私の贈り物を、そんなにも心から喜んでくれるのか……?」
彼の声は震えていた。
氷のように冷たかった青い瞳が、信じられないものを見るように大きく見開かれ、みるみるうちに熱を帯びていく。
「前世……いや、以前の君は、私が何を贈っても、いつも怯えたように目を伏せていた。私の愛を拒絶されているようで、私はどうしていいかわからなかったんだ……。だが、今の君は、こんなにも美しく笑ってくれる」
(え? 前世で何か贈られたことなんてあったっけ……? ああ、そういえば離宮にいる時、一度だけ宛名のない謎の木箱が届いて、爆弾か嫌がらせかと思って速攻で捨てたことがあったような……まさかアレ!?)
私が過去の記憶を探っている間に、ユリウス様の様子はどんどんおかしくなっていった。
「ああ、駄目だ。君がそんな風に無邪気に微笑むと、私の理性が吹き飛んでしまう。その笑顔は私だけのものだ。他の誰にも見せたくない……っ!」
「えっ、ちょ、ユリウス様!?」
ユリウス様は突然、私を抱き上げると、そのままベッドの上へと押し倒した。
散らばっていた国政の重要書類が、バサバサと床に落ちていく。
「だ、旦那様! お仕事の書類が!」
「仕事などどうでもいい。君が私に微笑みかけてくれた記念すべき日だ。……リリア。君が望むなら、星すらも空から撃ち落として君の足元に飾ろう。だがその代わり、君のすべては私がもらう」
「ひゃっ……!」
彼の大きな手が、私の室内着の襟元を乱暴に開いた。
そして、私の鎖骨の辺りに、まるで焼印でも押すかのように、熱く痛いほどのキスを落とす。
「君が私から離れられないように、もっと重くて美しい『鎖』を贈ろう。純金で編んだ鎖で、君の細い足首と私の腕を繋いでおくのもいいかもしれないな。そうすれば、私が目を離した隙に君が消えてしまうこともない」
「く、鎖!? 物理的なやつですか!?」
「冗談だよ」
ユリウス様は妖しく微笑んだが、その目はまったく笑っていなかった。
本気だ。この人、私が逃げようとしたら本気で純金の鎖で私をベッドに縛り付ける気だ!
(慰謝料の先払いじゃなかったの!? 逃走資金どころか、完全に飼い殺し宣言じゃない!!)
「ま、待ってください、ユリウス様! 私はどこにも行きませんから! 慰謝料……じゃなくて、この宝石だけで十分満足しておりますから!!」
「そうか? だが私は満足していない。君の心も体も、一滴残らず私への愛で満たさなければ、私の渇きは癒えないんだ」
商人とメイドたちが慌てて部屋から退室し、バタンと重い扉が閉められる。
外からはガチャリと鍵をかけられる音がした。
「さあ、リリア。昼間だが、私にたっぷり愛を囁いておくれ」
「だ、誰か助けてぇーーっ!」
私の悲鳴は、公爵の豪奢な私室の厚い壁に遮られ、誰にも届くことはなかった。
円満離婚への道は限りなく遠く。
勘違いから生まれた打算的な笑顔が、ヤンデレ公爵様の愛情(という名の狂気)の炎に大量の油を注いでしまったことなど、愚かな私は知る由もなかったのである。




