「愛人邸に通うはずの旦那様が、私をベッドから降ろしてくれません」
大聖堂での結婚式を終えた私たちは、公爵家が誇る豪奢な馬車に揺られていた。
普通、新婚の夫婦といえば向かい合って座るか、隣同士で座るものだろう。
しかし現在、私はなぜかユリウス様の膝の上に抱きかかえられていた。
「……あの、公爵様。さ、さすがに重いのではないでしょうか。私、向かいの席に座ります……っ」
「ユリウスだ」
「えっ?」
「二人きりの時は、名前で呼んでくれ。それに、君は羽のように軽い。ちゃんと食事を与えられていなかったのだろう。今日からは我が家の料理長に腕を振るわせよう。君が倒れてしまっては、私が生きていけないからね」
すり、と形の良い鼻梁が私の首筋に擦り寄せられる。
その度に、彼特有の冷たくも甘い香木の香りがふわりと漂い、私の心臓は警鐘を鳴らし続けていた。
(ち、近すぎるっ! どうしてこんなことになっているの!?)
一度目の人生の記憶が、私の頭の中で激しくフラッシュバックする。
三年前の結婚式帰り、彼は私と同じ馬車に乗ることすら拒否し、一人で馬に乗って帰ってしまった。
私は広い馬車の中でポツンと一人取り残され、これからの冷遇を予感して泣きそうになっていたのだ。
それなのに、今の彼は私の腰に太い腕を回し、絶対に逃がさないとばかりにがっちりとホールドしている。
さらには、私の銀色の髪の毛をすくっては、愛おしそうに何度も何度も口づけを落としていた。
(絶対に、何か裏があるわ! 実家からスパイとして送り込まれた私を警戒して、片時もそばから離さないつもりなんだわ。あるいは、こうやって優しくして私から情報を引き出そうとしているのね……っ!)
前世で毒殺されたトラウマと、愛されない悲しみを骨の髄まで味わった私は、彼のこの甘すぎる態度をすべて**『高度な尋問テクニック』あるいは『監視』**だと解釈していた。
恐ろしい。氷の公爵様は、私が想像していたよりもずっと狡猾で恐ろしいお方だったのだ。
私が恐怖でブルブルと小刻みに震えていると、ユリウス様はふっと眉を下ろし、痛ましそうな顔をした。
「……すまない、怖がらせてしまったね。だが、私から離れろという命令だけは聞けない。君の温もりを感じていないと、私は狂ってしまいそうなんだ」
「く、狂う……?」
「ああ。君が冷たい床の上で……いや、なんでもない」
ユリウス様は何かを言いかけて口をつぐむと、私の体をさらにきつく抱きしめた。
その腕の力は強引なのに、私を扱う手つきはまるで壊れやすいガラス細工に触れるように優しかった。
本邸への到着と、想定外の歓迎
やがて馬車は、王都の中心部にある広大なクライス公爵家の敷地へと入っていった。
窓の外の景色を見て、私はハッと息を呑んだ。
「あ、あの……馬車が向かっている方向が、違う気がするのですが……」
「違う? 本邸へ向かっているが」
「えっ? 私は、敷地の隅にある離宮で暮らすのではないのですか?」
一度目の人生では、到着した瞬間に「お前の顔など見たくもない。離宮から一歩も出るな」と言い捨てられ、そのまま荷物と一緒に古い別館へ放り込まれたのだ。
私がそう尋ねると、ユリウス様の顔からスッと表情が消え、車内の温度が急激に下がったように感じた。
「……誰が、そんなことを言った?」
地を這うような、恐ろしく冷たい声。
背筋が凍りつきそうになる私を見て、彼は慌てて表情を和らげた。
「離宮などというカビ臭い場所に、私の最愛の妻を住ませるわけがないだろう。君は今日から、本邸の最上階にある私室……私のベッドで一緒に暮らすんだ」
「い、一緒に!? む、無理です! 私のような者が、公爵様の神聖なお部屋に……」
「無理じゃない。君がいなければ、私は夜も眠れない。君を私の視界の届かない場所に置くなど、天地がひっくり返ってもあり得ないことだ」
(か、完璧な監視体制……っ! 寝る時までスパイ(私)を見張るつもりなのね!?)
私の絶望をよそに、馬車は白亜の本邸の正面玄関に到着した。
扉が開かれると、そこには公爵家に仕える使用人たちがズラリと並んでいた。
一度目の人生では、彼らも私を「実家から見捨てられた可哀想な人質」として見下し、冷たい態度をとっていたはずだ。
しかし――。
「「「リリア奥様! 本日はご結婚、誠におめでとうございます!!」」」
使用人たちは、まるで女神でも出迎えるかのような深いお辞儀と、満面の笑みで私を歓迎したのだ。
特に、初老の執事長などはハンカチで目頭を押さえながら号泣している。
「おおおお……! あの冷酷非情、仕事の鬼であった旦那様が、ついに春を迎えられるとは……! リリア奥様、どうか、どうか不器用な旦那様をよろしくお願いいたします!」
「えっ、あ、はい……?」
困惑する私の体を、ユリウス様はヒョイッと軽々と抱き上げた。
いわゆる、お姫様抱っこというやつだ。
「きゃっ!?」
「歩く必要はない。私の足を使えばいい。さあ、私たちの部屋へ行こう」
「だ、旦那様! 皆様が見ております! 自分で歩けますから……っ」
「私の妻がどれほど愛らしく、私がどれほど君に夢中か、見せつけてやればいい。誰の目にも明らかにしておかなければ、君に近づこうとする不届きな虫が湧くかもしれないからね」
そう言って、ユリウス様は私の抗議を完全に無視し、堂々とした足取りで本邸の大階段を上り始めた。
使用人たちの「まあ……!」「旦那様がデレデレですわ!」「なんてロマンチックなの!」という歓声が背中から聞こえてきて、私は顔から火が出そうだった。
初夜の寝室と、すれ違う心
案内されたのは、本邸の最上階にある、公爵である彼の私室だった。
王族が使うような最高級の調度品に囲まれ、中央には天蓋付きの巨大なベッドが鎮座している。
ユリウス様は私をそっとベッドの端に下ろすと、付き従ってきたメイドたちに向かって冷たく言い放った。
「お前たちは下がれ。妻の着替えは、私がすべて行う」
「えっ!? ちょ、ちょっと待ってください! さすがにそれは……」
「かしこまりました、旦那様。……奥様、ごゆっくり」
メイドたちはニヤニヤと笑いながら一礼し、あっという間に部屋から出て行ってしまった。
バタン、と重厚な扉が閉まる音が、まるで処刑台の鐘のように私の耳に響く。
広い寝室に、長身のユリウス様と私、二人きり。
彼はゆっくりとした動作で手袋を外し、自身の軍服風の礼服のボタンを外し始めた。
鍛え上げられた広い胸板がチラリと見え、大人の男性特有の色気が部屋中に満ちていく。
私はドレスの裾をギュッと握りしめ、パニックになる頭を必死に回転させた。
(どうしよう。監視体制を強化されているのはわかったけれど、まさか本当に初夜まで執り行うつもりなの? スパイ相手に!? いや、あり得ない。彼には心に決めた愛する人、カミラ夫人がいるはずよ!)
一度目の人生で、メイドたちが噂していたのを私は確かに聞いたのだ。
『旦那様は毎晩、カミラ夫人の邸宅に通っていらっしゃるのよ』
『あんなに冷たい公爵様が、カミラ夫人の前でだけは甘く微笑むらしいわ』
その事実が、当時の私をどれほど傷つけたことか。
二度目の人生では、もう傷つきたくない。
私は彼に愛を求めない。だから、彼には早く愛する人の元へ行ってほしかった。
私が彼を縛り付けてしまっては、円満に離婚して慰謝料をもらうという私の人生計画が狂ってしまう。
私は勇気を振り絞り、ドレスの背中の編み上げに手を伸ばそうとしてきた彼に向かって口を開いた。
「あ、あの……! ユリウス様!」
「ん? どうした、リリア」
「私に着構わず、どうぞお出かけになってくださいませ!」
「……出かける? この夜更けに、どこへ?」
「カミラ夫人のところです!」
私がその名前を口にした瞬間。
ピタリ、と。
ユリウス様の動きが、完全に停止した。
部屋の空気が、先ほどまでの甘く蕩けるようなものから一変し、肌を刺すような絶対零度の殺気へと変わる。
美しい彼の顔から表情がすっぽりと抜け落ち、氷の青い瞳が、不気味なほど暗く濁り始めた。
「……カミラ? なぜ、君の口からその女の名前が出る?」
「えっ、あ……その、ユリウス様は、毎晩彼女の元へ通われていると……結婚する前から、ずっと深く愛し合っていらっしゃるという、有名な噂が……」
「誰が言った?」
彼の声はひどく低く、かすれていた。
怒っている。絶対に怒っている。
愛する人の存在を、私みたいな邪魔な政略妻に口出しされたからだ。
私は地雷を踏んでしまったのだと、全身の血の気が引いた。
「あの、ごめんなさい! 決して邪魔をするつもりはないのです! 私はただの形式上の妻として、ここに大人しくしておりますので、どうぞ愛する方の元へ……」
「……愛する方?」
ユリウス様はふらりと一歩近づき、私の両肩をガシッと掴んだ。
そのまま、有無を言わさぬ強い力で、私をふかふかのベッドの上に押し倒した。
「きゃっ……!?」
「リリア。君は何か、大きな勘違いをしているようだ」
私の上に馬乗りになるような形で覆い被さってきたユリウス様は、逃げ場を塞ぐように両手を私の顔の横についた。
見下ろしてくる彼の瞳には、狂気にも似たドロドロの執着の光が渦巻いていた。
「カミラとは、ただの情報交換のために接触していただけだ。あの女は社交界の裏事情に明るく、私は政敵の動きを探るためにあの女を利用していたに過ぎない。愛? 冗談じゃない。私が彼女に向ける感情は、路傍の石に対するものと同じだ」
「えっ……?」
「そもそも、私は君以外の女に指一本触れたことなどない。私の心も、体も、すべては初めて君に出会ったあの日から、ずっと君だけのものだというのに……」
ギリッ、と彼が奥歯を噛み締める音がした。
「そんなくだらない噂のせいで、君は私を避けようとしているのか? ……許さない。君の耳にそんなゴミのような情報を入れた者共は、明日すべて見つけ出して舌を抜いてやろう」
「ひっ……!」
「君が不安に思う原因は、すべて私が排除する。だから、君はもう何も考えなくていい」
(ち、違う! この人は、愛人の存在を隠蔽するためにここまで必死になっているんだわ! 舌を抜くって、完全にスパイ(私)に対する脅迫じゃない!?)
真実を知らない私は、彼のヤンデレ化した重すぎる愛の告白を、最悪の形で誤解して受け取っていた。
恐怖で涙目になる私を見て、ユリウス様はなぜか酷く傷ついたような、そして同時に抑えきれない熱情を孕んだ顔をした。
「……言葉では、信じてもらえないようだね」
「ゆ、ユリウス様……?」
「なら、体に直接刻み込むしかない。私がどれほど君を愛し、君に狂わされているか。君の隅々まで私の痕跡を残し、もう二度と、他の男のことなど――いや、一歩も外へ出たいと思えないほどに、私の愛で満たしてあげよう」
そう囁いた直後、彼は私のドレスの肩紐に指をかけ、容赦なくそれを引き裂いた。
ビリッという絹の裂ける音が、静かな寝室に響き渡る。
「あっ……!」
「愛している。愛しているよ、私のリリア。前世も、今世も、来世でも、君は永遠に私だけのものだ」
彼がポツリとこぼした『前世』という言葉の意味に、パニック状態の私が気づけるはずもなかった。
熱い唇が私の鎖骨に落ち、強い力で赤い痕をつけられる。
甘く、けれど危険な執着に満ちた初夜は、こうして不道徳な熱を帯びながら、どこまでも深く沈んでいくのだった。
(誰か、助けて! 旦那様の演技が迫真すぎて、私、どうにかなってしまいそうです――!)
完全にすれ違ったままの二つの心。
一人は怯え、一人は重すぎる愛をぶつける。
こうして、決して逃れられない鳥籠の中での、甘く危険な婚姻後ロマンスが幕を開けたのだった。




