「仕事の鬼だったはずの旦那様が、おやつの時間に帰還しました〜監視体制が限界突破しています〜」
ユリウス様が王城へと出仕し、嵐のように過ぎ去った朝の時間が終わった。
豪奢な天蓋付きベッドの上に一人残された私は、重い溜息をついてシーツに沈み込んだ。
「……はあ。どうしてこんなことになってしまったのかしら」
ぽつり、とこぼした言葉は、誰に届くこともなく広い寝室に吸い込まれていく。
二度目の人生。
愛のない政略結婚を利用して、円満離婚からの慰謝料生活を企てていたはずなのに。
現状は、初日から貞操を奪われ(しかもすこぶる甘く熱烈に)、体中に赤い痕を刻まれ、部屋の外には十人の騎士が常駐するという、完璧な『軟禁状態』である。
(絶対に、実家が送り込んだスパイとして警戒されているんだわ。しかも、私が想像していたよりもずっと狡猾で、悪辣な方法で……)
精神的に依存させ、逃げられないようにする。
そう結論づけた私は、ブルッと体を震わせた。
このままここに閉じ込められていては、いつか必ずボロを出して処刑されてしまう。
なんとかして、自分が無害であることを証明するか、この部屋から脱出する隙を見つけなければ。
「まずは、現状確認ね……。よいしょ……っ、痛たたっ」
ベッドから降りようと足を動かした瞬間、腰と太ももにピリッとした痛みが走った。
昨夜、ユリウス様が何度も何度も私を抱きしめ、強引に熱を注ぎ込んできた記憶がフラッシュバックして、カァッと顔が熱くなる。
氷の公爵と呼ばれる彼は、ベッドの中ではまるで別の生き物のように雄々しく、そしてどこまでも執拗だった。
私のような地味で色気のない体に、どうしてあんなに夢中になるフリができるのだろうか。彼の演技力には恐怖すら覚える。
フラフラする足取りでなんとか立ち上がり、部屋の窓際へと歩いていく。
厚い遮光カーテンを少しだけ開けて外を覗き込むと、思わずヒッと声が出た。
「ほ、本当に窓の下にも騎士がいる……!」
本邸の最上階。
落ちれば間違いなく命はない高さだというのに、地上にはこちらを監視するように見張りに立つ完全武装の騎士が数名いた。
さらに、バルコニーのすぐ下にある出っ張りにも、身を潜めるように暗部のような護衛が配置されているのが見える。
(完全に逃げ道を塞がれている! ここまでやるなんて、私が何か重要な国家機密でも盗み出すと思っているの!?)
私はただ、実家でろくに食事をもらえなかったから、美味しいご飯を食べてのんびり生きたいだけの小娘なのに。
トントン、と控えめなノックの音がして、私がビクッと肩を揺らすと、扉の向こうから若い女性の声がした。
「リリア奥様。お着替えの準備に上がりました、マリーと申します。入ってもよろしいでしょうか?」
「あ、はい……どうぞ」
ガチャリと鍵が開く音がして(外から鍵をかけられていたのだ!)、赤毛にそばかすの可愛らしいメイド、マリーが入ってきた。
彼女の腕には、何やらフリルとレースがたっぷりとあしらわれた、淡い紫色の豪奢な室内着が抱えられている。
「奥様、おはようございます! まあ、ご自分でお起きになられていたのですね。旦那様からは、『奥様は一歩も歩かせるな、すべてベッドの上で済ませろ』と仰せつかっておりましたが」
「べ、ベッドの上ですべてって、赤ん坊ではないのですから……。それに、歩けます。少し足が痛いだけです」
「ふふっ、旦那様の愛の深さが伺えますね。さあ、こちらにお着替えください。旦那様が奥様の瞳の色に合わせて特別に仕立てさせたドレスですよ」
マリーは手際よく私のナイトガウンを脱がせ、新しい室内着を着せかけてくれる。
前世で私がいた離宮には、専属のメイドなど一人もいなかった。
着替えも、冷めた食事の準備も、すべて自分一人でこなしていたのだ。
誰かにこうして優しくお世話をされること自体が、私にとってはひどく居心地が悪かった。
「あの、マリーさん」
「さん、は不要です。マリーとお呼びください、奥様」
「じゃあ、マリー。私……少しだけ、部屋の外を歩きたいのだけれど。お邸の中をご挨拶して回りたいし、中庭の空気も吸いたくて」
「えっ?」
私の言葉に、マリーは少し困ったように眉を下げた。
「申し訳ございません、奥様。旦那様からは、『リリアをこの部屋から一歩も出すな』と厳命されております。もし奥様が部屋の外に出られたことが旦那様に知れたら、私ども使用人の首が物理的に飛んでしまいます……!」
「ぶ、物理的に!?」
「はい。旦那様の奥様へのご執着……いえ、愛情は、城の皆も震え上がるほどでして。どうか、私どもの命を救うと思って、お部屋の中でお過ごしいただけないでしょうか?」
マリーが涙目で懇願してくる。
彼女の怯えようを見て、私は確信した。
やはり、ユリウス様は使用人たちを恐怖で支配し、私という危険人物を完璧に幽閉しているのだ。
使用人たちも、冷酷な主人に逆らえないから、私に親切にするフリをして見張っているだけなのだ。
(ああ、なんてこと……。環境が少し良くなっただけで、本質は前世と何も変わらないじゃない。私は結局、公爵家という巨大な鳥籠に閉じ込められた鳥なんだわ)
絶望で目の前が暗くなる。
豪華な食事も、ふかふかのベッドも、すべては私を生かさず殺さず、手元で管理するための餌にすぎない。
もし、私が彼らの期待するような「情報」を持っていなかったとバレたら? あるいは、実家が私を見捨てて別の策略を企てたと知られたら?
その時は、またあの冷たい離宮に放り込まれ、冷たい床の上で毒を飲まされて死ぬことになるのだろうか。
――げほっ。うぅ……。
突然、前世の最期の記憶が鮮明に蘇り、血の味が口の中に広がるような錯覚に陥った。
内臓が焼けるような痛み、誰にも助けてもらえない孤独、氷のように冷え切っていく指先。
怖い。死にたくない。もう二度と、あんな思いはしたくない。
「……奥様? リリア奥様? お顔色が優れませんが、いかがなされましたか?」
「えっ? あ、ううん。なんでもないわ。少し、目眩がしただけ」
心配そうに覗き込んでくるマリーに、私は引きつった笑みを返した。
誰にも心を許してはいけない。
これはかりそめの優しさなのだから。
期待すれば、裏切られた時の絶望が深くなるだけだ。
「お昼寝をなさいますか? お昼の準備ができるまで、あと二時間ほどございますが」
「そうね。少し、横になろうかしら……」
私は気休め程度に本棚から適当な本を一冊抜き出すと、長椅子に横たわった。
文字を追ってもまったく頭に入ってこないまま、時間だけがゆっくりと過ぎていく。
午後三時。
昼食も(毒見役の厳しいチェックの後に)無事に終え、私は部屋のバルコニーから遠くに見える王都の街並みをぼんやりと眺めていた。
前世のユリウス様は、仕事の鬼として知られていた。
国の宰相として王を補佐し、常に激務に追われている彼は、毎日深夜になるまで邸に帰ってこなかった。
だから、今日も彼が帰ってくるのは日付が変わる頃だろう。
それまでは、この息苦しいながらも平和な時間が続くはずだ。
そう思っていた、その時だった。
「――旦那様!? 早すぎます!! まだ今日の予定が半分も……っ!」
「うるさい! 離せ! 私は帰る!!」
突然、窓の外の遠くから、何かを怒鳴り合うような騒がしい声が聞こえてきた。
何事かと思い耳を澄ませていると、バタバタと邸の廊下を走る複数の足音が近づいてくる。
「旦那様がお帰りになられたぞ!! 早く奥様のお部屋の扉を開けろ!!」
「ひぃっ! 早すぎる! まだ三時だぞ!?」
外にいる護衛騎士たちのパニックに陥ったような声が聞こえた直後。
バンッッッ!!
壊れるのではないかというほどの勢いで、重厚な木製の扉が蹴り開けられた。
ビクンッと肩を跳ねさせて振り返った私の視界に飛び込んできたのは、肩で大きく息をし、美しい黒髪を振り乱した――私の夫、ユリウス・フォン・クライス公爵の姿だった。
「ゆ、ユリウス様……!?」
彼の姿は、朝出かけていった時の完璧に整った冷徹な宰相の姿とはかけ離れていた。
ネクタイは引き剥がすように緩められ、軍服のような執務服のボタンはいくつか外れている。
何より、その氷のように冷たいはずの青い瞳が、血走ったように見開かれて部屋の中をギョロギョロと見回していた。
そして、バルコニーの前に立つ私を見つけるや否や。
「リリアッッ!!」
彼は悲痛な叫び声を上げると、猛スピードで私に駆け寄り、その逞しい腕で私の体をひしゃげるほどの強さで抱きしめた。
「きゃあっ!?」
「ああ……っ、無事か!? 怪我はないか!? どこか痛むところは!?」
「い、痛いのは今抱きしめられている肋骨です! 苦しいです、ユリウス様!」
私がバシバシと彼の広い背中を叩くと、彼はハッとして腕の力を緩めた。
しかし、抱きしめるのをやめることはなく、私の首筋に顔を埋めて荒い呼吸を繰り返している。
「よかった……君がここにいる。生きている。温かい……」
「あの、どうかされたのですか? まだ午後三時ですが……」
前世の記憶でも、こんな時間に彼が帰宅したことなど一度もなかった。
もしかして、私がスパイだと実家が自白して、彼が私を処刑しに戻ってきたのだろうか!?
血の気が引く私に対し、ユリウス様は酷く疲れたような、それでいて甘え切ったような声で呟いた。
「……息が、できなかったんだ」
「はい?」
「朝、君をこの部屋に置いて城へ向かう馬車の中で、すでに呼吸が苦しかった。執務室に入り、書類に目を通そうとしても、君の銀色の髪や、紫の瞳、私に泣きすがる甘い声が頭をよぎって、文字が一つも読めなかった」
ユリウス様は私の体をさらにきつく抱き込み、まるで迷子になった子供のように私の肩にすがりついた。
「誰かが君を傷つけはしないか。君が私を置いて、どこか遠くへ消えてしまうのではないか。……君が冷たい床で一人で倒れている幻覚が見えて、私は気が狂いそうだったんだ。だから、三日分の仕事を強引に終わらせて帰ってきた」
「み、三日分の仕事を、半日で!?」
「ああ。残りの些末な仕事はすべて副官と文官たちに押し付けてきた。私の魔法で執務室の扉を物理的に封鎖してきたから、明日の朝までは誰も私を追いかけてはこれないだろう」
(職権濫用! 魔法の無駄遣い! というか部下へのパワハラ!!)
私は心の中で絶叫した。
王国最高の頭脳であり、冷徹無比と謳われる氷の公爵様が、まさか妻への執着のあまり仕事を放り出して帰ってくるなんて!
(いや、違う。これは騙されてはいけないわ)
パニックになりかけた頭を、私は必死に冷やした。
前世の彼を知っている私にはわかる。
彼は仕事の鬼だ。
国を愛し、職務を全うする完璧な貴族だ。
そんな彼が、私ごときのために仕事をサボるはずがない。
つまり、これは――。
(『私が留守の間に、お前がスパイとして何か証拠を隠滅したり、外部と連絡を取ったりしていないか、抜き打ちでチェックしに帰ってきたぞ』という、恐ろしい心理戦だわ……っ!)
そうに違いない。
彼が言った「どこか遠くへ消えてしまうのではないか」という言葉は、「逃亡を企てていないか」という牽制。
「君が冷たい床で倒れている幻覚」とは、「裏切れば殺すぞ」という暗黙の脅迫なのだ!
「ひっ……!」
私の推論が最悪のパズルを完成させた瞬間、恐怖で喉の奥が鳴った。
私の体が震えたのを感じ取ったのか、ユリウス様はパッと顔を上げ、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「どうした、リリア? やはりどこか具合が悪いのか? それとも、私が急に抱きしめたから驚かせてしまったか?」
「い、いえっ! なにも隠していません! 誰も部屋に入れていませんし、手紙も書いていません! 私はずっとこの部屋で、大人しく、あなたの帰りを待っておりました!」
「……っ!」
私が必死に『無実(スパイ活動をしていないこと)』をアピールすると、ユリウス様の青い瞳が、カッ、と見開かれた。
そして、なぜか彼の目尻から、ツツーッと一筋の涙がこぼれ落ちたのだ。
「ゆ、ユリウス様……? どうして泣いて……」
「ああ、なんて健気で愛おしいんだ、私の妻は……」
「えっ?」
ユリウス様は私の頬を両手で包み込み、まるで女神を崇めるような狂信的な瞳で私を見つめてきた。
「私がいない間、ずっと私を待ちわびてくれていたんだね。寂しい思いをさせて本当にすまない。やはり、明日からは君を城へ連れて行くべきだ。いや、いっそ王城の執務室をこの寝室の隣に移築させるべきか……? 王に直訴して、宰相の権限で敷地を接収すれば……ブツブツ……」
(考えが斜め上に飛んでいってる!? なんでそうなるの!?)
私の必死の弁明は、完全に明後日の方向へと解釈されていた。
彼の中では、私は「夫の帰りを寂しく待つ健気な妻」に変換され、彼のヤンデレメーターをさらに限界突破させてしまったらしい。
「あの、ユリウス様。どうか正気に戻ってください。王城を移築などしたら、反逆罪に問われます……!」
「君と一秒でも離れるくらいなら、国の一つや二つ、滅ぼしたところで構わないさ」
「公爵様がそれを言ったらおしまいです!!」
私が涙目で抗議すると、ユリウス様はふっと甘く微笑んだ。
その笑顔は、かつてカミラ夫人にだけ見せていた(と私が思い込んでいる)ような、心からの愛情に満ちたものだった。
しかし、その瞳の奥には、前世で私を失った絶望から生じた、底なしの執着がドロドロと渦巻いている。
「君が私を止めてくれるなら、大人しくしていよう。だが、その代わり……今日の午後は、ずっと私を甘やかしてくれないか」
「あまや、かす……?」
「ああ。君の温もりを感じて、君が生きていることを確かめさせてくれ。……もう二度と、あんな思いはしたくないんだ」
最後にポツリとこぼした彼の呟きは、ひどく掠れていて、まるで傷ついた獣のようだった。
彼が何を恐れているのか、私にはまったくわからない。
彼が言う「あんな思い」が、前世で私を死なせてしまった後悔と狂気のことだなんて、知る由もないのだから。
結局その日の午後。
私は夕食の時間までずっと、大きな体をした宰相閣下を膝枕し、彼の銀色の髪を撫で続けるという『謎の拷問(過剰なスキンシップ)』を受け続けることになった。
(誰か、本当に助けて……! この人のスパイ対策、体力じゃなくて精神力を削りにきてるわ!)
完全なるすれ違い。
怯える妻と、重すぎる愛をぶつける狂気の夫。
二度目の人生は、私の予想を遥かに超えた甘く危険な方向へと、猛スピードで転がり落ちていくのだった。




