「甘すぎる朝と、旦那様の重すぎる過保護〜これって高度なスパイ対策ですか!?〜」
――チュッ。チュ、チュッ。
「んっ……」
首筋に落ちる、くすぐったいような、それでいて熱を帯びた感触。
まどろみの中で身じろぎをすると、ガッチリとした太い腕が私の腰を抱き寄せ、逃げ道を塞ぐように背中にぴったりと広い胸板が張り付いてきた。
「おはよう、私の愛しいリリア。よく眠れたかい?」
「ひゃうっ!?」
耳元で囁かれた低く甘い声に、私は弾かれたように目を覚ました。
視界に飛び込んできたのは、最高級のシルクで設えられた見知らぬ天蓋。
そして、私と同じベッドに横たわり、至近距離で見つめてくる『氷の公爵』ユリウス様だ。
「ゆ、ユリウス様……!?」
「ああ、可愛い。朝起きて一番に私の名前を呼んでくれるなんて。君のその可憐な唇から紡がれる私の名前は、どんな美しい音楽よりも心を満たしてくれるよ」
昨夜の狂気を孕んだような鋭さは鳴りを潜め、今のユリウス様はとろけるような甘い微笑みを浮かべている。
しかし、その青い瞳の奥には、私という獲物を絶対に逃がさないという暗い執着の炎が、未だにくすぶり続けていた。
私は慌てて飛び起きようとしたが、腰の辺りに重だるい痛みが走り、「ああっ」と情けない声を上げてシーツに沈み込んでしまった。
シーツを握りしめた自分の腕を見て、私は絶句する。
白い肌のあちこちに、赤い花びらを散らしたような生々しい痕――キスマークが、数え切れないほど咲き乱れていたからだ。
(な、ななな、なんてこと……!?)
昨夜の記憶が、濁流のように頭の中に押し寄せてくる。
ドレスを引き裂かれ、カミラ夫人との噂を否定したユリウス様は、そのまま私に激しく迫ってきた。
彼は私が痛がらないように、壊れ物を扱うように優しく、けれど絶対に拒絶を許さない強引さで、何度も何度も愛の言葉を囁きながら、私に自分の『痕跡』を刻み込んでいったのだ。
前世で一度も触れられたことのなかった私は、そのあまりの熱量と未知の快感に頭が真っ白になり、最後には泣きながら彼にすがりつくことしかできなかった。
「……痛むか? すまない、君が泣いてすがる姿がどうしようもなく愛らしくて、つい理性を失ってしまった。だが、これで君の心にも体にも、私が深く刻み込まれたはずだ。君はもう、私なしでは生きていけないだろう?」
ユリウス様は私の銀色の髪をすくい上げ、うっとりとした表情で口づけを落とす。
(ち、違う! これは間違いなく、私を精神的に追い詰めるための高度な『スパイ対策』よ!)
一度目の死のトラウマで完全に思考が歪んでいる私は、この甘すぎる状況を最悪の方向に解釈して震え上がった。
実家から送り込まれた怪しい妻(私)を油断させ、逃げられないように体に印をつけ、精神的に依存させることで情報を引き出そうとしているのだ! 恐ろしい! さすが冷酷無比な氷の公爵様、やることがえげつない!
「あ、あのっ、ユリウス様……私、着替えます! もう朝ですから、起きないと……」
「起きる? なぜだ。君は疲れているだろう。今日は一日中、このベッドで私と一緒に過ごそう」
「ええっ!? そ、そんなこと、公爵夫人として許されません! お家の切り盛りや、使用人の皆様へのご挨拶が……」
「そんなものはどうでもいい。家のことなど執事に任せておけばいいし、使用人など君の足元にひれ伏すだけの存在だ。君はただ、このベッドの上で私から愛され、甘やかされていればそれでいいんだ」
ユリウス様は私の体を再びベッドに引きずり込み、羽毛布団でぐるぐると簀巻きにしてしまった。
抵抗しようにも、彼の腕力が強すぎてピクリとも動けない。
(か、完全に軟禁状態!? スパイ活動(する予定はないけど)を封じ込める気だわ!)
「お腹が空いただろう? 食事を持ってこさせよう」
ユリウス様がベッドサイドのベルを鳴らすと、すぐに扉がノックされ、メイドたちがワゴンに乗せた豪華な朝食を運んできた。
焼きたてのふかふかなパンに、色鮮やかなフルーツ、温かいスープ。
前世の実家や、一度目の離宮での生活では絶対に見ることのなかったご馳走だ。
「旦那様、奥様、おはようございます」
メイドたちが恭しく頭を下げる。
私は恥ずかしさで顔から火が出そうだった。
簀巻きにされた状態で、しかも首元には無数の赤い痕がついているのだ。
絶対に変な目で見られる!
しかし、メイドたちはニヤニヤと嬉しそうに微笑み合っているだけで、私を蔑むような視線は一切なかった。
「さあ、リリア。あーん、してごらん」
「……え?」
メイドたちが下がった後、ユリウス様はワゴンの上のスープをスプーンですくい、ふうふうと冷ましてから私の口元へと運んできた。
「あ、あの、自分で食べられます……っ」
「だめだ。君の手を煩わせるわけにはいかない。さあ、口を開けて。……それとも、口移しの方がいいかい?」
「た、食べます! 食べますから!」
私は慌てて口を開き、スープを飲み込んだ。
温かくて、とても美味しい。
けれど、緊張と恐怖で味がよくわからない。
ユリウス様は私が飲み込むのを確認すると、「いい子だ」とまるで幼子を褒めるように目を細め、私の頬を優しく撫でた。
(なんなの、この拷問は……! 優しすぎて、逆にお腹が痛くなりそう!)
その後も、パンを小さくちぎって口に入れられたり、食後の紅茶を飲まされたりと、至れり尽くせりの『あーん』が続いた。
こんな風に甘やかされた経験など前世を含めて一度もない私は、どう反応していいかわからず、ただされるがままになっていた。
食事が終わる頃、部屋の扉が控えめにノックされ、初老の執事長が入ってきた。
「旦那様、少しよろしいでしょうか。昨晩命じられました件ですが……」
「ああ、報告しろ。リリアの前で構わない」
「はっ。旦那様とカミラ夫人に関する『根も葉もない噂』を流布し、リリア奥様の耳に入れた不届き者たちですが……。本邸および離宮のメイド数名、そして護衛騎士の一部が関与していたことが判明いたしました」
執事長の言葉に、私の肩がビクッと跳ねた。
「すべて解雇し、王都から追放いたしました。二度とクライス家の敷地には近づけないよう手配済みです。また、カミラ夫人本人にも厳重な警告を与え、今後一切、旦那様には近づかないよう念書を書かせました」
「ご苦労。……ふん、私のリリアを不安にさせた罪は万死に値するが、私の結婚を祝う温情として、命だけは助けてやったことに感謝するんだな」
ユリウス様は冷酷な目でそう言い放ち、手元の紅茶を優雅にすすった。
(ひ、ひいいいいっ!?)
私はベッドの上でガタガタと震え出した。
なんて恐ろしい隠蔽工作!
私が「カミラ夫人の元へ行かなくていいのですか?」と探りを入れたばかりに、ユリウス様は『スパイである私に弱み(愛人の存在)を知られた!』と焦り、関係者を一斉に処分してしまったのだ!
しかも、愛人であるカミラ夫人にまで念書を書かせて近づけないようにするなんて……。
そこまでして、私から情報を守ろうとしているのね!
(公爵様、本気だわ。私が少しでも怪しい動きをしたら、あんな風に即座に『追放』、いや、最悪の場合は『暗殺』されるんだ……っ!)
前世で毒殺された記憶が蘇り、私は無意識のうちに自分の両腕を抱きしめていた。
「……リリア? どうした、震えているのか?」
ユリウス様が心配そうに覗き込んでくる。
その顔はとても整っていて、優しさに満ちているように見える。
でも、その奥に隠された冷酷さを、私は知っている(と思い込んでいる)。
「い、いえ! なんでもありません! 素晴らしい決断力だと思いました!」
「そうか? 君が少しでも不快に思うものは、この世界からすべて消し去ってあげよう。だから、君は私の腕の中だけで、安心して微笑んでいればいいんだよ」
チュッ、と額にキスを落とされ、私のライフ(精神力)はもうゼロに近かった。
やがて、壁掛け時計が午前十時を知らせる鐘を鳴らした。
筆頭公爵であり、王国の宰相も務めるユリウス様には、当然ながら王城での激務が待っている。
一度目の人生では、彼は毎朝夜明け前に城へ向かい、深夜まで帰ってこなかった。
「……そろそろ、城へ行かなければならない時間だ」
ユリウス様はひどく名残惜しそうに私から離れ、執事が用意した執務服に着替え始めた。
私は心の中でガッツポーズをした。
やっと一人の時間になれる! この息の詰まるような監視生活から、数時間だけでも解放されるのだ!
「いってらっしゃいませ、旦那様! どうぞお仕事、頑張ってくださいね!」
私は精一杯の作り笑いを浮かべ、ベッドの上から手を振った。
しかし、ユリウス様は執務服の襟を正しながら、真剣な顔で振り返った。
「リリア。やはり、君も城へ連れて行こう」
「…………はい?」
「私の執務室に君用の長椅子を置かせよう。そこで本でも読んでいればいい。私の視界から君が消えるなど、たった数時間でも耐えられない」
(な、なんでええええ!? 職場にまで妻を連行するの!? どんだけ警戒心が強いのよ!)
「む、無理です! 宰相閣下の執務室に私がいるなんて、皆様の邪魔になります! 私はここで、大人しく待っておりますから!」
「邪魔などするものか。もし文句を言う者がいれば、私がそいつを排除する」
「駄目です! 絶対に駄目です! 私は、お邸で旦那様の帰りを健気に待つ妻でありたいのです!」
私は必死に反論した。
もし王城なんて行ったら、前世の毒殺のトラウマで胃に穴が空いてしまうかもしれない。
私の「健気に待つ」という言葉が予想以上に刺さったのか、ユリウス様はピタリと動きを止め、ハアッと熱い吐息を漏らした。
「……そうか。私の帰りを、待っていてくれるのか」
「は、はい! 首を長くして待っております!」(※早く行ってくれという意図)
「……わかった。君がそこまで言うなら、今日は邸に置いて行こう。だが――」
ユリウス様は鋭い視線を執事長に向けた。
「護衛騎士の精鋭を十名、この部屋の扉の前と窓の外に配置しろ。部屋には信頼できるメイドしか入れるな。食事には必ず毒見役をつけろ。……もし私がいない間にリリアの身に何かあれば、お前たちの命はないと思え」
「ははっ! 承知いたしました、旦那様!」
執事長が冷や汗を流しながら最敬礼する。
(十名!? 部屋の前に十人の騎士!? 窓の外にも!? それ、完全に牢獄の警備体制じゃない!)
私の絶望など露知らず、ユリウス様は再び私のベッドに近寄り、今度はひときわ長く、甘いキスを私の唇に落とした。
「行ってくるよ、私のリリア。早く君を抱きしめたくて、仕事など手につかないかもしれない。……愛している。誰よりも、何よりも」
そう言って、ユリウス様は後ろ髪を引かれるように何度も何度も振り返りながら、ようやく部屋を出て行った。
バタン、と扉が閉まる。
直後、扉の向こうから「警備を怠るな! 虫一匹、奥様に近づけるな!」という怒号が聞こえてきた。
「…………」
広い、広すぎる豪奢なベッドの上で、私は一人取り残された。
体中には無数のキスマーク。外には厳重な護衛(という名の監視)。
「……どうして、こうなったの……?」
愛のない政略結婚で、空気のように生きて円満離婚するはずだった私の二度目の人生。
冷酷公爵様のヤンデレ溺愛(※リリア視点では高度な尋問・監視)により、離婚どころか、部屋から一歩も出られない『黄金の鳥籠』生活が、本格的に始まってしまったのだった。




