「遭難生活を生き抜くために『氷上ワカサギ釣り』を提案しました〜旦那様が愛の赤い糸で伝説の海神(クラーケン)を一本釣りしています!〜」
ユリウス様が「リリアが波の揺れで怯えたから」という極端すぎる理由で、豪華客船の周囲100キロメートルの海原を『絶対零度』で凍結させてから三日が経過した。
波の揺れは完全に消え去ったが、当然ながら船は氷に閉じ込められて一歩も動けない。
南の海へ向かうはずだったトロピカルな豪華客船は、今や見渡す限りの大氷原に取り残された巨大な鉄の塊(遭難船)と化していた。
「……シリル。氷の融解作業の進捗はどうですか」
「駄目だ、ソフィア。従兄殿の魔力密度が高すぎる。私の『概念切断』で一日中解氷作業をしても、船の周囲数メートルを溶かすのが限界だ。……くそっ、この規格外ヤンデレめ!」
甲板で肩で息をするシリル様と、それを冷徹に記録するソフィア様。
周囲の一般客たちは、「海が凍った……神の怒りだ……」「助けてくれ……」と毛布にくるまりながら絶望の表情を浮かべている。
(あああ……私のせいだわ。私が「波で少し揺れた」なんて言ったばかりに、こんな大惨事に……!)
私は罪悪感で押し潰されそうになっていた。
ソフィア様の計算によれば、船の食料備蓄はまだ余裕があるらしいが、乗客たちの精神的な疲労と不安はピークに達している。
(なんとかして、この絶望的な空気を変えなきゃ! 誰も傷つけず、食料も確保できて、みんなで少しでも明るくなれるような無害なアピール……!)
私は、凍りついた海面を見て、前世の『ニホン』の冬の風物詩を閃いた。
「シリル様、ソフィア様! 私たちで『氷上釣り』をしませんか!」
「……氷上釣り、ですか?」
ソフィア様が銀縁の眼鏡を光らせた。
「はい! ニホンでは冬に湖が凍ると、氷に小さな穴を開けて、そこから糸を垂らして『ワカサギ』という小さな魚を釣るんです! 釣りたての魚をその場で天ぷらにして振る舞えば、乗客の皆さんも温まって、笑顔になってくれるはずです!」
私は力説した。
氷に開けるのは直径十センチほどの小さな穴。
使うのは短い釣り竿と細い糸。
これなら暴走のしようがないし、「遭難中も周囲を気遣う健気な妻」という完璧な家庭的アピールになる!
「なるほど。新鮮なタンパク質の確保と、乗客のパニック抑制(娯楽の提供)。理にかなっています」
「よし。従兄殿も、義姉上が『小さな穴に糸を垂らす』だけなら、海を破壊するような暴走はすまい」
シリル様たちの許可を得て、私たちは船から凍りついた海面(氷上)へと降り立った。
「ユリウス様、見ていてくださいね。今、私がお魚を釣ってみせますから!」
私は船の工具を借りて、氷にキュルキュルと小さな穴を開け、可愛らしい釣り竿の糸をスルスルと暗い海中へ垂らした。
静かだ。波の音もない氷の世界で、ただじっとウキを見つめる時間。
(ふふっ、これよ。この静寂こそが『普通』なのよ……)
しかし。
私の隣で腕を組んでいたユリウス様は、その『小さな穴に糸を垂らす私』を見て、またしてもヤンデレ特有の超解釈を暴走させていた。
「……なるほど。釣り、か」
ユリウス様が、低く熱を帯びた声で呟いた。
「暗く、冷たく、底知れぬ深淵(氷の穴)に向かって、己の細い絆(糸)を垂らし、見えない運命の相手が食いつくのをひたすらに待つ……。リリア! 君は、この極寒の遭難劇の中で、私への『愛の試練』を表現しているのだな!!」
「(な、なんでそうなるの!?)」
「君がその愛の糸を垂らすというなら、私が君の獲物となって、真っ先にその針に食いつくべきだ!! 待っていろリリア、今すぐ私がこの氷の穴から海中へダイブし、君の釣り竿に私自身を……!!」
「ピッ!! ピーーーッ!! 従兄殿、意味不明な入水自殺はやめなさい!! 義姉上が釣り上げられないでしょうが!!」
シリル様がホイッスルを吹き鳴らし、服を脱ごうとしたユリウス様を物理的に羽交い絞めにした。
「チッ……シリル、またしても私の愛の表現を邪魔するか! だが、リリアが乗客の平民どものために『魚を釣りたい』と望んでいるのは事実。ならば、夫である私が、世界最大の獲物を献上してやるのが筋というもの!!」
ユリウス様はシリル様を振り解くと、氷原の上にズンッ!と立ち塞がった。
「見ているがいい、リリア! 君の小さな糸では、この海に潜む真の宝は引き上げられない! 私が、君の愛に応えるための『最強の釣り道具』を用意してやろう!」
ユリウス様が右手をかざすと、凄まじい魔力が凝縮され、かつてシリル様に切断されたはずの『呪いの赤い糸(魔力光)』が、巨大な釣り糸となって再錬成された!
「ゆ、ユリウス様!? その赤い糸は、私を縛り付けるためのものじゃ……!」
「今は違う! これは君への愛を形にした『絶対破断無効・運命の釣り糸』だ! そして、氷の穴などというみみっちいものは不要!!」
ドゴォォォォォォンッ!!!!
ユリウス様は、素手で氷原を殴りつけた。
一撃で、厚さ数十メートルの絶対零度の氷が粉砕され、直径五十メートルほどの巨大なクレーター(海面への大穴)が空いた。
「さあ! 私の愛(赤い糸)に食いつく、愚かで巨大な獲物はどこだ!!」
ユリウス様が赤い糸を深海へ投げ入れると――数秒後。
ピィィィィィィンッ!!!!
赤い糸が、凄まじい力で引き込まれた。
「フハハハハ! 来たぞリリア! これが私の愛の力だ! 今引き上げてやる!!」
ズバァァァァァァァァァッ!!!!
海面が爆発し、巨大な水柱と共に『それ』は姿を現した。
全長百メートルを優に超える、無数の巨大な触手。墨のように黒い巨体。
それは、海のヌシどころの騒ぎではない――古代神話に語り継がれる伝説の海神、『クラーケン』だった。
『ギョオォォォォォォォォッ!!(誰だ、我の安眠を妨げ、あまつさえ赤い糸で釣り上げたのは!!)』
「「「ぎゃああああああああっ!! バケモノだぁぁぁっ!!」」」
甲板で見ていた乗客たちが、恐怖のあまり次々と泡を吹いて倒れ始めた。
「よしっ! 大漁だぞリリア! 見てくれ、この巨大な八本の足を! これなら、この船の乗客全員に、ニホンの『タコヤキ』とやらを腹がはち切れるまで振る舞えるな!!」
ユリウス様は、暴れるクラーケンを赤い糸一本で軽々と一本釣りし、誇らしげに胸を張った。
「(タコヤキの次元じゃない!! 船が沈む!! 船が沈むぅぅぅっ!!)」
「ピーーーッ!! レッドカード!!」
シリル様が血相を変えて飛び出してきた。
「従兄殿!! 未登録の神話級モンスターの捕獲は、国際魔術条約違反です! さらに、一般客をショック死寸前に追い込む恐怖政治! いい加減にしろ!!」
「うるさい! 私はリリアの家庭的アピール(炊き出し)に協力しているだけだ!!」
「エラー! クラーケンの質量が、オーシャン・パール号の最大積載量を八〇〇%超過しています! このまま甲板に降ろせば、船体が真っ二つにへし折れます!!」
ソフィア様がバインダーを叩きながら警告する。
「させん!! ――『概念切断』!!」
パァァァァンッ!!
シリル様が渾身の魔力を振り絞り、ユリウス様の『赤い釣り糸』の概念を根元から切断した。
ブツンッ、と糸が切れた瞬間。
空中に持ち上げられていたクラーケンは、「……えっ?」という顔(?)をした後、重力に従って巨大な氷の穴へと真っ逆さまに落下していった。
ドッバァァァァァァァンッ!!!!
凄まじい水飛沫と共に、クラーケンは海へ帰っていった。
しかし、落下の間際にクラーケンが恐怖で吐き出した『大量のイカ墨(※タコじゃなかった)』が、大雨のように降り注ぎ……。
豪華客船の美しい純白の甲板と、私たちの服は、頭の先からつま先まで真っ黒な墨まみれになってしまった。
「……」
「……」
真っ黒になった顔で、シリル様が静かにホイッスルをしまった。
「……本日のレクリエーションは、中止です。義姉上、今後は『狩猟・採集』を伴う提案を一切禁止します」
「……はい。ごめんなさい……」
「なぜだシリル! あの墨を使えば、ニホンの『イカスミパスタ』が作れたはずだぞ!! リリアの料理の機会を奪うな!!」
「黙れヤンデレ!! 船の清掃費を公爵家のポケットマネーから全額払え!!」
飢えと不安を和らげるための、ささやかな『ワカサギ釣り』は。
ヤンデレ公爵の「赤い糸を使ったクラーケンの一本釣り」へとスケールアップし、豪華客船をイカ墨まみれの幽霊船へとクラスチェンジさせてしまった。
凍りついた海の上で、真っ黒になった私。
私の二度目の人生の平穏は、深海の底よりも暗く、そして果てしなくカオスな波間に呑まれ続けていくのだった。




