「氷の公爵様、二度目の結婚式でなぜか泣き崩れる」
――冷たい、冷たい石の床の上で、私の最初の人生は終わった。
「げほっ……っ、うぅ……」
血を吐き出しながら、私は霞む視界で薄暗い天井を見つめていた。
全身を焼くような激しい痛みは、すでに麻痺して感じない。
ただ、指先の温度が急速に奪われていくのだけがわかった。
ここは、王国の筆頭貴族であるユリウス・フォン・クライス公爵家の敷地の隅にある、古びた離宮。
私は彼に嫁いでから三年間、一度も本邸に呼ばれることなく、この冷たい部屋で一人きりで過ごしてきた。
私は、現代日本からこのファンタジー世界に転生してきた『訳あり』の令嬢だ。
前世の記憶をうっすらと持っていたものの、生まれ変わった先である男爵家での扱いは酷いものだった。
両親は優秀な姉ばかりを愛し、私にはろくな食事も与えず、ただ「政略結婚の駒」としてだけ生かしてきた。
そして十八歳の時、冷酷無比で血も涙もないと恐れられる『氷の公爵』ユリウス様の元へ、半ば人質のような形で嫁がされたのだ。
愛のない政略結婚。それはわかっていた。
公爵様には、心に決めた美しい恋人がいるという有名な噂があった。
彼の幼馴染であり、社交界の花と謳われる美しい未亡人、カミラ夫人だ。
結婚したその日から、公爵様は私をこの離宮に追いやり、冷たい目で「私室から出るな」とだけ告げた。
そして毎晩のようにカミラ夫人の邸宅へと通い、彼女と甘い夜を過ごしていた――そう、メイドたちが噂しているのを何度も聞いた。
(私は、誰にも愛されないまま、ここで死ぬのね……)
私を毒殺したのは、実家の男爵家が雇った暗殺者だ。
公爵家の内情を探るスパイとして役に立たなかった私を、証拠隠滅のために消したのだろう。
毒を飲まされ、血を吐いて倒れてから丸一日。
誰も私を助けに来なかった。
公爵様は今日も、愛する人の元で微笑んでいるのだろうか。
(もしも……もしも、もう一度生き直せるなら……)
次は、もっと上手に生きよう。
愛されることなんて望まない。
ただ、温かいスープを飲んで、陽の当たる部屋で、静かに生きてみたい。
それが、私の最後の記憶だった。
*
「……リリアお嬢様。リリアお嬢様、お起ちくださいませ! 本日は大切な、結婚式の日ですのに!」
「……え?」
甲高い声で叩き起こされ、私は勢いよく身を起こした。
ふかふかのベッド。
温かい日差し。そして、目の前には呆れ顔で腕を組む、実家のメイドの姿があった。
呼吸が荒くなる。
肺が痛くない。
血の味もしない。
慌てて自分の体を見下ろすと、毒で痩せこけていたはずの腕は健康的な白さを保っており、何より、目の前には豪奢な純白のウェディングドレスが飾られていた。
「け、結婚式……? 誰の……?」
「寝ぼけていらっしゃるのですか!? リリアお嬢様と、あのクライス公爵閣下の結婚式ですよ! さあ、早くお着替えを!」
メイドたちに無理やりベッドから引きずり出され、きついコルセットで体を締め上げられながら、私は鏡に映る自分を見て愕然とした。
間違いない。三年前だ。
私は、あの恐ろしいユリウス公爵と結婚する当日の朝に『回帰』してしまったのだ。
(どうして!? 死んだはずなのに、時間が戻ってる……!?)
パニックになりそうになる頭を必死に押さえつける。
鏡の中の私は、不安げに揺れるアメジストのような紫の瞳と、色素の薄い銀色の髪を持った、十八歳の私自身だった。
(落ち着いて、私。これは神様がくれた二度目のチャンスかもしれない)
前世の記憶と、一度目の悲惨な人生の記憶。二つの記憶を持つ私は、鏡の前で強く拳を握りしめた。
一度目の人生では、公爵様に愛されたいと少しだけ期待してしまったのが間違いだったのだ。
彼の心を射止めようと努力したり、彼が愛人の元へ通うことに胸を痛めたりしたから、あんなに惨めで苦しかったのだ。
(今度こそ、絶対に期待なんてしない。公爵様には愛する人がいるんだから、私は邪魔にならないように離宮でひっそり息を潜めていよう。そして、頃合いを見て慰謝料をもらって円満離婚するのよ!)
前世の悲惨な死という強烈なトラウマが、私の心を硬く閉ざしていた。
もう誰も信じない。誰の愛も求めない。
私は、ただ自分の命を守るためだけに、この政略結婚を乗り切ってみせる。
*
王都で最も美しいとされる大聖堂。
荘厳なパイプオルガンの音が響き渡る中、私は重いウェディングドレスの裾を引きずりながら、長いヴァージンロードを歩いていた。
ステンドグラスから差し込む光の先に、彼が立っている。
王国一の美貌と、それ以上に恐ろしい冷酷さを持つ男、ユリウス・フォン・クライス公爵。
夜空のように深い漆黒の髪と、すべてを凍りつかせるような氷の青い瞳。
長身で、軍服をアレンジしたような純白の礼服を見事に着こなす彼は、まるで神が創り出した芸術品のように完璧だった。
まさに、物語に出てくるスパダリそのものだ。
(怖い……)
彼に近づくにつれて、一度目の人生で彼に向けられた氷のような視線と、「私室から出るな」という冷たい声がフラッシュバックする。
ドレスの下で、私の足は小刻みに震えていた。逃げ出したい。
でも、ここで逃げれば実家からの報復が待っている。
私はギュッと目を閉じ、彼が待つ祭壇の階段を一歩、また一歩と上った。
(大丈夫。どうせ彼は私のことなんて見てもいない。早く儀式を終わらせて、カミラ夫人の元へ行きたいと思っているはずよ)
そう自分に言い聞かせ、私は諦めの境地で顔を上げた。
そして、彼の冷たい青い瞳と視線を合わせようとした――その時だった。
「……リ、リア……?」
掠れた、震える声が聞こえた。
信じられないことに、それはあの『氷の公爵』ユリウスの口からこぼれたものだった。
えっ、と思い彼の顔をまじまじと見つめた瞬間、私は自分の目を疑った。
冷酷無比なはずの彼の青い瞳が、極限まで見開かれていた。
そして、その瞳からは、ポロポロと大粒の涙がとめどなく溢れ落ちていたのだ。
「公爵、様……?」
私が戸惑いの声を上げた次の瞬間。
ユリウスは祭壇の段差を転がるように降りると、参列者や神父が息を呑んで見守る中、私を力任せにその腕の中に引きずり込んだ。
「っ……!?」
ガッチリとした逞しい腕が、私の背中と腰に回り、骨が軋むほどの強い力で抱きしめられる。
鼻腔をくすぐる、彼特有の冷たくも甘い香木の香り。
しかし、私を抱きしめる彼の体は、異常なほど熱く、ガタガタと激しく震えていた。
「ああ……あああ……! リリア、私のリリア……! 生きている、温かい……っ! 神よ、感謝します、ああ……!」
彼は私の肩に顔を埋め、まるで迷子になっていた子供が母親を見つけたかのように、声を上げて泣き始めたのだ。
大聖堂は水を打ったように静まり返り、何百人という参列者が唖然としてこの異様な光景を見つめている。
当の本人である私は、完全にパニックに陥っていた。
(えっ!? 嘘!? どういうこと!? なんで氷の公爵様が大号泣しながら私を抱きしめてるの!?)
一度目の人生では、結婚式の最中、彼は私に指一本触れなかった。
誓いのキスすら、手袋越しに私の手の甲に唇を落とすふりをしただけだった。
それなのに、今の彼は私のドレスがシワになるのも構わず、私を自身の体にめり込ませるような勢いで抱きしめている。
「あ、あの、公爵様……? 皆様が、見て、おります……」
「見させておけばいい。誰の目も気にするものか……っ! 君がここにいる、私の腕の中にいる。それ以上に重要なことなど、この世界には存在しない!」
彼は顔を上げると、涙で濡れた美しい顔を私に近づけた。
その瞳に宿っていたのは、前世で私に向けられていた冷たさや無関心ではなかった。
それは――まるで獲物を絶対に見逃さない肉食獣のような、どろどろに煮詰まった執着と、狂気すら孕んだ重すぎる愛情の光。
「もう二度と……二度と君を一人にはしない。私の目の届かない場所には、一歩たりとも行かせない。君を傷つけるすべてのものから君を隠し、私だけの鳥籠で永遠に愛し抜くと誓おう」
甘く、けれど背筋が凍るほど重たい声音で囁かれたその言葉に、私は息を呑んだ。
ぞくり、と背中を悪寒が駆け抜ける。
神父が震える声で「ち、誓いのキスを……」と促した瞬間。
ユリウスは私の後頭部に大きな手を添え、逃げ道を完全に塞いだ上で、深く、息もできないほどの熱く強引な口づけを落としてきた。
「んっ……!? む、ふ……っ!」
大衆の面前での、あまりにも濃厚で不道徳なキス。
頭が真っ白になり、足の力が抜けて崩れ落ちそうになる私を、彼が強靭な腕力で支え込む。
息継ぎすら許されないまま、何度も角度を変えて貪られるように唇を奪われる。
それはまるで「お前は俺のものだ」と世界中に刻みつけるための、危険な儀式のようだった。
(な、なんで!? なんでこんなことになってるの!?)
思考がショートしそうな頭で、私は必死に現状を整理しようとした。
彼はカミラ夫人のことが好きで、私のことなんて大嫌いだったはずだ。
不倫相手の元へ通うために、私を邪魔者扱いしていたはずなのに。
それなのに、この重すぎる愛情表現は一体何なのだろう。
(もしかして……公爵様は、私が実家のスパイだと気づいていて、わざとこんな『愛妻家』の演技をして私を油断させようとしているの……!?)
前世のトラウマで人間不信になっている私は、彼の異常な執着を『高度な嫌がらせ』あるいは『演技』だと解釈してしまった。
そうだ、そうに違いない。
だって、あの冷酷な男が私ごときを本気で愛するはずがないのだから。
長い長いキスの後、銀の糸を引いて唇を離したユリウスは、とろけるような熱を帯びた瞳で私を見下ろし、耳元で狂おしく囁いた。
「さあ、帰ろう、リリア。私たちの『愛の巣』へ。……これからの夜は、もう一睡もさせないから覚悟しておいで」
その言葉に含まれた大人の色香と、絶対に逃がさないという捕食者のようなプレッシャーに、私は絶望で目の前が真っ暗になるのを感じた。
(どうしよう! 前世よりもずっと、別の意味で命の危険を感じるんですけど!? カミラ夫人! 早くあなたの浮気性の彼氏を引き取ってーっ!)
すれ違う二人の想い。
一度目の死のトラウマを抱え、彼からの重すぎる愛情をすべて「何か裏があるはず!」と勘違いして怯える私。
そして、前世で私を失った悲しみで正気を失い、時間を巻き戻してまで私を溺愛・監禁しようと目論むヤンデレ公爵様。
愛のない政略結婚から始まるはずだった二度目の人生は、初日から想定外の方向へと全力で暴走し始めていたのだった。




