「趣味の刺繍を始めたら針が暗殺武器に認定されました
私の決死の生存戦略(夫を寝かしつける作戦)であった『ニホンのミミカキ&膝枕』が、ユリウス様のヤンデレ回路によって「脳髄まで支配された服従の儀式」へと誤変換された、あの絶望の執務室での出来事。
私はユリウス様に両腕でガッチリと腰と太ももをホールドされたまま、一時間以上もソファーの上で身動きが取れず、完全に足の血流が止まっていた。
「……ん……」
やがて、私の膝の上で深い眠りについていたユリウス様が、長いまつ毛を揺らして目を覚ました。
その氷の青い瞳がゆっくりと開き、私を見上げる。
「……リリア。ああ、私はどれくらい眠っていたのだろうか。君の膝の上の心地よさに、つい無防備になってしまったようだ」
ユリウス様は体を起こすと、まるで憑き物が落ちたかのような、信じられないほどスッキリとした爽やかな笑顔を浮かべた。
激務と寝不足(私への執着)で目の下にあった微かなクマも、完全に消え去っている。
「本当に素晴らしい儀式だった。私の頭蓋の中に溜まっていた国の澱みが、君の愛の棒(耳かき)によってすべて浄化された気分だ。これでまた、君を何日でも徹夜で愛し抜くことができるよ」
「徹夜はしないでください!! ちゃんと毎日寝てください!!」
私が涙目でツッコミを入れると、ユリウス様はふっと甘く微笑み、私に手を差し伸べた。
「さあ、いつまでもこの硬いソファーに君を座らせておくわけにはいかない。寝室のふかふかのベッドへ戻ろう」
「あ、はい……」
私はユリウス様の手を取り、立ち上がろうと腰を浮かせた。
しかし――。
「……あっ」
一時間以上、大柄な成人男性の頭の重みと、強烈なホールドを受け続けた私の両足は、もはや私の体の一部としての機能を完全に停止していた。
足に全く力が入らない。それどころか、立ち上がろうとした瞬間に、ジンジン、ビリビリッ!!と、凄まじい『痺れ』が足先から脳天へと突き抜けたのだ。
「ひゃぁぁぁっ!?」
「リリア!?」
私は生まれたての小鹿のようにプルプルと震え、そのまま床に向かって崩れ落ちそうになった。
ドンッ!
私が床に激突する前に、ユリウス様の逞しい腕が私の体を空中でキャッチした。
しかし、私の足の痺れは限界を突破しており、私は「あうぅっ、じ、じんじんしますぅ……」と涙目でユリウス様の胸にすがりつくしかなかった。
「リリア! どうした! 足が動かないのか!?」
ユリウス様の顔色が一瞬にして蒼白になり、氷の青い瞳が血走った。
「ま、まさか……私が眠っている間に、あの書類の中に仕込まれていた遅効性の神経毒が、君の足の皮膚から侵入したのか!? 忌々しい暗殺者どもめ、私の妻の足を奪う気か!!」
(違う!! ただの足の痺れ!! あなたの頭が重かっただけ!!)
私のスパイ脳(誤解)よりも、ユリウス様の暗殺者妄想の方が遥かに斜め上をいっていた。
「ち、違いますユリウス様! 毒じゃありません! ずっと同じ姿勢で座っていたから、足の血が止まって痺れただけで……っ!」
「無理をして私を庇うな!! 大丈夫だ、すぐに解毒と細胞の再生を行う!! ――『極大聖域』!!」
ユリウス様が叫んだ瞬間、私の体を眩いばかりの黄金の光が包み込んだ。
それは、王国でも教皇クラスしか使えないとされる、最高位の治癒魔法だった。
足の痺れ(血行不良)に対する治療としては、蚊を落とすのに大砲を撃ち込むようなオーバースペックである。
「ひゃうっ……!?」
極上の治癒魔法の光が全身を巡り、私の足の痺れは一瞬にして消え去った。
それどころか、温泉にでも浸かっているようなポカポカとした心地よさが全身を駆け巡り、私は「ふにゃぁ……」と気の抜けた声を出して、ユリウス様の腕の中で完全に脱力してしまった。
「ああ、リリア……! よかった、無事だったか……!」
ユリウス様は私の体を壊れんばかりの力で抱きしめた。
「私の油断のせいで、君をこんな目に遭わせてしまうなんて。やはり、君をこのソファーに座らせたのが間違いだった。君の足は私が完全に治癒したが、念のため、今日はもう一歩も歩いてはいけない」
「えっ!?」
「食事も、お手洗いに行くのも、すべて私が抱きかかえて連れて行ってあげよう。君の足の裏が冷たい床に触れることすら、今は恐ろしいんだ」
(過保護のレベルがカンストしてるーーっ!!)
こうして私は、ただ足が痺れただけ(原因は彼)なのに、「絶対に歩いてはいけない」という理不尽な命令を下され、寝室のベッドに完全に固定されてしまったのだった。
ベッドの上に座らされた私。
右手には『呪いの赤い糸』。左手には『星屑の指輪』。鎖骨には『魂の紋章』。頭上には三台の『魔導カメラ』。
そして目の前には、私に一歩も歩かせまいと、ベッドの真横に椅子を引いて座り、瞬き一つせずに私を凝視し続けるユリウス様の姿があった。
(……息が詰まる!!)
見つめられるのは慣れてきたとはいえ、至近距離からあの美しい顔で、しかも「愛おしい」「絶対に守る」という激重のオーラを放ちながら見つめられ続けると、こちらの精神が持たない。
何か……何か彼から視線を逸らすための『口実』を作らなければ!
「あ、あの……ユリウス様」
「なんだい? 喉が渇いたかな? 私が口移しで果実水を……」
「違います!! その……私、ずっとベッドに座っているだけだと、少し手持ち無沙汰で……何か『趣味』のようなものを始めたいと思いまして」
私が提案すると、ユリウス様は少し驚いたように目を丸くした。
「趣味? 以前のように、ニホンの『オニギリ』や『オベントウ』を作りたいということかい?」
「お料理も好きですが、厨房に行くには歩かなければなりませんから(旦那様が許さないので)。このベッドの上でもできること……例えば、『刺繍』などはいかがでしょうか」
前世の『ニホン』での私の趣味は、安売りの布を買ってきて、ちまちまと小物を縫うことだった。
貴族の令嬢としても、刺繍は一般的な嗜みである。
これなら、針と糸を見つめることで彼からの視線を物理的に逸らすことができるし、何より「私は手芸を楽しむ無害な令嬢です」という完璧なアピールになる!
「……刺繍、か」
ユリウス様は顎に手を当てて、少し考え込んだ。
「君のその細く美しい指先で、芸術を紡ぐというわけだな。悪くない。だが、何を刺繍するつもりだい?」
「ええと……」
ここで「自分のハンカチ」などと言えば、「私以外のもののために時間を使うのか!?」とヤンデレスイッチが入りかねない。
私は彼を安心させるために、満面の笑みを浮かべた。
「ユリウス様の、ハンカチを作りたいんです。旦那様の身の回りのお世話をするのは、妻としての務めですから」
「……ッ!!」
見事に、星屑の指輪(心拍数モニター)が反応する前に、ユリウス様自身のヤンデレメーターが振り切れた音がした。
「私のための、ハンカチ……! 君が、一針一針、私への愛を込めて、私の汗(体液)を拭うための布を仕立ててくれるというのか!?」
「体液って言わないでください!! 普通のハンカチです!!」
「ああ、なんて素晴らしい! 君の愛の形(刺繍)が刻まれた布を、常に私の胸ポケットに入れて持ち歩けるなんて! 私は今すぐ、王国のすべての布と糸を買い占めて君の前に積もう!!」
(また経済が回ってしまう!!)
「そ、そんなにいりません! 少しの布と、普通の針と糸があれば十分ですから!」
私の必死の制止により、王都の手芸店が買い占められる事態はなんとか回避された。
しかし、ユリウス様が私に用意してくれたのは、決して「普通」のものではなかった。
「さあ、リリア。君の愛を紡ぐための、至高の素材だ」
数十分後。執事長が恭しく運んできた銀のトレイの上には、恐ろしいほどに輝きを放つ手芸セットが乗っていた。
「布は、千年に一度しか取れないとされる聖獣『天上の白蜘蛛』の糸で織られた、絶対に破れない防弾仕様のシルクだ。そして糸は、純金とミスリルを魔法で極細に引き伸ばした特製品。君の魔力を流し込めば、暗闇でも光り輝く」
「(ただのハンカチが伝説の防具になってる!!)」
そして、ユリウス様は一本の『針』を指差した。
「針は、王宮のドワーフの鍛冶長に急遽打たせた、オリハルコン製の特注品だ。どんな硬い竜の鱗でも貫ける鋭さを持っている。これなら、君の指の負担を極限まで減らせるはずだ」
「や、竜の鱗は縫いませんけど……」
どう見てもオーバースペックだった。
しかし、文句を言えば没収されてしまう。私はお礼を言い、その伝説の防具の制作に取り掛かることにした。
頭上の魔導カメラが、ウィーン……と私の手元をドアップで撮影し始める。
隣では、ユリウス様が赤い糸で繋がれた左手をソファーの背もたれに置きながら、私の横顔を「ああ、なんて美しい手つきだ……」と神を崇めるような目で凝視している。
(……全然、視線から逃れられてない!! むしろカメラと旦那様の二重監視で、余計に緊張するんですけど!!)
私は冷や汗を流しながら、天上の白蜘蛛のシルクに、純金とミスリルの糸を通した。
作るのは、クライス公爵家の紋章である『青い薔薇』の刺繍だ。
前世の趣味のおかげで、ある程度の手先は器用に動く。私は精神を集中させ、布に針を通していった。
チクッ、チクッ……。
静かな寝室に、糸が布を通る微かな音だけが響く。
ユリウス様も私の邪魔をしないよう、息を潜めて見守ってくれている。
順調だ。これなら、立派なハンカチが完成して、私の「無害で家庭的な妻」アピールも成功するに違いない。
そう油断した、その瞬間だった。
オリハルコン製の針があまりにも鋭すぎたことと、私が少しだけ手元を狂わせたことが重なった。
――プスッ。
「あっ……」
針の先端が、私の左手の人差し指の腹を、チクリと刺してしまったのだ。
「いっ……」
痛い。そう思って、私は条件反射で指を引いた。
しかし――不思議なことに、私の指からは一滴の血も出ておらず、痛みも一瞬でフッと消え去ってしまったのだ。
(えっ? 刺さったはずなのに、痛くない……血も出てないわ……)
私が不思議に思って自分の指を見つめた、その時。
「――ッッ!!?」
私の真横で。
ユリウス様が、信じられないほどの激痛に耐えるような、鋭い悲鳴(声にならない息の詰まり)を上げたのだ。
「ゆ、ユリウス様!?」
「ぐっ……! な、なんだ……これは……っ!!」
私が振り向くと、ユリウス様は自身の左手の人差し指を右手でギュッと押さえ、顔を青ざめさせていた。
そして、彼の左手の指先から――タラリと、一滴の鮮血が零れ落ちたのだ。
(血!? なんでユリウス様が流血してるの!?)
パニックになる私。
しかし、すぐに私の脳内に、数日前のユリウス様の言葉が蘇った。
『この紋章の素晴らしいところはね、君の体が受けるはずの苦痛やダメージを、すべて私の方へ肩代わりさせることができる点だ。もし君が転んで膝を擦りむいても、血を流すのはこの私になる』
(そ、そういうことかーーっ!!)
私が針で指を刺した『痛み』と『流血』というダメージ。
それが、鎖骨の『魂の紋章』の機能によって、すべてユリウス様の体に転送(肩代わり)されてしまったのだ!
私は全くの無傷だが、ユリウス様は「突然、何もない空間から指を針で刺された」状態になっている!
「ゆ、ユリウス様! ごめんなさい! 私が針で指を刺しちゃったから、そのダメージが……!」
私が慌てて謝罪の言葉を口にしようとした、その時。
ユリウス様の氷の青い瞳が、カッ!と見開かれ、そこから恐ろしいほどの『殺気』がドス黒く吹き出した。
「……なるほど。そういうことか」
「えっ?」
ユリウス様は、流れる血を舐め取りながら、私の手元にあるオリハルコン製の針を、憎悪を込めて睨みつけた。
「私が油断している隙を突いて、見えない刃で私の急所(指先)を狙うとは。……いや、違うな」
ユリウス様のヤンデレ解釈回路が、またしても明後日の方向へと爆走を始めた。
「この針は、私の愛しいリリアの指に噛み付いた! つまり、この針は手芸道具に偽装した、リリアを害するための『小型の暗殺兵器』だったというわけだ!!」
「違います!! ただの私の不注意です!!」
「誤魔化さなくていい! もし私が『魂の紋章』でダメージを肩代わりしていなければ、リリア、君の美しい指から血が流れ、この猛毒(※毒などない)で命を落としていたかもしれないのだぞ!!」
(どんだけ被害妄想が激しいの!? ただの針仕事のミスが、私への暗殺未遂事件にすり替わってる!!)
「許さん。私の天使の肌に傷をつけようとしたこの忌まわしい暗殺兵器め……!! 跡形もなく消し去ってくれる!!」
ゴゴゴゴゴゴッ!!
ユリウス様の右手に、凄まじい青白い炎(魔力)が集束し始めた。
彼は本気で、この寝室の中で、私の持っている手芸セットごと針を焼き尽くすつもりだ!
「やめてぇぇぇぇっ!! 私のハンカチが燃えちゃうぅぅっ!!」
私はオリハルコンの針と、刺繍途中の布(天上の白蜘蛛のシルク)を胸に抱きかかえ、全力でユリウス様の魔力炎から庇った。
「リリア! 離れなさい! それは君の命を狙う危険な――」
「危険じゃありません!! これでユリウス様への愛を縫っているんです! 私の頑張りを、炎で燃やさないでくださいぃぃっ!」
私が涙目で叫び、魔導カメラがその悲痛な表情を超ドアップで撮影した瞬間。
ユリウス様の右手の炎が、シュゥゥゥン……と音を立てて消滅した。
「……私への、愛……」
ユリウス様は目を見開き、私が胸に抱きしめている布を見た。
そこには、不格好ながらも一生懸命に縫い進められた、公爵家の青い薔薇の紋章。
そして、その布の端には――先ほどユリウス様の指から零れ落ちた『一滴の血』が、赤い染みとなって付着していたのだ。
「おおお……っ!!」
ユリウス様は、その血染めのハンカチ(途中)を見て、ワナワナと体を震わせ、そしてその場に崩れ落ちるように膝をついた。
「ゆ、ユリウス様……?」
「私の血が……私の血が、君の紡ぐ愛の証に染み込んでいる! これはまさに、私の命と君の愛が一つに溶け合った、究極の『血の契約』ではないか!!」
(解釈がホラー!! 事故で付いた血痕を血の契約認定しないで!!)
ユリウス様は私の手からその布を恭しく受け取ると、血の付いた部分に深く、狂おしい口づけを落とした。
「ありがとう、リリア。君がこれほどまでに深い覚悟を持って、痛みを伴う愛の儀式(刺繍)を行ってくれていたとは。この血染めの布は、私が一生の宝物として、肌身離さず心臓の上(胸ポケット)に飾っておくよ」
「まだ完成してないんですけど!! あと洗わせてください、血がついてて怖いです!!」
「洗う!? 冗談だろう! この血痕こそが、私たちの愛の証明なのだから!」
ユリウス様は完成前の、糸がだらりと垂れ下がったハンカチを、嬉しそうに自分の漆黒の礼服の胸ポケットにねじ込んだ。
赤い血の染みが、胸元で異様な存在感を放っている。
「……終わったわ。私の家庭的アピールが、呪いの血の契約に……」
私はベッドの上で、完全に灰白化して崩れ落ちた。
趣味を持って彼からの監視の目を逸らそうとした作戦は。
結果的に「針は暗殺武器」「流血は愛の証」という最悪のヤンデレ解釈を生み出し、ユリウス様の胸元に新たな『狂気の装備品(血染めの未完成ハンカチ)』を追加するだけで終わってしまった。
ダメージ肩代わりの『魂の紋章』がある限り、私には怪我を伴う作業すら許されない。
絶対に死なせない、絶対に傷つけない、そして絶対に逃がさない。
三台の魔導カメラに絶望の顔を撮影されながら、私の二度目の人生の自由への道は、またしても堅牢な氷の壁によって、完全に塞がれてしまうのだった。




